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現代音楽大人気? [現代音楽]

朝から春の嵐が荒れ狂う新帝都、やくぺん先生のちんまり寝床だけがある湾岸縦長屋も強風に煽られてギシギシ音をたてておりまする。桜も一気にオシマイかな。

とはいえ、上野の杜はまだまだお花見やる気満々の新年度最初の月曜日の宵、賑々しくも開催中の「東京・春・音楽祭」、始まった頃の「オペラの森」という言葉は今はどこ
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本日は巨大な都市型音楽祭には不可欠な「現代音楽」イベントのハイライトたる、アンサンブル・アンタルコンテンポランの名曲選が文化小ホールで開催されましたです。

「1ヶ月以上の長い開催期間に、古い時代の音楽から現代新作までありとあらゆる課目を揃え、都市の特定地域のいろいろなヴェニュを用いて規模も様々なコンサートが繰り返される」という所謂「都市型音楽祭」というのは、常設インフラとしての設備と組織がある程度備わっていれば広告代理店型巨大イベントのやり方でもなんとかやれるジャンル。演劇祭やら地域型アート・フェスティバルに比べると、先端的演出のオペラでもやらない限り、政治的な面倒さやら多様性やらや差別やらへの配慮もそれほど神経質にならんでもいい時効案件ばかりの安パイ「古典音楽」でありますから、「音楽の街●●」とか「音楽による街興し」とかは行政や地域商工会議所さんにとっては言い出しやすいことは確かなんでしょう。演劇祭なんて口の立つディレクターがしゃしゃり出てくるし、美術祭はブツとしての作品管理が案外面倒。いちばん簡単なのは「映画祭」だというけど…ま、それはまた別の話。

何の話じゃ。もといもとい、んで、本日のフランスは華の都を代表する常設現代音楽専門アンサンブルの来日公演であります。この団体のツアーというのは、特定の作品演奏でどうしてもこの方々が必要だとか、バリバリの現大作曲家がプログラムディレクターやら芸術監督を務める音楽祭でのテーマ性を持ったレジデンシィだとか、そういう事例が多い筈なんだけど、今回の来日はたった2日間の上野文化会館小ホールでの公演のための招聘。正直、やくぺん先生ったら発表を聴いた瞬間に「ああ、エトヴェシュ小特集をやるという話だった統営からこっちにまわるのか」と思い込んでしまい、統営がクラングフォーラム・ヴィーンと知ってちょっとビックリしましたっけ。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2023-12-21

ディオティマQは当然のように統営で弾いてから上野、という東アジア桜の2大名所ハシゴをやってきてるわけで、なんかあったんかいな、と思うなと言われても困るぞ、って感があるけど…ま、それはそれ。とにもかくにもホールの裏では人々が夜桜見物阿鼻叫喚の上野の杜で、世界一の現代音楽専門家集団が二夜にわたる名曲選を披露してくれるわけでありまする。

この類いのアンサンブル、日本でも常設のものだけでも、東京には老舗のアンサンブル・ノマドやら東京シンフォニエッタ、アンサンブル東風、大阪ではいずみシンフォニエッタ、などなど、たぁくさんあるわけですけどぉ、アンサンブル・アンサンブルアンテルコンタンポランの最大の特徴は、創設時からエレクトリシャンがメンバーに加わっていることにある。今はシテ・ド・ラ・ムジークに本拠地を移転しているけど、最初はかのポンピドーセンター隣の浅い池の橋を渡った向こうのIRCAMビル地下に無数の配線のたくらせた電子音なんてやってたわけで、そんなに移動が簡単ではない現代テクノロジーと音楽芸術の融合が前提だった。

ところがどっこい、今回の名曲選では、この団体のそのような要素はすっぽりと抜けて、まるで「クラシック」のライヴアンサンブルのような形での来日となってます。ってか、懐かしの東京ディズニーランド裏の第一生命ホールをメイン会場のひとつにして開催された「ブーレーズ・フェスティバル」の時以来、「電子音楽も普通の楽器のひとつとして新たな音響を開いて行く」というこの団体の本来の目的に沿った規模での来日公演って、絶えてないんじゃないかしら。秋吉台とか武生とかでそういう形での招聘って、してるのかしら?

そんなわけで、本日の公演は「アンサンブル・ノマドのフランス版」みたな形での20世紀の古典作品総浚え、というショーケースだった。んで、そういう形が功を奏したのかなんだか知らんけど、なぁああんと驚くな、会場はほぼ満員でございましたです。

ヴェーベルンからカーターに至る「20世紀音楽の著名代作曲家に拠る評価が固まった作品」が並ぶコンサート、演奏そのものも例えばヴェーベルンの協奏曲第2楽章がそれこそカラヤンみたいなレガートでセリーと音色旋律がつるりと美しく響き、ロバート・クラフトやハンス・ロスバウトの時代が懐かしいなどとふてくされたことは言わないけど、「あああ、古典音楽じゃのぉ」と安心して聴いていられる。音楽祭の偉い人やら評論家やらがいっぱい座った客席も、安心して大喝采を叫べる、いかにもメイジャー音楽祭っぽい一晩であったとさ。

去る土曜日のシェーンベルク弦楽四重奏全曲演奏もそうだったけど、いよいよ「ゲンダイオンガク」がホントに「古典」になってきて、作品の淘汰が進んでいるなぁ、と実感する今日この頃。考えてみれば、もう21世紀も四半世紀が過ぎようとしているんじゃからのぉ。

さても、今晩の「フランス作品ショーケース」はどれくらい聴衆が入るのやら。

[追記]

おはようございます。昨晩の「フランス作品名曲選」ですけど、聴衆の数は流石に初日ようなほぼ満席には至らなかったものの、この類いの演奏会としては異例の数の聴衆が詰めかけておりましたです。

これまた意外にも、ミライユやらデュサパンやら、日本でも著名な評価の固まった作曲家の作品は「ああそうですか」って感じだったんだけど、後半のマレシュとロバン作品が面白かったですわ。流石にこの類いの編成の新作をもう半世紀近くも積み上げてきたわけですから、IRCAMバックヤードには収めきれないほどの膨大な初演した楽譜の山があるわけで、このような「今回のツアーの編成でやれる受けそうな曲はないかな」と本気になって探せばいくつも出てくるんだろうなぁ、とその奥深さに驚嘆させられた次第。

こういうアンサンブルって、いつなくなるか判らぬ演奏団体有志や企業の趣味で成されるのではなく、実質上の国立できちんと組織として維持され活動拠点も確保されてこそなんだわなぁ。初台の武満メモリアルがそういう場所になることを、一瞬、期待したんだけどねぇ…

[追記の追記]

桜も流石にそろそろオシマイの上野の杜で、田舎者やくぺん先生が今年参加する最後の「東京春音楽祭」公演の私的音楽協会編曲選を拝聴しながら、ノンビリとヨハン・シュトラウスⅡのワルツに響く謎のハルモニウムに耳を傾けてたあと、ヴェーベルン編曲のシェーンベルク室内交響曲の相当に無理がある編曲を拝聴していて、急に思い出しました。アンサンブル・アンタルコンタンポランの「名曲選」公演って、香港芸術節で聴いたことあるじゃないか、って。

確か、ピンチャー御大が指揮者として出始めだった頃、比較的この団体としてはフル編成。でも、エレクトリシャンは無しで、数年前にサントリーの夏祭りで《大地の歌》編曲版をやったときみたいな編成だった。んで、やったのが、シェーンベルクの室内交響曲第1番だったわけでした。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2016-08-26
ともかく、前半終わったところで香港駅から空港特急に飛び乗って、深夜2時発だかの桃さんだかで成田に戻るという無茶な日程だったことばかり覚えているなぁ。

てなわけで、この団体、それなりに「通常の室内オーケストラ」としてのツアーってやってるようじゃのぉ。このとき、香港作曲家の作品とかやったか…忘れてもーた。いやはや。

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『妖精の距離』を見にいく~ミュージアムはオワコンか? [現代音楽]

新帝都に戻った翌日、予定していた原稿作業がどうやら故ポリーニ様のお陰で飛んだようで時間が出来たのをいいことに、遙々旧グランドハイツの向こうは板橋の区立美術館まで足を運んできたでありまする。
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桜満開になった曇りゾラの下、目的はこれじゃわい。
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公式案内はこちらをご覧あれ。
https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000016/4001737/4001747.html

区立美術館あるあるの周囲が公園ってセッティング、お花見がてらというわけではないんでしょうけど、広くはない特別展スペースは意外な程の人出。無論、平日午後ということで殆どがご隠居割引きの方々なんじゃが、美大とか美術予備校の学生っぽい若い人たちが数人の集まりで来て、展示品を前に真剣に話をしている、なんて図も見られましたです。なんとなんと、同業者のK先生などもいらしていて、おやおやこんな場所で、って空間じゃったわい。

ほおおお、美術館、生きてるじゃん。少なくとも、ニッポン新帝都の住宅地では「ミュージアム」はオワコンじゃないよーじゃわい。

なんせ、その直前、これから歌舞伎眺めに行くというトロントの某財団の方と銀座四丁目の某パン屋さん上層階パン食べ放題洋食ランチを喰らいながら久しぶりにいろいろな雑談をしてたんだけど、なんかの拍子で今時の北米のトレンドを笑う中で、「コンサートホールをミュージアムにしてはいけない」という毎度ながらの流行の話が出てきた。先頃、某ドイツの弦楽四重奏にインタビューしてたときに「私たちのコンサートはミュージアムで、現代を含めたあらゆる時代の作品を提示せねばならないと師匠に言われてます」という趣旨のことを仰ってたのを思い出し、ああああ「欧米」の業界意識の違いだなぁ、翻ってニッポンはねぇ…などとボーッと思いながら地下鉄三田線に揺られてたわけでありまして。うううむ、ニッポンの公共アート・ヴェニュ、何をするのがお仕事なのやら…

もといもとい、ま、それはそれ。んで、上のサイト案内をご覧になればお判りのように、冷静に考えて20世紀のアート潮流で最も大きな影響を与えてたと歴史的な評価をせざるを得ない「シュルレアリズム」の大戦間ニッポンへの影響をあちこちから作品引っ張って来て並べる展示会であります。御家族お友達以外には漏らせないような率直な感想はともかく、正直、やっぱりシュルレアリズム作品って美術館に似合うなぁ、とあらためて思わされたですな。だって、買って自分ちの廊下か玄関上がったところに掲げて毎日眺めたい、とは感じないもんね。東郷青児やらがその先に向かった方向が、やっぱり「売れる」ためには正しかったのも当然だわなぁ、って。あ、皮肉じゃないですよ、実感です。

やくぺん先生なんぞとーしろーが個人的に思うことなどどーでもよくてぇ、当無責任電子壁新聞を立ち読みなさっているような酔狂な方にご紹介したいのは、唯一点。ガラスケースの中に展示された瀧口修造『妖精の距離』でありまする。

一応、限定100部とはいえ1937年に商品として世に出た「詩集」で、古本屋さんに良い状態のものが出ればそれなりのお値段でもあっという間に品切れになる代物ですけど、ホンモノを手に取ったどころか、見たことある人も殆どいないでしょ。今、面白半分に調べたけど、この瞬間にマーケットに流れてるものはないみたいですなぁ。
http://mozubooks.com/?pid=129045468

シュルレアリズムの日本での導入から展開、戦後の高度成長前くらいまでの流れを簡素に俯瞰する展示の中で、最盛期のひとつの事例としてこの詩集がガラスケースの中に展示されております。太っ腹にも3冊が用意され、全12編中の3作品が見開き、右ページの瀧口の詩と左ページの阿部芳文の二次元作品とが眺められるようになっております。

で、ハイライトは「遮られない休息」なのは言うまでもないでありましょうぞ。これね。
https://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=53142&edaban=1

正直、展示会全体の照明が非常に抑えられていて、本来ならポータブルアートとして手に取って眺めるものとすれば不満もないではないですけど、なるほどこれなのかぁ、と思うことは出来ますです。

では、こちらを眺めながらご覧あれ。なんか、こうしてみると、楽譜ってアートじゃのぉ。


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今年のパリ《光》は「木曜日」3幕のみ [現代音楽]

毎年秋の終わりのフィルハーモニー・ド・パリで開催されているル・バルコン制作のシュトックハウゼン《光》チクルス、コロナ禍でいろいろあったものの、無事に昨年の秋に難物の《日曜日》をクリアし、現時点では完結まで残すところ《月曜日》と《水曜日》の2作となっております。

で、今年はパリ五輪の文化予算もあるだろうから、世界初演がロンドン五輪の文化事業だったヘリコプター4機付き《水曜日》をやってくれるんじゃないか、とみんな勝手に想像していたらぁ、なんとなんとこの2作は来年と再来年、という告知が成され、えええええ今年は休みなのぉ、と世の善男善女は残念に思っていたわけでありますな。

ったら、今、華の都に行っている某若いプロデューサーさんからの情報で、この秋は10月に《木曜日》の抜萃をやる、とのこと。慌てて調べてみたら、なるほど、こういうことなのかい。
https://philharmoniedeparis.fr/en/activite/27085?itemId=135132

なんとなんと、《木曜日》の最後、第3幕のコンサート形式上演のようでありまする。

巨大な《光》チクルスの中にあって、ピアノ曲として知られる部分を除けば、恐らく最も良く知られているのは《水曜日》の巨大過ぎる間奏曲とも言える《ヘリコプター四重奏》(ライヴで聴いたことがある方がどれだけいるかは別として、20世紀後半に書かれた最も有名な弦楽四重奏曲ですからねぇ…)と、《木曜日》の第2幕に置かれ世界のトランペット奏者のスタンダード演目となっている「ミカエルの世界旅行」の場でありましょうぞ。あと、土曜日の「顔のオーケストラ」なんかは、ホントはブラスバンドの人気曲になってもいいんだけど…。ま、なんにせよ、《トリスタンとイゾルデ》第2幕とか《ヴァルキューレ》第1幕をオーケストラ定期などで抜萃、でもオーケストラや歌手などは完全に楽譜指定通りに演奏会形式で上演する、なんてのは屡々行われるのと同じやり方で上演出来る部分がなくなはない、ということです。そもそも演奏会形式とオペラ舞台上演形式の垣根が極めて曖昧な、ロマン派オペラの枠を完全無視な作品でもありますので、実質上はステージ上演と殆ど違わんでしょう。

やくぺん先生も《木曜日》第2幕「ミカエルの世界旅行」の演奏は、まだフィルハーモニーが出来る前のシテ・ド・ラ・ムジークで、確かアンサンブル・アンタルコンタンポランの演奏だかで聴いたことがあるし
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2008-11-26
他にもあったような気がするなぁ。ま、《光》がどんなもんか、「ああ、なるほどねぇ」と思える部分であることは確かでしょう。NYでも観たっけなぁ、記憶が曖昧じゃわい。日本でもやられてると思うけど、どうじゃったっけか。

ま、今年は本編がないけど、この場面で《光》のことを忘れないでね、とパリの音楽ファンにアピールするために選ばれたのは、《木曜日》の第2幕なんじゃろ、と思ったらぁ、おっと、第3幕ではないかい。へえええ。

第3幕って、カリスマ音楽家としてのミカエルが誕生する場面で、舞台としてはかなり地味なんだけど、音楽的には相当に興味深いところ。ある意味、オペラらしい場面とも言えるでしょう。ここを取り出してやる、ってのは、うううむ、流石マキシム、って感じだなぁ。普通はなかなかやらんわい。

残念ながら貧乏人やくぺん先生、この場面だけの為にパリまで大陸を跨ぐのはちょっと無理じゃのぉ。ま、パリ近辺にお住まいの方、シュトックハウゼン禁断症を癒やすためにも、是非どうぞ。チケットは明後日から販売だそうな。

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キャロライン・ショウの新作《マイクロフィクション第1巻》 [現代音楽]

一昨日夜、香港シティホールで、ミロQが演奏するキャロライン・ショウの新作《Microfictions, Vol.1》のアジア初演が行われました。この香港の音楽祭も委嘱に名を連ねており、当初は2021年に当地で世界初演が予定されておりましたが、皆様よくご存じの理由で延期になり、既に北米などで初演され、やっと本来の場所でのご披露に至った次第であります。

結果として、2022年8月24日の世界初演の映像全曲が既にYouTubeにアップされておりますので、なんのかんの言うより、まずは聴いて下さいませ、と貼り付けてしまいましょう。ほれ。


今や北米作曲界で最大の売れっ子のひとりとなっているキャロライン・ショウ、当電子壁新聞を立ち読みなさっているような酔狂な御仁であれば、我らがアタッカQがこの作曲家の弦楽四重奏作品を演奏してアカデミー賞まで獲っているのはご存じでありましょう。作曲家の紹介はこちらをご覧あれ。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

当初の予定ではご本人も香港にいらっしゃるという話もあり、大いに期待していたのですけど、流石に世界初演ではなくなったのでそれはならず。で、もう上の映像を眺めちゃった方にはお判りだとおもうんですけど、この作品、「コロナ時代にtwitterの字数範囲でマイクロSF作品を発表していた作家さんがいて、その作品にインスパイアーされて作曲された」というもので、各曲の前に作品がまんま朗読される、という趣旨のもの。んで、上の映像では作曲家さんご本人が朗読しているわけだけど、香港には要らしてなかったんで、一昨日はミロQのメンバーが交代に朗読をしました。

で、台本は以下。まんまコピペ。

I. Under the hot sun, the road signs melted until they were the color of an unrhymed
couplet, pointing to cadences left or north.

II. The photographs smeared into focus one by one, like organ pipes being tuned. Some of
edges and corners were torn, but the tune was still visible.

III. The summer storm laughed and lilted and shouted until it found a shady spot, beneath an
oak's dappled counterpoint.

III & 1/2. Between the third and fourth movements, the second violinist stood up and said
hello to the audience. Everyone was grateful to know which movement they were on.

IV. The complete taxonomy of verse forms is buried in a cardboard box beneath a chord that fell
from grace.

V. Waking up on the early side that Tuesday, Miró noticed a bird repeating its solitary
caption. The clouds nodded to the tempo of an undiscovered Mendelssohn song.

VI. The mountains folded in among themselves, as the day grew on. Their songs could only
be heard in heavy fragments, obliquely, from years and miles below.

なんか、もうどうこう言うこともないので、ともかくご覧あれ。ただ、日本の団体がやるのは…なかなかハードルが高そうですなぁ。テキストもほぼ翻訳が出来ないようなものだし。それから、残響が強いヨーロッパ系の会場では、ちょっと難しい作品かも。ヴィブラートそのものになんか指示があるんじゃないか、って感じの楽章がありますし。

とはいえ、作品そのものは絶対にアピールするから、いずれ演奏がオープンになったらどこかがやるでしょう。いっそ、メトの委嘱作品で盛り上がって、オペラシティやらサントリーの夏祭りやらにでも作曲家ご本人が招待されて…ってのを期待しちゃいますけど。

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年越しに2023年新作ピカイチを [現代音楽]

客観的に眺めれば、この地球上の「国家システム」とか「秩序」とか「合法的暴力体系」とかがじんわりと崩壊に向け行方定めぬ地滑りが起きる直前のような2023年も終わろうとする(グレゴリオ歴で、だけどね)朝、今年、やくぺん先生の周囲で鳴ったいくつもの「新作」の中にあって、もしかしたら凄く意味のあるピースになるんじゃないかと感じられる作品の全曲がYouTubeに公式にアップされたようです。皆様、なにやら歌合戦やら著名放送局オーナーオーケストラのダイクなんぞはもう結構という方も少なからずいらっしゃるでしょうから、こちらをご覧になって年の終わりを過ごしてはいかがかな。

打楽器奏者としても大活躍の會田瑞樹氏が、去る秋の終わりにティアラこうとうで初演した《北原白秋のまざあ・ぐうす》、全曲の初演ライヴ映像です。

この作品、初演に接した素直な感想を言えば、「あ、これは使えるかも」というものでした。

ストラヴィンスキー記念年だった一昨年だか、コロナ禍という時節柄もあってか、作品再発見のルネッサンスと言っても過言がないくらい盛んに、それも様々なやり方で演奏されたのが、《兵士の物語》でした。ああいう「ポータブルなミニシアター」みたいな舞台作品って、ある意味、センス一発みたいなところもあるわけで、単に作曲技巧がどうだというだけでは済まない。

「北原白秋の些か古い日本語をベースに、打楽器のキラキラした響きにいろんなものを纏わせるように言葉やら弦楽器やらがまき散らされる」というアンソロジーは、正に子どもだけでなく大人も楽しい(ってか、大人のが楽しい)歌や踊りの一座の1時間、という内容になっている。小型トラックに楽器詰め込んで、みんなで学校まわる一座なんてやるのには最も相応しいパッケージではないかいな、と思うですよ。

いかがです、地方主催者、はたまた小学校、幼稚園、病院、なんぞの皆様、これ、うちに来てくれたらみんな喜ぶだろうなぁ、なんて思いませんかね。

ガチョウおばさんで年が往っても、どうやら、まだもう少しは世界はあるようじゃしのぉ…

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亡きシュトックハウゼンの亡霊未だ舞台を支配せんとす [現代音楽]

年も押し詰まったニッポン国文化圏仕事納めの翌日午後、帰省ラッシュに「のぞみ」全車指定席化騒動、はたまた人気の雪世界ホッカイドー程ではないにせよ年末年始インバウンド観光客襲来で混乱するトーキョー中央駅東口シンカンセン改札口周辺をすり抜け、長大なホーム下自由連絡通路を丸ノ内北口へとやっと出て、昔は編集者さんとの打ち合わせなんぞに屡々使った駅前ビルなんぞが立派でオシャレな再開発地区へと変貌した上層階に収まる素敵なレストランに至り
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華の都巴里から帰国中の爺はもう赤面するほどキュートで素敵なソプラノさんと、楽しいお喋りをするという光栄な午後を過ごして参ったのでありましたです。こちら、パリ在住の高橋美千子さんでありまする。爺ったらドキドキじゃわいだっく。
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高橋さんといえば、去る11月のシテ・ド・ラ・ムジークでのル・バルコン&フィルハーモニー・ド・パリ&パリの秋フェスティバル制作によるシュトックハウゼン《光の日曜日》舞台上演で、第1部の実質上の主役たるエヴァ(声役パート、っても、このチクルス最後の作品では、初期の《木曜日》や《金曜日》などような「ひとりの役を人声、器楽、舞踏の3人が同時に演じる、というコンセプトは薄れてしまってますけど)を演じられた重要人物。その際にご挨拶させていただき、本来ならば表のメディアで華々しく取り上げさせていただかねばならぬわけでありまするが、何の業界内影響力もないしがない隠居爺のやくぺん先生ったら、何もすること能わず、ここに至ってしまった。スイマセン。当電子壁新聞記事はこちら。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2023-11-17
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2023-11-21
この普通の意味での「粗筋」やら「ストーリー」やらが存在しない巨大な空想の結婚式ページェントに延々と参列するみたいな総合創作物の「挨拶」に相当する部分で、ケルンでの失敗としか言いようがなかった世界初演のときにはシュトックハウゼン・ファミリーにみっちり仕込まれたというミカエル役のテノール、ヒューバート・メイヤーと共に、客席と一体化した空間をシュトックハウゼンが無駄に細かく指定した通りに走りながら、太陽系の星々についての猛烈に歌唱困難なパートをお歌いになり、舞台を成功に導いた功労者さんのおひとりでございます。

なお、高橋さんは昨年のリールとパリでの《金曜日》にも参加なさっておられ、トーキョー五輪予算使いすぎで東京都側の予算が付かず幻となった池袋での日本公演にも、当然、参加なさっていたでありましょうねぇ。ちなみに、これが昨年のフィルハーモニー・ド・パリでの《金曜日》当日配布プログラム、ご覧あれ。
https://deneb.philharmoniedeparis.fr/uploads/documents/NPGS-14-11-19h30-Freitag-aus-licht.pdf?_ga=2.239807043.170982891.1703900097-1267429779.1699709854
ついでに、去る11月の《日曜日》はこちら。あれ、当日プログラムのPDFはないのかしら、こっちは。
https://philharmoniedeparis.fr/en/activity/opera/26250-karlheinz-stockhausen-sonntag-aus-licht-scenes-1-et-2

眼下のホーム大混乱なんぞとは無縁の空間で、暮れなずむ新帝都の午後から夕方、どーでもいい業界話から深刻な欧州情勢までなんのかんのお話させていただいたわけですがぁ、当然ながらこの前の《光》チクルスについても話題になるわけでありました。

てなわけで、以下、当無責任私設電子壁新聞に記しても問題ないだろうと思われる興味深い《光の日曜日》上演裏話。

★昨年の《金曜日》で主役のエヴァを演じたジェニー・ディヴァイが、当初は《日曜日》第1部の同役(とはいえ、ロマン派オペラ的な意味で同じキャラクターの登場人物なのかはなんとも言えんですけど)だったが、本番の数週間前に高橋さんに交代になった。当初は高橋さんは第4部の「各曜日サインの紹介」でのエヴァ役にキャスティングされていたとのことで、そっちをジェニーさんが歌った。こちらとすれば、高橋さんの大活躍が観られたので結果オーライ、でんな。過去にないほど難しい役で大変だったけど、本番はきっちり上手くいったとのことです。

★その高橋さんが当初乗る予定だった第4場、全7作に付されたシンボルマークの説明というなんとも不思議な、「脚注ページ」みたいな場面でありますが、そこにマーク毎の香りが付けられていて、去る11月のフィルハーモニー・ド・パリでの上演ではラーメン丼みたいなものにお香セッティングし、それを何人ものスタッフが抱えてホール客席内を歩く、ということをした。なんとなんと、そのお香担当で高橋さんも参加していたそうな。直前に総合指揮(としか言い様がない)のパスカル氏から「ボランティアでやってくれる奴求む」という緊急連絡があったそうな。いやはや、全く気づきませんでした。

★これはちょっと微妙な発言になるのですが、昨年の《金曜日》は当初DVDにするという予定があったのだけど、結果的にフィルハーモニー・ド・パリのアルヒーフに映像が遺されているだけになった。その理由は、シュトックハウゼンの遺産管理をしているところが映像を細かくチェックして、猛烈なダメ出しなどがあって、なんのかんなんのかんの…ということだったとのこと。この辺りはあくまでも未確認のネットに書いてあった話として聞き流してくださらんと困るところなんですけどぉ、生前のシュトックハウゼンと近しく、実質上の知的所有権の管理のようなことをなさっている某氏(お判りの方なら「ああ、あの人ね」と想像なさっているであろう某フルート奏者さんです)が、今もしっかりそういうところに目を配っているとのこと。このル・バルコンのチクルスはそういう影響力が実質なくなったところから始まった、と勝手に思い込んでいただけに、へええええええええ、とビックリ。まだまだ亡きカールハインツ教祖様の亡霊、君臨してるんだなぁ。

★《日曜日》の映像は現在もまだ処理仕事などもあるそうで、一般公開やDVD化になるかはともかく、少なくともフィルハーモニー・ド・パリのアルヒーフには保存されることになるだろう、とのこと。

他にもいろいろあるんだけど、あの歴史的な舞台を眺めた方に興味がありそうなことはこんなものでしょうか。

多彩な活動をなさる高橋さんの公式YouTubeページはこちら。お正月らしいモンテヴェルディなんかもありますです。
https://www.youtube.com/@michikotakahashi3038
どんなことをなさる方か端的に知りたいなら、こちらをご覧あれ。当電子壁新聞を立ち読みなさってるような方なら、驚いちゃったりはしないでしょ。


上野の杜の歌の世界からも、こんな才能が出現するんですねぇ。ちょっと安心。

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速報:エクがグラス初期5作品一挙演奏 [現代音楽]

恐らくはここで告知しても問題ないのだろうから、フライング気味に宣伝してしまいます。ってか、わーいわーい、って喜んでるだけのことなんだけどさ。

来る2024年はクァルテット・エクセルシオの結成30年の記念年。今年はモルゴアQ「演奏活動開始30年」という記念年だったわけで、若い者ばかりに日が当たるこの業界なれど、この辺りの今や「中堅」という最も営業的には難しいところに差し掛かりながらも心技体共に最も充実したタイミングの連中が頑張ってるのを眺めるのは嬉しいことなのじゃわい、うん。

んで、そのエクの30周年でありまするが、認定NPO法人の定款に挙げられた活動の三本柱、「アウトリーチ」、「定期演奏会」、「現代音楽」を再確認する作業が基本になるのは言うまでもないでありましょう。「アウトリーチ」に関してはコロナ禍で実質根絶やしになった数年を挟みつつ、今や千葉の新浦安を拠点に継続されている。思えば、今世紀初めに富山は入善で始めた「滞在型レジデンシィ」は今やあらゆる若い団体や自治体文化財団がやって当たり前になったパイオニア的な活動だったわけで、その意味でもNPO定款はきちんと実践しているわけでありますな。

2つ目の「定期演奏会」は東京、京都、札幌で開催、なんせ認定NPOと言いながら企業の大手スポンサーシップなど皆無な零細会社、ともかくちゃんと続けている。

んで、問題は最後の「現代音楽」であります。これに関しましては、ともかく集客面からもお金面からも難題が山積み。なんせ、お客さんが入らないのにお金はいっぱいかかるわけで(楽譜使用料、著作権料、場合によっては初演料、等々)、世界の常識からすれば「新作初演をすれば補助金が出る」などの国家や助成財団などからの積極的な資金援助がないと難しく、とても貧乏NPOなんぞにはおいそれとやれるものではない。てなわけで、可能な限りやりたいとは思いますがなかなかねぇ…という状況であることも致し方ないでありましょう。

かくて結成30年記念年にあたり、あらためて定款をきっちり見直し初心に返る意味からも、エクは記念年にいくつかの「現代音楽」イベントを行うことになりましたです。

まだ全てを発表するわけにいきませんけど、目玉企画が決まりましたので、当無責任私設電子壁新聞で一足早く発表させていただきます。それ即ち、「フィリップ・グラス番号付きクァルテット初期作品一挙上演」。

10月7日月曜日、午後7時から、エクが現在は鶴見サルビアホールを会場に開催しております「ラボ・エクセルシオ」の30年企画として開催いたします。演奏するのは、第1番から第5番まで、要は20世紀に書かれた作品群でありまする。作品としては、どれも所謂「ミニマル音楽」の原型がまんま示されている作品群で、未だ実験としての色彩も濃かった第1番から、初期の偉人三部作オペラを経て舞台音楽や映画音楽にこの作風を展開していく中から生まれてきた作品群を一挙に演奏する、という試みですね。

なんでこんなものをやるかといえば、実は何を隠そう、日本で上演されたグラスのオペラ作品のうち、昨年にバタバタと横浜や大阪で演奏された《浜辺のアインシュタイン》を除けば唯一日本団体が舞台にかけた作品たる《流刑地にて》で、オーケストラというか、ちゃんと楽譜の指定通りにピット担当をしたクァルテットとして演奏したのがエクだったわけですわ。正に「現代音楽を振興する」という定款を忠実に守った仕事だったわけでありまして、あれ以来、何度かやってみたいと話題には上がっていたプロジェクトなのであります。それが、やっと苦節十数年、この結成30年という記念年にいよいよやってみるか、ということになった次第。

まだまだ鬼が笑うくらい先の話ですが、なんせ100席しかない会場で、所謂「現代音楽」の世界だけに限らない関心の広がりがある作曲家ですから、アッという間に切符なんぞなくなってしまう可能性もある。ことによるとまあああったく売れないかもしれない。全然わからんのですわ。とにもかくにもご関心の向きは、真新しい来年の手帳の秋のページに日程だけでも書き込んでおいてくださいませ。

なお、10月には「現代音楽」とはいえグラスとは全く方向性の異なる、これまたエクに縁のある企画も控えております。そちらもお楽しみに。

いやぁ、来年は巴里五輪で秋のル・バルコンによるシュトックハウゼン《光》チクルスがお休み、なんだかつまらんなぁ、と思っておりましたが、これでちょっとは喉の渇きも、かな。とにもかくにも、請うご期待。

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統営国際音楽祭やっと全容判明 [現代音楽]

霜月の実質3週間のツアーから帰国、ちょっと新帝都に寄って用事を済ませ月末に温泉県盆地オフィスに戻り、師走に入って約3週間の実質お籠もりで大小6本ちょっとの商売原稿とオンラインインタビューひとつ、その間に長崎へのプチ取材ツアーを済ませたら、年内最後の〆切原稿が雪は積もらない盆地としては意外な程の降雪なんぞで進行が遅れ未完成で新帝都に持ち帰ることになり、やっと昨日初稿納入。某出版者編集長さんから「なかなか正月らしい内容で結構でございます」とOKを貰ったら、緊張感プツン都切れちゃって、年内〆切の短い原稿がひとつあるものの、気分は「終わった終わった」状態になってもーたわい。

晴れてるとはいえ春先みたいな中途半端な視界の悪さの昨日の新帝都から一転、つくばは眺められるも白河の関や榛名山は見えない程度で完璧な真冬の空気ではないものの、それなりに冬らしい晴天が広がっている大川端シン・ゴジラ視線の縦長屋の昼前なのであーる。年末らしく飛行時間消化のためか、朝から霞ヶ関官庁街では消防庁ヘリが総務省屋上ヘリポートで離着陸訓練、その横を青山ヘリポートで用事を済ませた厚木の第7艦隊艦載部隊海鷹14号機くんが銀座日本橋上空を真っ直ぐ天樹まで行ってぐるっとまわる遊覧飛行をしてから戻っていったと思ったら、海軍VIP輸送キングエア様が一応遵法高度ながらいつもの多摩の壁を越えて都心まで突っ込んできて、天樹周辺ぐるりとまわり北に向かうという、これまた遊覧飛行してら。明日からクリスマス休暇のヤンキーさん、もうすっかりお休み気分なんじゃろかね。

てなわけで、このところ書き始めた日にはまずアップされず「壁新聞」としてすら本来機能を失いつつある当無責任私設電子壁新聞、年末に向けぽつりぽつりと旧稿アップしていくつもりですので、ま、お暇ならどうぞ。まずはパワレス年寄りで前頭葉がまともに動かずこの先の日程整理くらいしか出来ん爺の、己のための備忘メモでありまする。数日前にやっと判明した桜花咲く海峡の彼方、統営の音楽祭の日程について。
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開催時期が完全にバッティングする「東京・春・音楽祭」の日程がもう何週間も前に出ているので、お待ちになられていた方も多い…のかなぁ。

ともかく、まずは日程です。3月29日のフェスティバル管に始まり、ヴァンクーバー・インターカルチャー・オーケストラとか、香港シンフォニエッタとか、ディオティマQとか、クラングフォーラム・ヴィーンとか、光州響とか、フライブルク・バロック管とか、4月7日のシュタンツ様指揮フェスティバル管でオシマイ、というラインナップ。フェスティバルとしての纏まった日程表が見つからないんで、主催公演一覧からどうぞ。
https://www.timf.org/en/sub/ticket/reserve.asp

まあねぇ、日本から音楽ファンが行きたいなぁと思うのは、フルートのパユとヴィオラのタメスティがレジデント・アーティストであることくらいかな。あとは、フライブルク・バロック管の《マタイ受難曲》は関心ある方も多いでしょうかね。

正直、今年はイサン・ユンの作品が案外少なく、それに監督のはずのウンスク・チンの色もあんまり見えない(辞めた?)。このフェスティバルの本来業務の「現代音楽」に関しては、メイジャー作曲家としてはエトヴェシュ作品が取り上げられ、あとはハースの大作。それに、大ホールの反対側の小劇場で上演(演奏?)される音楽祭委嘱作品のシモン・ジェイムス・フィリップス作曲のコントラバスとヴィジュアルアートのコラボ作品、こちら。
https://www.timf.org/en/sub/ticket/view.asp?idx=1533&s_date=2024-03-30&s_time=5:00%20PM
それから、この良く判らん作品ですな。
https://www.timf.org/en/sub/ticket/view.asp?idx=1541&s_date=2024-03-30&s_time=9:30%20PM
この音楽祭の最大のウリだったブラックボックスという小劇場で隣の大ホール終演後の深夜に上演する小規模総合芸術作品、当初は所謂「現代の室内オペラの古典」の上演が中心だったんだけど、いかにも21世紀っぽいインスタレーションの音楽より拡大みたいな作品が増えてきてますねぇ。こういうのって、根性据えないと上演出来ないものが多いから、貴重な音楽祭になってきているかな。どのくらいの需要があるのか、よくわからん。韓国は現代美術を商売にした文化だから、案外、こういうのは抵抗なく受け入れられるのかもなぁ…

ちなみに当電子壁新聞を眺めているような方に少しは関心がありそうなディオティマQは4月2日、上野でシェーンベルク全曲をやる前に統営なわけですな。で、上野ではやらない初期の小品がある、ってのが困るなぁ。ちなみに上野はこちら。
https://www.timf.org/en/sub/ticket/view.asp?idx=1541&s_date=2024-03-30&s_time=9:30%20PM
統営はこれ。
https://www.timf.org/en/sub/ticket/view.asp?idx=1551&s_date=2024-04-02&s_time=9:30%20PM
なんじゃ、この「シェーンベルク《プレスト ハ長調》」ってのは?このためだけに海峡越えにゃならんじゃないかぁ!

昨年までのコロナ禍でキャンセルになった年にやるはずだった演目や演奏家総浚え、って感じは流石になくなったものの、リーム監督時代とはちょっと違う路線になって来てるのは否めない統営国際音楽祭。武生と並ぶ「最も極東でやってるドイツ語圏の現代音楽祭」という路線は揺るいでいないとはいえ、どこに向かうのやら。

2020年に上演の筈だったタン・ドゥン《仏陀受難曲》、はたまた21年予定だったマデルナ《サテュリコン》など、どうなっちゃったんだろうなぁ。なんせ、我が温泉県盆地オフィスからいちばん近いホンマモンの国際音楽祭なんだから……別府アルゲリッチは置いといて。

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田舎では聴けないもの [現代音楽]

なんとか老体を温泉県盆地まで無事に運んで参りました。仕事机の向こう、殆ど紅葉風景を眺めることもなかった紅葉の枝も葉はほぼ落ち切り、命を終えた女郎蜘蛛の巣に引っかかって風にはためき、地面を赤黒い色に染める霜月も晦日前。緯度は遙かほっかいどーよりも高いパリの夕方を思わせる標高500メートルの秋の終わり…って、秋ってどっかにあったかいな、今年は?

温泉県に来てしまうと、ともかく演奏会通いの回数が圧倒的に減るのじゃ。今回の3週間ほどの滞在で予定されているのは

12月3日:豊後竹田 グランツたけた版《マダム・バタフライ》
12月11日:別府 ビーコンプラザ 広島交響楽団
12月15若しくは16日:長崎若しくは大村 大村室内合奏団

くらい。他に、別府の竹沢さんとか、神尾さんの佐賀やら北九州労音でのリサイタルとかあるんだけど、なんせ霜月は一切商売原稿入れなかった反動で最盛期の半分以下の作業量とはいえ隠居爺なりに作文仕事が詰まっていて、そこまで追いかけられるやら。

てなわけで、半島から欧州、新帝都とインプットの刺激を受けまくった秋も終わり、静かにアウトプットを重ねる冬の初めなわけでありまするがぁ、こういう「田舎暮らし」になって最も接するのが難しい類の演奏会が「現代音楽」なんでありますな。

作曲科学生がある程度以上の数存在し、妙てけれんで手間ばかりかかる楽譜を弾いてやろうという奇特な演奏家もそれなりの数おり、さらには作曲家演奏者のお友達を含めこんなわけわからんものに金や時間を費やして付き合ってやろうなどという酔狂な客が最低でも数十人は集まってくれるような環境というのは、やはり東京大阪など猛烈な数の人が暮らす場所でないと揃わない。かくて新帝都にいるときのやくぺん先生ったら、半分くらいはそんなものを見物に行ってるような気がするなぁ。

そんなこんな、欧州からバタバタ戻り千葉での法事を終えた短い新帝都滞在の最後の晩も、遥か大川端から銀座で地下鉄乗り継いで向かったのは内藤新宿の西は武蔵野国、荻窪の杉並公会堂小ホールでありました。コロナ以降、所謂「現代音楽」の会場として定番化しつつある「東のレインボーブリッジ臨む豊洲、中央の早稲田文学部裏、西のオペラシティ地下と荻窪地下」のひとつでありまする。それにしても、どうして天下の音楽消費地にしておそらくは生産地たる新帝都トーキョーには、巴里のIRCAMスタジオやら音楽院横のシテ・ド・ラ・ムジークみたいな「現代音楽創作の拠点」みたいな場所がなく、若い連中が安くて制約が少ないヴェニュを探して歩く状況が永遠に続いてるんでしょうかねぇ。古くは草月ホール、渋谷ジャンジャン、池袋や宝町のパルコ劇場、ドイツ文化会館…転々としていくのが都会なのだ、とめればそれまでなのかな。「タケミツメモリアル」と名付けたオペラシティが、日本のIRCAMになるのかと期待したこともあったんだが…ぐぁんばれ、北千住!

もといもとい、そんなわけで、拝聴させていただいたのはこちら。
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https://afjmc.org/ja/japon-et-france2023/
https://teket.jp/7613/26184

ご覧になってわかるように、そろそろ「中堅」と呼ばれてしまうくらいの世代が指揮も担当し、若い世代の「フランス系」作曲家の作品を旧作新作次々と演奏、その間に師匠クラス世代の作品も挟んで紹介する、というものですな。正に田舎では不可能な、絵にかいたような「現代音楽」コンサートでありまする。

専門誌やマニア向けサイトでのコンサート・レビューみたいに、それぞれの作品について細かくあれやこれや触れていくつもりなど一切ない当無責任私設電子壁新聞としましては、あああぁこういう演奏会でもそれなりにちゃんと人がいっぱいになるんだなぁ、凄いなぁ、ヒッピー時代の名残を引っ張る草月会館やドイツ文化会館みたいな「黒いニットを来た髪の長い美女」とかとはちょっと違うけど、やっぱりトーキョーには怪しげな人がたくさんおるのぉ、とビックリするやら安心するやら…と記してオシマイにしてもいいんだけど、ま、さすがにそりゃヒドすぎるじゃろて。んで、似たような雰囲気ながら物凄く広い聴衆がてんでに勝手に楽しんでる感たっぷりだった花の都巴里の現代音楽聖地にどっぷり浸かった10日ほどの勢いで、ぼーっと感じたことを無責任にのべればぁ…

うううむ、世代も傾向もいろいろながら、みんな「己をひたすら追求する」って作品ではなく、「他人をしっかり意識して、人と人とを繋ぐツール」としての音楽をやってるなぁ。もしかしたら、これが「フランス」である所以なのかしらね。

フランスのメイジャー団体で長く重鎮を務めるある方と話をしていたら、「パリでは音楽や演奏会ってのは人が集まるための口実やきっかけ」という趣旨の発言をなさり、へえそうなんだぁ、ステージから眺めてるとそう見えるんだなぁ、と膝を打ったことがありました。無論、音楽としてひとつひとつは性格が違うし、基本は一作品一アイデア、って規模の作品ばかり(短いながら多楽章形式というか、異なるアイデアの櫛団子みたいなものもありましたけど)。そのそれぞれ、「なにをしたいか」ははっきりしている。己を探求しているうちにもう力尽きて終わってしまった、みたいなものはありません。その意味で、とてもプロっぽい作品ばかり、ということですな。

音楽はひとりで存在せず、いろんな人を巻き込むための媒体、極端に言えば一種の「社交ツール」である、という感覚。これって、田んぼの中に座って吹いてくる風やカエルの声に耳を澄ませ、ときおり遠くから響く列車や寺の梵鐘に我に返る、なんて田舎の音の風景とはまるで異なる、人で出来た都会の音たち。これは確かにひとつの「楽派」なのかしら。「美学」なんて懐かしい言葉で呼ぶ人もいそうだけど。

さても、そんなものをたくさん溜め込んだ耳を抱え、田舎に戻ったわい。しばしの間、さらば街の灯。年の瀬までお元気で、街の皆様!

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20世紀末に「普通のオペラ」を作るというヘンツェ老の挑戦 [現代音楽]

悪夢のような「まるでウィルソンではなくちょっとグラスらしきもの」を眺めた翌日の夕方にシャルル・ド・ゴール空港を発ち、ヴィーンの南をかすめ、黒海の彼方にウクライナの戦場を臨み、アンカラ上空から、カスピ海、カザフスタンを横断しゴビ砂漠、北京上空で右大曲をしつつ庶民向け朝食(なのか)を喰らい、直進するとぶつかるキム孫帝国を避けられたので天津上空でぐうううっと左大曲、黄海跨いで数週間前に上がり下りした仁川を眺め半島横断、松江辺りでホンシュー島に上陸し、セントレア向こうでいつもの温泉県往来の道に合流、曇り空の六郷河口空港に戻って参りましたです。手荷物引き渡しベルトが2本しかない第2ターミナル国際線は、今世紀初頭懐かしちっちゃな羽田近距離国際線ターミナルをうんと立派にしたようなもんで、入国を済ませるとそこにはインバウンドの浮かれた世界ならぬ、余りにも見慣れた土曜夕方の羽田国内線到着の雑踏が広がっておりましたとさ。

昨年来の数度の渡欧で「もう移動移動の間に、目の前に起きてることとはまるで関係ない日常作文作業を連日突っ込む」という現役時代の動き方は肉体的にも不可能と判断、東京→ソウル→大分→東京→ヴィーン→パリ→フランクフルト→パリ→東京と移動する3週間の間、隠居老人とはいえ必要な生活費を少しでも稼ぐために不可欠な商売もん作文は一切入れられん有様。コロナ禍の非常時を除けば、この商売始めてから初の「1ヶ月商売作文〆切一切無し」という状況でしたです。かくて、この水曜日からは温泉県盆地オフィスに戻り3週間のお籠もり、少しは食い扶持稼ぎをせにゃならん。うううむ、ホントに貧乏はイヤじゃのぉ。

もといもとい、んで、今回は経費的には些か無謀なパリ東京レガシーキャリア直行便なんて4年ぶりの無茶を行ったのは、明日の亡父十三回忌に千葉に居る為というのは勿論だけど、本日新帝都は旧鹿鳴館隣日生劇場で千秋楽を迎えたヘンツェ《午後の曳航》ドイツ語改定版舞台上演を眺める為でもありまする。
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なんか、オケの定期なんかでやたらやってたような気がしてたけど、最終改訂版の舞台上演って日本では初だそーな。

何度も繰り返しているように、今回の実質2週間弱の渡欧、「共著『戦後のオペラ』で記述を担当した作品の舞台上演は死ぬまでに全て観る」という目的を達成する、人生最期に残ってしまったテーマ貫徹のためでありました。その4作品を作曲順に並べると

ウィルソン&グラス《浜辺のアインシュタイン》(1976)
リゲティ《ル・グラン・マカブル》(1977)
ヘンツェ《午後の曳航》(1988/2006)
シュトックハウゼン《光の日曜日》(2003)

という順番になるわけでありますな(シュトックハウゼンのはいつ「完成」とするか、なかなか微妙ですけど)。ご覧になってお判りになるように、「ダルムシュタット楽派のセリエリズム国際普遍様式の探究→前衛の熟成と崩壊→現代版バロック・オペラとしてのミニマリズムの出現→歴史の解体とサンプリングの時代」と変遷した「戦後のオペラ」の、所謂前衛バリバリ時代以降の動きを端的に示す「傑作」ばかりという恐るべきラインナップ。ホントは、ドイツ某所で《ドクター・アトミック》も出ていて、それもなんとか眺めたかったんだけど、老体にもうそんな無茶は無理と諦めたです。

さても、ツアー最後となるニッポン国新帝都でのヘンツェ作品でありまするが、ま、ぶっちゃけ「20世紀の終わり、前衛的な価値は崩壊し、オペラ創作としてはバロックオペラにも似たミニマリズムが最も有効と判明してきた時点で、旧来のドイツ語文化圏の劇場文化インフラで処理可能なオペラ語法を用い、未だスタンダード作品が存在しない『アンファン・テレブルもの』という穴を埋めようとする巨匠の試み」だったと、あらためて認識させられましたです。普通のオペラハウスで上演する類いの作品から逸脱する試みを自らも様々に行い、周囲も戦後のオペラの技法がいろいろと出切ったところで、オペラ作曲の手練れが60年代頃まで本気で探求していた若き日の語法に敢えて立ち返り、その有効性を再確認してみた――そんな逆向きの実験作なのかな。なんせヴィドマンはまだこれからとはいえリーム全盛期、独逸各地の中規模劇場ではシュレーカーやらツェムリンスキーのルネサンスが進んでいた頃ですからねぇ。

ま、結論を言ってしまえば、上記のようなことがよーく判った、というだけでも充分な収穫だった公演でありました。以上、オシマイ。

…ってんじゃあいくらなんでも「感想になってない感想」にすらならんので、自分への備忘録としてもうちょっとくらい記しておきましょかね。

この上演、上のポスター写真をご覧になればお判りのように、聴衆に向けては「ヘンツェ」よりも「三島由紀夫」であり「宮本亜門」を前面に押し出す展開をしていたようで、今となっては夢のようなマキシム・パスカル指揮沖澤のどか副指揮の《金閣寺》の路線第二弾、って感じですね。となると、次はヘラス=カサド様などをお迎えし、満を持して《鹿鳴館》なのかしら。願わくば、日生劇場の記念年で「三島三部作」とか名打って連続上演でもして欲しいもんですな。

もといもといもとい、今回の舞台について触れないようにしているわけじゃないけど、まあ、わあああっと語りたくなるようなもんが案外とない舞台なんですよねぇ。妙に冷静に眺めてしまう、ってか。

なんせ御大が弄りまわした作品なんで、今回もカットがどうだこうだとか、メンドーな話はあれこれと出ているそうな。それはそれとして、やはり舞台としていちばん興味深かったのは、演出家宮本亜門氏の補助線の引き方、ってか、ま、有り体に言って、演出家がはっきりと判ってやらかした仕掛けに尽きるでしょうねぇ。

まあ、今更ネタバレもないし、収録した舞台をNHKBSで深夜にやるなんて話も聞かないので、観た方ならみーんな知ってることとして気楽に記してしまえば…宮本先生ったら船員のバイとしての性癖をはっきりと少年強姦(正確には「女」三つじゃなくて「男」三つにしなきゃならんタイプの)という形で見せてしまって、結果としてそれ以降の舞台全体が極めて判りやすくなってしまっていたことでしょう。まあ、これだけ「メロドラマ」的なオーケストラのみで描く部分が多い作品なんで、こういう解釈は作品が許しているわけですから、それそのものを悪いというわけではない。演出家の仕事とはなによりも観客に可能な限り「判りやすい」舞台を提供することだ、という考え方もあるわけで、その意味では極めて真っ当なやり方なのかしらね…と思わんでもない。

ただ、その仕掛けが「なんのかんのあっても最後の3分はきっちり盛り上がる」ってオペラの手練れヘンツェの作品全体の中でどう機能したか、今ひとつわからんかったことも確かです。作品としてのテーマを複雑化多面化し、深める機能はあったんだろーけど、強引にひとつの見方に引っ張っていこうとしいたわけではない。それよりもなによりも、なんで最後にママが息子ら不良共が旦那を殺す現場に駆け込んできてぶっ倒れるんだぁ、って方が気になったけどさ。申し訳ないけど、「おおおおお、ロマン派オペラみたいじゃぁあ!」って笑いそうになってしまった、スイマセン。

まあ、あとは、黒子の扱いというか、バランスがなかなか達者で、例えばダヴィッド・ヘアマンみたいな今時の売れっ子がやらかす「舞台上の余分なダンサーやら役者が煩くてしょーがない」ってんじゃあなかった。宮本亜門という方、流石に売れっ子の演出家だけあって技術者として手慣れておるわい、と今更ながらに感心しましたです。断片みたいな場面をちゃっちゃっと転換していくやり方も達者なんで、是非とも宮本亜門さんで《ヴォツェック》をやって欲しいなぁ、と思ったですわ。あ、無論、グルリッドのなんて捻り玉ではなく、ちゃんとベルクの楽譜を真っ正面から、ってこと。

以上、感想になってない感想はこの程度なんですけど、ホントに個人的な希望を記せば、「朝鮮戦争が停戦になった後のYOKOHAMA」という歴史的・地域的な背景で、横浜市やら神奈川県の文化財団が日本語版での決定版ともなる演出をひとつ作って欲しいんですよねぇ。今回の宮本演出でもそうだけど、ドイツのムジークテアター系演出家では恐らくは原作から読み取れないであろう、「元町の洒落たブティックや海外航路の船員が出入りし、太陽族と呼ばれる不良が跋扈する港町の目の前に占領軍の巨大な弾薬運搬基地が広がり、海を見下ろす丘には占領軍の邸宅が広がる軍都YOKOHAMA」がメタフォリックに表現する「戦後日本の失われたヒーローとしての父への渇望」を全面に押し出した徹底した横浜ローカルな舞台が観たいなぁ。船乗りはマッカーサーで、「永遠の12歳」の不良少年グループは横浜選出の田舎者スガ、親が横須賀港湾労働者とりまとめヤクザだったコイズミ、湘南のアメリカ人になりたい欲求を屈折して代弁するイシハラ(こいつが不良1号でんな)とコーノにしてくれ、とは言わないけどさ。三島由紀夫の最期から考えれば、間違った演出ではない筈なんだけどなぁ。

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