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三重協奏曲讃 [演奏家]

昨晩は遙々と石川県立音楽堂まで日帰り、オーケストラアンサンブル金沢に客演する葵トリオを久しぶりに拝聴してまいりましたです。
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https://www.oek.jp/event/5239-2

やくぺん先生世を忍ぶ外の人の現役時代の仕事の仕方からすれば、葵トリオさんは「もうこいつらは俺が見る必要はないな」ってポジションに来てるわけで、貧乏な中をシンカンセン乗って金沢くんだりまで出かけて(往路はANA直前マイル使用、有り難くも3000マイルで羽田から小松基地まで運んでいただけましたです)、一昨年暮れだかの名古屋のカセッラなんて「今回聴き逃すともう聴けないぞ」ってもんじゃない、定番中の定番曲をそこまでして聴くこともあるまいに、と呆れんでもないわけじゃが…

とはいえ、なんせピアノ三重奏という形態の団体が、ニッポン国文化圏をベースに「常設」としてこの先四半世紀やら半世紀やらの時間をかけて中堅巨匠へと成熟していこうとしているなんぞ、過去に類例のない壮大な(無謀な、ドンキホーテな!)実験でありまする。なんせ、弦楽四重奏の場合は、それこそ結成から空中分解、はたまた実質上の活動停止など含め、死屍累々の惨状を無数に眺めるのが商売ですけど、ピアノ三重奏は全く始めて。無論、老い先短い爺、その全過程を眺めるなんぞ絶対に出来ないとはわかりきっており、寂しさを感じるなと言われても無理というもの。それでもやっぱり遙々眺めに行ってしまうのは…あああぁこれがニンゲンの業というものであろーかぁ、ううううむ。

もといもとい、老いぼれの繰り言はともかく、若く未来のある葵トリオでありまする。皆々様ご存じのように、葵トリオは2018年秋のミュンヘンARD国際音楽コンクールで行われたピアノ三重奏部門で優勝、実質的にキャリアのスタートを切ったわけでありますな。で、それからもう5年、ヴァイオリンとチェロとピアノが独奏者となるベートーヴェンの三重協奏曲の独奏を担当するユニットとしてオーケストラ・アンサンブル金沢の定期演奏会と名古屋及び大阪ツアーに参加することになった。

って記すと、「だからなんだ」でしょうけどぉ…これ、実はもの凄くレアなことなんですわ。今、日本語文化圏で最も簡単に過去の上演演目の検索が可能な東京文化会館のアーカイヴで「ベートーヴェン 三重協奏曲」と検索してみましょうぞ。1961年からサントリーが出来てメイジャー団体の定期が去っていく21世紀初めまでの40余年だけのデータと考えても、なんとこの作品が上野の舞台で演奏されたのはたった19回。そのうち、所謂著名な「ピアノ三重奏団」がソリストを担当した演奏は、敢えて言えば「イストミン・スターン・ローズ」トリオしかないのであります!これ、なかなか衝撃的な事実でしょ。
https://i.t-bunka.jp/search/result?q=%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%80%80%E4%B8%89%E9%87%8D%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2
まあ、一番最初にやってるのが巖本真理&黒沼俊夫&坪田昭三という実質的に巖本真理Qの中心人物ふたり、というのがなんとも味わい深いですけど、70年代の日本ではピアノトリオの代表と信じられていたスーク・トリオも、日本を代表する「中村紘子・海野良夫・堤剛」トリオも、ある時期の日本で唯一の常設に近いトリオ活動をしていたジュピター・トリオも、上野でオケをバックにこの作品を演奏していないようなのですわ。へえええええ…

ま、そんな上演レアな作品を、既に札幌で札幌交響楽団の演奏会でも披露している葵トリオさん、再びの登場なわけであります。

有名なコンクールで勝ったんだから当然だろうに、ってお思いになられてもしかたない。ところがどっこい、それがそれが、またレアな機会なんじゃよ。「世界的に著名なコンクールに優勝すれば、プロアマ含め世界に何千と存在するオーケストラからソリストとしての声がかかる」なんて成功物語、存在するとすればあくまでもピアノやヴァイオリン、チェロなんぞ「ソリスト」という業種が存在している課目での話です。室内楽のコンクールの場合、今年立て続けに開催された大阪、メルボルン、ミュンヘンARD、はたまたバンフ、ボルチアーニ、ボルドー、ロンドンウィグモアホール、などのグランドスラム級大会でぶっちぎりで優勝しようが、世界中のオーケストラから独奏者としての声がかかり引き手数多、なんてことは絶対にないんですわ。

理由は簡単、曲がない、それだけです。特に弦楽四重奏の場合は、所謂オーケストラとやるメイジャーな協奏曲がひとつもない。無論、マニアさんたちからは「シェーンベルクがあるだろーに、マルチヌーやシュポアにだってあるぞぉ」という声は挙がるでしょう。昨今では、アダムスの《アブソリュート・ジェスト》という将来有望な作品も出てきたし、デュサパンにもあるし、努力は続けられている。

でもね、普通の意味での世間の音楽ファンがみんな知ってる作曲家の手になるメイジャーな「室内楽グループとオーケストラのための協奏曲」って、ひとつしかないんです。そー、楽聖ベートーヴェンが元気もりもりになり始める頃にお遺し下さった、「ヴァイオリン、チェロ、ピアノとオーケストラのための三重協奏曲ハ長調」ただ一つ!

作品としては、ピアノが暇すぎる、それに対しチェロが無性に難しい、あれやこれや文句を仰る方もいらっしゃいますが、なんのなんの、ハ短調ピアノ協奏曲やら交響曲第4番くらいには人口に膾炙した、泰西名曲の地位を200年以上保ち続けているわけでありまする。

この作品、何がありがたいかと言って、第1楽章なんぞではそれなりにヴァイオリンもヴィルトゥオーゾっぽいことを見せてくれたりしつつ、なんのかんの最終的には第3楽章で「ピアノトリオ」という形態を聴く楽しみ、敢えて言えば「ピアノ三重奏という音楽のプレゼンテーション」をしっかりしてくれているということ。この作品を聴き、大盛り上がりのアンコールにハイドンの楽しいト長調のジプシー・ロンド楽章やら、昨晩のようにベートーヴェンのピアノ三重奏曲第2番の第4楽章みたいパリバリな音楽を弾けば、会場に座ったピアノ三重奏なんて地味な演奏会を自分から切符買って聴きに行くなんてまずあり得ないであろう多くの聴衆だって、「ああ、すごくカッコいいじゃん、もっと聴いてみたいなぁ」と思っちゃうでしょう。へえ、ピアノトリオって、いいじゃないか、ってね。

葵トリオさんは、この3日のツアーで恐らくは4000人くらいの聴衆に「ピアノトリオ」を聴かせることになるのでしょう。この数字って、オーケストラなどの関係者からすればなんてことない数でしょうけど、昨今の400人のホールでやれれば立派なものという室内楽業界の現状からすれば、10回もの演奏会をやったくらいの数。それも、いつもの顔ぶればかりの狭い室内楽マーケットではなく、広い客層に向けての露出なのですから、もう夢みたいな話です。

幸いにも、葵トリオの演奏は、作品とも相まって、あまりこのジャンルに馴染みのない方々にも「おおおおお」っと思わせるものです。いやぁ、ホントに、ベートーヴェンさんありがとー、ルドルフ大公様ありがとー、シュパンツィックさんありがとー、で御座います。

とはいえ、葵トリオにして次にいつこの作品を弾けるかは判らないそうな。お暇な方は、名古屋大阪へ是非どうぞ。

[追記]

葵トリオのマネージャーさんに拠れば、なんとまぁ、葵トリオさんったら3回の公演のアンコール、全て違う作品を披露したそうな。「常設ってのはこうなんですよ、ってアピールです」とのこと。葵トリオさんとしても、この作品はピアノ三重奏団として取り組み、深めるに値するポテンシャルがあると仰ってるそうで、それこそライフワークとして取り組む気満々だそーな。さても、どこまで深められるか。各シーズンに1回くらいは演奏する、なんて繰り返せれば、全体未聞なんじゃないかな。

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音楽と演劇の融合は永遠の「実験」なのか… [演奏家]

金沢駅東口、正面の鳥居モドキを挟み石川県音楽堂とは反対側のスタバで、7時開演の葵トリオ独奏(?)OEK開演を待ってます。練習を眺められるかと思ってたんだけど、なんとこのオケ、欧米都市型オーケストラのような「GPは午前中」で、到着した頃にはもうとっくにプローベは終わってました。金沢まで来て、駅改札から数百メートルしか徘徊せずに戻る、って毎度のパターンでありますな。

さても、なんせ新帝都は縦長屋に蟄居しているときは塒にホントに布団があるだけで、勉強したりお仕事したりするには縦長屋勉強部屋とか喫茶店とか資料館図書館とかに潜り込まねばならないわけで、そんなお仕事空間が佃にあろうが銀座にあろうが、はたまた上野にあろうが小松空港ターミナルビルにあろうが、もーまんたい。どうやらコロナの間に移転したようなここ金沢駅前スタバだって、いつものようなお仕事空間でありまする。それにしても、お彼岸の金沢で33度の湿気た猛烈な南風の曇り空って、どこの島じゃ、ここは…

もといもとい。ともかく新帝都ベースになっているときはほぼ連日どっかの演奏会場に足を運ぶ日々。昨日も、ベッタリ湿気た空気を掻き分け、振り返っても海も港も欠片すら見えやしない紅葉坂を老体に鞭打ってえっちらおっちら登り、こんなもんに行ってきました。ヘンデルのオペラじゃない方です。
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これじゃなんだか判らんわなぁ。こちら。
https://www.kanagawa-ongakudo.com/public_kanagawa-arts.or.jp/event_pdf/ongakudo_shojisakaya_flyer.pdf

ま、チラシをご覧になっても「??????」ってなるのがホントのとこでしょうねぇ。ともかく、庄司紗矢香さんらがソリスト、モディリアーニQがバックバンドでショーソンのコンセールをやり、どうやらそれに3人のプロの役者さんが演じる平田オリザ氏書き下ろしの短い演劇が付く…んだか、被さるんだか、なんだかよくわからんが、ともかく「コラボ」するよーであーる。で、その前には、オマケというわけでもなかろうけど、1本のコンサートとしての常識的な長さをきちんと確保するためになのでしょう、出演者が普通のコンサートのような演目を披露してくれるらしい。

県立音楽堂のプロデューサーさんにご挨拶しロビーを眺めると、こんなタイムラインが貼ってあるぞ。
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おおおお、なんてこったぁ、ショーソンのコンセールって、40分弱くらいかかるデカい曲ではあるものの、平田オリザ演劇付きヴァージョンって1時間半以上もかかるんかいなぁ。《子供と魔法》どころか、《サロメ》程もあるじゃないかい。

県立音楽堂はかなりの埋まりようで、とはいえ改装されてからも決して広いとは言えぬ席に押し込まれた善男善女、下手側に公園のベンチと街灯が据えられ、真ん中にピアノが置かれたステージを、何が起きるのやらと眺めておりまする。

まずは真っ暗なステージにヴァイオリンとピアノさんが出てきて、下手からリーマン風の男が出てきてベンチに座り、瀧口修造の「妖精の距離」を朗読。この朗読、単語ぶつ切りだったのは、恐らくは演出家さんの意図なんでしょうね。

役者が暗転すると、音楽家に光が当たり、武満が演奏される。そのまま拍手無しでドビュッシーのソナタが奏でられ、拍手。Qモディリアーニが出てきて、ヴェルディの弦楽四重奏曲を演奏。この作品、やはり第1楽章などどうしても「アムネリスの焦燥」というアジタートっぽい音楽になるのが殆どだけど、なにやらフレーズが妙に長くソットヴォーチェに終始するような押さえに押さえた音楽。この団体の毎度ながらといえ、正確さや細部の精妙さよりも全体の雰囲気重視、って音楽で、ま、なんというか…「イタリア語4幕改定版《ドン・カルロ》と思ってたら、フランス語初演5幕版《ドン・カルロス》だった」ってかな。うーむ、酷い比喩だなぁ…

で、休憩になり、いよいよ後半は庄司&平田オリザのコラボ創作になります。このプロダクション、誰がどう考えてもプロデューサーがいないと不可能な仕事なんだけど、誰がどうやって作ったかは一切の説明もない(判る人がみれば判るでしょ、ってデータすらなく)。そこにいた庄司さんのマネージメント関係者さんに尋ねたら、ある程度の種明かしはしてくれたのだけど…ま、こんな無責任電子壁新聞に記すようなことじゃないわい。そんなデータは鑑賞に必要ないです、と主催者側が判断してのことでしょうからね。

この日で3度目のステージになるというこのコラボ、演劇としての中身を説明するべきなんだろうけど…うううむ、ま、それもいいや。人生の半ば前くらい、青年時代は終わり、いろんな意味で生きるということに責任も出てきたけど、まだまだ青春はいろいろ引きずった記憶の中にある、というくらいの元リア充カップル2組の仲良しが、結婚して子供も出来た奴らの男の方が4歳の子供と嫁を残し若死にし、その葬式だかで田舎に戻ってきた3人が、街を見下ろす公園のベンチであれやこれや話をする、ってものでありまする。ストーリーはなく、人生のある瞬間のスケッチですな。

…っても、記そうかどうか悩んで、やっぱり自分のメモとして記しておくと、この「演劇」部分の醸し出すテイストって、なんかベケットの『エンドゲーム』みたいなんですよ。閉塞感の設定や意味がまるで違うけど、一種の閉塞感からの打開とその不可能さ、みたいな。ま、あくまでも感想ですから、気にしないよーに。

もといもとい、作品の大まかな作りについて。ショーソンの第1楽章が終わったところで、演奏家は暗転したステージ上で座ったままで、その横で舞台が始まります。で、第2楽章があり、またスキットが続き。第3楽章があり、またまたスキットが続き。第4楽章が演奏され、オシマイ。

ぶっちゃけ、ショーソンとこの「人生スケッチ」スキットの間には、なーんの関係もありません。3人の登場人物というのが、ヴァイオリンが4歳の子供と未亡人になって田舎に戻ってきた女で、ピアノがその昔の友人でもうひとりの男と別れた女で、弦楽四重奏が最初に滝口朗読してたリーマン風の男、ってわけでもない。いや、そうなんだ、と思って眺めたり聴いたりすれば、なにかみえてくるのかもしれないけど、そうしろとは誰も言ってません。そうなんじゃないか、なんて思いながら舞台を眺めてた人は少なくないんじゃないかなぁ、と思うけどさ。

とはいえ、両者の間に関係がないかと言えば、こんな風に見せられれば関係なく感じろなんて言われても無理です。やっぱり第2楽章なんて、「あああ、みんなでお線香あげにいって、そこでいろいろ感じたり思ったりしているのかぁ」なんて映画のBGMみたいに聴けちゃう。第3楽章だって、別れた2人の対話に去来するいろいろと複雑な思いが描かれてる…って感じろといわれれば、そう感じるでしょうねぇ。終楽章だって、こうやって人生は続き…って風に感じられるかも。

ま、まるで異なるものを並べ、それを鑑賞する側が勝手に解釈し、感じれば良いのだ、と思えば、これはこれでありでしょう。敢えて暴言を吐けば、この「作品」、演劇パートがターゲットとしている客は県立音楽堂の中でたったひとり、庄司紗矢香さんだけでしょう。

平田オリザさんが舞台に上げた人生のある瞬間のスケッチを直ぐ横で眺める庄司さんが、そこで感じたものをショーソンの譜面の中に瞬時に反映していく。恐らく、この演劇空間の横では、『エグモント』のような英雄悲劇も、『フィデリオ』のような夫婦讃歌も、はたまた『リア王』のような壮絶な叫びも聞こえる筈がない。その意味では、誠に「コラボ」でしかない音楽が奏でられました。

だから、これはこれであり、なんでしょう。叱られそうなことを言えば、演劇部分というのは「湯豆腐の昆布」みたいなもので、まあ好きな人は食べても良いけど、ホントはそっちじゃないからね、ってね。

終演後に県立音楽堂のプロデューサーさんに直接言ったことをあらためて記しておけば、この「作品」、演劇祭みたいなところでいくつか違うヴァージョンを交代上演してみる素材としては極めて有効でしょう。ショーソンのコンセールという音楽と演奏者は固定し、演劇部分を「故郷の町を見下ろす青春が終わった3人ヴァージョン」と、それとは全く違う話のヴァージョンを用意し、交代で上演する。と、ショーソンがどんな風に違って聴こえてくるだろうか…なんてやり方ですな。

さもなければ、演劇部分はそのままにして、音楽を全く違う4楽章作品にする。個人的には、この話に最も似合っているのは、ケージの《4つの四重奏曲》だと思うなぁ。特に、最初のスキットが「数を数えること」と「永遠」の恐ろしさ、というテーマにも思えちゃうんで、ミニマル系はピッタリでしょう。《ラズモ》の第3番とか作品132とかみたいな、「最後に向けて明快に解決を求めて動いていく」ってタイプの音楽は絶対にダメでしょ。ラヴェルの弦楽四重奏、って声が挙がるだろうが…ううううん、どーかなぁ。

ま、こんなどーでもいいことを考えさせてくれただけでも、このプロダクションを作って下さった方にはありがとう御座いますと申さねばなりません。とはいえ、まだこれから聴く機会がある方に、是非とも会場へ、とは敢えて言わんなぁ。やはり「実験」ですからね、これは。積極的にそんな実験にも付き合ってやろう、という方が来て下されば充分じゃないかしら。

なお、上の写真のタイムライン、完全に間違いです。実際は演劇パートはそんなにバランス崩して大きくはなく、終演は9時20分過ぎくらいでありました。ご安心を。

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高松宮殿下記念世界文化賞にロバート・ウィルソン [演奏家]

カテゴリーが困るけど、まあ、「演奏家」しかないかな。マルサリスを話題にするならそっちなんだけどね。

9月13日早朝で情報解禁になりましたので、お伝えします。まるで「報道機関」みたいじゃが、今時は情報解禁時間設定があるメディアの筆頭に「ラジオ・テレビ・インターネット」とあるので、当無責任個人電子壁新聞もここに入るのじゃろなぁ。思えば当電子壁新聞も開設から18年、編集者も校閲も校正もコンプライアンスチェックもないへっぽこ作文なのに何を誤解するか判らん人も増えたようで、かつてのように気楽に書けなくなっているんだから…スゴい時代になったものじゃ。

さても、世の中には様々な賞がありますが、「もう偉い人達の中から各分野でいちばん偉い人を選んでガッツリ賞金をあげますよ」という、正直、なんのためにあるのか判らない類いの賞も存在しております。読売文学賞とかがその典型ですが(賞金少なすぎだけどさ…)、なんといってもフジサンケイグループさんが「文化芸術のノーベル賞を目指す」という勢いでおやりになってる高松宮殿下記念世界文化賞にトドメを刺す!歴代受賞者、こちらをご覧あれ。
https://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/laureates
「褒めるんなら偉い人でしょーに」という、いかにもフジサンケイというメディアコングロマリットっぽい賞で御座いまする。讀賣グループも、やるならこれくらいやらんとなぁ!

さても、本日早朝に解禁になった今年度の受賞者、上のURLとトップでもう判っちゃってるけど、なんといってもビックリはロバート・ウィルソン御大でしょう。そー、誰もが知ってるあの《浜辺のアインシュタイン》のウィルソンでありまする。

えええ、いまさらぁ、と思うでしょうけど、正にそれがこの賞のキャラクター、「引退宣言賞」とまで悪口を言われるものなんだから、これはこれで仕方ない。こういう方々にとってみれば、この程度の額は新人にやる賞ならば100万円くらいの感じなんじゃないかな。ちょっと纏まった金、これで今年のビジネスジェットのリース代払えるかな、ってくらいかしら。

これをきっかけに、初台はゼッフィレッリを引っ込めてウィルソン御大新演出《アイーダ》を、なんて話には…絶対にならんのでしょーなぁ。

とにもかくにも、御目出度う御座いました。今年は音楽はジョン・アダムスだろうと思ってたんだけどなぁ。

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ガーディナー翁実質引退? [演奏家]

最近はこういうゴシップネタというのはまるで関心がなくなり、ああそーですかぁ、でオシマイなんだが、去る4月にフランクフルトで聴きいろいろ思うところがあった方なので、アップしておきます。

ミュンヘンARDのライブストリーミングがどっかにないか検索していたら、こんなニュースが出てきました。
https://www.classicfm.com/music-news/john-eliot-gardiner-withdraws-2023-concerts/

要は「インタームジカの発表に拠れば、ジョン・エリオット・ガーディナー(80)が、この秋からのシーズン2024年まで契約解除」とのこと。理由は、「《トロイア人》の舞台楽屋で怒って歌手をひっぱたいた」からだそーな。うううむ。経緯は、こちらに懐かしいアダム・フィッシャー氏フォロアーさんのBlog記事がありますので、そっちをご覧あれ。
https://www.classicfm.com/music-news/john-eliot-gardiner-withdraws-2023-concerts/

うううむ、要はパワハラ事件ということなんでしょうが、なんかよーわからんですな。ま、詳細は分かるわけない、本人にも判ってないんじゃないかという類いの話ですけど。

ガーディナー翁、正直、やくぺん先生としてはさほど得意な方ではなく、「古楽の重鎮」としていろいろお書きになられているものも、どうにもなんだかなぁ、という感がある。で、去る4月にフランクフルトのアルテ・オパーで久しぶりにライヴで《ロ短調ミサ》を拝聴した折りにも、冒頭から休憩無しで一気に全曲を披露、聴衆総立ち大絶賛ながら
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個人的には「ああああ、いかにも人々が期待することを、なんか理由を付けてやっておるなぁ」という印象はどうしても否めず…スイマセン、ファンの皆さんにはそれこそひっぱたかれそうなこと申しまして。

これが引退なのかは判らないけど、正直、潮時なんじゃないかしら、と思わんでもないです。ああいう「みんなが古い時代の演奏のイメージに期待することをしっかりやってくれて、ある程度以上のレベルを安定して維持してくれる」というのは正にスターの仕事ですから、そういう人がいないと困るんですけどねぇ。しっかりお休み下さいませ。

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ロン・ユー御大が広州響退任! [演奏家]

大陸の某同業者さん情報に拠れば、昨晩、広州交響楽団が「ロン・ユー監督20周年記念」と題される定期演奏会を開催し、どうやらそのタイミングで「ロン・ユー監督退任、Huang Yi(黄毅)次期監督就任」というニュースが発表されたようです。まだ公式ページなどには挙がってないなぁ。

だからなんだ、と言われそうですが、大陸の業界関係者は大騒ぎ。これって、「カラヤンがベルリンフィル辞任」とまでは言わないけど、それに近い衝撃のようですな。「えええ、あの人が辞めるなんて自分で言うとは思えぬ!」ってのが業界の本音なのでありましょう。←苦笑、って記すべきなのやら

その辺りの感じは、東シナ海隔てた場所ではなんとも判らんですが、それよりも興味深いのは後任ですな。この人。
https://www.askonasholt.com/artists/huang-yi/
ちゃんともうアスコナス・ホルトがマネージメントやってて、ロン・ユー御大の牙城たるチャイナ・フィルのポジションも持っている、つまり中国音楽業界の帝王には覚えめでたい若手、ということ。ニッポンの聴衆とすれば、2009年に小澤塾オーケストラが中国でいろいろやったときに指揮者として加わっていたというのだから、若くしてそれなりに着目されていた人なのでありましょう。残念ながらこの公式記録には参加者名は挙がってないなぁ。
https://ozawa-musicacademy.com/history/1048

当年31歳ということで、音楽業界の習近平たるロン・ユー御大君臨するシン大唐帝国も、いよいよこの世代に入れ替わり始めたということですねぇ。もう文化大革命など歴史書に記述すらない過去の話、西洋音楽に対する姿勢も日本のように「外国のものを有り難く勉強する」とはちょっと違う、あるものは良ければなんでも取り込んで自分ものにしてしまう、って大陸文化ですから、もう何の衒いもなく堂々とマーラーやったりしてる。

ともかく施設は立派で、更に中国本土唯一のユースオケを公式に持ってる広州響、これからどうなっていくことやら。

…っても、いつまた大陸に気楽に入れるんじゃろなぁ。福岡板付から上海浦東なんて、1時間のフライトなんだけねぇ。


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福岡は古楽の街なのじゃ [演奏家]

現在、半島は仁川の東横イン深夜前、先程福岡から到着しましたです。午後8時福岡板付空港発ソウル仁川空港行き、なんとまだぜんぜん最終便どころではなく、この後にKALアシアナ含めまだ3便もあって、空港運用時間ギリギリまで粘ってます。ま、市街地西博多駅から地下鉄5分の板付は運用時間制限があるけど、マッカーサーが上陸した沖に島潰し造った仁川は完全な24時間運用だから、こんなことが可能なんだわなぁ。ちなみに明後日の戻りは仁川朝6時20分発の始発便で、ほぼ板付運用開始の瞬間に滑り込むスケジュールでんがな。

さてもさても、本日はソウル・アーツセンター大ホールで最後からひとつ前のエマーソンQ海外公演が開催されていたんだけど、明日の豊川アートセンターでのロマン派ばかり並べた妙な最終公演とは別演目なのに敢えて眺めず、こんな深夜にソウル近郊に辿り着いている理由は、ひとえに(敢えて言えば)エマーソンQよりも遙かに重要な公演が福岡タワーを眺める西南学園大学コミュニティセンターという場所であったから。

コンセール・エクラタン福岡という団体がどういうものか、なーんにも知りません。が、要は「今時の30代、音楽家として生まれた時からもう古楽やらHIPが当たり前の中で育った世代がやってる古楽系アンサンブル」ですな。で、「ガット弦で紡ぐ魅惑の室内楽第5弾、やっぱり!!モーツァルト」なる、なんだか80年代頃の舞台の上で「古楽こそが正しいあり方なのだ」と布教しないとやれなかった頃を彷彿とさせる生真面目な肩肘張りっぷりと、歴史というパラダイムが崩壊しなんでもありになった今風な軽さとが、奇妙に混在した副題の演奏会でありまする。こういうもの。
https://www.eclatants.com/

前世紀後半から今世紀の演奏史を眺めていると、福岡というか九州島北部というのはなかなかに独特の展開を示しているところで、ちょっと調べ始めた「労働組合の活動としてのオーケストラ」なんてものがあったり、大学オーケストラが主導しプロのオーケストラが誕生していったり、アマチュアとプロの垣根が極めて低かったり、巖本真理Q解散から90年代の室内楽ホール建設ブームに乗った若手中心の弦楽四重奏リバイバルまでの空白期を唯一支えたのに中央の演奏史からは全く無視されている福岡モーツァルト・アンサンブルという常設クァルテットの活動があったり、有田さんが持ち込んだだけではない意外に奥深い古楽受容があったり、かなか一筋縄ではいかない場所なのでありまする。

そういう中で、あまり古楽古楽うるさいことを言わず、「ガット弦」というところだけ強調し、今時の大陸はフランスやらベネルクスやらをウロウロしている若手中堅連中の関心をサラッとまんま示してしまうようなアンサンブルが、本日の午後と明日の夕方にやられたのであります。要は、「20世紀後半の世界の情報をコントロールするメイジャーレーベルから次々出る録音で有名になり、世界中の2000席規模のホールをツアーして歩く常設弦楽四重奏団」の最後のひとつたるエマーソンQなんぞがやってることとは真逆の世界でありまする。

結論から言えば、これがまぁ、極めて面白かった。所謂「上手なアンサンブル」とかいう関心とはちょっと、というか、まるで違うんで、そんなレベルでいろいろ議論したい方、数日前の大阪に集まっていた若者達が目指しているような「きちんとしたアンサンブル」を聴けばよろし。昨今は鶴見でもシリーズでやってるし、大曲も代々木上原も銀座四丁目裏も、そんなアンサンブルに盛んに舞台を提供してますから。

まずはヴァイオリンふたつとチェロという間の抜けた編成の未完(なのか、冒頭ソナタ楽章なんぞがなくなっちゃったのか)の弦楽三重奏などという珍品、あああ「やられないものにはわけがある」という格言そのものだなぁ、と苦笑させて下さり始まった土曜のマチネ、続く天下の名曲中の名曲、テンポ設定に正解がない名曲の筆頭たるK.421ニ短調が本日の白眉。敢えて言おう、第3楽章トリオで第1ヴァイオリンのソロを伴奏する弦楽トリオのピチカートが、和声を伴う音楽として響いたのは、やくぺん先生が過去に無数に聴いてきた演奏でも初めてのことでありました。ここが聴けただけで、エマーソンQの古典をスキップした価値があったとおおいに満足したのでありました。

なお、後半は弦楽三重奏世界に輝く名曲中の名曲、モーツァルトのディヴェルティメントK.563から4つの楽章を、アレグロ、メヌエットとトリオ、アンダンテ、アレグロフィナーレ、という古典派4楽章作品のフォーマットに並べて演奏。なるほど、こうやって弾くと、もう完全に「モーツァルト作曲弦楽三重奏曲変ホ長調」じゃないの。こういう演奏のやり方があるのか、終演後に慌てて楽屋に走って懸田氏を捕まえ、尋ねたところ…「いやぁ、全部やると肉体的にキツいですから」と肩すかしの爆笑でありましたとさ。うううむ、古楽の世界、前世紀だったらここで捕まって空港に行く時間もヤバくなるような大演説をする先生方ばかりだったのに、時代も変わったものじゃのぉ。

この団体、プレトークやアンコールでの写真撮影OK、ジャンジャン拡散してください、という方針で、それどころかアンコール演奏の動画撮影もやってください、とのこと。で、ご期待に応え、ほれ、これがアンコール。何の曲か、そんなもん、興味があれば自分で調べて下さい。なんせアンコールですから。

福岡はさりげなく古楽の街。秋はクイケン御大とかもやってくる…のかな、今年も。

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プレスラー翁逝く [演奏家]

昼前に、メナハム・プレスラー翁の訃報が飛びこみ、アッという間に世界中を駆け巡っております。

いろいろと言い出せばキリがない爺ちゃんですけど、この記事で漏らしている本音、というか、翁の心情は、ある意味でピアノ三重奏の本質でもあり、問題点でもあるところを突いてますね。
https://www.washingtonpost.com/obituaries/2023/05/06/menahem-pressler-pianist-indiana-beaux-arts-trio-dies/?fbclid=IwAR1yIrNwK05_OVfwgmcicTXF5Kt0-HZT2raNhsTChNV_HXlh79D2OFNBmAU

引用しても問題ないでしょうから、以下に貼っておきます。

“The pianist in a trio is a first among equals. He is the heartbeat of the trio; that’s how the scores are written.”(the New York Timesへのインタビュー1987)

あとは、これ。このときの結果発表前だかの翁の演説、当時の現場での録音オリジナルをハードディスクに探したんだけど、残念ながらめっかりませんでした。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2013-09-14

さあ、あと数日で大阪城内堀外に集まる若い音楽家達よ、ホントに本気で21世紀に新たなボザールを目指すなら、この翁の発言に「爺ちゃん、そうじゃないよ!」と堂々と喧嘩を売れる演奏を披露してくれたまえ。それこそが、翁がずっと望んでいたことなのかも…

合掌

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豊後竹田の室内アンサンブル上野の杜公演決定 [演奏家]

竣工早々にコロナ騒動となってしまった豊後竹田の豊肥本線沿いの立派な公立ホールを拠点に、正にコロナ禍真っ最中に立ち上がった「Taketa室内オーケストラ九州」、初の東京公演が正式に決定し、チケットが発売になりました。
taketa東京公演.jpg
https://t.pia.jp/pia/ticketInformation.do?eventCd=2314566&rlsCd=001

オーケストラ、と呼称するものの、なにせ竹田市は人口2万人程度の大分と熊本の境の古い城下町。フルサイズのオーケストラを支える規模の都市ではなく、要は室内アンサンブルです。こちらが公式ページなのかな。
https://www.taketachamberorchestrakyushu.com/

九州には、長いアマオケの伝統がある熊本や福岡、かつての大工業地帯としての組合運動もバックにした小規模アンサンブルが多数活動する北九州など、首都圏や関西圏に乱立するメイジャー級のプロオーケストラとはちょっと違うあり方のオーケストラ活動があれやこれや存在しており、小規模アンサンブルとしても藝大から松原かっちゃん先生が来ている長崎は大村のアンサンブル、澤先生が盛んにおとずれる北九州の響ホールアンサンブルなどが活動しているわけですが、それにしても流石に豊後竹田という山深い場所を拠点にするというのはちょっと無茶な感は否めない。ちなみに、一部で誤解があるようですが、グランツたけたという新公共ホール文化財団が直接運営したり、レジデンシィとして予算面をしっかり補助しているわけではなく、あくまでも豊後竹田で立ち上がった社団法人民間アンサンブルです。

この豊後竹田という場所、なんせ豊肥線の列車が駅に到着する度に《荒城の月》がフルコーラス流れるところ、要はニッポン洋楽界最初の真の才能、夭折しなければどんなことになっていたやら、滝廉太郎が暮らした街なのでありまする。町外れの駅から旧市街にちょっと歩けば、滝廉太郎が住んだ旧家も保存されておりまする。
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このアンサンブル、創設の経緯はなんのかんのなんのかんのあるものの、ともかくご当地文化遺産としての滝廉太郎を依代に活動を始め、コロナ禍の2年程を試行錯誤を繰り返してきました。やくぺん先生としては、知り合いのスーパー元気印元某在京オケ広報さんが起ち上げ広報に関わってらっしゃった縁もあるし、地勢的には新拠点となった温泉県盆地から山をふたつくらい越えわずか数十キロの南の隣接市ということもあるし、知らんぷりをしているわけにもいかんじゃろて。

とはいえ、公共交通機関では大分経由で最速3時間でソワレ公演では終演後に盆地まで戻れず、車がないと信じられないという顔をされる車社会とはいえ、狸や鹿を轢きそうになりながら真っ暗な県道を2時間は走らねばならぬ僻地。ここキューシュー島って、ぶっちゃけ文化的には山が隔てた離島の集まりみたいなもので、距離が近くても全く行き来がないんですわ…ま、それはまた別の話。

もといもとい。幸いにも週末のマチネで公演を行ってくださることが多く、盆地の田舎者やくぺん先生も、これまで本拠地竹田に聳える我が田舎の盆地町とすれば涎が出そうな素敵すぎるホールでの公演は2回、実質上初の県内遠征となった佐伯公演と、3回ほど本番を拝聴させていただいております。19世紀ロマン派オーケストラの名曲傑作を小規模編成用に編まれた楽譜で指揮者付きで演奏する「マイクロ・オーケストラ」としての在り方が基本で、フルオーケストラの移動もそれほど難しくはない国土の規模、さらには1管編成で《魔笛》やら《フィガロの結婚》、ことによると《イエヌーファ》くらいまでやっちゃわねばならない小規模市立歌劇場なども存在しないニッポン列島では、こういうタイプのマイクロ・オーケストラって案外と必要がなかったのか、過去に存在しないタイプの団体でありまする。小編成のための楽譜で《新世界》とかショパンのピアノ協奏曲なんぞを定期で披露、佐伯公演ではマエストロ茂木の棒で低弦のパワーが炸裂するベートーヴェン第7番を爆演。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2023-02-12
無論、指揮者なし編成のナッシュ・アンサンブルとかみたいな「本来業務」に近い活動もあり、第3回定期でのラインベルガーは、この団体の実力を発揮した立派なものでありました。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2022-09-24

てなわけで、この団体が満を持して(ってか、早々に、って感じでもあるんだけど)顕彰する滝廉太郎の音楽的な故郷、上野の杜へとやってまいります。流石に策士が仕掛けるだけあり、プログラムは廉太郎関連と、アンサンブルの実力を示すラインベルガーで、新帝都の口煩い連中にも文句を言わせんぞ、という堂々たるラインナップでありますな。

そろそろ梅雨のジメジメも始まっている頃の新帝都、豊後の地からのフレッシュな響きに請うご期待。

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新スター誕生…か? [演奏家]

「現代音楽」カテゴリーにすべきなのかもしれんけど、今日明日で表の媒体に商売原稿を作成し東京に送らねばならぬテーマなんで、絶対にそこでは触れない演奏家に絞った話を記すので、敢えて「演奏家」カテゴリーにいたしまする。

今回の短いツアーの中でも最も綱渡りな日程を切り抜け(っても、この先まだ何があるか判りゃせん昨今の欧州公共交通情勢でありまするが…)、なんとか無事に作文作業をすべくフランクフルト中央駅から講習会で知られるクロンベルクに向かうDB近郊線で駅構内を抜けて一駅の宿に辿り着き、先程、今回のツアーで実質上唯一の娯楽になってしまいそうな天下のガーディナー御大が手兵を指揮する《ロ短調ミサ》をアルテ・オパーでボーッと拝聴してまいりましたです。御大、真面目な学研派と勝手に思い込んでたんだけど、こんなにショーマンだったのかとちょっとビックリ。聴いてみないと判らんもんだなぁ、いやはや。

さても、日曜月曜とパリからマドリードに移動し見物させていただいた《中国のニクソン》ふたつのヴァージョン、言いたいことはいろいろあるけど、ともかく明日一日で商売原稿にせにゃらなぬので、こんなところには書けません。ちなみに、音楽雑誌ではありませんし、媒体に関してはいろんな事情でどれと言えないので、悪しからず、でありまする。

中身はともかく、逆に音楽雑誌ではない媒体には書けない興味深い話をひとつ。そもそもこのツアー、当初の目的は「金曜日ドルトムント、日曜日パリ、月曜日マドリード、と《中国のニクソン》まるで性格の異なる演出三連発」というのが趣旨だったんだけど、こんなことが起きてしまい、おいおいおいおい、って事になってた。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2023-03-09

劇場側からは何一つ連絡がなく、チケットは捨てることになってしまったばかりか、fixで予約していた宿代12000円也も捨てざる終えない大散財になった。こういうことは起こると諦めるしかないとはいえ、総計2万円に近い支出は貧乏ツアーには痛いなぁ。昨年の秋に国境が開いてから、こういうリスクがやたらと高くなっている感は否めないのだが…まあ、それはまた別の話。

で、このドルトムントのキャンセルですけど、どうやら話はそう簡単ではないようでありましてぇ、なんとなんと、月曜午後にマドリード空港から地下鉄オペラ駅に到着しテアトル・レアルの壁面に張り出された本日プレミアというポスターを眺めたら、こんな告知が。
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おおお、スペイン王立劇場の音楽監督ボルトン御大がキャンセルで、全然知らん2人の指揮者が代役。で、本日はOlivia Lee-Gundermannなる指揮者さんだそーな。

なんかどっかで目にしたような気もするが、誰じゃ、そいつ?オリビア、って、女性かいな。で、慌てて炎天下でiPhoneの上にいらっしゃるGoogleさんに尋ねてみたら、おおおおお、なんのことはない、去る14日に最終公演がキャンセルになったドルトムントのプロダクションを指揮してた人じゃないの。だから記憶に引っかかってたのかぁ。へー、オリビア・リー=ガンダーマン、韓国人のお姉さんなのね。
https://www.theaterdo.de/ueber-uns/mitarbeiter-innen/biografie/olivia-lee-gundermann/

ってさ、マドリード広報さんからの話では、最初のGPが14日で写真はそこで出来るから、という話だったわけでぇ…つまり、オリビアさんをマドリードのプロダクションに持ってくるためには、やくぺん先生が指揮者の真後ろ一列目ド真ん中に陣取って眺める予定だったドルトムントの千秋楽公演と完全にバッティングじゃないのっ!

まあ、邪推はしたくないけど、イースター明けでギリギリでもうこの日しかあり得ないマドリードのGPのためにドルトムントが指揮者さんをお譲りし、ドルトムント側は「トルコシリア地震チャリティコンサート」に差し替えた、という風に考えるなと言われても、それは無理ってもんじゃいな。うううううむ…

ドルトムントの演出、既に出ているレビューを眺めるに、数年前の菅尾演出が開いたこの作品の「読み替え」をさらに過激に進め、オリジナル台本にない登場人物を出してきてその視点から語り、第3幕では歴史上の実在人物はみんな死んでしまう(この辺りは菅尾演出に近いかな)、というなかなか過激なものだったらしく、パリやマドリードら大劇場の舞台とは相当に異なる小劇場というか、インディーズというか。これはこれで見物したかったなぁ。

もとい、ともかく、この作品をマドリード級のメイジャー劇場でいきなり指揮しろと言われても、まさかパリからデュダメル呼んでくるわけにはいかんし、スペインなら最適任は過去にこの作品の上演で音楽的に最も充実したもののひとつであろう演奏をトロントで聴かせたことがあるパブロ・エラス=カサドという切り札があるだろうけど、今やすっかり売れっ子で何日もスケジュールを確保出来る筈もない。欧州オペラ業界ネットワークの助け合いとしては、他に手はないだろうなぁ…とは思わざるを得ませぬ。はい。

かくて、ともかくきっちりプロダクションを作るところからやってきたわけだから、大劇場での代打登場、お手並み拝見いたしましょうか、と本番を迎えたわけでありました。

んで、結論から言えば、これ、大成功でした。パリのデュダメルの昨今のアダムスは盛んに振ってるけど初期作品はほとんどやってない、大劇場の枠組みに収める重厚な棒とは対照的。良くも悪くもアダムス出世作としての「ミニマル音楽」のリズム処理、なにより大劇場のグランド歴史劇とはまるで違うチープな響きを意図的に際立たせる音色の使い分け、「現代オペラ」としての性格をしっかり前に出した音楽で、適材適所の歌手と共に時代の空気をしっかり伝えてくれる力演となったわけでありまする。いやぁ、これはもう、スター誕生と言っても過言ではない瞬間に立ち会った感がありますな。

終演後、拍手に応えるオリビア様、なんか、すっとしたきれいな韓国のおねーさんなんだけどさ。ともかく、ものすごくこのスコア、勉強したんだろうなぁ。
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ドルトムントで無駄にしたと思った2万円くらい、結果的にはこういう形で思いがけず取り戻したというか、面白いことに遭遇させてくださった関係者の皆様へのカンパと思えば安いもんだ、と妙な納得の仕方をしたマドリード王宮前の夜なのであったとさ。

オリビア・リー=ガンダーマン、記憶に値する名前かも。サンフランシスコ戦勝オペラハウス監督のウンソン・キムに並ぶ半島が生んだ新たなスター指揮者の誕生…なのかしら。こちらにオリビア様がドルトムントのオケを振って1幕3場の周恩来のアリアを伴奏してる絵がありますので、ご関心の方はどうぞ。


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サルビアホールに打楽器が鳴る [演奏家]

思えば帝都首都圏に於ける弦楽四重奏の聖地が晴海から鶴見に移ってからはや10数年にもなろうという今日この頃、冬の戻りのような寒い晩、サルビアホールで加藤訓子打楽器独奏会があるというので、ノコノコ出かけた次第でありまする。
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っても、会場に着くまでお馴染みの3階100席の「音楽ホール」ではなく、その上のもっとデッカい本編「サルビアホール」の方だと信じ込んでました。当電子壁新聞を立ち読みしてるような酔狂な方は皆さんご存じのように、「横浜市内駅前一区毎に専用ホールひとつ設置プロジェクト」の中で生まれたJR鶴見とと京急鶴見両駅に挟まれた中之島みたいな空間の総合ビル内に設置された公立ホール、諸般の事情で本来ならば上層階の大きな方のホールに施される筈だった音響設計バッチリの設備が100席の小さな空間の方に施行されてしまい、結果として個人のお金持ちが数億円かけて自分ちに造っちゃった昨今流行のコンサートスペースの公立版が出来てしまった、という特殊過ぎる場所。まるでピアノやチェンバロの中に頭突っ込んで聴いてるような空間の素晴らしさに比して備品のピアノがお粗末すぎる、まともな楽屋といえる楽屋がない、など問題は多々あるものの、結果としてH先生の持ち出しに近い尽力もあり「首都圏の弦楽四重奏の聖地」となっている。

なんと加藤さんはご自宅から車で15分というこの場所をご存じなかったそうで、どういう経緯やら知らぬが、今回が初めてこの地でのソロリサイタルとのことでありました。舞台の上にはヴィブラフォンひとつと、共演のマシンのスピーカーが据えられてます。
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客層もいつもの弦楽四重奏のコア過ぎる、ニッポンでいちばんコワい室内楽聴衆とはまるで違い、若い人も多く、どっかのライブハウスみたいでありますな。

当然のことながら、「こんな無茶苦茶響く空間で打楽器リサイタルって、大丈夫かしら」と思ってしまうのは仕方ない。なんせ、前日の晩に同じく打楽器叩きまくった、単なる集会室みたいな天上が低い早稲田の東京コンサーツラボとはまるで異質な空間ですから。

で、結論から言えば、なんとまぁ、まるっきりOKでした。というか、加藤さんが「なるほどこういう空間なのね」と割り切って音楽を作り上げた、というのが正解なんでしょう。終演後のステージ上からの挨拶で「エストニアの教会でバッハを録音したときのことを思い出した」など仰ってましたけど、なーるほど、確かにそうね、って。自分の楽器の「響きを造る」という要素と、「バチによる打鍵でデジタルな実音を造る」という要素とを見事にバランスさせた、質の異なる響きのポリフォニーを造り出す。押しも押されぬ「スター演奏家」のソロリサイタルっぷりをガッツリ聴かせていただいた、という晩でありました。

加藤訓子さんといえば、このところは若い打楽器奏者を纏めるお姉さん先生、って感じの立ち位置のお仕事ばかり拝見していたわけですけど、思えば20世紀最後の10年くらいの半ば、サイトウキネンに出ていて最初のマネージャー氏に連れられて池袋で打ち合わせした頃、「地味な女の子が地面に座ってその辺を叩き出し、もの凄く繊細な響きの上にボソボソなんか呟いてる」って感じの「もの凄く小さな音に耳を澄ましてる人」ってイメージが、ホントにホントに久しぶりに見たなぁ、って。地面に落ちる桜の花びらの音すらも聴こうとする、静謐な打楽器奏者さん。

サルビアホールがこういうことも出来る空間だと知って、スゴく嬉しくなった春まだきの宵でありましたとさ。横浜市民は、ホントにラッキーだなぁ、こんな場所があるなんて。

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