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ベートーヴェン作曲ヴァイオリンと鍵盤のソナタ全曲演奏会って… [演奏家]

昨晩は、秋とはいえまだ上野の杜の紅葉は色づく気配もなく、台風が来なくて妙に湿っぽく爽やかじゃあない空気が流れ込む中、文化会館小ホールで桐山建志&小倉喜久子というニッポンを代表するオリジナル楽器系巨頭に拠る「ピリオド楽器で聴くベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ集[全3回]」の2回目となる演奏会を拝聴して参りましたです。
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先週末からやくぺん先生的には勝手に開催中の「新帝都神無月の勝手にベートーヴェン記念年祭」の目玉公演のひとつでありまするな。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2020-10-12

この楽曲の全曲演奏会、そもそも「全曲演奏」なんてものが意識的に行われるようになったのはそれほど歴史があるものではないような気がするし、昨晩斜め前に座っていらっしゃった大権威者のH先生にお尋ねしようと思いながら、タイミングを逸してしまった。

そんなことドーでもいーといえばそれまでですけど、ベートーヴェン生誕200年祭りが大阪万博と一緒に盛り上がっていた1970年に、果たして「ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会」なんてやられたんでしょうかねぇ。なんか、昨日来、とても気になってます。交響曲全曲やピアノ協奏曲全曲はいくらでもあっただろうし、実際に日本でもあったわけだが、アントン・ヴァルターのピアノフォルテでやる、なんてことは楽器博物館なんかはともかく、普通のコンサートとしてはまずなかったろう(コレギウム・アウレウムは1961年からやっていたそうだが、《エロイカ》が話題になったのは70年代後半で、生誕200年騒ぎには間に合っていないと思うし)。1970年といえば「レコード巨匠時代」の真っ盛りなわけで、SP時代からの20世紀前半から半ばの「往年の名演奏家」達が引退し始めていた頃。ジュリアードのディレイ女史教室から日本を含む様々な文化背景の若手スターが出始めていた頃ですから、やりそうな人がいたとすればスターンとかかなぁ。でも、やらなそうだなぁ。《春》と《クロイツェル》やって、10番やって、あとはハ短調なんぞをちょっとやる、ってくらいだったんじゃないかしら。全曲チクルスも、なんせ後期作品がないので、弦楽四重奏曲みたいに全曲をやることで作曲家の個人史的な展開が見えてくるジャンルではないし。

なお、コロナがない世界だったら、この時期にこのような大イベントが企画されており、恐らくは我が業界は「ベートーヴェン記念年のヴァイオリン・ソナタはこれでオシマイ」って感じになっていたのでありましょう。
https://www.suntory.co.jp/news/article/sh0324.html

もとい。んで、なんとなくとっても21世紀っぽいイベントの「ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏」でありまするが、コロナ禍続くニッポンの国境封鎖状況での記念年を代表するに、これ以上相応しいチームはないでありましょう。会場は、正直なところトッパンどころかハクジュホール級でも大丈夫なくらいの状況でありましたが(一人空けまだら状態でしたし)、やくぺん先生の席の真ん前には去る土曜日に巨匠スタイル代表でここで巨匠らが弾くレパートリーを奏でて下さった和波先生がお座りになり、斜め向こうには日本のベートーヴェン学の巨匠H先生が鎮座。その向こうには桐山さんとチームを組むエルデーディQの花崎夫妻がいらしてる。要は、居るべき人は居る、という会場。

この桐山チーム、この10月に2回で、最後の人気曲は来年、というやり方。スタッフに尋ねたところ、これはコロナ故ではなく、そもそもこういう予定だったそうな。

というわけで、やっと話が本論になるのじゃぞ(この無駄話電子壁新聞本論なんてあるのか、と突っ込まないよーに!)。このジャンル、ベートーヴェンさんがヴィーンに上京しそろそろ修行も終わり、作品18という「そのまま出版可能な立派な博士論文」みたいなもんを出す前に出した「ちょっと無茶もあるけどちゃんと出版可能な修士論文」みたいな作品12という3曲セットがあり(ちなみに「そのまま出版可能な卒論」は作品1のピアノ三重奏かな)、作品18の完成直後にイ短調作品23と《春》という実質セットの2曲があり、「ハイリゲンシュタットの遺書」後から五重奏出版騒動の頃に所謂《アレクサンダー・ソナタ》と呼ばれる《ラズモ》の先駆けみたいな位置づけの3曲があり、まだまだバリバリのピアニストとしてやれると思ってた頃にブリッジタワーとの共演のために慌てて書いた《クロイツェル》があり、あとはポカンと飛んで《ハープ》なんかの頃に弟子のルドルフ大公が初演したというまるでキャラが違う圧倒的に「室内楽」っぽい10番が来る。全曲をやるとなると、案外とやりにくいキャラの作品が並んでるわけですな。

んで、桐山チーム、どうしたかというと、3回の演奏会で基本、作曲順に近い感じでやっていく。詳細な作曲順番など、なんせ相手が相手なんでスケッチ帳に拠る詳細な研究がガッツリ成されているジャンルでしょうから、知りたい人は勝手に調べておくれなもし。ともかく、先週の第1回は作品12全部と作品23。昨晩は作品24《春》と作品30全部。このままでは最終回が《クロイツェル》と第10番だけで、一晩のコンサートには短くなり過ぎる。んで、桐山チームはボンに出てきて直ぐに出版されたWoO40の変奏曲を最初に置いてます。

なるほど。この辺り、上のURLでミドリさんの処理と比べていただくと、ミドリ&ティボーデというスターのプログラミングとの作り方の違いが興味深いことでありましょうぞ。へえ、ミドリさんはプログラミングの切り札になりそうなふたつの短調作品を、あっさりと初日で使い切ってしまうんだなぁ。

中身についてちょっとだけ触れておくと、昨晩の桐山チーム、正に「ピリオド楽器」でやる意味を大真面目に追求している再現で、最初の音が鳴った瞬間からズッカーマン&ナイグルとか、20世紀後半のスタータイプとは違う響きがしてる。当たり前だけど、その当たり前がちゃんと文化小ホールという空間で出来てる。近江楽堂とか昨今ピリオド系流行のサロンやらコンサートスペースではなく、この帝都の室内楽の殿堂できっちり出来てる。無論、「あれ、音小さいかな」とは最初は感じるけど、直ぐに慣れてしまうのはコンサートホールという空間の利点。いちばん面白かったのは6番で、ヴァイオリンと鍵盤の音色がモダン楽器みたいに極端には違わないことの意味、ヴァイオリンを旋律楽器として歌っちゃえば良いだけではないし、旋律がモチーフの素材なだけでもないけど、かといって「音楽的な対話」だけに徹するわけでもないなんとも微妙な感じが、上手い具合に伝わってきたでありまする。ハ短調作品をチクルス2日目最後に置くことで、なるほどやっぱりこの曲はモダン楽器でガンガンに弾かれるだけの質の違いがあるなぁ、とも思えるし。

で、こうなると、やっぱり妄想しちゃうのは、「第6番の終楽章を《クロイツェル》終楽章でやったらどーなるか」ですね。第6番や《クロイツェル》の曲目解説には必ず記される「ブリッジタワーとの初演に作品が間に合わなくて、そもそもは第6番の終楽章として書かれたフィナーレをまんま慌てて転用した」という事実。これ、見る度に「じゃあ今の終楽章になる前の、6番のオリジナル構想ってどんなんだったんよ」と思っちゃうのが人情というものでしょ。実際に楽譜はあるし、やろうと思えば誰にだってやれるのだけど、流石に6番の第3楽章を《クロイツェル》の第4楽章で弾いちゃった、という話は聞いたことない。全集CDがあれば、今、この瞬間にも簡単にできるんですけどねぇ。

ベートーヴェンの記念年、山のように演奏される中で、こんな叱られそうな無茶をやってくれる奴が誰かいないかしら。だってさ、3回でソナタ全部を弾くなら、10曲終えた後のアンコールみたいに「ベートーヴェンが当初構想した幻の第6番」をアンコールみたいにやれば、演奏会の時間には丁度良くなるじゃん。

なーんて、どーでも良いことを考えながら上野の山を下りる神無月半ばの新帝都ベートーヴェン生誕記念250年音楽祭の中日でありましたとさ。さて、中一日の休みを挟んで、明日はエクの弦楽四重奏初日でプチ祭りはひとまずオシマイ。その次は遙か九州は黒崎での「1日でヴァイオリン・ソナタ全曲」という空前の無茶な演奏会でありまする。

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