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続・葛飾下町三十六景 [葛飾慕情]

存在証明です。葛飾オフィス撤収締め切り、今月の頭に当初の月末予定が実質春分の日に繰り上がり、そこからはもう、大騒ぎ。当無責任電子壁新聞どころか、表の商売仕事も弥生入りしてからは一本もやっておらず、今、原稿を書いた演奏会が中止になっていたのを別の連絡のついでに知った、なんて情けない有様。それにしても、今年に入ってから原稿を書いたコンサートはひとつとしてちゃんとやられたものはなく、ひとつは緊急全面改定、ひとつは半分になった。で、今度はキャンセル。これじゃあ、主催者さんとしても原稿依頼なんて怖くて出来ないわけで、やくぺん先生同業者の皆さん、一部例外を除き実質失業状態なのも当然であるなぁ、いやはや。

昨日はテレビ回線の撤収があり、そもそも地上波は視られなかった葛飾オフィスは「マスメディア」から隔絶された状況となって、東京大空襲メモリアルも311から10年も、世間でどんな風に報道されているかまるで判らぬ。これはこれで気持ちいい。考えてみれば、90年代頃から外国にいると日本のことがそれほど判らず、世間がどうなっているかあまり気にしないという生活だったわけで、それほど困ることもないんだけどさ。

仕事の連絡メールすらいくつか放り出してある現状、こんな無責任壁新聞に綴るなにがあるわけでもない…と思ったら、先程、続報をすべきものが発見され、これはご報告せにゃなるまいて。最後に手を付けた裏庭のイナバ物置から出てきた、こんなもん。
IMG_0391.jpg
そー、これぞ正に、正真正銘「葛飾下町三十六景」のハイライト、下総の国と柴又を結ぶ矢切の渡しなのであーる。この話の続き。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

別にちゃんと調べたわけではないけど、未だにこの「葛飾下町三十六景」がどんなもんなのか判ってない。どうやら流石に新開地葛飾だけで三十六の麗しい風景を埋めることは不可能だったようで、春の上野やら、都電荒川線やら、京成沿線はみんな自分ち、って葛飾中央部に住む区民の感覚まんまの内容だったようでありますな。恐らくは、帝釈天風景とか、堀切菖蒲園の菖蒲とか、季節の良い頃の水元公園とか…うううむ、もう他に考えつかぬぞぃ。ま、そんな中でも、矢切の渡しは名所中の名所。親父が額に入れてかけていたみたいなのも、ま、判らんでもない。

既に法律的には他人手に渡った葛飾巨大柿ノ木下オフィス(オーナーの好意で無料で住まわせて貰っている前オーナー、というのが数日前からの現状)、親父が爺さんと喧嘩して千葉は九十九里近くの実家に居られなくなり、一足先に東京に出ていた弟を頼り弟が町工場を建てた新開地葛飾の真ん中に出てきて、大型団地が出来てこれから人口が増えて発展するだろうという場所で仕事を始め、それなりに成功することになる歴史が始まってから60と余年。オジサンのゴム工場はもう既になく、そのオジサンも、疎遠だったその下のオジサン(我が親父のやくぺん先生の代で最も出世したその息子たる従兄弟くんも、数週間前に某大手新聞社長を追われてしまった)も亡く、葛飾の地に残っていた最後の足跡も消えていこうという春の朝、空っぽの玄関に置いてじっくり眺めるに誠に相応しい風景なのであーる。

千葉から来た奴は、全部たたんで渡しに揺られ、成田空港アプローチ下の墓へと戻っていく。

都会というのは、そういう風に使えば良い場所。荒川放水路東の葛飾が「都会」かどうかは、なんとも微妙だけどさ。

さても、この地で学部時代くらいまでを過ごし、母親と大げんかして勘当されて追い出され(なんせ、母親はあたしの結婚式にも来ていない)、親父の死後に「この家を有意義に使ってくれ」という困った遺言でオフィスをここに移さざるを得ず、なんとも半端な住み方をしてほぼ10年、やくぺん先生ったら江戸川越えて東には戻らず、数ヶ月後には大きく西に向かい、最後の引っ越しをする予定。

荒川も 大川も越え 我往かんっ!

寅さんが間違ってヴィーンに行っちゃった地に向け、Go West!

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