SSブログ

「創造的な劇場」に必要なのは [劇場法]

大川チャリチャリ渡って、銀座堀、ってか、首都高が流れる掘り割りの袂の東劇まで行って、METの「ラインの黄金」映画を見物して参りました。木曜の晩、ま、パラパラよりは入っているかな、ってくらい。
DSCN0224.JPG
ピーター・ゲルブがメトの総裁に就任して大々的に展開し始めたこの「オペラの舞台を劇場のでっかい画面で視せる」って新商品、想像以上に上手くいっているようで、ヨーロッパやアメリカ大陸の田舎では、映画館に正装の婆ちゃんたちがやってくる現象も起きているとか。勿論、影響力が大きければネガティブな反応も出るわけで、ちょっと前のアーツジャーナルだかで眺めた記事に拠れば、クリーブランド・オペラはこの数シーズンに見るも無惨な客離れが起きてて、その理由のひとつがこのMETライヴ・ビューイングと分析しているとのこと。「何を観たいですか」というアンケートで上位に来た作品をシーズンに出したら全然客が入らない。どうやら、「このまえ、MET映画でやってたやつが観たい」ってことらしい、つまり、ローカル・オペラカンパニーの聴衆が「マンハッタンに行ってあの豪華な舞台が観たいわぁ」って思うようになっただけじゃないの、ってこと。なんなんじゃい。

もとい。んで、東京は銀座でもメトの新演出が観られるわけで、距離的にだってマンハッタン厄編庵からメトまでと佃厄偏庵から東劇までは良い勝負。じゃあ、見物してやろーかね、と出かけたわけであります。3500円也の木戸銭、今時なら43ドルくらいってことかい。やくぺん先生のMET御用達天井桟敷オケピット覗き舞台奥は全然観えません席は25ドルだから(来月のラトル指揮「ペレアスとメリザンド」も、しっかり真上から見物して参ります)、それよりは全然高いぞ。うん。ま、2月の「中国のニクソン」は、珍しくも120ドルもする席を確保し、更に太っ腹に15ドルもドーネーションしちゃったけどさ。なんせ金満円高日本国民だもんね!

もといもとい。んで、鳴り物入りで始まった新演出「ラインの黄金」でありますが…ま、想像通り、映画版で眺めてしまうと、かのカラヤンがウォルト・ディズニー・プロダクションと一緒に作り始め「ラインの黄金」だけで終わってしまった映画版が頭をよぎって仕方ない、ってのが本音です。
舞台で接すれば、「おおおお、現代のテクノロジーでここまでト書き通りに舞台上に指輪世界を創り上げられるのかぁ!」と感動ものなんでしょうけど、映像パッケージになっちゃうと、妙に中途半端な感も免れぬわなぁ。ここまでやるなら映像処理でラインの乙女たち吊ってるロープを消しちゃいましょうよ、とか、あんなに頑張ってローゲが燃えてる風に見せてるならCGでガンガンに燃やしましょうよ、とかさ。

なんだか妙に病み上がりっぽいテンポのレヴァイン御大の棒っぷり、一部世代にはハインツ・ツェドニク系の性格テノールじゃないと納得いかないローゲをどう評価するか、等々、劇場を出た瞬間にはいろいろ言いたいこともあるものの、ま、冷静になればあれはあれでしょ。そんなことよりもなによりも印象深かったのは、基本は絶賛のロベール・ルパージュの演出。ってよりも、装置&仕掛けです。先頃上海で4日ぶっ通しで見物したカーセンの仕事を「演出」というならば、ルパージュのやってることは「演出」じゃあありません。いかにト書きを再現するか、だけです。否定的な表現じゃあありませんので、誤解なきよう。世界中からお上りさんが見物に来て、世界中に映像で売ることが使命のメトとすれば、誠にもって真っ当なやり方だと思います。

演劇の世界の方はどうだか知らないけど、音楽に関心のある日本国民がルパージュに初めて出会ったのは、1999年夏の松本での「ファウストの劫罰」だったことでしょう。小生も、あのときは「グランドオペラ」に裏方を取材する連載をしていて、字幕操作の取材で松本に行き、客席じゃなくて舞台上手横の上の方にある字幕操作室からGPだか本番だかを見物しました。で、いやあああああこれはこれは、とビックリしたものでした。

その後、あの演出は共同新演出だったパリのオペラ座に移されて上演され大評判になり、どういう経緯かしらないけどメトが買い上げて改定上演し、NYのメディアに大評判になった。その結果、あのオットー・シェンクのウルトラコンサバの「リング」をメトがいよいよ終わらせ、21世紀前半くらいは使い続けられる「リング」新演出を出すのに大抜擢されたわけですな。

ですから、小生などからすれば、「ああああ、ルパージュって、あの松本で出て来た人ね」って感じなんですわ。

同じようなことは、松本のフェスティバル最初の年に出た「オイディプス王」でも言える。あの頭にアルカイックな仮面などをくっつけた演出は、「日本でもこんなワールドスタンダードなオペラ演出が作れるんだ」と腰を抜かしたものでした。あの演出をやったジュリー・ティモアは、その後に同じコンセプトで「ライオン・キング」を出して高く評価され、あのやり方は一種のスタンダードになった。
あの「オイディプス王」の舞台そのものは、セットはパリ・オペラ座の倉庫にあるという話は聞いたことがあるが、その後上演があるのかは寡聞にして存じません。でもDVDパッケージとしては、マニア向けのインディーズではなく、メイジャー・レーベルから発売されて、それこそ世界中のどこでも売ってる。日本発のオペラ舞台で最も広く世界中で眺められているものでしょう。

こうしてみると、日本のメイジャーオペラっていう意味では、松本のフェスティバルはホントの意味で「世界にパッケージとして輸出して稼ぐことが出来る」ものを作った実績がある、ってこと。新国立劇場も二期会も、セロ年代の後半くらいから「●●劇場との共同制作」という言い方でいろんなオペラ新演出を出しているけど、正直、どれも予算の半分をこっちがもった、みたいなものばかりで、ホントに初台で作って、外国の劇場に持ち出して稼いだ、というものは皆無なんじゃないかしら。強いて言えば、初台「リング」がコヴェントガーデンのチクルスの雛形になってるくらいかな(結果的にコヴェントガーデンの方が劣化版だった、なんてオチもあるらしいけど)。

別に松本は偉いぞ、流石にピーター・ゲルブが立ち上げに関わっただけあるぞ、と絶賛したいのではなくて…平田オリザ参与が仰る「世界に売れるパッケージを作り出せる劇場」を日本にもジャンジャンつくらねばならないというのならば、正しく松本のフェスティバルこそは日本でも数少ないそんな「創造的劇場」になっちゃう。実際、一昨年に松本で作った「雌狐」を、小生はたまたま昨年にフィレンツェでも眺める機会があったのですが、フィレンツェと松本の舞台はまるっきり同じで、なんだか不思議な気持ちがしたものです。

あれが「創造的な劇場」のあり方なんだとしたら、それを可能としているものはある特定の地域に結びついた舞台機構と、劇団員と、スタッフであるとはとても思えない。世界というマーケットで事を動かせるプロデューサーと、何人かの現場関係者さえいれば、どこでも「創造的な劇場」は作れちゃう、って証拠じゃないのかしら。別に劇場法なんぞ作って拠点形成をしようがしまいが、やれるところはやれちゃうし、やれないところは何をしてもダメなんじゃないのかしら。

例えば昨日ご紹介した韓国国立オペラ団(所謂ヨーロッパの国立歌劇場アンサンブルみたいなあり方ではありません、国からの予算を他の団体に比べるといっぱい貰ってるオペラ団、ってこと)の「ルル」だって、ドイツの若い演出家さんを呼んできて、ソウルで新しく作ってるわけです。正に「創造的な劇場」です。感じとしては、ドイツの地方劇場と組んで新演出を作ってる沼尻時代になってからのびわ湖なんかと同じですね。先頃のびわ湖の「トリスタン」は、ホントにドイツの田舎の劇場の新プロダクション、って手触りだったもんなぁ。

要は、劇場法的な仕組みを作らなくても、ちゃんとしたプロデューサーさえいれば「創造的な劇場」は出来るんじゃないかしら、ってこと。それこそがプロデューサーの仕事のような気がするんだけど。

以上、神々が七色に光り輝く橋を渡ってヴァルハラに入場していく映像を眺めながら、間抜け頭でボーッと妄想していたことでありました。極めてえーかげんな議論ですので、細部を突っ込んで考えないで下さいな。オシマイ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0