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世代交代の演奏会 [現代音楽]

この数年、「実行委員会」を主催者にする形でこのくらいの時期に開催されてきた「高橋悠治作品演奏会」の第3回が、先程、東京文化会館小ホールを会場に無事に行われました。
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コロナ禍だからって、別にどーってことなくいつものように淡々と、って感じなのは、いかにもこの作曲家さんらしいなぁ。

演目はこんなん。
https://www.t-bunka.jp/stage/8022/

これだけじゃ、全然わからないですよねぇ。ま、この演奏会はある意味、非常にハッキリしたコンセプトを持っているわけで、ぶっちゃけ、「前衛の時代の高橋悠治作品を中心に並べ、作曲家ご本人がご存命のうちに、40代以下のポストモダン以降しか知らない世代の演奏家さんたちに本人を前にゆーじさん作品を演奏する経験を積んでもらおう」というもの。

そもそも高橋悠治作品って、古典派やロマン派の意味での「曲を聴く」というよりも、「高橋ゆーじというオッサンが音をいじくり回すプロセスを追体験する」みたいなところがある。良きにつけ悪しきにつけ、楽譜から出てくる音がそれで良いのか、本人がそこに座ってあの風貌でぼーっとしている姿を視野にいれていないと、なんとも不安なところがある。作品、というより、音を作る行為、って感じ。

ですから、企画、という役職だかが記されてるので実質上のディレクターであろう杉山氏などが中心となり、ゆーじさんと一緒に仕事をしてきた60代以上の長老が若かりしバリバリだった頃を懐かしむのではなく、どかっと下の世代に高橋悠治を演奏するという経験を積ませるイベント。年寄り世代は指揮者さんと、あとは電子再構築をやった有馬さんくらいで、実際に音を出す作業をするのに初演者などはひとりもいない。そのお弟子、って世代ばかり。

なんせ、本日演奏された曲だって、アコーディオンが出てくる曲はうちのお嫁ちゃまが某お茶の水でみきみえさんの担当だったときに今井さんとのデュオとして書かれたもので、うちのファックスでやりとりがされてるのを横目で眺めていた記憶もあるなぁ。そういう世代は、見事なまでに全く参加してない。気持ちが良いくらい。最長老(かな?)の杉山さんだって、指揮者として日本の舞台に姿を見せるようになったのって、今世紀になってからだしさ。

結果、出てきた音楽を新鮮と思うか、あああ古いなぁと思うかは、ま、弾いた方々、聴いた方々次第、ってこと。聴衆は、基本的にはゆーじさんと一緒に歳を取ってきた人達が中心とはいえ、演奏者の世代もそれなりに客席を占めており、「前衛の懐メロ大会」という感じではありませんでした。
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演奏として個人的にいちばん興味深かったのは、一昨年に高崎のホールが新しくなって、アルディッティQが登場し、その舞台で世界初演する筈だった弦楽四重奏曲でありまする。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2019-11-19
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2019-11-24
どういう事情でそういうことになったか知らないけど、結果として、アミティQという「若い世代のニューアーツQ」って感じの立ち位置の連中が世界初演することになった。ま、作品は、いかにも高橋悠治らしい、ぐるぐるっとした線をあちこちにポワポワ放り投げたようなもんで、弓を緩めて弾けとか、弦をぐるぐるこするように弾けとか、いかにもな指示がある断片がゴロゴロ並んでいるもの。アーヴィンたちがやったら、恐らくは「この奏法はこんな音が出るんだよ」みたいなアピールを明快にした、もっとメリハリのある「音楽」になっちゃって、このぼんやりフワフワ感が高橋ゆうじ、ってのとはちょっと違った、かもね。それにしても、アミティQはまるでカーターの2番みたいに4人が遠く離れて座り、まるでマイハートQみたいに全員が客席真っ正面向いて座ってたのは、楽譜の指示なのかしら?アルディッティQもああいう風に座る筈だったのかしら。

高橋悠治が「音楽史」の中に納められるのか、それとも、そんなもんあたしゃ関心ありません、ってものなのか、考えさせていただけただけでも、大いに有り難い演奏会でありましたとさ。正直、これだけ規模の大きな電子音とライヴとの絡みなどがあると、オペラシティの地下ではなくて上野小ホールの空間が必要だったと感じられたです。会場が上野になったのは、主催側の意図だったのかしら。

正直、これらの音楽、ディスクで音だけでは聴かないだろうなぁ。

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火曜の早朝に《午後の曳航》ライヴ配信 [現代音楽]

私事でいろいろバタバタしており、無責任電子壁新聞どころではない日々が続いております。ホントに2020年は人生空前の特別な年になりつつある。ま、それはそれとして…

自分のためのメモ。4月から6月のお籠もりの間は、切り倒しが決まった葛飾巨大柿の木の下で連日パソコン画面に出現する世界各地の歌劇場のライヴ舞台映像を眺め、すっかり視力を落としてしまったわけだが、秋以降、もうまるっきり眺めなくなってしまった。ヴィーンやらミラノやらメトやらが、ストリーミングなりをやってるのか、知ろうともしなくなってはや数ヶ月。アドヴェントに入り、またコロナが再流行し、ニッポンや中国本土では普通にコンサートが始まっているのに、またお籠もりが始まった欧米主要都市の劇場が再び日替わり無料配信を行っている…らしい。

すっかり関心もなくなっていたので、特に眺めることもなかったところへ、ある方からとんでもない情報をいただきました。こちら。
https://www.wiener-staatsoper.at/en/staatsoper/media/detail/news/current-streaming-schedule/

おおお、ニッポン列島から8時間遅れた時間が流れる音楽の都、現地時間の明日月曜日の午後7時から、ヘンツェの《午後の曳航》の新演出がライヴで放送されまする。予定されたプレミア上演を、無観客でライヴ放送だけでやる、ということのようですね。
https://viennaoperatickets.com/opera-premiere/das-verratene-meer-vienna-state-opera/?p=31&l=2&id=2190

Monday, 14th of December 2020, 7 p.m. (LIVE, PREMIERE)
Hans Werner Henze
DAS VERRATENE MEER
Musical conduction: Simone Young
Production: Jossi Wieler, Sergio Morabito
Stage & Costumes: Anna Viebrock
With: Vera-Lotte Boecker, Bo Skovhus, Josh Lovell, Erik Van Heyningen, Kangmin Justin Kim, Stefan Astakhov, Martin Häßler et al.

どうやったら視られるか、ライヴで視なくても何日かは大丈夫なのか、また公式サイトに再登録せにゃならぬのか、いろいろ判らんことばかりだが、ともかく、火曜日の午前3時には数ヶ月ぶりにパソコンをスピーカー前にセッティングして、開演を待たねばならぬではないかぁ。

こんな生活、いつまで続くのか。うううむ…

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《アルマゲドンの夢》という夢 [現代音楽]

コロナの2020年唯一の2週間のツアーの中日、静岡から9時過ぎに新帝都中央駅に戻り、明日の朝一で富山に向かう途中、今日だけ見物可能な新帝都のナショナルシアターでの新作初演を拝見して参りましたです。欧州ツアーで室内楽漬けになってる最中にまるで異質のこういうもんを眺めて頭をリセットするのとまるっきり同じパターンを、この本州島でやっておるわい。
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終演直後、歌劇宮中庭人工池を眺めつつ、思わずfacebookのタイムラインに速攻投稿してしまった素直な感想は、「うーむ、音階上昇と繰り返しとダメ押しの子供の歌…我々は未だ《ヴォッエック》を超えられないのか…」でありましたとさ。

以下、それ以降、いろんな方の書き込みに反応してしまったコメントを列挙しておきます。ツアーの道中、いい加減にピアノ三重奏が嫌になったらどっかでまとめまて最終稿にするかもしれませんし、このまま放置かもしれません。ともかく、「感想になってない感想」以前のメモ書き、ということで。


最後の神さま持ち出し「ハレルヤ」で終わる皮肉をサラッとやって誰も怒らないのは、かの《仏教パルシファル》以来の我が異教徒国ナショナルシアターの面目躍如じゃのー、いやはや。(自分の当稿への追記)


いろんな意味で、我らニッポンの国税で英国圏や独仏の地方都市劇場で上演可能なものを作りやがったな、と思いました(笑)。NYTとクイーンズ地下鉄を見た瞬間、「あ、Music from Japan の枠でブルックリンのアーツセンターとの共同制作だっけか」と思ってしまいました。そういうテイストだったし、最終的にはキリスト教文化圏に持ち出さないと意味がないし。確かに初台なら、この中味でも制作プロセスの途中で余計な文句を言う奴はいないでしょうからねぇ。藤倉氏は賢い!

なんか、アムステルダム辺りがいかにもやりそう(大野氏に、モネやリヨンに持っていく力が今、あるんですかね)。鎖国状態の今年はこういうもんは観られないと思ってましたから、頭の使ってなかった部分を久しぶりに使った感がありました。ただ、《ソラリス》みたいな声の伝え方の実験みたいな要素がなかったのは、大劇場からの委嘱新作だからとはいえ、ちょい残念。レーゲンスブルクの《ソラリス》を池袋というオフブロードウェイでみんな眺めて、それから初台に来る、という理想的な流れだったのにねぇ。(以上、オペラ研究者M先生のタイムラインへの当稿)

オペラは何度も来させてなんぼですからねー(笑)。昨年にサントリーでやっと日本初演された《Written on skin》にも似た、作る側の仕掛けの悪辣さを感じました。ヨーロッパの新作で生き残る作品には感じるものですが、初台では初めて感じた。

これ、いけると思います。ただ、欧州の状況が2019年までとは違いますからねぇ。まずはブルックリン・アカデミー・オブ・アーツで、Music from Japanのスペシャル企画でやるのが最初でしょう。数年前にも藤倉氏のチェロ協奏曲とかやり、坂本竜一氏も来てました。あとは、ホントはモネやリヨンなんでしょうがねぇ。《ソラリス》やってるレーゲンスブルクなんかはありだろうが、今、金があるか。今回のプロダクションで現場通訳をなさっていた方に拠れば、藤倉氏は意外にイギリスの劇場とのコネがないそうな。(同業者で新国立劇場発行「戦後のオペラ」コーディネーターさんのタイムラインへの当稿)


夢、は便利です(笑)。(辛口オペラマニアさんの書き込みへの反応)

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コロナの時間が生んだ名盤 [現代音楽]

イースター前くらいからのコロナ・パンデミックで世界一斉お籠もりになった2020年春から秋まで、音楽業界関連で最も影響がなかった、というか、この特殊な時間を上手い具合に意味のあるものに出来たのは、所謂「現代音楽」の世界だったように感じられます。どうしてなのか、考察を本気で始めればそれはそれで面白いことになるのでしょうが、ま、興味のある奴が殆どいない話ですから、商売作文にはならんなぁ。いやはや…

コロナの時代、お籠もりであらためてあれやこれやと自分を見つめたり、普段はない時間を使って深掘りしたりしたひとりの音楽家と作曲家連中が、そんな時間を素敵なディスクにしてくれました。こちら。
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https://www.hmv.co.jp/en/artist_Percussion-Classical_000000000061855/item_%E3%80%8E%E3%81%84%E3%81%A4%E3%81%8B%E8%81%9E%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%86%E3%81%9F-%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%81%A7%E5%A5%8F%E3%81%A7%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8F%99%E6%83%85%E3%80%8F-%E6%9C%83%E7%94%B0%E7%91%9E%E6%A8%B9%EF%BC%882CD%EF%BC%89_11318654

打楽器奏者の會田瑞樹氏が、コロナお籠もり中の友人知人の作曲家に頼んで、あれやこれや「日本のメロディ」をヴィブラフォン独奏用の小品にして貰い、緊急事態があけた夏にかなっくホールで一気に録音した2枚組ディスクです。この辺りに記事があるかな。
http://www.fukushima-yorihide.com/08_blog/10310
いろいろな意味でとっても趣味的にセンス良く作られたこのディスク、どういうものなのか、ご本人が語っているので、こちらをお読みあれ。
https://spice.eplus.jp/articles/277387

去る月曜日、小さな家族の出棺を終えたあと、近江楽堂で會田氏がこのディスクの中身を一気に披露する演奏会を聴かせていただきました。ヴィブラフォンとたくさんのマレットが置かれた狭い空間には、聴衆ばかりかたくさんの作曲家が座り、まるで新作共同発表会みたい。もちろんこのメンツです、みんなが良く知る旋律をヴィブラフォンで叩いてみました、という気楽なもので終わるはずもなく、お題の旋律は辛うじて判るか判らないかの凝ったものから、比較的ストレートにこの楽器の響きを鳴らすものまで、ホントに様々。個人的にはやはり楽器の性格、なによりも様々な倍音が空間を包んでいくような響きの美しさを完璧に把握した演奏者ご本人の編曲作品には、なるほどなぁ、と思わされましたです。

あとはもう、なんのかんの言わずにディスクを聴いてくれ、といえばオシマイ。余計なお節介を記しておけば、やっぱりどんなに頑張ってもデジタル再生ではこの楽器の層になった倍音の響きの再生は無理です。ってか、この楽器、ライヴと再生音、スピーカー音はそもそも別物と考えるべきなんでしょうねぇ。その意味では、ディスクとして聞こえてくる歌達は、ライヴよりもっと整理された輪郭のハッキリした美しさを醸し出してくれています。良し悪しの問題ではなく、事実としてそうなんだ、ということ。

2020年というおかしな年が生んだ、唯一無二の歴史的名盤誕生。アーティストたちは、こんな滅茶苦茶なときに、こういうものを作りました。

だからよかったね、とは言わないけどさ。

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《光の火曜日》無事上演されました [現代音楽]

あとは死ぬだけの老いぼれ爺、人生最後の楽しみのひとつが「シュトックハウゼン《光》チクルス 全作舞台上演をライヴで眺める」という野望でありました。わずか数年前には可能かどうか、なんとも判らなかったのだけど、それが案外あっさりと実現しそうに思えてきたのは、一昨年秋から天才マキシム・パスカルくんが「自分が結成した電子音響やダンサーまで含んだアンサンブルで毎年1曲づつ作曲順に上演、最後は一週間で全曲上演する」という誇大妄想かって呆れてしまうようなプロジェクトを始めたことにありました。
http://www.lebalcon.com/?page_id=2029&lang=en
一昨年の《木曜日》はオペラ・コミックで、昨年はフィルハーモニー・ド・パリのオンドレ社長も見守る中、シテ・ド・ラ・ムジークや40度越えの酷暑の中に運河向こうの教会を舞台に《火曜日》を上演。これはいける、と周囲の大人達も思ったみたい。こちらが一昨年の《木曜日》のとき。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2018-11-18
んで、こちらが昨年の灼熱地獄の中での《土曜日》。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2019-06-30

今年はフィルハーモニー・ド・パリの大ホールというメイジャーな場所に舞台を移し、いよいよ地味に難物で、恐らくは完全な舞台上演はスカラ座での世界初演以来試みられてはいないと思われる《月曜日》を上演することになっていた。

ご存じの方はご存じのように、この《月曜日》って、電子音の「こんにちわ」や「サヨナラ」は恐らく全曲でもいちばん綺麗なんだけど、なんせ子供の合奏団やら合唱、それどころか子供のソリストが役者もやらねばならぬ、普通のオペラ・カンパニーの枠組みではやれない作品。一年かけて子どもらのアンサンブルを創り上げて…という予定が、このコロナで春から夏にかけ人が集まるなど不可能になってしまい…

比較的早い段階で《月曜日》を諦め、一年入れ替えて《火曜日》を先にやってしまう、という決断が下された。まあ《火曜日》なら短いし、第2部の戦闘員の規模を小さくすれば充分にパスカルくん自前のアーティストだけでもやれなくもない。若社長、なかなか現実的だな、と遙か遠い巴里の動きを漏れ聞いていたわけでありまする。

なんせパスカルくんとその団体、コロナがなければトーキョー五輪開会式の日にザルツブルク音楽祭で、ニッポンの某団体が委嘱したのにニッポンでは未だ上演出来てない《イノリ》をやって世界大運動会を祝う(わけでもないんでしょうけど)予定だったのが、当然ながら中止。でも、夏の終わりすぎに連絡したとき、「《火曜日》に向けて大忙しで、ゴメンゴメン」って感じだったので、ああああこれはやる気満点だなぁ、と安心したというか、驚いたというか。

その時点でやくぺん先生ったら、なんとか帰国後二週間隔離を前提に10月24日の巴里に特攻するか、とマジで思っていたのでありまするがぁ、9月に入りあれよあれよと巴里のコロナ事情が悪化し、なんせ老人家庭でなによりも家庭内感染を恐れるやくぺん先生んちとしては、家族の縁を切らにゃ渡欧なんて無理な情勢になってきて、9月半ばには諦めました。ったら、政権代えたらまるでコロナも終わったみたいなニッポンはともかく、欧州は事態がどんどん酷くなり、先週にはとうとう巴里では9時以降外出禁止例が布告され…

そんな中、去る土曜日に開演時間を夕方に繰り上げ、無事に《火曜日》が上演されたようであります。どんなもんだったか、パスカルくん率いる音楽舞踏集団Le BalconのFacebookタイムラインに、写真をなんぞがいっぱい上がってますので、ご覧あれ。
https://www.facebook.com/LeBalcon
「オペラ」という切り口でもそれなりに関心があったようで、半公式やら非公式の個人やら、いろんな人がいろんな感想やらレポートをWeb上に揚げてます。例えば、これとか。写真もいっぱい、キャストもちゃんと書いてあるし。フランス語は、英語ドイツ語なら無料翻訳ソフトで問題ないですから、頑張ってね。
http://www.musiquecontemporaine.fr/blog/?p=32005
こういう「勝手に口コミ評価拡散」ってのも、今時の若い世代の仕事だなぁ。爺には、権利だのなんだの、心配になってしまうけどさ。

舞台写真を眺める限り、「スカラ座のロンコーニ演出世界初演の21世紀テクノロジーを用いたリブート版」というのが基本だった最初の2つとはちょっと異なり、ライプツィヒ初演版の再現が基本というわけではないようですね。無論、コロナ禍で、昨年のアムステルダムでの抜粋上演で第2部をまるまる取り上げたアウディ演出みたいな、膨大なラッパ奏者を動員し客席での市街戦を繰り広げる、なんて派手なことはやれていないみたい。《光》チクルスの中で若い世代に向けて最もアピールしそうで、長さもいちばん短く(多分、《金曜日》は良く知らないので、もしかしたらあっちの方が短いかも)音楽としても入門に最適なコンパクトで判りやすい作品をやったのは、良い判断だったと言えましょう。

パスカルくんの《光》チクルス、来年は11月に《月曜日》のリベンジが発表されているそうな。それまでに世界がまともになっているのやら。なお、パスカルくんご本人は12月に芸劇で読響、名古屋で名フィルを振るために来日予定ですが
https://www.nagoya-phil.or.jp/2020/0128132611.html
…果たしてどうなるんでしょうねぇ。

[追記]

10月29日、パリのロックダウンが宣言されました。現地の方に拠れば、春からのロックダウンに比べると緩いそうですが、事態は悪化していることは確かなようです。ううむ、こうなると《火曜日》がやれたのはエヴァの奇跡に思えてくるわい。

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室町時代と20世紀半ばの間には [現代音楽]

流石にこのカテゴリーか、と思わんでもないが、他に適当なもんがないので…

昨日は賑々しくも首都圏ばかりか日本各地の業界関係者も多数出席するなか、我が亡き母の故郷横須賀は軍港を眺める大劇場で、《隅田川》&《カーリューリヴァー》というダブルビルがフルサイズステージ上演されましたです。コロナ下、関東圏では最初に発売になったオペラ公演のひとつ。
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右側の入場者に対する指示が面白くて撮影したショットでありまするが、この指示、あまり徹底していなかったようです。こんなの知らなかった、という声も聞きました。コロナ下での客席管理は、良くも悪くも館だか主催者だかのキャラが出るもので、コイズミのお膝元横須賀市は、いろいろ指示は出すけど現場は案外緩い、って感じ。ちなみに後半は英語上演作品ながら、ベースへの告知は特にされていないようで、未だ一席空けの客席には、第七艦隊旗艦ブルーリッジ付きの知的な芸術好き情報系佐官、なーんて方のお姿はありませんでした。隣のCoCo壱じゃ、ヤンキー兵隊ねーちゃんがデッカい全部のっけみたいなカレー食ってたけどさ。

もといもとい。ともかく首都圏の書き手やら業界関係者がみんないるんじゃないか、と思えるような状況で、舞台の出来そのものに関してはあらゆる皆様がSNSやらで好き勝手なことを仰ってますから、今更それに何か加えるようなことはありませんです。なんせ人生最大の貧乏状態で、こんな天井桟敷のいちばん後ろの席を購入するのがやっと
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ステージ正面に枠があり、舞台奥のスクリーンは上半分が見切れてしまう状況ですので、何が起きていたか完全には判らないこともありましたし。

それはそれとして、このニッポン国文化圏じゃないと絶対にやれないダブルビル、過去には能楽堂なんかでは案外やられている。今回も、当然「秋の芸術祭参加公演」だと思ってたら、どうやらそうじゃなくbeyond2020の企画だったんですな。今年の芸術祭、審査員をなさった経験のある同業者さんに拠れば古典芸能系はそれなりにやられているそうなのだが、所謂「クラシック」系はなんだか全然やってないみたいなんで、一体どーなってるのかしら。そもそもオリパラ後のアパシー時期だったのかしら。

もといもといもとい。で、作品から聴衆観衆が個々人で何を感じるかはそれぞれでありましょうけど、能《隅田川》とブリテンの教会向け室内歌劇《カーリューリヴァー》を並べて上演する以上、その関心が「20世紀英国の天才オペラ作曲家さんは、室町時代の早世の能の天才の何に刺激され、何を弄って第二次大戦後の世界に提示したのか」になってしまうのは仕方ない。それが目的のアカデミックな上演でないことは百も承知であれ、そこに関心を持たないのは無理ってもの。

そんなわけで、今やすっかり貧乏な初老のオッサンになり物事に新鮮な感動を覚える柔軟な心も魂も失ってしまったやくぺん先生ったら、隅田川の東の芦原に(なのかな?)亡き子の魂を察しよよと泣き崩れる母親の哀しみに涙するよりも、へええ、ここまで同じ物語構造でこんなに違うことを言えるんだなぁ、とブリテンの手腕にひたすら関心しつつ、やはり俺は「オペラ」っぽい過剰な感情表現は苦手で能みたいな様式化されたものの方が有り難いなぁ、なって思ったりしてさ。

このようなきちんとした舞台(演出家さんなんぞの妙な衒いやハッタリがない舞台、ということ)で両作品を並べられると、やはり際立つのはブリテンが20世紀の人間なのである、という当たり前に過ぎる事実。祈りの声の中から死んだ子供の声が聞こえるという現象(無論、フィクションですけど)を前にしたとき、ブリテンは「奇跡」という教会的な思考の枠組みの中に落とし込むことで受け入れた。ってか、そうでしか受け入れられなかった。だからこそこの作品は教会三部作である必要がある。一方の観世元雅は、子供を舞台に出すことを巡ってパパ世阿弥と喧嘩になったという有名な逸話はあるものの、亡き子がどんな形であれそこに出現しちゃうことそのものは、ああそうですか、でオシマイ。奇跡、などという理由は、特に必要とされていない。

ああああ、「合理性を保証するための非合理装置としての宗教」という世界に生きてるんだわなぁ、わしらわ、とあらためて思った次第。20世紀の半ば、信じる、ということはいかに難しいか。

だから、この作文は「現代音楽」カテゴリーでいいんだよ、というオチにもならんオチで、あっさりオシマイ。スタッフの皆様、お疲れ様でした。

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3年目の日本フィル&落合陽一コラボ [現代音楽]

敢えて「現代音楽」ジャンルにします。

2018年の秋から、年に1度のペースで展開している「落合陽一×日本フィル」の演奏会、コンサートホールでモダンなシンフォニー・オーケストラが今時の若者に影響力あるインフルエンサーさんのメディア・アーティストとコラボする、という今風でおっされな企画。そして、敢えてこのポスター。広報さん曰く、「ポスターは作ってないんです」。うううん、おっされだぁ!
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実態はどうあれ、分裂後に各地の組合が支える今やご隠居世代メンタリティのオーケストラであると思われがちがこの団体が思いっきり異なる世代への聴衆開拓を狙って始めただけあって、会場はコバケンのブラームスやらに大いに盛り上がる聴衆とはまるっきり異なる空気。チケットの値段やら、クラウドファンディングのやり方やら、限りなくポップスなんぞに近いものになっている感もあり。

正直、やくぺん先生の同業者さんらとすれば、この演奏会をどう考えて良いかよーわからん、というのが本音で、まああまり関わらないようにしておこう、って空気が流れているのは事実。やくぺん先生も昨年は2回も行われた演奏会に出かけ、ううううんこれは語りにくいなぁ、と思った次第。《木挽き歌》をフィーチャーしたり、近衛版の《越天楽》やったり、さりげなくいろいろ面白いこともしようとしていたんだけど、あんまりそういう部分が話題になることもなく、別業界では「あの落合さんがオーケストラとコラボ」という視点で褒められたりしているわけでありまする。

かくて今年で3年目となるこの企画、他のどのイベントとも同じくコロナの世界での開催ということになってしまい、この3月以降の世界の流れを見ているに、かえって相応しいやり方になっている可能性もあるだろー。さても、どうなることやら。

なお、終演後の日本フィル広報さんに、今年の内容なら必要があれば商売作文もやれます、と伝えてあるので、ことによるとなんか動きがあるかもしれないから、以下は表の作文が入った場合にもバッティングしないような「昨年の演奏会に座っていた方に、今年はどんなもんだったかちょっとだけお伝えします」というもんです。ホントに関心がある方は、10月24日に以下のサイトでオンライン再配信があります。有料でアーカイヴはない、という「ライヴ」に近いものです。この売り方そのものが、この演奏会がどういうものかを示してるんでしょう。演説も付いてるから、ま、そっちをお読みあれ。
https://eplus.jp/sf/detail/2996680001

で、どんなもんだったか、一言で言えば、「落合さんチーム、3年目ともなったからか、自分らが何をやるのがいちばん良いかはっきり割り切ったな」ってのが感想。ぶっちゃけ、昨晩の池袋はウェストゲートパーク横のコンサートホールで起きていたことは、PC画面上を通して世界のどこからでも眺められるメディア作品のライヴ素材です。正直、会場にいても、ホントに何が起きているのか、メディアアーティストさんと楽屋裏に膨大な数が動員されているというチームが何をしているのか、殆ど判りません。知りたかったら、上のURLで10日後の配信を購入し、眺めるしかない。ってか、そっちが本番。

じゃあ、げーげきのホールに居た奴らはアホか、ということになるのだが、ヘタすりゃそうなりかねない演奏会をかけがえのない一期一会の体験にしてくれたのは、夏の企画発表では「その他」になっていた藤倉大の《Longing from afar》でした。この1曲、10分もかからないこの曲を聴く、というか、経験するだけで、この演奏会はホールで聴く意味があった。この曲だけは、どんなに頑張ろうとPC画面で聴くものはホールで聴くものにはなり得ないし、恐らくは、ホールでの体験には迫れないでしょう。

この藤倉作品、コロナの世界的なロックダウン時に急速に発達した画面分割上でのリモートのテレワーク奏者合奏のための新作であります。それを、作曲者が協力しver.5という楽譜を提供(もう存在していたのかもしれないけど、そこは当日プログラム記述からは判らない、事務局に尋ねれば良いんだろうが、スイマセン)、世界各地からの16人の奏者がリモートで参加、ホールでもステージばかりか「距離を取って」リモートに拡散されたオーケストラとライヴで共演する、というものでありました。これが当日プログラムに挟み込まれたリモート出演者名簿。おおお、知り合いの名前もあるじゃあないのぉ。
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これはもしや、と直ぐに開演前のロビーからハノイに連絡すると、あっという間に返事がありました。今、PCの横に控えてます、って。

リモートの画面の前でオーケストラが鳴り、ホールに配された楽器があちこちから聞こえ、電子音と生音がミックスされ、池袋西口の夜に響き渡る。最後は旋法を拾うみたいな歌が流れ、消えていく。終わったあとには、16分割された画面の中から、世界中の音楽家たちが手を振っている。

少なくとも7ヶ月前には、こんな「音楽作品」が生まれ、ここで披露されるとは誰も思っていなかった。コロナの状況に最も影響を受けなかったのは「現代音楽」ではないんかい、やっぱり。

もの凄い手間と時間とお金をかけてたった7分かい、と言われればそれまでだけど、《誰も寝てはならぬ》や《私のお父さん》よりは倍くらい長いぞ、と敢えて強弁し、この話はオシマイ。関係者の皆様、特に裏方の皆様、お疲れ様でした。

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テレワークをライヴで眺める [現代音楽]

「弦楽四重奏」なのか「現代音楽」なのか、はたまた「音楽業界」、それとも「パンデミックな日々」なのか、ジャンルがよーわからぬネタでありまするな。

昨日夕方、横浜は紅葉坂を上った神奈川県立音楽堂で、こんなイベントがありました。
https://www.kanagawa-ongakudo.com/detail?id=36889

正直なところ、のこのこ出かけていく前になっても、どのようなイベントなのかいまひとつイメージが掴めませんでした。んで、「太平洋の向こうにいるクロノスQと、県立音楽堂のステージ上に並んだ合唱団が、ライヴでテレワーク共演をする」のかと勝手に思ったのだが、どうもそうではないようだぞ。

ま、なんだかよくわからないけど、あの悪夢の226アベ要請当日、力を入れていたオペラの舞台稽古が始まろうという瞬間に「中止」要請が来て、泣く泣くそれまでに積み上げてきた努力の成果を示すことなく全部チャラにせざるを得ず、それ以降、も周囲がなんとなくもうやるしかないだろーって空気になって恐る恐る公演を再開しようとしている中にあっても、県知事が「今月いっぱいはやらない」と言い出して、すっかりやる気になってた民間主催者がけんか腰になっちゃったりして…

そんなこんな、昼が夜より長い季節をひたすら耐えていたスタッフが、数か月ぶりに満を持して提供する自分たちのプレゼンテーション(なんだと思う、違ったらスイマセン)、これは眺めにいかねばなりますないぞ。

かくて、年寄りにはしんどい紅葉坂えっちらおっちら作業を解消してくれる桜木町からの無料シャトルバス(乗車にチケット提示など不要ですので、能楽堂や図書館に後用事の方も乗れてしまいますぅ)で一気に急坂を駆け上り
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新帝都に残るインターナショナル様式初期の名建築物に到着でありまする。

さても、以下、きちんとイベントのレポートをすべきなのかもしれませんが、それはちゃんとすべき方がなさるでしょうから、無責任に感じたことをダラダラ綴りまする。まずは三密回避でゆったりと座った極めて限られた聴衆の前に、司会者さんと評論家さんというかライターさんが登場。
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本来ならば本日ここで演奏を行っていた筈のクロノスQとハリントン御大を讃えるお話。それから、本日演奏される筈だった弦楽四重奏と電子音と合唱のための大作《サン・リングス》を作曲したテリー・ライリーについてのお話。中身は、まあ、当電子壁新聞を立ち読みなさってるような方には特に説明は不要な、纏め記事のようなものでありました。コロナで予定されていた17年ぶりだかの来日が不可能になり(えええええ、あたくしめが水道橋のホテルメッツでハリントン御大にインタビューしたときから、ずーっと来日がなかったってことかいな!)、自粛明けからいろいろ動き、日本側の合唱団のパートを県立音楽堂の舞台やロビーで三密回避で映像収録、それをカリフォルニアに送り、クロノスQはそれぞれのパートをスタジオで収録。それらの素材に、NASA提供の電子音なんぞを重ねて、合唱が加わる楽章をリモート素材で作られた映像作品にした、ということでありました。

つまり、このホールで行われるのは、完成映像披露会ということ。客席には合唱指揮者さんや合唱団の皆さんもいらしているのだけど、実際にライヴで音を出すことはありません。

なるほど、そういう趣旨なのね、とやっと理解し、じゃあまあ、ノンビリ見物しましょうか。

おっとその前に、レクチャーでいちばん面白かったのは、ライターの松山晋也さんが話の中で使っていらした「インディ・クラシック」という言葉ですな。わしらの業界では、21世紀に入る前くらいからの北米室内楽業界の大きな流れを「室内楽のインディーズ化」と呼んでいて、この言葉を普通に使っていた。もしもこのような使い方をしている隣接業界があるとしたら、これはこれできちんと整理しないと困ったことになるなぁ、と思った次第。実は、この言葉の使い方を知っただけで、遙々横浜の坂の上まで出向いた意義はあったと思ってしまったでありましたとさ。

かくて50分弱くらいに及んだけっこう長いレクチャー、「実はライリーさん、コロナ禍の中で日本にいてアメリカに帰れなくなっていて、今は山梨にいらっしゃいます」という知る人ぞ知る業界内極秘情報が世間に大公開されてしまい、客席からはえええええっという声なき声が挙がったりして。残念ながらご本人は映像出演もありませんでした。電車で3時間のところから映像出演、ってのも逆に滑稽だわなぁ。

舞台の奥をスクリーンに上映された映像作品は、良くも悪くも「コロナの半年の間に、私たちのこういう映像に接する際の新しいスタンダードが出来てきているなぁ」とあらためて思わされるものでした。正直、大スクリーンで視ないと判らないか、というと、そうではない。テレワーク作品の完成度の高いものを、みんなで一緒に眺めた、というイベントでありました。最後に指揮者さんが出てきて挨拶、そしてなにより、この日のハイライトは、終演後に楽屋だか舞台の上だけでされていた、合唱団の皆さんとスタッフの記念撮影なんじゃないかしら。これぞ正に、ライヴ。

コロナ故のテレワーク作品を、敢えてコンサートホールでみんなで眺める。これも「新しい日常」なのか、はたまた「コロナ禍の珍事」なのか。

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ボンクリは電子音の祭りでもある [現代音楽]

春分の日から秋分の日までの半年のコロナ災禍の世界で、所謂「芸術」とか「アート」とか、それそのものが価値である創作物やらを作ったり鑑賞したり、ときには商売にしたりする世界は大打撃を受けているわけでありまするが、そんな中にあって実は最も影響が少ない、ってか、状況は状況としてそんなもんなのかと認めてなんとかする、という開き直れている業界は、「現代音楽」と呼ばれる特殊なジャンルなのではあるまいかと思う気がしなくもないのだが皆様はいかがお考えでしょうかぁ。

だから、なのかは知らないけど、秋の池袋ウェストゲートパーク近辺の現代音楽祭り「ボンクリ」も、規模や出演者の変更はありつつも、昨日、それなりに無事に開催されたようでありました。「このようなものを作らねばならない」という再現芸術系じゃないから、「今はこれしか出来ない」でもなーんにも問題ないもんね。まぁ、巨大なガラス張り空間に鳴ってるのは現代邦楽ばかり、なーんてことになったりするわけだが
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それはそれでいーじゃん、ってさ。

ことそんな調子で、「ボンクリ」は開催され、藤倉氏のディレクションの下にいろんなもんが鳴ってたわけであります。ぶっちゃけ派手な企画がなくなってしまった今年は、結果としてこの音楽祭のひとつの主役としての顔がはっきり浮かび上がったのが、有楽町線改札口からダラダラ歩いてきてカフェの横曲がって入ってくる地下の空間の左右のスタジオだかを中心に響いてた「電子音楽」でありました。
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これがずらっと並ぶメインのプログラム
https://www.borncreativefestival.com/electronicsmusic
それに、こういうワークショップもあったり
https://www.borncreativefestival.com/tonmeister

ボンクリのコンサートホールでのいちばんメイジャーな演奏会がチェルカトーレQの演奏会とバッティングしてしまったやくぺん先生ったら、午前中から昼過ぎまでチョロッと会場を眺め、2時間弱ほど電子音の部屋というところに潜っておりました。なんせ、昨年(なんだよなぁ、なんだか遙かな昔に感じられる…)のアムステルダムとパリでのシュトックハウゼン《光》の集中的な上演があった夏が過ぎ、年が明けたらあれよあれよとコロナの世界になってしまい、やっと劇場なんぞが再開して最初の大きな取材が秋吉台の野外電子音楽大会だった。その間に「テレワーク」という名の電子音楽のひとつのプレゼンテーション形態は、コンサートホールが存在しなくなった世界での音楽創作や受容の中心となってしまった。電子音、というべきか、要はスピーカーを通して出てくる再生音がこれほどまでに「クラシック音楽」で重要となった瞬間は、過去の歴史にない。

そういう状況下での「ボンクリ」電子音祭りなわけでありまするから、当然、そういう状況を反映した作品なども発表されたわけで、どんなもんなんやろーなぁ、って野次馬根性丸出し。

んで、あっさり結論から言えば、「電子音楽というジャンルでくくられてるけど、やってることはいろいろ過ぎるなぁ」というアホみたいな感想でありました。

古典としてフィーチャーされたラディーグ作品は、基本的に電子音はドローン、ってか通奏低音みたいなもんで、その上にテープ収録された人声やらがあれこれ乗っかっていく、というもの。時代的にノーノのライヴ声楽と電子音の作品なんかと考え方は近いのかな。新作やそれに準ずるような若い世代の作品は、もっとポップスというか、パンクってか、「クラシック音楽」や「現代音楽」の文脈とは違うサンプリング音楽というか、DJっぽいパーフォーマンスをテープに固定したようなもの、というか。ま、それだって、今回たまたま耳にした作品はそんなだった、というだけのことで、もっといろいろあるのでしょう。

ワークショップの素材がシュトックハウゼンだったりして、いよいよ電子音がそれなりに市民権を得つつあるのか?敢えて言えば、音楽学校で習う演奏技法を前提にピアノやヴァイオリンを用いて演奏される楽曲が「クラシック音楽」と認識される世の流れから言えば、エレクトリシャンがコンソールの前に座り(座ってないことも多々あるけど)繋がったスピーカーから音を出すのが「電子音楽」なら、そりゃいろいろあって当たり前ってことなんでしょう。この定義だと、初音ミクだってしっかり「電子音楽」なんだよなぁ。

果たして「電子音楽」ってのはジャンルとして成り立つのか、とすら思わされるコロナ下ボンクリでありましたとさ。

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コラージュは歴史ではない~《フィデリオ》から《照らし出された工場》へ [現代音楽]

猛烈な颱風が迫り、これはもう日月で新帝都に戻るのは無理なのでは。それでも今晩の野外でのクセナキス上演は強行、というなんとも泡立たしい秋吉台国際芸術家村の朝です。
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昨日はともかくここまで来て、午後から延々と9時過ぎまでGPに付き合い、担当者さんに話を聞き、今日はやることやってあるのであとは流れを視ているだけ、という気楽なんだか慌ただしいんだかよー判らぬ状況。外では小ぶりの雨の中をセキレイさんたちが遊び、まだ街に下りていないめじろんたちが深い緑の中で追いかけっこをしている。山ひとつ越えた向こうは世界の観光地たるカリスト台地なんだけど、ここはどこにでもある中国地方脊椎部分の山の中。夏から秋の鳥さん達に入れ替わる頃なのだろうけど、颱風が行ってくれないとどーしよーもないでちゅん!

昨日の朝5時前に佃縦長屋を出るために、一昨日の初台での二期会《フィデリオ》はホントに眺めただけ。天井桟敷の下手側で、下手舞台や奥で何をやってるか判らず、ピットも全然見えず、という場所で、あの演出ならいかな我らがえーちゃんでも「燃えに燃える歓喜と勝利の大合唱」というわけにはいかず、その意味でお歳なりの新境地(本人にそんなこと行ったら絶対に嫌がるだろうけど)を聴かせていただいたから十分でございます、ともちゃんも冒頭一発、ご苦労様、ってだけに止め、「演出」に関しては「あああ、なんかそういうものも音楽演奏と一緒にやってたなぁ」と馬鹿臭い政権与党の権力争いをシラッと眺めるニッポン国民くらいの感じでスルーするつもりでありました。どうやら、平戸まで真っ正面から観ないと判らない部分も多いという声も耳に入りますもので。

とはいえ、「なんなんだろーねー、あれは…」という気持ちはずっと引っかかっており、そんなところにノーノが1964年という深作歴史イベント・コラージュでは無視されていた重大な年に作られた《照らし出された工場》などという、もの凄く極端に言えば深作演出と繋がるコンセプトとも誤解出来る作品を目の前で練習されたもので、クセナキスの大音響の中でちょっと考えてしまった。
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こういう曲、っても、これだけじゃ判んないかな。ま、関心がある方は勝手に調べてください。「パヨク」ノーノの真骨頂、って曲ですから。
https://www.youtube.com/watch?v=yzcAzCEtAbs

そろそろ朝ご飯に行かねばならないので、後の自分の為のメモとして「感想にならない感想」を箇条書きにしておくと…

※演出家氏による戦後史のコラージュ(戦後史の記述、と誤解してはいけません)が時系列で流れるスクリーン部分と、舞台の上で展開しているフランス革命時代の「脱出劇」(しかしまぁ、これならヴィーンに入ってきたナポレオン軍の兵隊達にも受けるだろうと思って《レオノーレ》の初演をやったんだろうが、実際に似たようなことが日常茶飯事で経験してきてる連中相手にこれやってもなぁ…)とは、基本的に関係ない別物である。「異化」とまでは言わないけど、正に巨大なコラージュ。

※二期会という「歌手の皆さんの上演団体」が、2020年春先からの「歴史の現実」に対しリアリティをもって応える、ぶっちゃけ、歴史の状況を自分のこととしてホントに関与して何かを発信出来るのは、最後の大合唱の部分なのだろーなー。歌手の皆さんがこのように現状を理解しようとしているのか、という意味では、極めて興味深いものであった。

以上です。歴史コラージュですから、ひとつひとつの断片に「意味」を探しても意味はない。まあ、意味探しをやりたかったらやるのは勝手ですけど。でも、ノーノみたいな、何かの結論を導かせるための装置にはなっていない。それが意図なのか、失礼ながら演出家さんの基本的な力不足なのか、それはご覧になった方の受け取り方次第。

どうやら、昨日の舞台の後には演出家さんのアフタートークがあって、雄弁に語られたそうで、それを拝聴すれば「へえ、そうなんだぁ」と思うのでしょう。そりゃ、思うに決まってます。でも、あくまでも演出家さんのひとつの見方でしかないことは、ご自身がいちばん良く判ってるだろーし。

ま、「みんなが勝手にいろいろ議論出来るような仕掛けを作る」というのが今時のクールな演出や舞台ですから(丁度1年前の《Written on Skin》みたいに、悪辣なまでに「多彩な議論の仕掛け作り」に徹した作品こそ、成功作やら傑作やらとして評価される昨今なわけで)、ニッポンという土俵からこういう舞台が出てくるのは、まあ、そうなんだろーなー…

おっと、食堂が閉まってしまう。以上、実はこの駄文、ベートーヴェンはダシで、ホントは一言も記していないノーノの感想…なのかな。それにしても、ホントにノーノとクセナキスやるのか、颱風迫る夕方に。

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