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室町時代と20世紀半ばの間には [現代音楽]

流石にこのカテゴリーか、と思わんでもないが、他に適当なもんがないので…

昨日は賑々しくも首都圏ばかりか日本各地の業界関係者も多数出席するなか、我が亡き母の故郷横須賀は軍港を眺める大劇場で、《隅田川》&《カーリューリヴァー》というダブルビルがフルサイズステージ上演されましたです。コロナ下、関東圏では最初に発売になったオペラ公演のひとつ。
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右側の入場者に対する指示が面白くて撮影したショットでありまするが、この指示、あまり徹底していなかったようです。こんなの知らなかった、という声も聞きました。コロナ下での客席管理は、良くも悪くも館だか主催者だかのキャラが出るもので、コイズミのお膝元横須賀市は、いろいろ指示は出すけど現場は案外緩い、って感じ。ちなみに後半は英語上演作品ながら、ベースへの告知は特にされていないようで、未だ一席空けの客席には、第七艦隊旗艦ブルーリッジ付きの知的な芸術好き情報系佐官、なーんて方のお姿はありませんでした。隣のCoCo壱じゃ、ヤンキー兵隊ねーちゃんがデッカい全部のっけみたいなカレー食ってたけどさ。

もといもとい。ともかく首都圏の書き手やら業界関係者がみんないるんじゃないか、と思えるような状況で、舞台の出来そのものに関してはあらゆる皆様がSNSやらで好き勝手なことを仰ってますから、今更それに何か加えるようなことはありませんです。なんせ人生最大の貧乏状態で、こんな天井桟敷のいちばん後ろの席を購入するのがやっと
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ステージ正面に枠があり、舞台奥のスクリーンは上半分が見切れてしまう状況ですので、何が起きていたか完全には判らないこともありましたし。

それはそれとして、このニッポン国文化圏じゃないと絶対にやれないダブルビル、過去には能楽堂なんかでは案外やられている。今回も、当然「秋の芸術祭参加公演」だと思ってたら、どうやらそうじゃなくbeyond2020の企画だったんですな。今年の芸術祭、審査員をなさった経験のある同業者さんに拠れば古典芸能系はそれなりにやられているそうなのだが、所謂「クラシック」系はなんだか全然やってないみたいなんで、一体どーなってるのかしら。そもそもオリパラ後のアパシー時期だったのかしら。

もといもといもとい。で、作品から聴衆観衆が個々人で何を感じるかはそれぞれでありましょうけど、能《隅田川》とブリテンの教会向け室内歌劇《カーリューリヴァー》を並べて上演する以上、その関心が「20世紀英国の天才オペラ作曲家さんは、室町時代の早世の能の天才の何に刺激され、何を弄って第二次大戦後の世界に提示したのか」になってしまうのは仕方ない。それが目的のアカデミックな上演でないことは百も承知であれ、そこに関心を持たないのは無理ってもの。

そんなわけで、今やすっかり貧乏な初老のオッサンになり物事に新鮮な感動を覚える柔軟な心も魂も失ってしまったやくぺん先生ったら、隅田川の東の芦原に(なのかな?)亡き子の魂を察しよよと泣き崩れる母親の哀しみに涙するよりも、へええ、ここまで同じ物語構造でこんなに違うことを言えるんだなぁ、とブリテンの手腕にひたすら関心しつつ、やはり俺は「オペラ」っぽい過剰な感情表現は苦手で能みたいな様式化されたものの方が有り難いなぁ、なって思ったりしてさ。

このようなきちんとした舞台(演出家さんなんぞの妙な衒いやハッタリがない舞台、ということ)で両作品を並べられると、やはり際立つのはブリテンが20世紀の人間なのである、という当たり前に過ぎる事実。祈りの声の中から死んだ子供の声が聞こえるという現象(無論、フィクションですけど)を前にしたとき、ブリテンは「奇跡」という教会的な思考の枠組みの中に落とし込むことで受け入れた。ってか、そうでしか受け入れられなかった。だからこそこの作品は教会三部作である必要がある。一方の観世元雅は、子供を舞台に出すことを巡ってパパ世阿弥と喧嘩になったという有名な逸話はあるものの、亡き子がどんな形であれそこに出現しちゃうことそのものは、ああそうですか、でオシマイ。奇跡、などという理由は、特に必要とされていない。

ああああ、「合理性を保証するための非合理装置としての宗教」という世界に生きてるんだわなぁ、わしらわ、とあらためて思った次第。20世紀の半ば、信じる、ということはいかに難しいか。

だから、この作文は「現代音楽」カテゴリーでいいんだよ、というオチにもならんオチで、あっさりオシマイ。スタッフの皆様、お疲れ様でした。

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