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司令塔のない《ゴールドベルク》 [演奏家]

葛飾オフィス撤収作業も4週目に入り、「親父の家の処分片付け」仕事はキャンプ用品や発電機などまで突っ込まれた裏の物置の中というオソロシー難物を除けばほぼ8割が修了。今週からは「オフィスの仮移転」作業も本格化しております。なんにせよ、あと1ヶ月は当電子壁新聞は開店休業状態が続きます。忙しいとか疲れているとかいうよりも、この歳で大荷物運びやら書棚解体やらの作業を延々とやっていると手が動かなくなり、キーボードがまともに叩けなくなる。で、どうしても最低限入っている商売作文やら事業連絡などのために腕のパワーを回さざるを得ず、こんな一銭にもならず逆に仕事の支障にしかならぬ「書いてあることは嘘ばかり、信じるなぁ」の無責任私設電子壁新聞まで文字通り「手が回らない」状況。ま、広告も取ってないし(iPhone版ではやたらと広告が出てくるのだが、So-netさんが何をやってるか良く判らぬ、あたしゃ一銭も貰ってないぞ!)、お許しを。4月以降は滅茶苦茶暇…なのか、転居探しで金が出て行くばかり状態になるのか、うううむ。

もとい。そんな中でも、どうしても顔を出さねばならぬ演奏会はある新帝都トーキョー地区、本日はこんな演奏会に行って参りましたです。
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思えばいつからの付き合いになるのか、藝大学生時代のアガーテQが由布院音楽祭に出たときからか、その前からか、もう記憶が無い。その後、勃興期の地域創造のアウトリーチ実験でちょっと過去にない形でのスターとなり日本全国のホール関係者にファンを作り、あの音程に厳しい耳がオケなんて音程悪い集団でやっていけるのか心配されながらも札響セカンド頭に10年近く(かな)も座り続け、オケの人気者となり、地域のファンも増やしていったヴァイオリニストの大森潤子さんが、演奏活動記念年ということで、近しい人やファンの前でやってお祝いした、というかなりプライヴェートな感じの演奏会。これはいかないわけにはいかんじゃろに。

お馴染みエクの下ふたりと共演するシトコヴェツキー版《ゴールドベルク変奏曲》がメイン。この共演者の選択といい、演目といい、とても興味深いですな。

だって、わしら音楽のシロートからすれば、例えばエクがセカンドが交代するというとき、丁度札幌を辞めることになっていた大森さんなんて、最適な人材に思えるわけですよ。付き合いも長いし、世代も一緒だし、どういう音楽をやるか良く知っている。人間的にもエクが札幌定期をやるときには聴きに来たり、打ち上げにも来たりしている。「弦楽四重奏をプロデューサーや演奏家じゃない音楽監督が作る」というようなやり方をするなら、どう考えても真っ先に連れてきそうなベストな選択に思えるでしょうねぇ。

だけど、エクも大森さんも含め、みんなそう思うけど、「弦楽四重奏」として常設でやっていく団体としては、現場とすればちょっと違う、という選択になる。へえ、そうなんだぁ、と思うけど、その選択は理解出来なくもない。仲が悪いとか、価値観が違うとかじゃないのだけど、誰もそれは考えない。

これがプロの音楽家の関係なのだなぁ、とあらためて、今更ながらに、思うのでありまする。そう、弦楽四重奏はプロデューサーが作るものではない、オーストラリアQしかり、カザルスホールQしかり。敢えて業界内タブーを口にすれば、コペルマン時代の東京Qしかり。昨今のアルテミス…とは言わないけどさ。なんであれ、フェスティバル的な団体ならばともかく、所謂常設団体は外部プロデューサーには作れない。

って、話がまるで関係ないところに行ってるんだが、ま、無責任電子壁新聞だからそれはそれ。本日、近江楽堂での演奏ですが、とても興味深かったです。

なにせ《ゴールドベルク変奏曲》という楽譜は、チェンバロ奏者やらピアノ奏者さんが生涯をかけてしゃかりきで真っ正面から挑んでくる大作でありまする。名曲とはいえ、なんせ調だって7割程は固定されてるもの凄く限界の多い世界での1時間を越える変奏ですから、今のコンサートホールに座っている聴衆を前に披露するとなると、あれやこれやの仕掛けをして、その演奏者なりに作り込んでいかねばならない。基本、ソリストというか、ひとりの演奏家がやる限り、いくらでも設計図はひけるし、完璧に創り上げてくることも出来るわけですな。わしらは、いつもはそういう演奏をライブでもディスクでも聴いている。

本日の演奏は、三人の演奏家に拠るアンサンブル版でした。指揮者も、勿論、いません。全体の造りを指導監修する先生がいるわけでもありません。ほんまもんの室内楽です。

そういう演奏でこの編曲楽譜を聴くと、「ああ、わしらが普段聴いてるこの曲の再現って、もの凄く演奏家の個性で作ってきてるもんなんだなぁ」と感じさせられる。逆に言えば、「ゴールドベルクって、こういうもんだ」と思わされる、ということ。普通なら、折り返し半分に向けてひと盛り上がりあり、後半頭一発ドカーンと再開。最後のアリア前にウルトラ超絶技巧発揮のクライマックスがやってくる、という造りの1時間ちょいになる。グールドの影響で演奏するようになったモダンのスターピアニストだけでなく、そんな作り込みの極北にいらっしゃるような道夫先生だって、やっぱりそれなりの「個性」が嫌でも感じられる。

ところがどっこい、三人の個性、というか、二つの良く判った低音に個性的な上声が乗っかるアンサンブルで耳にすると、そんな過度の作り込みとは無縁の、淡々と流れる時間の中でじっくりと関連性が成熟していく過程が、すごおおおおく感じられる。

冒頭のアリアでは、「あれ、この曲ってこんなにソプラノが聞こえたっけ」と思ったんだけど、1時間ほどの長い旅を終えて戻ってきた最後のアリアでは、まるで違うバランスで聞こえていた。耳なしやくぺん先生ったら、終演後に裏で「最初と最後のアリアって、全く同じ譜面なんですよね?」なんてアホな質問をしてしまったくらい。三人が50数分の音楽を一緒にすることで、同じ楽譜があそこまで違って響くものなのかと、アンサンブルという音楽の奥の深さに驚嘆するのでありましたとさ。

だから室内楽は面白い。うん。

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