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シュタルケル100年祭記念特別掲載:独占インタビュー前 [演奏家]

本日2024年7月5日は、ハンガリー生まれのアメリカ人チェロ奏者ヤーノシュ・シュターカー(以下、日本の慣例に従い「シュタルケル」と表記します)100歳のお誕生日であります。

このお目出度き日を祝い、シュタルケル氏独占インタビューを再録いたします。1991年5月28日、神原音楽事務所の招聘で日本を訪れ公演を行っていたシュタルケル氏に、松本ハーモニーホール楽屋で行ったインタビュー。媒体は「カザルスホール月刊会報誌フレンズ」で、現在は媒体も発行人のカザルスホール企画室アウフタクトも存在しておりませんので、ここに発表しても著作権の問題などはないと思われます。問題があれば即刻掲載を中止しますので、ご連絡ください。

約1時間に及んだインタビュー、当初は全文オリジナル掲載も考えましたが、シュタルケル氏逝去の祭に某Webマガジンに原文をアップしたこともあるため、今回は『フレンズ』誌に2号に分割して掲載された原稿段階でのテキストを、本日と明日の2回に分割してアップいたします。まだまだお元気バリバリだったシュタルケル御大、いきなり若造やくぺん先生を怒鳴りつけてますねぇ。では、ガッツリお読みあれ。

※※※※

経歴:1924年ブタペスト生。6歳でチェロを始める。1946年、動乱の祖国を去り西側へ。この頃バルトークの息子のプロデュースで録音したコダーイの無伴奏ソナタはセンセーションを巻き起こした。ドラティに呼ばれ渡米、アメリカ市民権を得る。ダラス響、メトロポリタン歌劇場、シカゴ響の首席チェロ奏者を歴任。現在は、完璧な技法を誇る巨匠芸と平行し、インディアナ大学教授として堤剛ら多くの生徒を指導している。近年BMGと契約、ドヴォルザーク、ウォルトン、ヒンデミットなど大曲の録音が続く。

プロフェッショナルとは、与えられた状況において可能な限り完全に、必要とされたことをする存在なのです。私は与えられた条件で可能な限り自らを表現することが出来ます。

ヤーノシュ・シュタルケルも、今や最後の大チェリストの一人となってしまった。とはいえ円熟という言葉はふさわしくない。低い早口で繰り出される短かく鋭いフレーズは、67歳になった今も50代の働き盛りを思わせる。長いアジア演奏旅行の最後となる演奏会直前、疲れていると繰り返しつつも、しっかりインタビュアーを手玉に取ってくれた。老いない演奏共々、プロの鏡。

◆私のバッハはハンガリー風ではありません

--シュタルケルさんの、特にバッハの演奏からは、故郷であられるハンガリー風のリズムが聴こえるような気がしたのですが。
シュ そうは聴かれたくはないですねえ。そう聴こえないことを期待しているのですが。バッハはコダーイとは違って聴こえて欲しい。ハンガリーで私が受けたフランツリストアカデミーの教育は、古典的で最も鍛え抜かれたものでした。ですから、私はバッハを演奏するとき、「バッハはどう弾かれるべきか」と考えて演奏するのであり、バッハがどう弾かれてきたかではない。演奏するのは私が見るバッハであり、ベートーヴェンとも、ブラームスとも、モーツァルトとも、チャイコフスキーとも違います。ましてや決してハンガリー風な音楽などではありません。ハンガリー風とか、フランス風とか、日本風とかいう区別などないのです。あるのは、ある人があるやり方で音楽を演奏し、また別の人が別のやり方で演奏する、という事実があるだけです。

◆演奏は好みの問題ですが、教育は音楽的原理となるのです

--はあ。で、ここに堤さんの本がありまして、その中には88年のあなたとの対談が収録されているのです(堤剛著「私のイリノイ日記」音楽之友社)。その中で「チェロの芸術性は、まだ頂点に達していないと感じている」とおっしゃられているのですが。
シュ 「良くない」というのではありませんよ。「未だに無限のところにある頂点というゴールへ向かっている途上である」という意味です。
--では、そのチェロの頂点へ向かっての歴史という視点の中で、カザルスとはどんな演奏家だったのでしょうか。
シュ 答は明解です。カザルスなしには私たちチェリストは存在しません。カザルスは現代のチェロ演奏を始めた人です。ですから、彼はチェロ演奏史の中で最も重要な人物です。彼は、言うなれば、最初にチェロを舞台に載せた人物です。独奏楽器としてのチェロの在りようを創った人です。その前は、チェロは実際には独奏楽器ではなかった。我々が今日知っているチェロ演奏の在り方というものは、カザルスと共に始まったのです。勿論それを超えて、彼は偉大な芸術家でした。
 6歳でチェロを始めた頃、私の師がカザルスの良い友達だったので、演奏会の後でカザルスに紹介されました。彼はこことここにキスしてくれて(額と頬を指さす)、私は1週間そこを洗わなかったね。その後もプエルトリコやシカゴで会っています。
--教師としての関係はなかったのですね。
シュ ありません。私はチェロの学習を15歳で終わりにしています。それ以後は西洋古典や語学や歴史は学びましたが、チェロを学んだことはありません。室内楽はピアニストやヴァイオリニストと学びましたし。
--ブダペスト時代から、シュタルケルさんは本当に多くの生徒を見ていらしてますね。ではそんなあなた自身を、チェロ音楽史の中で如何なる存在だとお考えになられておりますか。
シュ 9歳の時に、私は自分で可能な限りチェロを演奏してゆこうと決心しました。私をそう思わせてくれた素晴らしい音楽教師やチェロ教師に巡り会えて、本当に幸せだったと思っています。ですから、私の教育者としての責務は明かです。教育とは他の何にも増して重要なことなのです。もしも何かを信じたならば、その信じるなにものかが保持され、将来に向けて保たれていくのを目にしたいと考えるでしょう。チェロ奏者にとってそんなことが出来ることは、教えることだけです。これまでに私は100回以上のレコーディングを行ってきました。人々がそれらの録音を聴いて気に入るかどうかは、趣味の問題です。しかしこと教育の効果の場合、教師は基本的な音楽的原理となるのです。

◆録音は記録です

--録音も教育活動なのですか。
シュ そうねぇ、その質問を哲学的なものとしたいのならば、ある意味ではそうだともいえますね。何故なら、録音とは記録であるからです。判りますか。人生のこの瞬間において、この音楽作品を私はこの様に考えている、ということの表明ですから。
 録音はコンディションが理想的です。今晩私はコダーイを演奏しますが、コンディションは理想的ではない。どんな失敗をするかも知れない。レコーディングは演奏家に、彼が録音の瞬間に何を考えていたのか再評価することをを許してくれます。あるいはコンディションが最高の仕事をすることを妨げたかもしれない。それが厭なら、もう一度録音すれば良い。単に音が違っていたとかいう問題だけではありませんよ。テンポでもダイナミックスでも、気に入らなければもう一度演奏することが出来ます。レコーディングスタジオから歩み出た時、人生のこの瞬間において、これが私がこの作品に対して考えていることである、と宣言することが可能です。第一の目的は芸術的記録ですが、そう考えるなら、レコーディングも教育とも言えますね。
--記録ならば同じ作品を何度も録音することが可能ですね。
シュ 4年、5年、10年と経つうちに、その作品に対し違った興味を持つようになりますから。私はバッハの組曲は4回録音してきています。毎回関心のありようは違っていました。全く初めての録音には、音楽の変化が多かった。若い演奏家にはよく見られることですが。今聴けばあまりに早過ぎたり、ある部分はあまりに遅すぎたりしていると感じるでしょう。ダイナミックスは大きすぎるし、あれこれ「余りにも」というところが発見されます。ですが、技術的完全性には疑問の余地がありません。最初はその人にとって可能な限り技術的に完璧に作品を演奏しようとするものなのです。それが後になって、上手に演奏出来るようになると、完璧さはあまりにも重要なことではないと思え始めます。今日の演奏もそうでしょうね。あなたが聴きながら楽譜で演奏を調べても、それでもまだ充分OKというほどには演奏しますがね。ですが、もっと重要なのはメッセージなのですよ。
 で、次の録音では、音楽の構成やバランスなどがより重要となっています。今では、音色やメッセージや語り口など全ての音楽的要素が、書かれている楽譜に変更を加えることはなくても、音楽家その人がその作品に何を見ているのかを表現しています。ですから、録音での変更は最小限のものとなってきます。完全さとは違ったことが重要になる。
 ドヴォルザークの協奏曲も3回録音していますが、私が今回やったことは私が35年だか40年だか前にしたことよりもより良いのかどうかは言えません。違いというのはそのようなものではないのです。35年前はそう思わなかったが、今ではより重要と思えるいくつかの要素があるのです。

◆プロフェッショナルとは

--教育、録音と質問してきましたが、聴衆の前で演奏するのはお好きですか。
シュ 私には4つの異なった仕事があります。まずは、聴衆の前で演奏すること。第2は教育。第3は録音。そして4番目の仕事は著作活動です。4つの異なった活動をしていて、どれが重要かなんて言えませんね。私の人生を考えて重要なのは、私がこれらの仕事を全てやっていることです。その4つをすることが私を他の人とは違った人格にしているのでしょう。私はプロフェッショナルです。
--その言葉は、堤さんとの対談でも非常に重要なものでしたね。
シュ プロフェッショナルという言葉は、往々にして人々がきちんと理解していない言葉です。何がプロフェッショナルなのか?プロフェッショナルとは、一貫したものを持った人物のことです。求められたことを求められた瞬間に行い得る人物です。ディレッタントが素晴らしい芸術家であることも可能です。しかし、急に求められた全てを上手に演奏することはない。ホールが気に入らないとか、誰とやるのかなどで、上手に演奏しなくなる。演奏家は2年も3年も先のある日の演奏会のプログラムを要求されたり、あるいは決められていたりするものです。そう、今晩の演奏会でいえば、私は全くコダーイに心を集中しています。バッハはなんとかなるでしょうが、今日のコンディションではコダーイはねぇ・・・。ですが私はプロフェッショナルだ。演奏する必要がある。聴衆に向かって「今日はやる気がしませんので、別の曲をやります」と言う訳にはいかない。プロフェッショナルとは、与えられた状況において可能な限り完全に、必要とされたことをする存在なのです。教育なら教育に、録音なら録音においても。 私は与えられた条件で可能な限り自らを表現することが出来ます。
 プロフェッショナルとしてもう一つの重要なことは、何をするのであれ私はそれを説明出来るということです。それが教師であることの根拠にもなります。生徒に、「良く聴いて私がやるように演奏するのだ、その方がもっと良いから」とは言わない。私なら、「あなたが演奏するとして、このやり方とこのやり方とこのやり方の何処が違いますか?」と質問します。「あなたはこのやり方で演奏したいのですね。では、ここはより長くするのかね、それとも短くしなければならないのかね?」とね。そんなやり方をする故に、私はプロフェッショナルの教師で有り得るのです。

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