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クララ・シューマン生誕生誕200年によせて [音楽業界]

実は、世界中眺めると地味ぃいいに盛り上がっているクララ・シューマンの生誕200年、秋も深まる神無月半ば過ぎの湿った曇り空の土曜日午後、ライプツィヒともデュッセルドフルともボンとも縁がなさそうなトウキョウは練馬の駅前にも、こんなものすごい垂れ幕がぶら下がっている。
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恐らくは、ニッポン国建国以来(いつのことか知らんが)、最も大きく記された「クララ・シューマン」という文字でありましょうぞっ!これを毎日眺めていた西武池袋線沿線の善男善女の多くは、「シューマン」という作曲家の名前はクララっていうのか、なんか女の人の名前みたいだなぁ、と思いつつ脳内には頬杖をついて物思いに耽るイケメン作曲家の肖像が浮かんでいることでありましょうねぇ。いやはや。

とにもかくにも、客観的にデータを調べれば今年の「記念年作曲家」の中では、オッフェンバックと並び、ヴァインベルクなんぞは遙かにぶっちぎり、頻繁に記念されているのがクララでありましょう。交響曲全曲演奏会やら主要オペラ連続上演なんて派手派手なイベントは不可能な作曲家なれど、ちょっと前には藝大なんてメイジャーな場所で特集をやって最も知られた作品たるピアノ協奏曲が上演されたし
https://www.msz.co.jp/event/08826_geidai2019/
やくぺん先生が哀れ病気療養渡航中止に至るまでにも、ゼーリゲンシュタットの音楽祭で蓼沼さんが何曲かピアノ独奏曲を弾くのを耳にし、松本の音楽祭リートとピアノ二重奏セミナー発表会ではなんのかんの半ダースほどの曲が聴け、中には《ローレライ》なんて珍品もあったり。他にもまだどっかで聴いているような気がするぞ。

そんなかな、本日のこの練馬の演奏会は,「石神井の森トリオ」なる思いっきり直球ローカルな団体名の地元在住ピアノとチェロとヴァイオリンの皆さんが、区の「公益性の高い」(←今や皮肉でしか使えない言葉)イベントとして行っている週末午後の1000円也のコンサートであります。聴衆は練馬区のご隠居中心の皆様。ぶっちゃけ、演奏されてるのがクララ・シューマンだろうがファニー・メンデルスゾーンだろうが、ナディア・ブーランジェだろうがシャミナードだろうがビーチ夫人だろうが、はたまた田中カレンだろうがキャロライン・ショウだろうが、別にどーでもいい。土曜日の午後に素敵な音楽が聴ければ文句はない、という方々です。これは皮肉でも嫌みでもなく、そういうものなのだ、ということ。
そこに「クララ・シューマンと仲間たち」というテーマを持ち出して、前半のメインはクララ・シューマンのピアノ三重奏曲、後半のメインはファニー・メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲。その間に、FAEソナタからスケルツォとか、弟メンデルスゾーンのチェロの無言歌とか、「ノクターン」という言葉を発明したといわれるシマノフスカヤの短いノクターンとか、女性作曲家で世界で最も知られたバダジェフスカの《乙女の祈り》とか、マニアっぽさギリギリのきわどいところをつきまくった演目を並べる。当日プロに説明は一切なく、舞台の上から最初はピアノさんがクララ、チェロがロベルト、ヴァイオリンがブラームス、という設定での掛け合いをするつもりが、途中でグダグダになってやめちゃった、というのもいかにも(言葉の最良の意味で)ローカルっぽい演奏会でありました。

なるほどねぇ、クララ・シューマンだと、こういうやり方も出来るんだなぁ、と勉強になることしりでありましたとさ。

作品については、Youtubeでいくらでも聴けますので、ご関心の向きはどうぞ。ファニーのニ短調トリオって、弟の同じ調性の天下のド名曲が20回演奏されるなら1回くらい弾いてあげてもいいんじゃなの、というくらいの典型的なロマン派作品でありまする。最近はハ短調のトリオが人気急上昇なんだから、ぐぁんばれ、ファニーのピアノトリオ!

で、これはあまり大声では言いたくないんですけど、この数ヶ月のそれなりにあちこちで耳に出来たクララの作品でありまするが、ぶっちゃけ、正直に言うと、演奏なさった方が盛んに口になさる「弾きにくいのよねぇ」という感想は、まあ、なんとなく判る気はします。特に歌曲のピアノパートではっきりそれを感じるのだけど、要はこの作曲家さん、音楽のパルス感を全部音符に置き換えないと気が済まないところがあるんだわなぁ。

ご主人の超一流(些か問題はあって秀才タイプではないけど)作曲家の仕事では、音符に書かれないパルス感というものがきちんと存在している。ってか、立派な作品はみんなそうですね。譜面に書かれたリズムとはまた別の、音として書かれていることもあれば、書かれていないこともあるパルス感というものは音楽の中に存在している。それを、クララさんったら、どうも左手の細かい動きとかで、譜面に書かずにいられない、って感じ。結果として、そういう響きのコントロールが必要になってきて、見通しが悪くなるということではないけど、弾く方も聴く方も、なんだか妙に疲れる。恐らく、クララさんのピアニストとしてのキャラクターが関係してるんだろうけど。

先程聴かせていただいたピアノ三重奏でも、それなりに複雑なソナタ楽章とかではそうでもないのだけど、第3楽章みたいな音楽では「クララ節」としか言い様がないキャラが立ってくるなぁ、と感じましたです。第2楽章のフレーズが凄く作りにくそうなテーマも、小節線で示されているリズムと音楽の持つパルス感のズレみたいなもんが原因のようにも思える。無論、それこそがこの作曲家の魅力にもなり得る重要なポイントなんでしょうけど。思えば、旦那シューマンって、そういう微妙な部分のコントロールの名人でもあるわけだわなぁ。

なんでれ、そういうところまで思わせてくれた記念年のクララ・シューマン様プチ流行、あと2ヶ月ちょっとでまだどれだけ聴けるやら。それにしても、どうしてボザール・トリオなんぞがクララを弾かなかったのかなぁ。今は簡単に手に入る楽譜、それこそここで今、この瞬間に手に出来るわけだが
https://imslp.org/wiki/Piano_Trio_in_G_minor,_Op.17_(Schumann,_Clara)
20世紀90年代頃までは出てなかった、とかなのかしら?というその辺り、プレスラーじいさんに誰か尋ねてくれんかね。

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