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シュトックハウゼンのリブート~パスカル《光》サイクル第2弾《土曜日》について [現代音楽]

史上初めてひとりの音楽家が通しで監修する(ホントは「ひとりの指揮者が指揮をする」と言いたいところだけど、実質20世紀的な意味での「指揮者」が必要とされない部分も多い作品なんでねぇ…)シュトックハウゼンの《光》全曲上演を目指す天才マキシム・パスカルくん
https://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2018-11-18
壮大にして無茶な企ての第2弾、《土曜日》の久しぶりの全曲通し演奏が、歴史的な熱波が襲う灼熱のパリで、昨晩、無事に終わりましたです。終演後、深夜11時過ぎに遙か1区の方には真夏の華火も上がり、未だサハラ砂漠のような乾いた35度を越える大気が漂う運河沿いの教会前広場で、子どものように嬉しそうに「生涯に一度の経験だよねぇ!」と大喝采してるフィルハーモニー・ド・パリ芸術監督オンドレ氏の姿が、このイベントに対する巴里音楽業界の評価だった、と申してもよろしいのでありましょうぞ。
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関係者の皆様、お疲れ様でした。

さても、全4場を通して演出付きで一晩でやったのは恐らくはスカラ座での初演以来ではないかと思われるこの演奏(数年前にミュンヘンでメッツマッハー御大が1週間くらいかけて場毎に分け、演奏会形式で演奏したのがいちばん最近の「全曲演奏」だと思うんだけど)、どういうものか、結論をひとことで言ってしまえば、1984年のスカラ座初演でのルカ・ロンコーニ演出を踏襲し、衣装や映像などは21世紀流にアップデート、レーザー光やCGアニメーションなど現代先端舞台テクノロジーをどんどん突っ込み35年前には不可能だったヴィジュアル表現を充実させたもの。要は、「J.J.アブラハムによるロッテンベリーの《スタートレック》のリブート」やら、「最新の映像テクノロジーで蘇った《ベンハー》の世界」(大失敗だったけど)なんぞと同じであります。残念ながらわしら一般大衆にはロンコーニ演出の詳細がどういものだったのか、DGの全曲録音解説書に収められた写真以外に窺い知る術はないわけだが、すくなくともそれらを眺める限り、初演のイメージやモチーフを大事に生かした見事なリブートだと思わされます。

どこが同じでどこが違うかを詳細に言い立てていけばキリがないんでしょうけど、ともかく、目に付いたことだけを列挙。

第1場はスモークの炊き方が今の技術になってる他は、ほぼオリジナルまんま。正直、今回、最も音楽的に感銘を受けたのはこの第1場で、やっぱりピアノ曲第ⅩⅢ番はロマン派的な意味での「メロドラマ」で、多用される内部奏法にせよ、お尻で鍵盤に座れという指示にせよ、ルツィファーとピアニストの演劇的なやり取りがあってこそ意味がある、とあらためて思わされたであります。

第2部は、小分割されたルツィファーのフォーミュラを現代のCG技術で巨大円盤の上に自在に投影するアップデートはされてるものの、やっぱりほぼ同じ。最大の違いは「ルツィファーの墓」としてのピアノの扱いで、ロンコーニ演出では縦に据えられれていたピアノが、今度のパリ版では第1場で演奏に使っていた楽器を場の間に黒子が出て来て90度回転させ、蓋が閉められ、なんとカティンカがその上に乗っかって演技をする、というオソロシーことをしてました。妙てけれんな打楽器たちは縦使いにされたシテ・ド・ラ・ムジークの2階部分に配置され、カティンカ猫が楽器のところに行っていろいろ絡むのは、ま、この空間を使うなら自然なやり方でしょう。

第3部は、巨大な顔のイラストはモロに初演まんま。それをいろいろ映像加工し、顔のオーケストラの上に投影するのは今風。最大の違いは、竹馬ダンサーが登場しなかったこと。これはちょっと残念だなぁ。技術的なことじゃなくて、予算の問題だったんでしょうかねぇ(ケルンで《日曜日》世界初演をしたバルセロナの連中なんぞなら、喜んでなんかしたんだろうに)。アムステルダムの抜粋でも竹馬ダンサーは出なかったんで、ちょっと欲求不満でありますな。最後にピッコロ吹いてるカティンカは、第2場とは別の演奏者になってました。パスカルくんが指揮者として登場するのはこの場だけ。アムステルダムの抜粋ではオーケストラ・ストライキで終わる版ではなかったけど、今回は勿論、最後はブラスバンドが演奏を止めて帰っちゃってルツィファーがひとり取り残されて終わり、という初演版でした。で、ここでいちど、大喝采。
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個人的な感想からすれば、今回もパリの地方音楽院の学生が動員されたこの顔のオーケストラ(アムステルダムではオランダ中の音大生を集めて1年訓練した、とのことでした)、せっかくパリでやるなら、ギャルドみたいなウルトラ超絶技巧の管楽器奏者を集めたスーパーブラスバンドでやって欲しかったなぁ。いかなパスカル君とて、いかな長い時間をかけて練習をしたとて、この巨大なブラスバンドにあの無茶苦茶難しいリズムの細かい変化をきっちりやらせ、響きの渦にせずに綺麗に処理するのは、まだまだ大変な作業。もう割切って滅茶苦茶上手な連中を集める、ってやり方にしちゃった方が良かった…と言い切っていいのかな。
ま、この場面は超絶技巧派巨大ブラスバンドのひとつの最終目標として、この先もまだ暫く難攻不落の課題として残りそう。シェーンベルクの木管五重奏曲だってまだこれからのレパートリーなんだから、しょーがないかな。

ここで会場が移動。シテ・ド・ラ・ムジークから、北の運河をイビスの側に沿って西に橋ふたつ行ったところの教会に移ります。この間、灼熱の空気の中を徒歩移動。夜の9時を過ぎたというのに、グチャグチャに暑い。
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で、教会はここ。
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第4場は、DGのブックレットに収められた舞台写真はスカラ(なのかしら?)内部でやってるようだが、今回は作曲者の指定通りに会場を「近くの教会」に移し、教会の中と教会の外の広場で上演しました。ですから、初演の時と随分と違ってるかも。パリ上演の方が、シュトックハウゼンの意図に近い再現になってるのでしょう。客が教会の中に座ると(言うまでもなく、暑い…)、合唱団が取り囲むように木靴をガタゴト言わせて動き出し、さりげなく始まります。
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なお、初演時はこの場面でも作曲者がミキサーとして座ってる絵が残ってるけど、今回はこの場に限ればエレクトロニクスは使ってなかったような(未確認です)。なんであれ、最後のココナッツ割り儀式の前に聴衆を教会から追い出し外の庭に立たせろ、という指示もしっかり守り、「楽譜の指定に対する忠実さ」では今回のパリ版は史上初のオーセンティックな上演とも言えるでしょう。音楽としては、シュトックハウゼン初期の電子音楽をライブでやるようなもんで、パーフォーマンスとしてはホントに黒い烏が飛ばされたり、なんのかんの面白いとはいえ、合唱団中心でこういうことをやるって、それこそ柴田南雄の《追分節考》を筆頭に、案外、あたしらはいろんなものを目にしてる。で、思ったほどビックリするようなもんじゃあありませんでした。南雄先生、シュトックハウゼンとしっかりタメ張ってたんじゃん、ってね。

かくて、このけったいなお通夜&お葬式に午後6時半から深夜11時過ぎまで付き合った聴衆は、スタッフ出演者に大きな喝采を浴びせ
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長く暑ぅいパリの光の中に、《土曜日》が終わったのでありました。

こうしてきちんと拝見させていただくと、《光》という作品の総合芸術としての「オペラ」としての最大のポイントは、「器楽奏者が弾きながら演技をする」というところにあるように思えてきますね。歌手が演技をするのはロマン派までの「オペラ」ですっかり慣れっこで、その後に「ミュージカル」というもんへと大衆化していっている。合唱団がいろんなことをするのは、20世紀後半の「シアターピース」という形で、東混さんやらがあたしら爺世代の前で盛んにいろんなもんを見せて下さっていた。だけど、器楽奏者が歌手や合唱団のように「オペラ」の出演者として舞台上で演技しながら音楽するってのは、極めて特殊な例外的な形でしか観てきていない。シュトックハウゼンの創作の中でもあまり重視されていない《オリギナーレ》みたいなハプニング的なもの(昨年だか、ケージの《ユーロペラ1&2》を見物に行ったブラウンシュヴァイクでたまたまライブで《オリギナーレ》の上演を眺められたのは、ホントにラッキーでした)が、かっちりと形にされていってるのが《光》サイクルなのであーる、ってこと。オペラは歌手が演技するだけでなく、奏者がみんな演技するものなんだ、ってことかな。

ま、第一報ということで、これにてオシマイ。なお、オンドレ社長が大喜びしているということからもお察しの通り、第3弾《月曜日》は来年9月、フィルハーモニーの大ホールでの上演が予定されているとのことです。とにもかくにも、ご報告でありましたとさ。

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