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死んだ子の歳を数える話:ヴィドマン編 [現代音楽]

226アベ要請をニッポンのどの業種よりもバカ真面目に直ぐ実行した我が業界、もう日常がなくなってまるまる2ヶ月が経とうとしています。その間、本来だったら出会える人に出会えず、あったかもしれないアーティストらの出会いがなくなり、生まれたかもしれない音楽が鳴らなかった。

そんなひとつに、3月上旬に予定されていた作曲家兼クラリネット奏者ヴィドマンの来日公演があります。今更予定をアップしても、ホントに死んだ子の歳を数えるようなもんだけどさ…
http://www.oek.jp/event/1969-2
https://www.toppanhall.com/concert/detail/202003091900.html
特にトッパンホールの公演は、この本番に向けてエクは既に何度も演奏している弦楽四重奏曲第3番の練習は始めており、大いに共演を期待していた。ポール・メイエ以下、いろんなクラリネット奏者と共演してきているエクとしても、現役で最も売れてる作曲家でもあるクラリネット奏者との共演、ましてやその人の作品を直前に演奏するなど、こんなチャンスはホントに一期一会。大いに学ぶところがあったでありましょう。やくぺん先生としても、なんせヴィドマンが世界的にはまだ全く無名で売れてなかった90年代半ば過ぎ、ベルリンのカール・クリングラー弦楽四重奏コンクールの課題曲でヴィドマンの最初の弦楽四重奏曲をクスとかアルモニコとかディオティマで聴くという今となってみればなんとも凄くラッキーな出会いがあって以来、常にすれ違いながらもなかなかサシで話をする機会などがなく、なんとか練習眺めさせてもらおー、と無茶苦茶期待してたのでありました。ふううう…

そのヴィドマン、コロナ騒動で全く盛り上がりようがなくなっているベートーヴェン生誕250年記念年の東京での最初の大きな盛り上がりとして、こんなことが起きてました。
https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/schedule/detail/20200222_M_3.html
このページを眺めるに、後にコロナ・ヴィルス陽性になったムター様、この演奏会の頃から既にちゃんと来日出来るか、演奏会が可能なのか、という状況になっていたわけですな。何を隠そうやくぺん先生、この日はお義母様のお誕生日を祝うためにご家族で出かけており、この演奏会、そもそも行けなかった。ってか、あの頃は、「ああ、ヴィドマン、6番書いたんだぁ、っても、なんでこのメンツでやるかなぁ、まあ、今年あちこちでみんなやるだろうからまあいいやぁ」と気楽に思っていた次第。ひとつひとつの演奏会がこんなに貴重だと、全く感じていない平和な、やたらとみんな忙しがってばかりいた時代だったなぁ…。

なんだか、もう戻ってこない遙かな昔のことに思えます。実際、コロナ後の世界は、2020年2月末までとはまるで質が違うものになるんでしょうけど。

もとい。んで、ヴィドマンでありまするが、これまでに5曲の弦楽四重奏を書いており、いかにもこの作曲家らしく、それらは全曲通して演奏するとまるでマーラーみたいな2時間くらいの巨大弦楽四重奏曲になるような作りになっている。結果的にそうなったのかもしれないけど、《狩》が真ん中の巨大なスケルツォになるアーチ型構成の配置になってるともいえなくもないんですな。実際、前回のアムステルダム・クァルテット・ビエンナーレではそういうやり方でシグヌムQが全曲演奏が成されてます。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2018-01-28
って、当電子壁新聞に中身の記述がないなぁ。表の商売用メディアに書いたんだっけ。ここにプロモーション映像はありますな。
https://www.youtube.com/watch?v=ct5FsUSzeIs

ま、とにもかくにも、ヴィドマンの弦楽四重奏曲は実質の連作だったわけだが、今年、いきなり2作が書かれることになった。ほれ。
https://www.joergwidmann.com/werke-en.html
コロナ禍休館となる直前にサントリーのムター祭りでやられた6番、そしてその前にアルテミスQが初演している7番と、ふたつのベートーヴェンへのオマージュ作品が立て続けに出てきてるんですね。

いやぁ、これ、どんなもんだったのか、あちこち探しても良く判らない。どうも、いろいろ狭いゲンダイオンガクや室内楽業界の連中が議論し始める前に欧州もコロナ・パンデミックに突入してしまったようで、やりっぱなしで放り出されてる、って感じ。

まあ、楽聖生誕250年は幸か不幸か12月だったので、秋以降はなんとかなる…と良いんですけど。

さても、そうこうするうちに、ベルリン国立歌劇場の「今日の24時間ストリーミング」で、ヴィドマンの《バビロン》改訂版上演、昨年の暮れの映像が日本時間午後7時から始まります。こちら。
https://www.staatsoper-berlin.de/de/staatsoper/news/unser-taegliches-video-on-demand-programm-kostenlos-fuer-sie.142/
まずは、世界中のメイジャーオーケストラが演奏し始めている《バビロン組曲》を聴いて、どんなもんか耳を鍛えておきましょう。

ちなみに、ミュンヘンでの初演の感想になってない感想はこちら。参考にもならんけどね。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2014-01-28
この世界コロナ・パンデミック、実際にヴィドマン御大のお姿を拝めなくなってしまった代わりに、御大の渾身の、というか、もうなんでもありぐちゃぐちゃの超大作が引き籠もりのお宅で眺められることで、少しは埋め合わせが出来たと考えましょうぞ。ちょっとでも、死んだ子を蘇らせましょ。

[追記]

全てセッティングし、葛飾時間午後7時過ぎにさて、拝聴するぞ、とサイトに行ったら、なんとなんとなんとぉ、《バビロン》の配信は5月4日になってしまいましたぁ!なぜかリブレットはアップされてますので、薫風香る皐の空の下、勉強しておけ、ということのようです。いやはや…これなら、ぶんちょうさんのお通夜に佃に戻れたのになぁ。うううん…
https://staatsoper-berlin.s3.eu-central-1.amazonaws.com/media/file/33142?response-content-disposition=inline%3B%20filename%3D%22Babylon_Programmheft_Auflage-2019%2BLibr-F.pdf%22&response-cache-control=public&X-Amz-Content-Sha256=UNSIGNED-PAYLOAD&X-Amz-Algorithm=AWS4-HMAC-SHA256&X-Amz-Credential=AKIAUCI3T77LYTYZSN4A%2F20200430%2Feu-central-1%2Fs3%2Faws4_request&X-Amz-Date=20200430T102356Z&X-Amz-SignedHeaders=host&X-Amz-Expires=600&X-Amz-Signature=fca10a9eb8185361985b67d99d40f5a11a094813203679111ad758fa3d8d1ff2

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訃報:ロヴェット翁 [弦楽四重奏]

ロンドン時間の本日4月29日朝、マーティン・ロヴェット氏がお亡くなりになったとのことです。まだViolin Channel とかStradには挙がっていませんが、業界早耳ブログに娘さんからの個人的連絡という形で告知されています。あたくしめは午後7時前くらいに知りました。
https://slippedisc.com/2020/04/sad-news-the-last-member-of-the-amadeus-quartet-has-died/
追記:日本時間の夜になって、Stradが報じました。
https://www.thestrad.com/news/amadeus-quartet-cellist-martin-lovett-has-died-aged-93/10569.article?fbclid=IwAR0K73MgzWP-sXsKJxeivvpCdgs_DDl7PoubBu03VKBb78bOAiysI8PcvGk
誰であるか、どういう人であるか、なんのかんの書く気になりません。ともかく、これでシドロフ氏が逝かれてから33年、やっと天国でアマデウスQが演奏出来るわけです。なんか、楽器だか弓だか忘れていきそうな気がするけど、あのオッサン。

やくぺん先生とすれば、この人がいなければこのような生活はしていなかったであろう人のひとりでありました。この瞬間、なにより思い出すのは、丸山夫妻(当時はまだ夫妻じゃなかったけど)のすばるQがメルボルンの一次予選で弾くためにスメタナの第2番を持ってきて、そのときロヴェット御大のクラスにやくぺん先生が通訳で入ってた。で、始まる前、何をやるんだと御大が仰るので「スメタナだそうです」と伝えると、ああそう、って感じで手をフリフリして部屋に入り、すばるQの連中が弾き始めると、へ、っという顔をし、ともかく全部弾かせ、終わって一言、「興味深い音楽だね」。以上終わり。で、部屋を出ると、「お前、あの曲、知ってるか?」と仰る。いいえ、というと、「俺も知らん。」

だからなんだ、といえばそれまでなんだけど、じゃあな、って手を振って、秩父音楽センターだかのコテージの坂をレストランの方にさっさと歩いて行く翁のお姿、おいおいおい、俺に何をしておけっての、って…

ま、そういう方でした。ヴィーン人の中の、いろんな意味で、天然過ぎるイギリス人。

今、DGのディスクで作品132を聴いてます。快癒の歌より、さあさあ、すんだすんだ、さっさと行こう、って次の楽章の方が翁っぽいかな。
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訃報を知る直前、実はやくぺん先生宅ではもうひとつ小さな、でもとてもとても大事な訃報があり、どういう気持ちになっていいか判らなかったところ。ロヴェット爺さん、そいつ、一緒に天国に連れてってやって下さいな。もの凄く邪魔すると思うけど、貴方なら「ほっとけ」で大丈夫でしょ。

ありがとうございました。あたしゃ、もちょっと、生きてみます。

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《エンドゲーム》をもう一度眺める [現代音楽]

世界のメイジャー歌劇場が無料のストリーミングで自分のところの舞台収録映像を配信して下さっていて、メトとかヴィーンとか、はたまたリンデン・オパーとか、メイジャー中のメイジャー劇場は契約の関係などがあるのか、ホントに一日しか配信しないところもいくつかあります。量があるだけに、流れてくる出し物もヴェルディやらプッチーニやらモーツァルトやらの著名な作品ばかりというわけではなく、ホントに多種多様。最近の10年くらいの映像が多いながら、古楽からモダンまでどんな趣味の方でも趣味なりに週に2つくらいは「これは観ておかないとマズい」という出し物が貴方のPC画面上で繰り広げられる妙な日々が続いております。

本日4月28日火曜日、ニッポン国はいよいよ明日からゴールデンウィークが始まる4月の実質最後の労働日なんですが(って、今、そんな働き方を普通に出来ている方がどれくらいいるか知らんわい)、欧州北米アジアは特になんてことない日。そんな日に、まさかまさか、なんの宣伝も鳴り物もなく、天下のスカラ座が一昨年秋の終わりに世界初演したクルターク作《エンドゲーム》の、恐らくはやくぺん先生も平土間1列目の一番下手に陣取って鑑賞、というか、参加させていただいた世界初演とおぼしき日の映像が、するっと放映されてました。昨日もアップしたけど、こちらがスカラ座の放映日程表。ここから行けます。1ヶ月限定で、あと数時間で終わるところだった。いやはや。
http://static.teatroallascala.org/static/upload/pro/programmazione-teatro-alla-scala-raiplay-def.pdf
発見したときは余りのさりげなさに、どうせ抜粋かなんかでしょ、と思ってたんだけど、いやぁ、2時間弱の全曲をきちんと収録したまともなもの。それどころか、きっちりリブレットまでフランス語とイタリア語対訳でアップされてる。
fin-de-partie_2017-18.pdf
こんな電子壁新聞をご覧になっている方に本気でご関心のある方がどれほどいるか知らん、なんせ20世紀演劇作品の中でも不条理劇として評価の高い作品ですから、ま、酔狂な方はじっくりご覧あれ。

さても、この作品、初演の舞台にノコノコ出かけて、某神楽坂の音楽雑誌に短いレポートも書かせていただいたわけでありますがぁ…正直、世間の一部では「21世紀に書かれた最高傑作のひとつ」なんてとんでもない持ち上げ方をする論者もいるのは承知しつつも、どーも初演の舞台を眺めて「ああああ、なんだかなぁ…」と思い、その後にパリに移動して天才パスカル君の《光》サイクル最初の一発の《木曜日》で大いに満足してしまい、クルタークはどっかに吹っ飛んでしまった、というのがホントのところでありました。そのときの当電子壁新聞の記事はこちら。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2018-11-16

まあ、世間から非難を浴びることを恐れず言えば、「クルターク御大、スカだったんじゃね」というのが正直な感想。で、それから記事を書くときにちょっといろいろ資料は引っ張り出したけど、なんせ音があるわけでもなく(生放送されていて、海賊盤みたいな音もネット上にあったようですが)、まあ、いずれ演奏会形式か抜粋でシュタンツ御大がソウル・フィルの現代シリーズででもやってくれるだろうから、そのときにまた考えましょう、って触れないようにしていた。

そんな作品がパンデミックな日々の中にいきなり引っ張り出され、こりゃ大変だ、としっかり洗濯やらキッチン周り掃除などをしつつ、拝見させていただきましたです。
IMG_4549.jpg

で、あらためてじっくりと座って舞台を真っ正面から眺めさせていただき、いろいろ思うところがあった次第でありまする。最初の「これ、ダメじゃね」という感想を撤回するつもりはなく、やっぱりこの作品、普通の意味で「オペラ」としては成り立ってないでしょ。作品のあり方から正確に言えば、《ベケットの『エンドゲーム』に拠るいくつかの情景》でんな、この音楽作品は。シューマンの《ファウストの情景》みたいなものと考えるべきなんじゃないかなぁ。

なんせ、客としていきなり接しただけでしたので、初演の舞台のときは起きていることともの凄く繊細微妙な音楽を把握するだけで精一杯。リブレットも、ベケットのテキストのどこを使い、どこを落としているか、かっちり判っていたわけではない。ただ、クルタークは主人公のハムとゴミ箱に突っ込まれている両親との対話の部分は大きく拾っていて、ほぼオリジナルまんまくらいに音楽を付けていたのに対し、この作品を極めて象徴的な物語性のある舞台とするなら絶対に重要になるだろう召使いだかのクロヴとのやりとりはバッサリ捨てられているのは判りました。最後の別れの場面以外は、殆どハムとクロヴの絡みは捨てられている、というのが実際のところ。

そんな台本であることは、先程、映像を日本語訳を手にしつつ追いかけて、あああここふっとばしている、ここまでいっちゃった、って慌ててページ繰りながら鑑賞させていだだき、やっとしっかり確認出来たわけです(先にPDFのリブレット眺めておけ、と叱られそうだけど、なんせフランス語とイタリア語対訳なんでして…)。

となると、初演の舞台に接しながらもの凄く違和感を感じていたオーディ(という表記で良いのか?)の演出、というか、舞台設営の仕方そのものが、なるほどねぇ、と思えなくもない。納得したわけでは無いけど、そこをカットしちゃうならこれもありなのか、ということ。つまり、この作品をどうしてもストーリー性のあるドラマとして読みたいなら、いちばん簡単で判りやすいのは「壮年の終わりくらいの男とその若い召使いが人類崩壊後の世界の密室に閉じ込められていて、なんのかんのあって、最後は若者がひとり外の世界に出て行く」というお話に仕立ててしまうしかない。この作品がそういう話なのか、と詰問されると困るけど、例えば『戦後のオペラ』第2版が出るとして、この話のストーリーを記さねばならないことになったら、あたしゃ、そういう風に書くでしょうねぇ。だって、そうしかないもん。

ところがこの演出、全ての話が家の外で起きてるんですわ。ハムの両親が詰め込まれているゴミ箱も家の外にあるし、車椅子に座ったハムは終始家の前の上手側に居ます。クロヴは家と外を出たり入ったりしている。原作では、高いはしごを持って来たクロヴが上の方にある窓から外を覗いて(まるで核シェルターの中から核戦争後の世界を覗くように)人が居るとか居ないとか言う場面があり、途中のハムのモノローグで出てくる三日歩いてこの家にやってきた男の話と共鳴して、多層的な象徴性を作り上げていく。だけど、この舞台は家の外で展開してるんで、そういう場面は一切無い。

だから、最後にいきなりクロヴが「僕は出て行く」と言って去って行っても、このクルターク版だけ眺めている限り、「閉ざされた場所から広い世界に出ていく」というようなカタルシスは成立しないんです。ああそーですか、出かけるのね、としか言い様がない。

思うに、世界一の遅筆で知られるクルターク先生とすれば、パリで勉強していた頃から半世紀もいじり回したテキスト、ともかくハムのいくつかのモノローグと、ハムと両親のやりとり、それにクロヴとの別れと最後のモノローグの部分だけはなんとか自分の頭の中に鳴っている音を楽譜に残せました、もうこれでオシマイ、これで充分…ってことなんでしょう。ネガティヴに言ってるわけではなく、この作品は、そしてクルタークという人の創作とは、そういうものなのでしょう。

これをホントに「オペラ」っぽくやりたいなら、クルタークが作曲しなかった部分は演劇として上演し、音楽があって歌になっている部分(歌唱は20世紀オペラのスタンダードから離れた無茶なものではありませんので、現代物をレパートリーにしている歌手なら充分に処理出来ます)はこの楽譜を使ってやる、というやり方もあるんじゃないかしら。恐らくクルタークのテンポに付き合って演劇をやろうとすると、3時間以上かかっちゃうと思いますが、まあ、なくはない。ルール・トリエンナーレとかでやりそーだなぁ。そう遠くない将来、そういう上演が出てきそうな気もするぞ。

そんなことが良ーく判り、オーディ御大の設定は「クルタークが用いた断片を繋げたシークエンスを成り立たせるには、間違った選択でもなかった」と納得は出来ないまでも、理由はあるとは思わせてくれた。スイマセン、判ってなくて、オーディ先生、ゴメンなさい。

もうひとつ、この舞台、やくぺん先生が初演を鑑賞したときに座っていた1階1列目いちばん下手の席では絶対に判らない仕掛けがありました。本日、真っ正面から捉えた画面を眺めて始めて判ったことです。

舞台の後半、ハムの家がちょっと回転して、舞台の真ん中に45度い出入り口がある面とゴミ箱がある面が対するようになります。で、ハムは上手におり、クロヴは下手の家の出入り口のところで動くのが基本。この二人の、遙か離れたところに立っての対話にもならないすれ違いのやりとりが、家の壁面に影で投影され、なんとなんと、その大きな影では二人が間近に対面しているように見えるんですわ。こんなん。
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離れた二人の動きなんだけど、真ん中に投影された影では非常に親密な細かい関わり合いがあるような動きに見えるように作ってある。最後にクロヴが去って行くときには、舞台にはハムはいるんだけど、ハムの影はもう壁に映りません。クロヴの影しか無い。つまり、二人の間の台詞では出てこない距離感が、影で表現されているんですね。

ところがどっこい、この仕掛け、やくぺん先生の座っていた席からではクロヴの影しか見えず、まーあああああったく判らないんですわぁ!

いやぁ、これは参ったなぁ、と、画面眺めながらハラホロヒレハレ、ってなりそうだった。こういう細かいけど重要な仕掛け、困るよなぁ。これが判んないと、演出家さんのやりたかったことは全然見えないもん。誰が悪いわけでもないけど、これが舞台というものなんでしょう。

てなわけで、パンデミックのお陰であっさり実現してしまったクルターク《エンドゲーム》の再鑑賞、いろいろと勉強になったどころか、全然ダメじゃん、初演時の感想になってない感想、って判った次第。幸いにも商売でやった作文は事実関係をお伝えするだけでもう精一杯で、作品そのものに対し感じていたネガティヴな評価は記しておりませんので、原稿を撤回する必要はありません。編集者様、ご安心を。

こういう映像がちゃんとあるのだから、パッケージにして出てくる可能性もあるのは有り難いことです。シュトックハウゼンの《木曜日》や《土曜日》、《月曜日》世界初演の頃には、スカラ座さんはこういうちゃんとした記録映像を遺してなかったんだろうなぁ。

凄い時代になったもです、いろんな意味で。

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パンデミック下のストリーミング三昧:ゴールデンウィーク編 [パンデミックな日々]

最も人が良いというか、チョロいというか、我らが「炭鉱のカナリア」たる芸術音楽系パーフォーミング・アーツ業界とすれば226アベ要請に始まった異常な日々ももうまるまる2ヶ月。流石に戦時法制化にあるお隣韓国とか、軍部の国家統制がきっちり出来ているヴェトナムなどは出口が見え始めているようで、トンヨン音楽祭など来年の話などを本気でし始めている今日この頃ながら、官民挙げた世界大運動会翼賛体制で初動を誤った上に、なんとかダラダラ周囲に合わせてごまかそうという毎度のやり方がミエミエになっている我らが素晴らしきブンカコッカニッポンちゃちゃちゃ、まるで出口は見えない状況が続き、とうとうやくぺん先生も手持ちの締め切りがある原稿がひとつだけ、というこの商売始めて以来空前の危機的状況。

無論、長期渡欧とかのために強引に仕事をかたづけて締め切り空っぽにして出かける、ということはあるにしても、普通に仕事場にいてこんな状況って、夜の歓楽街やパチンコ屋のにーちゃんや、はたまた現場が無くなっちゃった労働者のオッサンと同じ日銭稼ぎの悲哀というか、危機に立ち至っている次第。この期に及び、「パンデミックな日々」という新たなカテゴリーを創設、過去に遡り適応することにいたしましたです。後の記録に、って、もうその後も多くはない爺の日々なんでありまするがぁ。

以下、ホントの駄文。読者は佃でテレワークしながらぶんちょう様の下僕となっているお嫁ちゃまのみのどーでも良い内容ですので、読んでも時間の無駄ですよ。

もう終わろうとする今月に入ってから、なんだか妙に生活もパターン化されてきていて、月曜から金曜若しくは土曜日までは、葛飾オフィスで自主隔離の閉じ籠もり状態。なんせ、佃の縦長屋では、シン・ゴジラ目線の勉強部屋が公共スペース全閉鎖で使えず、弟君もテレワークになってる塒に籠もっていると、ぶんちょう様たちがキーボードを占拠、ヘッドフォンを突っつき、有線のラインを囓るため…当然、作業は不可能。
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かくて、週末になるとマスクに軍手の重装備でガラガラの京成電車と地下鉄に恐る恐る乗り込み大川端に戻り、人間らしい食事と寝床にありつくのでありまする。レストランの季節も終わったシジュウカラさんご夫妻は、どうやら町工場の向こうのどっかにおうちを作っているようで、今、巨大柿の木の下に出してる佃のセレブなぶんちょう様の食い残しにやってくるのは、若雀らの群れはともかく、若く美しいほーほーさんくらい。
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そんなパンデミックな非日常な日常の日々、まず朝起きると、一頃ほどでは無いにせよ、欧州北米からの「もーやってらんねーぜ」みたいなメールやら業界連絡やらをチェックし、殆どなくなったお仕事系の連絡をする。んでなんのかんの。昼過ぎになると、さて今日は何をやってるのかしら、と世界の劇場がパンデミックな日々を乗り切る文化資産総浚え大提供をやってるのをチェックし、おおおお、これは明日までだぁ、となかると慌てて夕方くらいまで劇場からの舞台中継ストリーミングを拝見させていただく、ってのが日常になってる。夕方からコンサートホールに出かけるという用事がなく年寄りには体と心我楽で有り難い…って感じるようになったら、いよいよホントの隠居も可能なのであろーかぁ。

かくて毎日の日課となりつつある「ため込むための時間と思って観ておかねばならんものはしっかり本気で眺めましょうストリーミングタイム」。先週はメトのシェロー演出《エレクトラ》配信のお陰で、スカラ座売店で投げ売りで買ったエクス初演時Blu-rayを続けて眺めるなどというアホをやってしまたのと
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昨年の悪夢の上野&初台《トゥーランドット》の演出家さんがやってるシュトゥットガルトの《メフィストフェレ》を拝見し、ああこの人、やっぱり基本的に合唱とか現場に丸投げに近い人なのね、と納得するというのが最も大きなイベント。週に2本の舞台をきっちり眺めたから、まあ、よろしいか。

んで、佃に戻り2泊、その間に葛飾では観られないNetflixで攻殻機動隊の新しいシリーズを半分眺め、なんで素子さんはこんなおねーちゃん型スタンダード擬体に入ってるんじゃ、話はまるでサイボーグ009じゃないかぁ、なーんてバカなことを思い、旧某大手証券会社本社ビル近くの新川の肉のハナマサで食材を買い込んで、日曜の午後に葛飾オフィスに戻る。まずは直ぐに眺めておかねば、とハンブルクの劇場が流して下さっているペンデレツキの《ルドンの悪魔》映画版を眺め、うううんこの曲はやっぱりこういう70年代っぽい映像に最高に合うなぁ、『エクソシスト』とか『シャイニング』って、この頃の映画だけか、なーんて思ったりして。

で、その勢いで夜にはもう一本、コヴェントガーデンが流してくれてるブリテンの《グロリアーナ》なんぞ拝見。これも、こんなときでないと劇場でやってても敬遠しそうなもんだしね。ま、ドニゼッティのエリザベス女王三部作なんぞを聴衆が知っていることを前提のハイアートであるとはいえ、エリザベス二世戴冠の記念でエリザベス一世晩年の苦悩を王都の王立劇場で出すことを許されるって、それはそれで凄い話だなぁ、とあらためて感嘆。こういう神話素材って、ニッポン国天皇家にはありそうでないんですよねぇ。

その勢いで、さあこの先、ゴールデンウィークのストリーミングは何があるべぇか、と深夜に各劇場のサイトをチェックしていく。と、なんとまぁ、ちょっと困ったことになったぞ。来る4月30日木曜日、ベルリンのリンデン・オパーが、かのヴィドマンの《バビロン》改訂版新演出を一日だけストリーミングして下さりまする。
https://www.staatsoper-berlin.de/de/staatsoper/news/unser-taegliches-video-on-demand-programm-kostenlos-fuer-sie.142/
当電子壁新聞ではミュンヘン初演時の「感想にもなってない感想」を記した作品
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2014-01-28
なんせ、このパンデミック騒動がなければ、3月の上旬には新帝都は大曲でエクとの共演なんぞが予定され、恐らくは練習から貼り付いてお姿を間近で拝見することになり、お言葉も交わすことがあったであろう天下の人気者ヴィドマン様でありまする。これもなんかの縁なのでありましょうか。果たして何時からの配信か判らぬが、これはもう身辺綺麗にしてしっかり眺めねばっ!

もう今週はこれで充分なところへ、ネットの海を渡って大西洋を越えて未だ戒厳令下のマンハッタンに辿り着くや、おおおお、なんと困ったぞ、同じ日にメトの日替わり配信で、普段は$4ちょっと払わないと眺められないかのヒッチコック原作(としか言い様がない)《マーニー》をやるではないかぁ!こっちはマンハッタンの夕方からだから、実質、日本時間では5月1日の朝からとはいえ、眺められる時間はミュンヘンからの日替わり限定配信と同じ時間にせざるを得ないではないですかっ。ううううううん…

困ったなぁ、28日から3日間のみ配信のベルリン・ドイツ・オペラの《ダナエの恋》もあるし、これは東京時間の29日午後に眺めるしかないか。そんなところに、ボストン響からメールが届き、おおおおお、なんとなんと、5月1日には、あのもう忘れもしない苦い記憶、小澤氏が風呂場で転んで松本がキャンセルになり大騒ぎになった取材をやらざるをえなかった《ベアトリーチェとベネディクトゥス》をボストン響演奏会形式でやったときの音が出てくるじゃないの。こういうの、ちゃんとパッケージで売って欲しいなぁ、ホント。

かくて、この週末は素晴らしいストリーミング放送の日々が続くことになった。みんなでおうちで巣ごもり鑑賞の、風薫る5月がやってくる。

なんだか、赤ペン持ってFM雑誌ひっくり返してエアチェックすべき時間を確認してた遙かな昔が戻ってきてるよーな…パンデミックの日々は、かくの如く時間軸を滅茶苦茶にしつつ、ダラダラと、淡々と、しっかりと過ぎてゆく。

てなわけで駄文を終わりにしようと思ったら、またまたとんでもないもんを発見してしもーた!明日、スカラ座でクルターク世界初演の《エンドゲーム》があるじゃないかぁあああ!
http://static.teatroallascala.org/static/upload/pro/programmazione-teatro-alla-scala-raiplay-def.pdf

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ベルリンフィル五輪公演は再び幻に [パンデミックな日々]

一年でもいちばん陽気が良い、窓を開け放ってちょっと涼しげな、でもそれなりに湿気も含んだ空気が流れ込んでくる午後、東京春音楽祭事務局からこんなリリースが来ました。もう公式なホームページに同一内容がアップされておりますので、問題もないでしょうから、まんま貼り付けます。
2020.04.23_BPOリリース_J.pdf
やくぺん先生ったら、別にこのイベントに関係しているわけでもないし、単にこのパンデミック騒動が始まる前(もう始まってたんだろうけど、ホントは)に東京春音楽祭の実行委員長たるIIJ会長にインタビューさせていただき、記事を作っている、というだけのことで送られてきたリリースでありましょう。とはいえ、世間に告知してくれ、という意味もあるのでしょうから、こんな無責任電子壁新聞にもアップいたします。

このリリースで印象的なのは、「事務局としては延期に出来ないか頑張ったけど無理ということになりました」という内容の記述部分ですね。このさりげなく事実を伝える向こうに、どれだけの人がいろいろ頑張ってやりとりをしたか、皆さんの無念の顔が透けて見えるようです。

スポーツだってそうなんだろうけど、全ての舞台芸術は一期一会です。延期なんて、あり得ないのです。延期して上演されても、それはパンデミック後の新しい世界での出来事。2020年の春から夏の初めに私たちが出会う可能性があった舞台とは、別のものなのです。226アベ要請以降、たくさんの出会いがなくなりました。神奈川県立音楽堂のヘンデルに始まり、例えばエクとヴィドマンの共演も、長柄町の桜の中でのベートーヴェンの弦楽五重奏も、なくなった。いろいろなアーティストが出会い、いろいろにお互いを知り、深め合っていく可能性がたくさんたくさん奪われている。「コロナ禍で芸術が生き残れるか」というのは、アーツを社会の中で可能にしている経済的な環境やインフラを維持出来るのか、という意味だけではない。人と人が出会うことで生まれたかもしれないものが、今、生まれなくなっている、ということが問題なのです。

もちろん、グーテンベルク以来の情報大革命の瞬間にあったインターネットを通じての新たな芸術の繋がりは、模索されている。そう、アートは強い。どんな環境でも、人はアートしちゃうんです。そこを心配する必要など、皆目無い。だけど、ある瞬間に出会えなかった人は、二度と同じ状況で出会うことはない。ベルリンフィルが早坂文雄をデュダメルの指揮で演奏することは、恐らく、もう、ないでしょう。残念、と言うことしかできない。

かくて、ベルリンフィルは二度目のオリンピック絡みでの来日キャンセルとなったわけです。こんな著作もありますな。
http://www.sakuhokusha.co.jp/book/furt.htm

今、こんなにいろいろな可能性を失っても、私たちは何を守ろうとして無茶な引き籠もり生活をしているのか、ちゃんと考えないと。

ちなみにこのベルリンフィル公演は、東京都やオリンピック委員会からのお金は一切出ていない、完全に民間のイベントです。オリンピック委員会は乗っかってただけ、といえばそれまでです。

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シンプリーQが有料のストリーミング [弦楽四重奏]

なんと、本日4月22日で最後にライヴの演奏会を聴いてからまるまる1ヶ月以上が経ってしまいました。桜咲き乱れる上野の山、人々の間を抜けてくるだけで「ああ、俺は確実にヴィルスを拾ったな」としか感じられなかったあの日、ゴールドベルク三勇士の《大公》以降、生の室内楽を聴いていない。いやぁ、隠居初心者となった我が身を振り返るに、こんな状況って…少なくとも40年ぶりくらいのことではあるまいかぁ。昨日は某専門誌の編集者さんからネタ出しを求められ、なにやら自分がスッカラカンになってるのにあらためて驚いた次第。今は出すときではなく、人生最後の貯め込むときを神様が与えて下さったのだ、と考えるしかないのでしょうなぁ。

やくぺん先生が如きへっぽこ売文業者はともかく、音楽家の皆様もいろんな意味でスッカラカンになりそうな状況が続いているわけでありまして、これではマズかろうと、梅や桜の頃から大流行の「ネットによる配信」で少しでも生活の糧を得ようと知恵を絞る奴らもたくさんいるわけです。

例えば、今やパンデミックの大中心となってしまっているマンハッタンでは、かの311直後の大阪で優勝したアタッカQのヴィオラ奏者を務めたルークが立ち上げたマンハッタン・チェンバー・プレイヤーズという若い団体が、毎週末に有料のストリーミングをしていて、もう数週間続いています。最初は集まって、ということだったが、日本同様にマンハッタンも状況が悪化。今は独奏か、演奏家が家族の場合はデュオなどが配信されているみたい。いかにも、自分でなんとかするアメリカ、ってやり方ですな。
https://livemusicproject.org/event/livestream-manhattan-chamber-players-co-video-concerts/

一方の公的な芸術支援が当たり前の欧州は、財力があったりなかったりする大手演奏団体や劇場の無料配信が当たり前の中、なんとか演奏で少しでも音楽を演奏家の生活の足しにしようという動きがいろいろあります。個人から組織までいろいろだけど、やはり安定した活動とフォーマットが作れているのは公共放送局のようでありまして、「音楽の都」ヴィーンを拠点とするオーストリアでは、こんなシリーズをやってます。能書きは面倒なんで、まんまコピペ。適当に翻訳にでもかけておくんなせぇ。文学じゃないから、これくらいなら、ちゃんと訳してくれるでしょ。

Durch der Corona-Krise wurden viele Konzertauftritte international abgesagt und vielen Musikern wurde die Möglichkeit genommen zu konzertieren. Der Wiener Geiger Daniel Auner initiierte daraufhin diese Platform, um den Künstlern eine Möglichkeit zu geben die Konzerte digital trotzdem zu verwirklichen. Und Sie als Konzertbesucher kommen in den Genuss einer Live-Performance international bekannter Künstler.

​So funktioniert's:
Wählen Sie ein Konzertdatum in der Rubrik "Konzertsaal" aus und kaufen Sie eine digitale Konzertkarte. Sie können per Banküberweisung oder Kreditkarte bezahlen. Nach Abschluss des Zahlungsvorgangs erhalten Sie eine email mit dem Zugangscode zum Konzert.

Die Videos werden live zum festgesetzten Zeitraum übertragen und stehen danach noch 1 Woche online zur Verfügung.

Die Einnahmen werden natürlich den Künstlern weitergegeben. Kunst muss nicht umsonst sein,

https://www.konzertsaal.at/?fbclid=IwAR13HWMMG1Uuo-y__084nhq-eXWHXpC3WtNT68o4lULi9YXSUUpdAHTLbl0

てなわけで、このページの「karte kaufen」てとこをぽちょっと押すと
https://www.konzertsaal.at/karte-kaufen
ってページになり、今、ストリーミングの権利が期間限定で買えるプログラムが並んでます。おおお、あるぞあるぞ、今や上海Qに次ぐ上海から世界に飛び出しつつある俊英シンプリーQも、このORFなんぞがお墨付きを与えている若手支援の有料ストリーミングに名を連ねておるではないかぁ。

連中からずっと連絡は来ていたのだけど、ぼーっとしているうちに、配信チケット販売は日本時間の明日いっぱいとなってもーた。んで、毎度ながらのヴィオラ君が馬鹿笑いしてる彼らの写真の横の「チケット購入」ってところを押すと
https://www.konzertsaal.at/event-details/simply-quartet
ってところになって、ショスタコの3番と《死と乙女》という演目と、シンプリーQのプロフィルなどが出てくる。で、クレジットカードで€9ちょっと、1200円也くらいを払えば…ってこと。

これでなんぼの収入になるかわからないけど、NHKがこんなことやってくれるなんて、あり得ないんだろうかねぇ。

※※※

さても、本日の作文仕事のノルマを一応やったので、日も暮れた宵の始め、クレジットカード引っ張り出し、ネット上でデジタル切符を購入しました。購入の仕方は極めて簡単で、外国のオーケストラやオペラのチケット、はたまた外国の鉄道のチケットを購入したことある方なら、全然ストレスフリー。ドイツ語のみみたいだけど、もの凄く簡単な言葉だけですから、心配ありません。多分、翻訳ソフトでページ全体を翻訳しちゃっても、間違うところなど一カ所も無いようなページです。怖がらずにどーぞ。

で、購入すると、直ぐにメールで番号が送られてきますので、DIGITALER KONZERTSAALというページに行き、だあああっと上がってる演奏家名と日付の中から自分の買った奴を探し、右の「ホールに入る」というところを押すと、送られてきたメールに書かれてるパスワードを入れるページになるので、とことこぺんぺんと数字とアルファベットの羅列を押し込み、Losって押すと、お馴染みの画面の真ん中を押す絵面。で、また押すと、これになる。
IMG_4478.jpg
で、なぜかバッハを鳴らしながら読み込んでいるようで、暫くすると始まります。こちら。
IMG_4479.jpg
おお、第1ヴァイオリンとヴィオラの古巣、上海音楽院のオーディトリアムに凱旋したときのライヴですな。なるほど、ORFに出向いて収録するわけではなく、こういう自分のありものを提出する訳ね。

あ、ちなみに、上の原文の紹介の下に、「なお、このフォーマットに参加したい奴はこちらに連絡すること」とというメールアドレスが付いてます。日本からもOKなのかしらね?

録音は、PCにスピーカー繋いでいる限りは、なんら問題ありません。ストリーミングも安定してます。流石にORFが協力しているだけある、ってことなのかな。

ともかく、シンプリーQの切符売ってるのは明日23日いっぱいなので、ご関心の向きはお急ぎどうぞ。

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テスラQの苦境がNYTに報じられる [弦楽四重奏]

ニューヨークタイムズに、若手弦楽四重奏団に関する記事が出ました。こちら。今ならコロナパンデミック関連記事ということで、契約しなくても読めます。お急ぎどうぞ。
https://www.nytimes.com/2020/04/19/arts/music/string-quartet-coronavirus.html?fbclid=IwAR3OgIDTWc-b-p0BRFLnMTNDIo6w2LbaUtmThNAeD6REDAw0-VbxBm9cl44

テスラQといえば、ロルストンQがあああああって感じで優勝しちゃったバンフで2位になり、ハイドン賞とか委嘱作品賞とかを総なめにしちゃった団体。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2016-09-05
まだ若いと思ってたら、記事を読む限り、それなりに歳は行ってたんですな。アルカディアQが勝ったときのロンドンとか、シューマンQが勝ったときのボルドーにも来てたから、そうか、ソレイユQなんぞと同じくらいの世代なのかな。なんにせよ、10年代にアメリカから盛んにメイジャー大会に出て来てた連中ですね。

正直、バンフのとき以降全然聴いたことがなく、どのような活動をしているかもまるで知らなかった。このような形で紹介されるのは、有り難いんだかなんだか、なんともねぇ。

この記事、興味深い点がいくつかありますが、やはり「腐っても鯛」というか、アメリカ合衆国のアート支援の底深さを感じさせるのは、予定されたけど中止になった演奏会のギャラを払ってやろうと仰ってる主催者さんがいることですね。無論、アメリカでも例外で、このNYTの音楽系の書き手さんじゃない著者さんもそういう篤志家がいる主催者ばかりではない、とは仰ってますが。

アメリカ合衆国の場合は大学レジデンシィがあって、大学の職員としてきちんと雇用されている連中がそれなりにいるわけで、そいつらはなんとかなるんだろうけど、アタッカとかアイズリとか、レジデンシィが取れてない位の連中、頑張ってくれるといいんだけど。

って、他人様のことを言っていられる状況ではないことは百も千も承知。我がニッポンの団体も…がんばろー、としか言えぬ。ホント、みんなオソロしくて口には出さないけど、所謂若い常設団体というのは嫌になるくらい練習しているものですから、そういう状況が維持出来なくなっているのは凄く怖いでしょうねぇ。

いろんな業種でこういうことが起きているのだろうけど、やはり音楽家は「炭鉱のカナリア」なんですな。ふううう…

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パンデミック下のストリーミング三昧:イースター以降編 [パンデミックな日々]

読者対象、とうとうゼロの駄文です。読んでも(死ぬ直前に人生を振り返るときの自分以外には)全く意味が無いですから、時間の無駄です。

パンデミック葛飾オフィス実質立てこもり状況、去る日曜日午後に佃から上野経由で京成電車隣町の駅で降りて、「肉のハナマサ」で4000円くらい馬鈴薯やら玉葱やら鶏肉豚肉2キロ以上やら買い込み、医療機材の上に強引に詰め込んでゴロゴロ引っ張って、すっかり新緑になり上空の主がヒヨちゃんからツバメさんたちに交代した巨大柿の木の下に戻り、がっつり葛飾オフィス内立て籠もり週間スタート。途中、ゴミ出しと掃除以外でオフィスを出たのは、一昨日の夜だかに流石に珈琲に飽きてティーバッグの紅茶を買いに徒歩3分のコンビニに行ったのみ(レジにビニールシートがぶら下がっていて吃驚)。本日土曜日ってば、京成電車に乗っている人も少ないだろうから週に一度の佃の塒へのご帰還、郵便物を拾い(殆どない、とのことだけど)、ご家族とぶんちょう様達に顔を見せ、また明日の午後には次の1週間の逗留の為に戻ってくる予定なんだけど、外は春の嵐。これならコロナvirusも流されちゃう…かな。

そんな1週間、なんせ手持ちのお仕事は、締め切りが良く判らないものがひとつと、もうひとつは「6月頭くらいでいいです」というなんとも力の入らないもののみ。わしらのような商売を30年くらいやってくると、「数日先の締め切りがないとやらない」という体になってしまっていて、ましてや所謂出向き取材が全くない今日この頃。このだらしない、永遠に先の見えない日々にメリハリを与えてくれるのが、今こそ膨大な税金を投入して運営されている劇場の存在意義を家に籠もった人々に見せるとき、とばかりに流してくれる舞台収録映像の日替わりストリーミングでありまするな。パンデミックを対人接触ミニマム作戦で乗り切る乱暴にして強引なやり方を採用した世界各地から、いろいろなものが流されてくる。それも、期間限定付きで。

てなわけで、連日、気分として半日くらいはストリーミング眺めるうちに日が暮れて夜になってしまう、というおかしなことが起きている。後のパンデミック騒動時期の自分を振り返る為のメモとして、土曜日にまとめて「この立て籠もりで眺めたもの」を列挙することにいたしましょう。願わくば、来週は「ずーと本気で作文していて、全然観ませんでした」と記したいものでありまする。うん。

※4月10日(聖金曜日):昼メト《パルシファル》、深夜ライプツィヒ聖トーマス教会より《ヨハネ十年曲2020》ライヴ
※4月11日:朝《ヨハネ》見返し、昼リンデン・オパー《パルシファル》1幕のみ
※4月12日(復活祭):夜YouTube楽譜付き映像ペンデレツキ《ルカ受難曲》
※4月13日:EMI録音CD《ルカ受難曲》
※4月14日:なし(昼飯食いながら、設定の今風さ以外はどーでも良いイラン国境辺りを舞台にした政治戦争映画を一本眺めた、呆れた)
※4月15日:午後ジュネーヴ《浜辺のアインシュタイン》
※4月16日:夜から深夜コミーシュ・オパー《ペレアスとメリザンド》
※4月17日:昼ストックホルム歌劇場シュレーカー《遙かな響き》、深夜ベルリン・ドイツ・オペラ初演時映像リーム《オイディプス》
IMG_4432.jpg

って、これだけ眺めると、ベルリン辺りに腰を据えて、間に移動日一日だけでDBやらイージージェットで欧州あっちこっち動き回っては劇場ながめまくってる1週間、って日程に見えるじゃないかい。ある意味、仕込みの「テレワーク」でありまするな。

かくもアホな1週間をやって判ったのは、「実際に複数の席に座ったことがある劇場であれば、オペラの映像収録はある程度わかるけど、大劇場はちょっと厳しい」という当たり前のこと。コミーシュ・オパーは、殆ど違和感なし。メトは「絶対にこんなの判らんぞ」って瞬間ばかり。それから、「オペラの収録って、声やオーケストラの拾い方ってホントに難しい、プロの仕事が必要になるのだ」って、これまた当たり前の事実を再確認した次第。

ま、そんな当たり前のことであれ、葛飾巨大柿の木の下でツバメさんやらたまにやってくるシジュウカラご夫妻を眺めているお籠もり状態だけで判ったことがあったのだから、ただボーッとしているよりは善かったであろーて……ってだけの、どーでもいいメモ書きでありましたとさ。

これがいつまで続くやら。雨はまだ酷いなぁ。

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魚津その後 [こしのくに音楽祭]

このカテゴリー、まだ生きていたんだ、って感じですが…

世界がコロナ禍でとんでもないことになっていて、やがて再び動き出す世界は2019年末までのそれとは違うものになっていることを覚悟せねばならない(少なくとも我が零細業界は)状況であろうがなかろうが、富山県は魚津の「新川学びの森天神山交流館」の存続を巡って様々な動きが起きていることは、当電子壁新聞でもお伝えしてまいりました。なんせ、「シモン・ゴールドベルク・メモリアル」やら「こしのくに音楽祭」やら、いろいろと今世紀の00年代にはお世話になっていた場所でありまする。当電子壁新聞の大分はゆふいんと並ぶローカルネタ、この話の続報でありまする。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2019-09-23

先週、現魚津市長がまだ市長じゃ無く交流館に寝泊まりしている若い演奏家たちを車で移動させるお手伝いなどボランティアでなさってくださっていた頃から、富山でいろいろとお世話になっているインディーズCDレーベル若林工房も主催なさっている若林さんから、市長選及び議会選を前の現状を伝える地元新聞の記事を転送いただきました。貼り付けてしまいましょう。こちらが若林さん。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2010-04-21

なんせいま、地方紙を眺めたくて佃はやくぺん先生の縦長屋塒下の共同通信資料室に来ても、コロナ騒動中で無期限休館中。国会図書館もやってないから、調べなさい、といっても無理。そんな状況故に、転載、お許し下さいませ。PDFファイル3つあります。
魚津の未来図(上)[5843].pdf魚津の未来図  (下) (1)[5845].pdf魚津の未来図  (下) (2)[5844].pdf流館の話は最後のところですが、魚津市の財政なりの問題を俯瞰しないと話が判らないですから、非常に有り難い記事でありますな。

この交流館が、魚津市内のコロナ陽性の方々の隔離施設に丁度良い、なんて使われ方などないことを祈りますが…そういう風に使われれば、それはそれで極めて有効な利用法であることは確かなんだけど。

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ジュネーヴの《浜辺のアインシュタイン》ストリーミング中 [現代音楽]

この世界規模のパンデミックは数ヶ月前には想像もしかなったようなことをあれこれ起こしており、そのひとつは「毎日朝から晩まで眺めていても時間が足りないほどのオペラの舞台ライヴ収録映像がネット上に氾濫する」という現象でありまする。

とりわけ膨大な公的資金を投入し運営されている欧州の公立オペラ劇場は、人々がもの凄く暇している今こそありったけのアルヒーフを提供し、魂の慰めやら、好奇心の満足やら、知的な枯渇感の解消に供するときであると本気で思っていて、これでもかって映像を日替わりで流して下さっておりますな。こんなページが出来てるほど。
https://operawire.com/a-comprehensive-list-of-all-opera-companies-offering-free-streaming-services-right-now/

これだけいろいろあると、毎日実質半日はパソコンとスピーカーの前に座っていることだって出来る。数少ない手持ちの原稿や、もうあと数える程しかない校正待ち原稿が戻ってきても、そっちに手が着かない、なんておかしなことが起きつつある先週来でありまする。なんせ、先週の聖金曜日以降、《パルシファル》はメトとリンデン・オパーの2本を眺めてるわけだし、例の世界驚愕の《ヨハネ受難曲2020》はあったわけだし、ハンブルクの劇場がペンデレツキ追悼で出した懐かしい映画版の《ルドンの悪魔》を久しぶりに(ながら、だけど)眺めちゃったし…まるでヨーロッパをDB乗り継ぎしながらあちこち動き回ってるイースター休暇頃、って感じでありますな。ライヴなら、だけどさ。

さても、本日はちゃんとテープ起こしを始めようではないか、と朝にオフィスの風呂掃除も終えてパソコンに向かったら、欧州歌劇場事情にお詳しい某先生から悪魔の入れ知恵がありました。本日から19日までの期間限定で、ジュネーヴ歌劇場が昨年9月に上演した新演出の《浜辺のアインシュタイン》を、4時間ちょっとの全曲ノーカット配信するとのこと。他にもこれまた時間限定ながら、オマケの映像とか当日プログラムのPDF版とか、いくらでも暇つぶしになるオマケがついてます。豪華特典付きBlu-rayパッケージみたいでんな。
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https://www.gtg.ch/en/digital/#module11-block_5e7df921b4b97
てなわけで、午後から日暮れまで、途中何度か中座しつつ(っても、実際の舞台のように「好きなときに出歩いていいですよぉ」ってのでもないから、ちゃんとストリーミングは止めて席を立ちましたけど)、拝見させていただきましたです。

去る夏に医者から人生初の病人認定が下され、以降、どこにいくにもデカい医療機器を持って歩かねばならぬ身になり、9月にジュネーヴなんぞまでノコノコ出かけていくわけにもいかなくなり、「世界中の《浜辺のアインシュタイン》演出を全て眺める」という人生の目標のひとつがあえなく瓦解してしまった。この舞台、どうやら劇場隣のジュネーヴ音楽院との学生コラボ創作みたいなものなので、他で観られるとは思えず(ルガーノの劇場との共同制作になってるようですが、国外まで持ち出す感じはない)、まさかこんなものが商業用パッケージ映像になるとは思えず、著名歌手が出るでもなく、カリスマ演出家が鳴り物入りでやるわけでもなく、流石のarteさんなんかも収録なんぞしないだろーなー、観られても極一部くらいだろうなぁ…なーんて思ってた。それがまさかまさかのパンデミック下の実質お隠り状態葛飾オフィスで観られるなんて、世界中でお亡くなりになったり生活が出来なくなっている方々にはホントに申し訳ないけど、そんな人々のぶんまでこの機会を大事にせねば成りませぬ。うん。

かくて、リブレットと拙著部分も含まれる新国立劇場編『戦後のオペラ』を引っ張り出し、おもむろに拝聴拝見させていただいた次第であります。

で、見物し終えての本音の感想を漏らせば、「ああ、これはいかなくてもよかったかな」でありまする。舞台を作る側とすればいろんな意味で意義はあったプロダクションなことは良く判るし、みんなよく頑張ってるし(アンサンブルは、いかにも「指揮者がちゃんといます」ってテンポの微妙な変化を流れじゃなく明快にしたり)、こういうやり方があったかと感心したところもあるけど…ライヴで付き合ったら「おいおいおいおい」と思っただろーなぁ。それとも、映像だけってのはこういうものなのかしら。

※※※

まず己の事として言っておかねばならぬのは、まさかまさか新国立劇場編『戦後のオペラ』のあらすじを片手に眺めた方がいらしたら、「どこやってるか全然わからん、なんだこのガイドブックは」と怒り出したかもしれない。だけど、ゴメン、やくぺん先生の責任じゃないですから。

あの記述は、グラス&ウィルソンの初演以来3度作られている版の流れを基本にしてあります。なにせ語られるテキストそのものには、普通の意味での「ストーリー」は全くなく、テキストは舞台で起きていることを注釈や解説しているわけではない。ましてや登場人物の心情吐露などではない。そう思いたければ勝手に思ってもいいんだけど、思ったところでなんだという舞台なのは、ご覧になれば一目瞭然でしょう。

それでも、「今何をやっているか」くらいはなんとなく判るようにはなっているのだけど、このジュネーヴの舞台は、その瞬間に視覚的に捉えられるやってることが、ウィルソン演出とはまるっきり違ってます。この作品、いくつかのキーとなるメタファーみたいなものがあって、「列車」「宇宙船」「裁判」「壁」とか、まあそんなもんを軸に場面が作られていく。で、このジュネーヴの舞台は、最初のニープレイからいきなりアインシュタインが出てきて朗読を始める!んで、次の「列車」の場面はアインシュタイン先生の研究室じゃわ!おおお、これは本気で「アインシュタインの人生」やるのかぁ、と驚いてしまうぞ。んで、次の「裁判」辺りからそういう説明的なもんじゃないとは判るのだが、やっぱり浜辺でアインシュタインがくつろいで上空を人魚が舞ってたり…

つまり、我々がこの作品に接するときに期待している基本的なメタフォリカルな言葉遣いはあまり使用していない。かといって、「パントマイム物語アインシュタイン伝」でもない。眺めてると、あれ、この辺りカットしてないかい、ってところも出てくる。「宇宙船のある原野」辺りから、馬という象徴が新しく出てきて、この辺りからそろそろ前の記憶が怪しくなってきて、だんだん意味があるかもしれないと追いながら観ていくのは放棄する気になってくる。でもまだまだ、それからもなんのかんのなんのかんの人魚が水槽で泳いだり、「建物」から「ベッド」への最後のクライマックス(一応、あるんですよ、こんな作品でも)に向け、前半の「裁判」にある筈の「パリ」のナレーションが挟まれ、大量の闘牛士が出てきて大量のアインシュタインと絡み、クライマックスの「宇宙船」はアインシュタイン先生の研究室で論文が舞台を舞い散り…最後のニープレイの数勘定は、アインシュタイン先生の助手さんたちが吹っ飛んだ論文のページ数を数えている数字で(アイデアとしては秀逸…)、花嫁が空を飛んで恋人達の讃歌を語り高いところにいるアインシュタイン先生の近くへと消えていく。

……なーんて記しても、なにがなんだかわからんわなぁ。どこがどうカットされているか、どこの部分が入れ替えられているか、最初はノートを取っていたんだけど、途中でどーでもよくなって止めてしまいました。それが判ったところでなんだ、という気がしてきたものでして。

そもそもこの作品、そういう作品なんですよ。理解しようとしてもしょーがない。舞台を作っている人がどうやって作ろうとしているかは、理解出来る可能性はあるけどさ。

最初は、強引にアインシュタインの創作やらを語る極めてパントマイムの演劇に近い舞台を作るのかとも思っていたが、そうでもない。数年前のダルムシュタットで出た「舞踏要素を極小化して別の台詞を突っ込んで言葉の意味の過剰性に埋もれさせる」という方向性のはっきりしたやり方でもない。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2017-06-04
ただ、何かを表現しよう、意味を与えよう、という素振りはあちこちにちりばめられているので、観る側はなにか「意味」を探そうとしてしまいます。探しても…なにも先には置いてない。

なるほど、ウィルソンの舞台って、象徴性とわからなさが絶妙のバランスだったのだなぁ、とあらためて思わされた、と言ったら失礼かな。

当無責任電子壁新聞も、最初はきちんとどういう作りなってるか記そうとしたけど、ま、もーいいや。ともかく、放送は19日まであります。『戦後のオペラ』に記したあらすじとは全然違いますので、吃驚せずに、これはこれでこんなもんだ、と納得してご覧になって下さいませ。

ダラダラになったので、もうオシマイ。どうやらジュネーヴの配信には、期間限定のオマケがいっぱい付いているので、そっちも明日以降、眺めないとなぁ。ウィルソン御大が出てくるみたいだし。

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