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《浜辺のアインシュタイン》のようなもの [現代音楽]

実質10日程の欧州滞在を終え、新帝都に戻るべく、今、パリはド・ゴール空港第1ターミナルにおります。先程からパソコンのバッテリーがおかしくなり、電源に繋がないと「充電ゼロ%」と表示され、シャットダウン。で、どんなに電源に繋いでも、ゼロ%から充電してくれません。これは困った。なんせバッテリーを自分で交換出来ない造りなもので、東芝さんが撤退して神谷町の駅上にあったこのブランドの修理センターがなくなってしまった今、修理を頼むとどっかに送らねばならず、仕事が全くできなくなるじゃないの。ううううむ…機内で作業が出来るかも微妙だなぁ。日本式の電源、預け荷物に入れてしまったんで、引っ張り出さないと。

さても、昨晩は今回の「『戦後のオペラ』で自分が担当した作品の舞台上演は全て眺める」という現役時代にやり残したお仕事の尻拭いみたいなツアーの締めくくり、《グラン・マカブル》と同じ年に初演された《浜辺のアインシュタイン》の、昨年だかにバーゼルで出て話題になった(のだろうなぁ…よく知らんけど)演出家スザンヌ・ケネディ&美術家マルクス・ゼルグ演出、ってか、独自改訂版を「パリの秋」芸術祭の舞踏部門の出し物として引っ越し上演する、というもの。
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https://www.festival-automne.com/edition-2023/susanne-kennedybrmarkus-selgbrphilip-glass-emeinstein-on-the-beachem
演出チームの日本語での紹介がドイツ文化会館のサイトにありました。こちら。
https://theatercommons.tokyo/2021/program/susanne_kennedy/
https://wired.jp/article/susanne-kennedy-vr-interview/

会場はフィルハーモニー・ド・パリやらシテ・ド・ラ・ムジークやらパリ国立高等音楽院やらがあるラ・ヴィレッテなるアートパークの真ん中に鎮座するかつてのとさつ場(ATOKさん、なんで漢字変換してくれないの?)跡地の大ホールであります。いつも横を通るけど、一度も入ったことない施設だなぁ。

この演出、今を時めく欧州最前線のヴァーチャル・リアリティなんぞを視野に入れたアーティストさんの舞台ということで、そっち方面の尖った方には大いに注目されているらしく、チケットは発売とともに瞬間蒸発。やくぺん先生ったら、なんとか返し券を手に入れて、取りあえずは見物出来ることになった次第…とはいえ、バーゼルで出たときの舞台写真などを眺めただけでも、これは相当にアヤシいぞ、って香りがプンプン漂うもんだわなぁ。

さても、ぶっちゃけ、やはりというか、想像された通りというか、昨年の横浜版の遙か斜め上を行くオソロシー惨状ぶりが展開され、3時間半の長丁場を過ごした巴里の聴衆が総立ち大拍手の中、怒り狂うというレベルを通り越し、これはもう全く別物の「《浜辺のアインシュタイン》のようなもの」じゃなぁ、と呆れかえって納得するしかないやくぺん先生がおりましたとさ。

かくて、感想とも言えない感想どころではなく…まあ、せめて舞台というかスペクタクルというか見世物として興味深い要素を列挙して、さっさと棚にしまい込んでしまいましょ。なかったことにする、ってわけにはいかんけどさ。

★客が舞台に居る
この作品、「演奏中に客が出入りするのは全く自由」という指定があるのは皆様よくご存じの通り。昨年の横浜版では、この原則を廃してまるで普通のオペラかバレエみたいに前半後半の間に休憩、という上演で、あああああそうなんだぁと思わされたのは皆様のご記憶に新しいでありましょう。今回のバーゼル版パリ上演、恐らく、ステージ上演として最も「斬新」で「先鋭的」な部分は、観客(敢えて聴衆とは言いません)が上演中に自由に出入りしていいばかりではなく、上演中の舞台に入り込んだり、舞台装置に座ったりしても構いません、って告知が出ていたこと。

どういう意味か判らなかったんだけど文字通りの意味で、巨大会場の半分を使って客席が仮設され
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客席の前には平土間に巨大な廻り舞台のステージが据えられてるんだけど
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出演者が踊ったり台詞を呟いたり歌ったりするのの直ぐ横に立ったり座ったり、はたまたオケピットの指揮者の真後ろから覗いたりしてもOKなんですわ。

最初は真面目に席に座ってた観客ながら、なにやらひとり女の子が舞台を動き回ったりし始めるや、あれ、いいんだぁ、って感じでワラワラと人達が客席から平土間に下りて、あちこちで踊ったりしているダンサーを取り囲んだり、座り込んだり。結果、なんだか巨大な大道芸大会が行われているのを外から眺める、みたいな感じになる。ぶっちゃけ、舞踏といっても殆どその場を動かず手の振りだけだったりするので、邪魔にならないといえばならないけど、うろつきまわる観客の影になり客席では見えなかったりします。よく眺めていると、どうやら明らかにサクラというか、客の振りをして観衆の動きをコントロールしてる奴がいるような気がしたんだが…やっぱり終演後のアンコールでは最初に舞台に行った女の子が役者のひとりとしてお辞儀してましたね。

「舞台と客席の垣根を取り払う」という意味では、些かアホっぽさすら感じる真っ正面からの直球勝負で、これはこれでとても前衛的と評価する人はいるんだろーなぁ…。ちなみにやくぺん先生は、ずーっと同じ席に座ってました。別にステージに乗って回転舞台で一緒にグルグルまわらなくても、何が起きてるかは判るしさ。

このやり方、バーゼルの歌劇場ではやれるとは思んわいなぁ。初演のときはどうだったのかしら。舞台の絵面はこちらのトレイラーからどうぞ。この映像では客がいないけど、ヴァイオリンさんが先触れで邪魔な客をどかし道を作りながら、死んだ(?)娘の葬送行進は客で埋もれた廻り舞台の上を進みまました。
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?&q=susanne+kennedy+markus+selg&&mid=C01F84B3E7B31364BE0BC01F84B3E7B31364BE0B&&FORM=VRDGAR

★テキストはウィルソン版にインスパイアーされた別物
開演前に扉の前に並んでる間にLibretrtoなる6ページのペラペラの英語フランス語対訳の刷り物が配布されたんですがぁ、それを開いた瞬間、「あ、これはウィルソンとは別物だ」と万人が思ったことでしょう。どんなもんなのか、説明するのもメンドーなんで、写真でご覧あれ。これが最後の辺り。ご覧のように「宇宙船と荒野」もありません。
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この舞台に接した人の記憶にイヤでも刻まれる「みすたー・ぼー・じゃんぐる」とか「季節外れにエアコンが効いたスーパーマーケット」とか「地球が動いているのを感じる」とか、そんなもの凄く印象的なフレーズは出てくるんだけど、まるっきり違うもんです。

この台本を、役者というか舞踏家というか、テープだけではなく、舞台を動き回っている複数の出演者が読んでいく。それもインテンポではなく、感情を含めたように読んだり。

そして、最大の問題というか、変更点は、この作品を4時間以上付き合った最後の最後に、E=mc2で舞台で起きた全てのエネルギーが質量に転換されるか、はたまた舞台の質量がエネルギーとなって宇宙の静けさに消えていくか、なんとも摩訶不思議な感動をもたらし、この作品が普通の意味で「感動」する名作である所以となっているバス運転手のモノローグも…一切、ありませんっ!まるで《ヴァルキューレ》の最後の最後で、ヴォータンが「我が槍の穂先を恐るる者、この炎を渡るべからーず!」と叫ばずに終わっちゃったみたいな、壮大な肩すかしじゃわいっ!ダメだろ、これ!

★音楽はやりたい放題
ま、客席と舞台が融合される、なんて試みは演劇ではいくらでもやりたい奴がいそうで、実際にやられているのでしょうから、ま、それはそれ。今回の試みがそれで何を言いたく、成功していたかは、正直、やくぺん先生には判らんです。つまり、そんなのどーでもいい、ってくらい別の大きな問題があった。

それ即ち、音楽面です。敢えて言います、ダメダメです。

演奏はバーゼルのチームがそのまま来ているようで、そりゃまぁ、これは他の連中には無理でしょ。だって、手に入る楽譜に存在しない音符がいっぱいあるんだからさ。演奏の順番も違うし、譜面にないまるでロマン派オペラみたいなダイナミックスや速度の変化があちこちにあるし。

正直、音楽面については、今、思い出しても苦痛なんで、語りたくありません。ゴメン。ただ、ヴァイオリン独奏さんはこの曲で長大なカデンツァ(としか言いようがないが…)やるとは思わなかったろーなぁ。歌唱でも、まるでベリオかリゲティかって具合の、グラスは絶対に使わないだろう「ニンゲンの肉体から発せられる様々な音響」が使われたり。

もう、グラスの楽譜を用いた別物、としか言いようがないです。敢えて喩えるなら、古典派の枠で存在している楽譜をロマン派作曲家がその時代の美意識でいじりまわした珍品楽譜がいくるもあるけど、あんなもんをグラスで聴いてる奇妙な感じでしたね。

それからもうひとつ重要な問題は、上演中、風音とか水音にも聞こえるような電子音がずーっと流されていて、ホントの意味での沈黙の瞬間がない。これも、演出家さんが音楽に関心ない人の場合はオペラでもよくやられる手であるとは百も承知とはいえ…ううううむ。

どうもこれ以上記しても罵詈雑言になりそうなんで、爺の繰り言はこれまで。そろそろ荷物を預けられる時間なので、カウンターに向かいます。いやぁ、今回の《ラ・グラン・マカブル》、《光の日曜日》、《浜辺のアインシュタイン》を10日弱で複数舞台観まくるツアー、最後を締め括るに相応しい(?)トンデモでありましたとさ。早くおうちに帰って、ウィルソンのシャトレ座でやった舞台のBlu-rayを眺めよう…って、温泉県盆地オフィス、まだそんなもん観らんないんだっけさ。

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音楽的には舞台世界初演~ル・バルコン版《光の日曜日》第3、4、5場 [現代音楽]

秋から冬に向かいつつあるフィルハーモニー・ド・パリ及びシテ・ド・ラ・ムジークで、今回の短いツアーの最大のハイライト、シュトックハウゼン《光の日曜日》後半第3,4,5部の舞台上演が先程深夜12時25分に無事終了しました。今頃、シテ・ド・ラ・ムジークと国立高等音楽院の間のカフェ・ド・ラ・ムジークでは、若い音楽家や舞台関係者、裏方さん、そのお友達などがまだまだ大いに盛り上がっていることでありましょう。

前半は第1,2場がどんなもんじゃったかは、数日前に当無責任電子壁新聞にアップいたしました。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2023-11-17
さても、それを受けての後半部分、シュトックハウゼン御大は「3日間で上演しろ」と仰っていたものを2日でやったので、開演は7時で、聴衆の会場移動やら含めなんのかんの、「日曜日のサヨナラ」がフィルハーモニーのロビーで消えていくまで4時間半弱。作品全体で約7時間の長丁場だったわけじゃ。

この公演、どのようなものかを評価すれば、「実質上の史上初の全曲舞台上演」でした。

え、初演は大震災後のケルンでしょ、とお思いでしょうが、某著名演出チームがやりたい放題でケルン歌劇場を傾かせたという伝説の世界初演は、後半では主役クラスのソプラノがキャンセルになり代役などいる作品ではないので役者が演技だけあてたとか、演出の水音やら舞台音がやたらと騒々しくて音楽が分からなくなっていたとか、なによりも決定的なのは、音楽的には上演場最難関の第5部では合唱版がライヴ演奏ではなく事前に収録したテープ録音の再生だったという事実。

《光》という長大なチクルスを締め括るこの場面、この「2つの会場で同じ楽譜のオーケストラ版と合唱版が同時に上演され、指定の箇所ではそのライヴ音響を細かい指定に従いつつ両会場で流される」という、エレクトリシャンにパガニーニ級の離れ業が要求されております。シュトックハウゼン御大、最後の最後にとうとうエレクトリシャンという20世紀後半に誕生した新進アーティストにまで、空前絶後の超絶技巧芸を求めたんですわ。ケルンの上演では、ぶっちゃけ無駄なサーカスみたいな演出にガンガンお金や手間や時間をかけたのに、作品として最も大事な部分では、合唱版をライヴではなくパッケージにして済ませる、というお手軽というか、敢えて言えば作品の本質を誤解しているとしか思えぬ逃げをうったわけですわ。ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番なんですが難し過ぎるんでピアノパートは別取りで演奏します、ってなもんだわね。シュトックハウゼンが生きてたら、絶対に許さなかったろーなー。

先程終わったケルン以来の(多分…)上演では、この場面、ちゃんとライヴでやりました。実際、2度目の演奏では第2オーケストラ指揮者さんのインカムが故障したらしく、演奏が始まってから待って待ってとダメ出しが出て、やり直しになりました。それほど技術的な壁が高く聳えるパーフォーマンスだったわけですわ。

なんか話が前後しちゃってるなぁ。スイマセン。この第5部って、オーケストラ版も合唱版も5つのグループが異なるテンポで同時に演奏するため、それぞれのグループにひとりづつと、オケと合唱全体統括ひとりづつ、総計12名の指揮者が必要なのです。いやぁ、《グルッペン》の3人の指揮者で驚いていてはいけない、御大、人生の最後でとうとうその4倍の指揮者を動員してしまったわけですわ。ホントに最後までお騒がせというか、トンデモな人じゃのぉ。当然、ケルンでの上演ではテープで事前に録音しておいた合唱版にはライヴでの指揮者は不要でしょうから、担当のエレクトリシャンひとり若しくは数名で処理したんじゃないのかしら。知らんけど。

以下、両者別の建物ながら客席間移動は10分も必要ないフィルハーモニー・ド・パリとシテ・ド・ラ・ムジークという2400席の大ホールと900席の中規模ホールの両方を活用し、ル・バルコンとそのチーム、ホール裏方表方が、どうやってこの現実的に上演至難な難物に対処したか、ザッと記します。音楽の中身よりも、「どうやって上演を実現したか」が関心の中心ですので、悪しからず。
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なお、FacebookのLe Balcon公式ページには、演奏者の間で走りまわってた公式カメラマンさんの写真がいっぱい上がってますので、どんなもんだったか雰囲気を知りたい方はそちらもどうぞ。
https://www.facebook.com/search/top?q=le%20balcon


まずはこのステージ、聴衆が持ってるチケットにはフィルハーモニー・ド・パリの座席が指定されてます。で、当然ながら、午後7時の開演時間前に席に着くと、今日は大人しくちゃんと舞台の上にステージがありますな。ステージは真っ白で、後ろに巨大なスクリーンがあります。第3部はバセットホルン、フルート、トランペットという《光》チクルスではお馴染みの主役級の楽器と、先頃の第1場でもソプラノと共に楽器の動きの差配をしていたテノールさんが登場、作曲者がかっちり位置を指定された通りに動き回り様々なデュエットを展開。曜日を象徴するいろんな要素が後ろのスクリーンに投影され、歌手がその名前を挙げていく。演奏家の動きと映像、さらに演奏される響きはエレクトリシャンが弄る、という複雑な作業が淡々と、地味に続けられます。《光》全体の中でもシュトックハウゼンがハッキリと「映像」という要素を持ち込んだ場面で、今では各地のオペラハウスで当たり前になった巨大スクリーン映像による様々な演出ながら、まだ前世紀終わりから今世紀初め頃は明快なヴィジョンは見えておらず、映像面はかなり指定は緩い。なんであれ、相変わらずの先取りっぷりではありますな。《日曜日》の中ではいちばんノンビリ座って眺めていられる場面ではありました。

んで、休憩があって、第4部も同じくまともな「ステージと客席」の括りの作品。シュトックハウゼン先生が今更ながらに《光》チクルス各曜日に振ったシンボルマークの説明をしてくださる、という場面ですわ。なんか、こういう「自分で作った決まりを延々と作品として説明する」って、ヴァーグナーなんかもやらかすけど(《神々の黄昏》のノルンが延々と「これまでの粗筋」やるところとかね)、こういうのがあるから長くなるんだわなぁ…とは愚痴りません。

なんせこの場面、判りやすいといえば破格に判りやすく、要は各曜日の歌手が後ろの巨大スクリーンに出されたシンボルマークを、指定された振付で歌いながら絵解きする。ま、その振付ってのが、どうしても『翔んで埼玉』のはとマークにしか見えなかったりするのはあんまりなギャグなんだけど、他の動きは手を合わせるお祈りが基本ですね。

この場面の最大のポイントは、各曜日の説明の最中にそれぞれの曜日に対応した異なるお香が焚かれること。これ、どうするのかと思ったら、平土間バルコニーそれぞれ客席にお香を抱いたスタッフが配置され、曜日毎に異なる香りを客席に振り撒いて歩くんですわ。いやぁ、とうとう「匂い」までやっちゃったわ、シュトックハウゼン御大!実際どんなもんなのか、些か懐疑的だったけど、なんのなんの、しっかり違う香りが7種類焚かれるのはハッキリ判る。でもねぇ、正直、もうこれって、完全に法事ですわ。

んで、最後にメゾソプラノとボーイソプラノ(年老いたエヴァとミカエル少年だろーなぁ)が登場し、ホンモノの馬(なんとお行儀良い子!)が上手から登場して、一緒に下手に消えていく。
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音楽的には余りの複雑さ故に耳がモチーフを理解する限界を通り越し結果として簡素にすら感じられる、最後のボーイソプラノの場面なんて、《ヴォツェック》の最後とは正反対な世界ながら、なんだかわからんが「感動」しそうになっちゃう不思議な場面でありました。

さても、残すところはあと場面はひとつ。この「土曜日に滅したルシファーなき平穏な世界で、エヴァとミカエルが結婚する」という様々な祝辞やお祝い式典に延々と6時間も付き合ってるようなこの《光の日曜日》というチクルス締めくくりの「シュトックハウゼンの《パルシファル》」の最後に、突拍子もない仕掛けが待ち受けている。既に記しましたように、ここからは35分程のスコアが3種類のヴァージョンで用意されている。ひとつは5群のオーケストラ、ひとつは5つの言語に拠る5群の合唱、そして電子音のヴァージョンです。聴衆は、この3種類をここから2時間ほどの間に、全て聴くことになります(最後のシンセサイザー版は、聴かずに帰っちゃってもいいんだけど)。

まず、フィルハーモニー・ド・パリの座席が平土間の方は、そのまま自分の席に止まります。で、バルコニー席の人は、隣のシテ・ド・ラ・ムジークに行くように命じられます。そんなことチケットにも書いてないし、事前に何も明かされてないんだけど、ともかくそういう風になってます。会場を移動する人は、フィルハーモニーのロビー出口で小さなトークンみたいなものを渡され、夜の10時もまわった寒い野外に一度出て、隣のシテ・ド・ラ・ムジークまで向かい、第1,2部をやった会場の入口でトークンが回収される。

と、平土間には後ろにいくつか椅子が並んでいるだけで、正面舞台に5群の合唱団が座っている前のだあああっと広がった空間に、ぺたりと座り込む。2階も開放されてるので、席が欲しい人は平土間後ろか2階に席を取ってください。自由席ですから。

で、インカム耳に突っ込んだ5人の指揮者(基本的に歌手も兼ねてました、なぜか女性ばかりだった)ズラリと並んだ5つの担当合唱団を指揮し、リズムと言語の異なる譜面を一斉に演奏します。この瞬間、フィルハーモニーでも、同じ譜面のオーケストラ版を5群のオーケストラと5人の指揮者で演奏が始まる。シュトックハウゼンの指定では、途中に何度か「別のホールで行われる別ヴァージョンの演奏音響が流される」ということになってるだけど、今や音声流すくらいだったらライヴ映像が出せちゃいますから、今回は巨大なスクリーンに映像付きで隣のホールの中継が映し出されます。無論、それぞれは音楽的にシンクロしていて、ある部分では微妙に時間をずらす、なんてこともやれれていたらしいが、とてもじゃないがそこまではわからんわい。

オーケストラ版では、二つの楽器の絡みでそれまでの6作品の音楽的な回想の断片が独奏みたいに繰り広げられ、マジで全部通しで眺めて来たなら、「おおおおお、とうとう全部が終わるんだぁ」という気になるんでしょうねぇ。合唱版の方では、最後にいきなりトランペット独奏が登場し、もうここまで付き合ってきた人なら「大人ミハエルが降臨したぁ」とイヤでも判る大団円。
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終わったら、大拍手もそこそこに、聴衆はだあああっと入れ替え。最初に合唱版をライヴで聴いた組は今度はオーケストラ版で、フィルハーモニーに戻り平土間自由席です。で、もう一度、同じ音楽のオケ版を聴く。既に11時をまわってます。演奏開始直前に上手からふたつめのオーケストラの指揮者さんのインカムがダメになったみたいで、ちょっと演奏が始まったところで止めて、なにやらちょっとバタバタしましたが無事最初から演奏再開。かくて11時45分くらいに全曲の終演となり、スクリーンの向こうも含めて総立ちの大喝采は続く。
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これで終わりと思いきや、最後の最後にお馴染み、「サヨナラ」が付いてます。今回は、前述のように第5部の音楽をシンセサイザーにしたヴァージョンが、終演後のロビーで流される。
https://www.youtube.com/shorts/BAz8yeZcBUI
最後まで付き合うと深夜も過ぎた12時25分、ロビーに残った猛者は流石に数える程でありました。
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感想以前、何が起きたか記したら終わってしまった、ゴメン。妙な演出は最小限ながら、御大が指定したことをともかくやれる限り誠実に、きちんと音にした若い人たちは、隣のカフェでいつ果てることもない宴会を続けておりましたとさ。

かくて《光の日曜日》、実質的には音楽の全曲の舞台として世界初演、現場にいないといくら解説を読んでも判らん化け物、とてつもない経験をさせていただきました。テクノロジー含め、まだシュトックハウゼンが作曲していた20数年前には不可能だったことが実現出来るようになり、誇大妄想はもしかしたらまともな音楽なのかもしれないぞ、と思えるようになった21世紀も20年代の巴里の夜は更ける。

次回はオリンピックを避けたか1年お休み、2025年秋に《月曜日》だそうな。大丈夫、これなら《水曜日》もやれるぞ、このチーム!カフェ・ド・ラ・ムジークと音楽院の向かいの噴水広場なら、ヘリ4機を充分に離着陸させられるもんね。問題は駱駝くらいかな。

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人が死なない悲劇としての《ル・グラン・マカブル》 [現代音楽]

今回の短い欧州滞在の二大ハイライトのひとつ、「リゲティ生誕100年記念《ル・グラン・マカブル》メイジャー歌劇場競演」、先程、無事に拝聴完了であります。無論、この歳になると絶対的な体力や快復力もなく、欧州時間で三晩も暮らしてもまだ朝の5時に起きてしまい劇場に居る時間にいちばん眠くなる状態が抜けぬ、なんと第3場後半という山場で睡魔が襲うという困った爺なのは…いやはや、ホント、マジで歳は取りたくないもんじゃわい。

てなわけで、今、オペラ・フランクフルトがこれまた意外にもこの劇場としては初めて出したという新制作舞台を眺めて参りました。
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ヴィーンがドイツ語版、フランクフルトは英語版で、前者はエコノミークラス14時間欧州到着当日で眠くて良く判らなかったけど、後者はショットさんが€50くらいで楽譜売ってる改訂版みたいでした。まあ、いくら改訂魔リゲティとはいえ、弦楽四重奏なんぞならともかく、この規模の作品だと折衷版というのはないでしょうから。

で、もう結論だけ言えば、ヴィーンとはまるで別物。基本的に同じ台本、同じ楽譜でここまで違うことをやれるか、って呆れかえる程のふたつの舞台でありました。これ、今、欧州にいらっしゃって機会がある方は、無理しても見比べる価値はありますよ。

「世界中から観光客が来るメイジャー劇場が出す安心して観られるオペラブッファ」だったヴィーン版に対し、フランクフルト版は「ドイツのオペラ評論家らがトップと褒めるムジークテアター系を視野に入れた最先端にしてバランスが取れた大劇場が全力で作った死人が出ない悲劇」でした。恐らく、配信やら映像収録パッケージ化などはないと思いますが、もしかしたらレパートリーに残るかも知れないなぁ。

簡単にネタバレ全開で、ロシア人演出家バルカトフが造った舞台のポイントを記します。ネタバレがイヤな人は読んじゃダメ。

舞台は現代で、いきなり舞台全体のスクリーンにCNNだかみたいな英語放送で「コメットが地球に衝突します」という速報が流され、昔の怪獣映画で良くあったパターン、次々世界中の放送局から各国語で流星衝突地球生命体の終焉ニュースが映されます(日本語はなかったのが東宝怪獣映画とは違うところじゃのぉ)。で、幕が上がるとどこかに避難しようとするものの車が大渋滞して動かなくなり、もうみんな自暴自棄になってるハイウェイ。POLIZAIというドイツ語のパトカーがいたらか、ドイツのアウトバーンというわけでもないじゃろがね。なんせ英語だし。

で、上手に出っぱなしになってるニュース画面に登場人物の来歴が紹介され、ピエトとか、アマンダとアマンドとか、どういう経緯で終末の瞬間に対峙しているかが示されます。なんか、文字情報多いなぁ。みんな普通の市民で、最大のポイントはネクロツァール。この「大いなる死神」さん、なんと霊柩車の運転手さんというか、要は「送り人」さんで、地球の終焉のニュースが伝わり世界中がパニック自暴自棄になったときも仕事中。若い女性の死体を霊柩車で運んでいる最中に事態に巻き込まれた。で、このオッサンが「俺が死神だ」と言い出し、普通のまともな生活をしていたけど世界の終わりの報におかしくなったピットやらアストラダモロスやら、棺桶の中の女性の死体やらを連れて、世界の終わりに大無礼講マリファナパーティをやってるゴーゴー王子の宮廷に乗り込む…って次第。

ま、お判りの方はこれでだいたいどんなものか判るでしょう。興味深いのはヴィーナスとゲポポ長官の扱いで、なんとこれは葬儀屋ネクロツァールが運んでた死体なんですわ。なんで歌ったり動いたりしてるか、正直、良く判んなかったけど、ともかくゾンビみたいなもんなんです。ちなみにアマンダとアマンドは、ヴィーナス&ゲポポ長官になる美人遺体の棺の中に入り込んで乳繰り合ってる。

第3場は、世界の最期を前にした大無礼講シーンになり、みんなどうせ死ぬんだからとゴーゴー王子が皿に白いお薬壮大に盛ってみんなにまわしてハイになり、滅茶苦茶やってる(そんな中で真面目に裏方やってる連中は、最期まで自分の本来の職務を貫くことで怖さを感じずに死んでいこうという奴はそれなりの数いる、ということなのか…)。で、第4場で終末がどう回避されたかは台本がいい加減なままに放置され、なんか知らんが惑星衝突は回避され終末は来なかった。みんな「いやぁ、マズいなぁ、無茶やっちゃったなぁ」と頭かきながら日常に戻っていく中で、ずっと死と一緒に生きてきてこの世界の終わり騒動でやっと死ねると思ってた(んだろうなぁ)ネクロツァールは、首をつって死のうとするがそれもできず、戻った日常の中で隅っこに小さくなって終わる。
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というわけで、世界の終末騒動に人々がどう生きて、結局、誰も死ななかったか、というお話でありました。最初から死んでた奴を除けば誰も死なず、悲劇ではない。でも、悲劇にすらならないオソロシー日常がまた続いていく、という意味では、極めて今っぽい「喜劇」なわけです。

音楽的には、今やマニアの皆様大注目のヴァイグレ御大を継いだフランクフルトの若きシェフたるグッギーズ氏が「現代音楽ですよ」という強調もなくしっかり楽譜を処理、ヴィーンのエラス=カサド先輩の「どんな舞台であれ、音楽はほれ、こんなになってます」ともの凄く的確にポイントを強調したスターらしいはっきり自分の仕事は示す音楽ではないものの、舞台の邪魔をせずにしっかり纏める立派なものでありましたです。

以上、感想は敢えてなし、どんなものだったかのご報告でありましたとさ。正直、これ観るためだけに大枚20万円だかかけて極東からフランクフルトまで来る価値は…あります。ベルリンフィルとヴィーンフィルとコンセルトヘボウの全演目を東京で聴くくらいのお値段で済むのですから、安いもんじゃないですかね。

さて、明日は巴里に戻り、旋律作家シュトックハウゼンの魅力炸裂《ティアークライス》を子ども向け舞台にしたというお子ちゃまコンサートに潜り込みます。うううむ、充実しすぎた日々であるのぉ。

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シュトックハウゼンを知らない子どもたちの儀式~ル・バルコン版《光の日曜日》第1、2場 [現代音楽]

シュトックハウゼンの連作オペラ《光》の中でも最後に完成された《日曜日》ったら、作曲者は実際の上演が可能かどうかまともに考えていたとは思えず、カティンカ・パスヴァーらシュトックハウゼンの手兵とも言うべき上演チームが中心となり、演出はラ・フラ・デルス・バウスがお得意のハッタリ見世物炸裂で、ケルン・メッセ・ドイツを会場に行った世界初演は財政的には大赤字で、オペラ・ケルンを傾かせたという正に「今ヴァーグナー」な展開でも大いに話題になったのは、当電子壁新聞を立ち読みなさっているようなすれっからしの皆様にはよくご存じの通り。

上の映像をご覧になればお判りのように、いかにもこの演出集団らしいアヤシげな世界が展開しており、あああこれは赤字になるだろーなー、と心配になってきますわな、確かに。

かくて「やるとカンパニーが倒産するかも」というシュトックハウゼンのトンデモ伝説に新たなページを付け加えてしまったこの作品、我らがマキシム・パスカルくん率いるル・バルコンが「初めてひとつの演奏団体が《光》全部やるぞ」と宣言し、まずはオペラ・コミークと組んで《木曜日》から着手したのは2018年の秋のこと。スカラでの世界初演の現代版リブートという忠実で誠実な再現は大成功を収め(ある意味で最も「オペラ」っぽい《木曜日》に関しては、バーゼルの上演など自由な解釈がいくつか既に行われておりました)、なによりも演奏チームにシュトックハウゼン正統的な伝統継承者たちを一切含まない21世紀のフレッシュな試みに、どこまでやれるものやら関係者の注目を集めたわけでありまする。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2018-11-18
ちなみに、ほぼ同時期にアムステルダムで行われた《光》全体の3分の1ほどを抜萃し3晩に纏めた試みは、土曜日の猫ちゃんでお馴染みフルートのパスヴァーおばちゃんが全体を監修した「第1世代の遺言」って感じの試みでありましたっけ。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2019-06-03

さても、《木曜日》の成果がフィルハーモニー・ド・パリのディレクターに注目され、劇場では上演出来ない最後の場をシテ・ド・ラ・ムジーク横の運河を巴里中心部に遡ったところの教会に移し上演された《土曜日》も灼熱の巴里で大成功。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2019-06-30
フィルハーモニー・ド・パリが主催に加わり「パリの秋音楽祭」の一部として上演が続くことになり、そのまま作曲順に次は《月曜日》と発表されたところ、コロナ禍がやってきた。チクルスも頓挫しかけたののの、どっこい、ともかく規模が小さいやれるものを先にやってしまおうと、《火曜日》がコロナ禍未だ開けぬフィルハーモニー・ド・パリで第3弾として上演される。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2020-10-27
んで次の《金曜日》は、《土曜日》のパリでの上演に接し衝撃を受けたニッポンの某関係者などの動きで、東京とパリの二つのオリンピックを繋ぐ文化事業として池袋での上演を視野に入れたプロジェクトとして動き出し、マキシムくん来日時に池袋で内輪の記者会見まで開き業界関係者にはまだご内密にと告知もしていたんだけど、五輪延期騒動で関連文化予算がゼロになってしまい都議会で予算が通らず、日程まで抑えられていた池袋との《金曜日》共同制作企画は哀れ立ち消えとなってしまった(これまで当電子壁新聞では、この経緯に関しましては敢えてオブラートに包んだ表現をしていましたけど、もう時効だろうと判断し、はっきり記します)。そんな事態を乗り越え、なんとかリールのオペラハウスとフィルハーモニー・ド・パリとの共同作業で昨年秋に上演され、やくぺん先生は関係者の涙を背負い見物に参ったのが昨年の今頃。

で、次はやはり《月曜日》のリベンジじゃろねと思ったらぁ、なんとなんと、ヘリコプター4機舞飛ぶ《水曜日》と並び最後の最後の難物と思われていた《日曜日》を、この秋にやるという。それも「第1,2部をシテ・ド・ラ・ムジークで2公演、第3,4,5部は倍の客が入る隣のフィルハーモニー・ド・パリで午後7時から深夜過ぎまでかけて1公演」という奇策を採ってきたわけでありまする。

かくて、先程、シテ・ド・ラ・ムジークでの《光の日曜日》第1,2部の2公演が無事に終わったところでありまする。後半は、週末休んで月曜日の夜。ふううう…状況の説明だけで疲れたわい。

さても、本題です。この《日曜日》という作品、なんせかのシュトックハウゼン・エディションでもひとつの作品としてCDパッケージになっておらず、全5部が別作品としてバラバラに収録されていることからも判るように、もう「ひとつの作品」という概念もどっかに置き去っちゃったような代物。やくぺん先生ったら、6カ国語の6群の合唱団が平土間に座った客の間を練り歩き神(カトリックの創造神の筈なんだけど、やっぱりシュトックハウゼン教の無茶苦茶普遍的な神様、って感じですな)を賛美する、という第2部だけはアムステルダムで今初台界隈では話題のピエール・オーディ演出《光》抜萃で接したことがあるだけ。他は解説眺めてもシュトックハウゼンといえば定番の松平さんの著書をパラパラしても、正直、なんだかよーわからん。

まあ、「オペラ」と言っても正にラテン語やイタリア語の本来の「作品」という意味でしかないもんだから、何が起きても驚かんわい。で、まずは本日の第1,2場は、共に「普通の意味でのステージはなく、聴衆の間を演奏者が動き回る」という作品、ぶっちゃけ、些か遅れてやってきた前衛時代の所謂「シアターピース」でありまする。だから、自由席の2公演、まずは中に入って見物しようと、初日は開場時の混乱に敢えて飛びこんで
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シテ・ド・ラ・ムジークの楕円形オーケストラの、指揮者が立つと思われる辺りの近くに陣取ったであります。こんな視点じゃ。
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目の前に第1場でグルグルと位置を変えてスーパーフォーミュラを点描で演奏する楽器奏者のためのスタンドが生えるじゃわ。この場面、普通のオペラの感覚で言えば「ヒロイン」のエヴァ(なんじゃろかなぁ…)役をニッポンでは古楽系歌手として知られる高橋美千子さんが担当しており、台詞とも言えない惑星の名前やらを連呼するテキストを歌いながら平土間を走り回り、オーケストラメンバーに光を灯し、大活躍でありました。

このル・バルコンのプロダクション、今時のヨーロッパには珍しく案外と我が同朋の方が殆どスタッフや演奏メンバーにいないので、高橋さんは新世代のシュトックハウゼンを経験している貴重な存在でありますね(松平さんなどは、作曲家と繋がりがある世代の最後の辺りでしょうから)。日本でもこれを…とは言わないけど、まだまだ池袋関係者、シュトックハウゼンのプロジェクトは諦めたわけじゃないみたいですから。

ちなみに伝説のケルン初演では、あのハッタリ演出集団らしく、歌手は宇宙服着て吊り下げられたりして、膨大な予算を使って移動遊園地か大スペクタクルか、って風にやったみたいです。でもこのル・バルコンのプロダクション、基本は「ともかく自分らで出来るやり方でこの無茶な大作を音にしてみよう」って、マキシムを中心に若い世代がなんだか学祭っぽいノリでやってる感があって、お金かけたスペクタクルを商売にしているプロのオペラ演出家の考えてる「この作品をなんとかオペラとして聴衆を楽しませるものにしよう」という感じはあんまりない。今時のオペラハウスが盛んに行う映像を絡ませていろいろ説明する、ってのもない。フランス語字幕が出るだけ。ケルンの大見世物の再現を期待したファンには肩すかし、「シュトックハウゼンの《光の日曜日》の演奏会形式上演かぁ」と言われても仕方ない…かな。ま、ロマン派オペラを「オペラ」と信じている方が来るような演目ではないから、と割り切ってるんでしょうけど…

もとい、で、第2部になると譜面台が片付けられ、ブタカンさんが平土間の聴衆に「荷物そこ置かないでね」とチェックしてまわります。今日の2日目は全体を俯瞰するために2階の通り側(弦楽四重奏ビエンナーレなどではステージが設置される側の上)真ん中に陣取ったわけじゃが、へえ、これだけ動ける空間を確保しないといけんのね。
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ここをヒンズー語とか中国語とスペイン語とかアラビア語とか、前世紀の終わりくらいの時点でこの地球上で使っている人数が多い順番に5カ国語を用いたという合唱総計6グループの天使たちが縦横に動き回り、ひたすら神を賛美する。ぶっちゃけ、バロック多声音楽のもの凄い数のポリフォニー作品の、モダンなシアターピース版ですわ。こういうの、ライヴで柴田南雄先生なんかに観て貰いたかったなぁ、どういう皮肉を漏らされたやら。《追分節考》なんて、《光》チクルスが発想される頃の同時代作品なわけだもんねぇ。

シュトックハウゼン晩年作品は、音楽としての作りが複雑になっていけば行くほど、逆に複雑さがホワイトノイズみたいになって、聴衆にはそんなに面倒なものに感じられなくなってくるという不思議な矛盾というか、妙な現象が起きる。この辺りの最晩年作品になると、正にそういう「作品(オペラ)」だなぁ。いやぁ、やっぱりライヴで接しないと判らんですね、この感じは。

てなわけで、なんだかしらんけどスゴイもん聴いた、って感じの聴衆の大喝采の中、ホール中の聴衆に何度もお辞儀をして、演奏者たちの達成感と盛りあがりもこれまたスゴイもんでした。あ、今、「カフェ・ド・ラ・ムジークで盛り上がってるぞぉ」という連絡がマキシムくんから来たわい。いやぁ、正に学祭ノリじゃのぉ、若い人たち。

シュトックハウゼンを全く知らない子どもたちが、手元に遺された無茶苦茶な楽譜を前に、神格化や楽聖伝説やら先入観やらを取っ払い「ここにはあらゆるものが詰まってるじゃん、いっちょやってみようぜ」ってノリで、予算やら仕掛けやら、自分らのやれる限界の中で取り組んでいる。既存の劇場の「オペラ」という言葉への拘泥や、今や神となった作曲者直伝の長老達の姿は、ここにはない。

さて、問題の第5部、隣のフィルハーモニー・ド・パリに会場を移し、どうなることやら。

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ヴィーン国立歌劇場なりのブッファ《ル・グラン・マカブル》 [現代音楽]

羽田を深夜に発ってロシアとアラスカの間を抜け、北極点を左に眺め、アイスランドを横切りノルゥエーとブリテン島の間をだあああっと降下し、猛烈な偏西風に押されながらも14時間35分の長大なフライトでANAの長い78くんがフランクフルト空港に到着したのは、まだ夜も明けぬ朝の5時半過ぎ。
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思えば今年2023年は、やくぺん先生の世を忍ぶ中の人がまだガキだった頃に初めてニッポン列島を離れ、まだピカピカだったKLMのレガシージャンボで羽田を発ち、アンカレッジで給油し、アムステルダムはスキポール空港に降り立ってから半世紀の記念年ではないかぁ。コロナ前の2019年以来の欧州直行便でアラスカの地に立ち寄ることもなく、半世紀前とほぼ同じ道を今時の長距離ジェットで一気に飛び抜ける、長いながぁああああい永遠に夜が続くようなたびの空。

半世紀前には、21世紀にもなれば当然人類は月面のアームストロング・シティに定住していて、宇宙ステーションくらいなら万人が普通に行っており、地球上の移動なんぞはボーイングやダグラスが造るコンコルドの後続機でマッハ3越えで大陸間を飛び回るのが当たり前、ジャンボは全て貨物機に転用されているだろー…なーんて思ってたわなぁ。まぶしすぎる、来なかった未来たち。でも、ポケットの中の携帯端末でヴィーンからトーキョーのお嫁ちゃまに顔テレで連絡してるなんて、誰も考えていなかった。どうしてこんな「未来」になってしまったやら…

とにもかくにも、なんだかんだで無事に乗り継ぎ便も拾えて、昼前にはヴィーンの中央駅至近の安宿に到着。中央駅、っても要は昔の南駅で、空港特急は相変わらず音大やラズモフスキー邸のあるミッテ駅に行ってしまい、トラムに揺られてブルックナーが最晩年を過ごした宮殿脇をノンビリ走ってやって参った次第であった。

今回のたびの空、目的は既に何度も触れているように「新国立劇場発行冊子『戦後のオペラ』で自分が担当した作品は全て舞台ライヴで観る」という隠居老人人生最後に残った目的を達成するためのルーティーンワーク。仕事ってば、哀れに思って某オケの方が差配して下さったインタビューが巴里でひとつあるだけ。原稿としては売れてるものは一切ない、というか、もう売れっこないので営業活動も本気でやってないのであーる。ふううう…

さてもさても、今回は「生誕100年が世界で祝われるリゲティの《ル・グラン・マカブル》が、ヴィーン国立歌劇場とオペラ・フランクフルトで上演されるのを眺める」というのが大テーマのひとつ。さっそく、午後7時開演の舞台を見物し、今、安宿に戻って参りました。地下鉄二駅、コートは連れて行かなくても良いのはありがたいけど、ホントは到着直後のその晩に見物などしたくないわなぁ。ま、円の超絶安の上に隠居後の収入激減状態が続くやくぺん先生ったら、1泊の代金すらケチらねばならない状況で、このよーな無茶になるのであーる。返す返す、「金で解決」という手段が選択出来ない貧乏は、イヤなもんじゃのぉ。

とにもかくにもヴィーン国立歌劇場としてはなんと初上演というリゲティのオペラ
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無数にある「戦後のオペラ」の中でも、前衛時代の集大成たるツィンマーマン《兵士たち》、21世紀のインスタレーションまで含みミニマルがこの時代の最も成功した様式であると証明するグラス《浜辺のアインシュタイン》、大戦後まで残ったヴァーグナー的個性の末端肥大で世界を包み込む狂気の怪作シュトックハウゼン《光》チクルス、歴史上の偉人の苦悩が深遠な魂のドラマとなる19世紀グランドオペラが現代でも存在し得る事を示したアダムス《中国のニクソン》などなどと並び、実験音響と黒いシュルレアリズムの集大成として、数にして片手ほどの作品しかない「戦後のオペラ」のスタンダード名作のひとつとなっている作品でありますな。なんせ、第3場に登場して舞台をかっさらっていくゲポポ長官の狂気のコロラトゥーラ・アリアは、《ヴォツェック断章》やら《ルル交響曲》と同様に切り取られて《マカーブルの秘儀》として盛んに演奏される人気演目なわけで、当然ながら世界各地の主要劇場がこぞって新演出を出すだろうと思ったら…恐らくはコロナ後の日程やら予算やらの問題で、思った程の競演とはなっておりません。今週のヴィーンとフランクフルトは、ドイツ語圏では最も目立ったリゲティ記念年イベントとなるわけで、これはもう隠居爺としてもノンビリ温泉県盆地で風呂に浮かんでるわけにもいかんじゃろ。

もう眠くて仕方ないから、以下、めんどーな前置きはとっぱずして感想になってない感想。今回のヴィーンの最大のポイントは、なんといっても「ヴィーンフィルが韓国日本ツアーの真っ最中に、敢えてこんな主要作品を舞台に出す」という確信犯的なやり口と、その仕事を引き受けたエラス=カサド様の手腕でありましょう。歌手などは、正直、ゲンダイオンガク分野での専門スターというのではないし、演出家も所謂現代オペラを多数手掛けている人ではなく、ヴィーン国立歌劇場からトラムで直ぐのブルク劇場のレジデンシィだったりもした方で、オペラ初演出はいきなりコロナ前にザルツの《ポッペア》ということで、ある意味、この類いのアヤシげなものを出してコア聴衆にから非難を浴びないようにする配慮とすれば、まあある程度は無茶のない歌劇場としての選択でありましょう。

結果から言えば、「第2次大戦後の最も成功したとされるオペラ・ブッファを、ヴィーン国立歌劇場の抱えるスタッフとノウハウの中で、ヴィーンなりに造ってみた」というものでありました。つまり、『オペランヴェルト』で年間最高の劇場と評されることを目的にあれやこれや尖った演出や演目をガンガンやってるドイツの中小規模歌劇場、敢えて言えば、この土曜日に見物にいくフランクフルトみたいなやり方とは真逆のメイジャーハウスが、無茶な演目としてではなく普通にやれるものとして造ったプロダクション、であります。

正直、所謂「ヴィーンフィル」として公認アルバイトやってる団員達が正にサントリーホールなんぞでR.シュトラウスの交響詩規模の作品で公演をやってるわけで、いくら編成が小さいからといって居残りメンバーでやるんだろうか、それも「練習に来ていた奴が本番に来るとは限らない」というやり方を当たり前にしている当劇場、それが通用する作品なんじゃろかい?これはもう、実際のところピットの中はエラス=カサド様の肝煎りで引っ張って来た連中や、この類いの作品に慣れたクラング・フォーラム・ヴィーンの連中が「ヴィーン国立歌劇場管弦楽団」として全5公演だか全てに同じメンツで座ってるんじゃないかしら…なーんて邪推しておったわけです。

ところがどっこい、貧乏人が大枚€100以上はたいて購入した4階1列目ピットから見下ろすに、どうもそういう感じじゃなく、もうひとつのお留守番舞台演目たる《魔笛》にも出てる奴らなんかいなぁ、って顔ぶれが座ってら。
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へえええ…これはホントに「リゲティ生誕100年フェスティバル」上演ではなく、普通の新レパートリー公演、ってことみたいですな。

かくて始まった舞台、率直に言って、リゲティの無茶苦茶で敢えて意味が分からぬようにしてある作品を、ハウスの全力をもって《ドン・ジョヴァンニ》とかみたいな「オペラブッファ」にしてしまった、というものでした。本来は登場人物は少ない筈の第1,2場でも、冒頭からずっとほぼ裸(大丈夫、パンツ履いてます!)のダンサーがあれやこれや動き回っており、舞踏が明らかな意味を持った演技の一部になってます。死神ネクロッツアーは、「ニンゲンだか幽霊だかわけのわからん得体の知れない存在」じゃなく、アヤシいことは怪しいが、まるでヴォータンかファルスタッフか、って感じのオッサン。あ、これはリゲティが拒否したという使われなかった台本案にあったという「実は死神は詐欺師だった」をやるのかな、と思ったくらい。

ともかく舞踏団の皆さんの動きが繊細の音楽を台無しにするくらい煩かったり、視角的にも煩かったり、なにやらいろんな意味ありげなことをやっていて、アストラダモロスの鬼嫁が殺されて2場が終わり休憩になった時点では、おやおや、これは昨年の横浜アインシュタインの上をゆく酷いもんを見せられてしまうのかな、と暗澹たる気分になっていたでありまする。

ま、第3幕でブリューゲルランドの国民が絡んでくるところになると、舞踏やら合唱やらがいろいろ動き回ってるのも納得は行くようになるわな、さすがに。とはいえ、こんな「ヴィーン国立歌劇場バレエ団フル動員」って舞踏オペラみたいにするやり方って、これまでこの作品上演では観たことがなかったような。これが初めてってことはない試みだろうけど、少なくともやくぺん先生がこれまで舞台として眺めて来た中で、ここまで「バレエ・オペラ」にしているのは初めてでした。ちなみにこの作品では、やはりブリュッセルのパドリッサ・チームがやった奴が、いちばん納得出来たなぁ(外ればかりとしか思えんチームの珍しい成功作でんな)。

もといもとい、で、些か物足りなかったのは、声楽的にも舞台映えとしてもいちばんキャッチーなゲポポ長官の第3場での大活躍が、いまひとつだったこと。ちなみに第2場でのヴェヌスと同じ衣装、同じ歌手、同じ動きでしたが、その関連性がなんなのかは…自分で感じなさい、でしたね。

このやり方が最も成功したのは、まるでドン・ジョヴァンニが死んだあとにみんなが出てきてオペラ・ブッファ的なオシマイの場面をやるような第4場後半で、この辺りからはエラス=カサド様率いるオケがエロイカテーマを12音列にしたパロディをはっきりそれと判るように聴かせたり、ノーテンキのレズビアンカップルが話を纏めるパッサカリアもそれなりに格好がついたり、音楽的に極めてしっかりしておりました。もうこっちが「ああ、こういう舞台なのね」って納得してきた、というのもあるんでしょうけど。

もう眠いので、オシマイ。ともかく、「リゲティの傑作を、ハウスの総力を挙げて普通のオペラブッファに強引に落とし込んだ」というこの舞台、後になって思えば極めてヴィーン的なやり方といえばやり方、こういうのもあるんだなぁ。終演後の喝采も、舞踏チームがいちばん大きかったような。

意外なことに、観光地ヴィーンオペラハウスにやってきていた楽しそうな世界中のお客さん、案外率直にこの無茶な舞台を眺めており、途中で呆れて帰った人は周囲にはほぼ皆無でした。もっと「外れ引いちゃった」感が客席に漂うかとも思ったんだけど…へええええ。

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北原白秋の『まざあ・ぐうす』をテキストにする [現代音楽]

本日午後、ティアラこうとう小ホールで、打楽器奏者として知られる會田瑞樹氏の新作、組曲《北原白秋のまざあ・ぐうす》日本初演が行われました。
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ヴィブラフォンを中心に打楽器奏者として活動する會田氏は、音楽活動、とりわけアンサンブル活動がほぼ不可能になってしまったコロナ禍の異常な時期をひたすら打楽器を叩くことで乗り越え、それ以降のコロナ明けの新時代、ジワリジワリと音楽世界(業界、というよりも、世界でんな)が変化していく中で、極めて重要な仕事をなさっている若手さんでありまする。個人的には、こういう方の活動こそがこの先の「クラシック音楽」界を担っていくのだろうなぁ、と思ってますが…そもそも「クラシック音楽」界なんてもんが存在すれば、ですけど。

ま、それはそれ。本日は猛烈に演奏会が重なり、昼間も日本フィルさんが団の未来を託した新音楽監督の記者会見などもあってそちらも顔を出せれば出したかったんだけど、ま、そっちは見ている人もいっぱい居るわけだから、今更やくぺん爺なんぞが居なくてももーまんたい。で、気楽にティアラこうとうに向かったわけでありまする。なお、前半には佐原詩音さんのアイヌ語による新作とか、笹原絵美さんの編曲作品とかあったわけで、そちらを紹介しないのは失礼とは重々承知はしつつ、こんな「書いてあることはみんな嘘、信じるなぁ」をモットーとする無責任私設電子壁新聞故、お許しを。

さてもさても、この會田作品、ぶっちゃけた言い方をすれば「ソプラノ歌手、役者、ヴァイオリン、ヴィブラフォンによる北原白秋訳マザーグース詩集から45編を選んだ演奏会形式舞台作品」とでも言うべきものでありました。強いて言えば、ものすごおおおおく近くて遠い感じながら、コロナ禍以降世界中で大流行で一種の作品ルネサンスが起きているストラヴィンスキー《兵士の物語》みたいなテイストの「作品」かなぁ、ってかな。

話がいきなり結論みたいになっちゃったけど、もうちょっとだけ作品についてどんなもんか記せば…

北原白秋が関東大震災よりも前の1921年に出版した『まざあ・ぐうす』
https://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/546_21324.html
132編が訳されている中から45編を選び、歌唱、芝居、朗読、器楽演奏など、雑多なスタイルの小品集として演奏時間45分程度に纏めたもの。中には小品というよりも「小ネタ」としか言い様のない短いものから、「歌曲」として取り出せそうなもの
https://www.youtube.com/watch?v=KZCVUWw8Ii8
はたまた今時はやりの聴衆参加の部分まで含まれる。
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全体を張り巡らすモチーフのようなものがあるか、というとそうでもなく、でも何故か全体としては不思議に統一されたテイストが感じられる。それがどうしてなのか、ちゃんと分析出来るのかもしれないけど、ゴメン、ボーッと眺めてただけなんで今は無理です、スイマセン。

終演後、《ドン・カルロ》5幕版が6時から上演されるので上野まで吹っ飛んで行かねばならず(冒頭の初稿でもカットされたというフォンテーヌブローの森での民衆合唱蘇生というウリは、間に合いませんでしたぁ)、ご挨拶も出来なかったのですが、やはり今しか言えなさそうな感想ではあるから、「なんだか、まるっきり違うとは百も千も承知ながら、《ゴルドベルク変奏曲》全部聴いた後みたいな感じがします」とお伝えしたら、先程、それほどネガティヴではないお返事をいただきましたです。

作品として考えると、実はそれぞれのジャンルでのガッツリしたプロがいないとやれない、中途半端なやり方をしても効果がないだろう楽譜で、とっつきやすそうに見えてきっちりした上演は案外難しいかも。でも、チームを作ってしっかり仕込めば、それこそ前述の《兵士の物語》みたいな「子どもも大人も楽しめる地方巡業楽団のメイン作品」になり得る可能性を感じさせられます。このところ盛んに接する流行の「コンセプチュアルな演奏会」を可動式パッケージにした、ってものとも言えますな。

この作品、最大のポイントは、いくらでも日本語訳があり、場合によっては音楽や舞台の要請に合わせた新訳を作ってしまえば事は簡単なテキストを、敢えていろいろな意味で扱い難い北原白秋訳にしていることでしょう。後の『マチネ・ポエティク』みたいなリズムがあるわけでもなければ、明治期の漢語調リズムが脈打っているわけでもない、極めて微妙な、21世紀の一般的な日本語文化圏の人間とすればギリギリな感じのゴツゴツした日本語のテイストが、20世紀大戦間時代初期っぽいテイストに合っているといえば合っている(逆に言えば、合っていないえば合っていない)。

會田氏に拠れば、白秋が遺した132編全部を作品化する構想もあるとのこと。それはそれでマーラーの交響曲ひとつくらいの長大なものになるわけでしょうが、今回のこの初稿版は、これで充分以上なまとまりがある作品であると思うです。なんせさ、これなら、前半にそこにいるいろんな楽器や歌手や演技者のソロというか、アンサンブルであれやこれややり、後半に組曲《まざあ・ぐうす》をやる、なんてアウトリーチのフルステージ公演が出来るもん。

今年出会った「新作」の中で、将来の育ち方が最も楽しみなひとつでありました。なるほど、これがリミックスの時代たる21世紀の「創作」なんだなぁ。関係者の皆様、お疲れ様でした。

請う再演。てか、請うツアー。

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耳を澄ます音楽は何度でも聞くべきなのじゃ [現代音楽]

新国立劇場、国立劇場、国立能楽堂、国立文楽劇場、国立劇場おきなわ、等々、日本各地の国立芸術ヴェニュで「第78回文化庁芸術祭」が賑々しく開催され始めた神無月、コロナ混乱下に消滅してしまった「フェスティバル/トーキョー」の流れを汲む我が新帝都が主催する「東京芸術祭2023」も先月から始まっておりまする。
https://tokyo-festival.jp/2023/
ちなみに両者、全く関係はありませんっ!いやはや…

正直、今やすっかり気分は温泉県盆地の田舎者のやくぺん先生ったら、当初この都フェスティバルの枠組みで予定されていた某企画が「オリンピック予算拡大のためにお金がありません」って理由でやれなくなってからは関心はなく、「へえ、太陽劇団ってまだやってるなぁ」なんて叱られそうなことをボーッと思ってたくらい。とはいえ、初台で「芸術祭」参加の千葉やイスタンブールのオーケストラやソウルの弦楽合奏団なんぞを拝聴すべく新帝都に戻って来ている連休初日、ちょっくら池袋に足を伸ばせば眺められるこんなイベントがあるいというので、覗いて参ったのであったぞよ。
https://tokyo-festival.jp/2023/program/the-far-from-ensemble/
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なんと、Yahoo!ニュースさんが取り上げて下さっているようなので、もう説明はしませんです。ほれ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/5ced333d0cfd5a5f9e98a5ee7483d02d20daaf4e

この類いの「環境音楽」に親しみのある方には説明は不要でしょう。要は、「池袋の東武改札下の有楽町線改札から芸劇やメトロポリタンホテルの方へと地上に出る狭くていつも混雑している吹き抜けのエスカレーターを上がったところ、JR線路側の東武デパートと芸劇側Lumineの間の細長いガレリア部分2階に、四群に分けたトロンボーン・アンサンブルを配置し、遠距離からの響きに挟まれるような音響空間を創る」というもんですな。
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下は、本番開始前、メトロポリタンホテル側の階段から2階に向かう演奏者の皆様の姿じゃわい。
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作曲者さんが語る趣旨などはYahoo!ニュースの記事にもガッツリ出てますので、なるほどねぇ、と思っていただけばよろし。

んで、それらを踏まえた上で、本日午後1時の最初の本番と、初台でイサン・ユンなんぞ聴いて戻って来た午後8時の3回目の本番とを聴いたところでの率直な感想を記せばぁ…

うううむ、やはりこういう「聴衆に耳を澄まさせ、自分でいろんな響きを発見してもらう」タイプの創作って――今回は作曲家さんがいて、譜面もあり、モチーフがあってリズムがあって和声が決められいていて、10分弱くらいの時間の区切りの最後に向け即興的に盛り上がるみたいだったりするわけだから(譜面拝見してないんで、単に聞こえた印象だけで記してます、ゴメン)、ひとつの「音楽作品」と考えますけど――やっぱりどうしても、「特殊な空間で演奏される作品」になっちゃうんですよねぇ。

池袋の街に響いている様々な音響の中に人為的な創作物(正に文字通りの「アート」ですな)を放り込み、それがその場所にたまたま居合わせた人の耳に入り、何かを感じさせたり、させなかったりする、という「イベント」としては、ぶっちゃけ、昼の部を体験すべし。芸劇前の豊島区イベント広場ではよさこい大会をやっていて、メトロポリタン側の通りにはサイレン鳴らした救急車が駆け抜け、東武の改札口の向こうからは始発終点列車が出入りしている。そんな沢山の「音楽」ではない、とはいえ「自然」でもない音響世界。様々なノイズのと混じったり混じらなかったりしながら「とおくのアンサンブル」が聞こえてくる、という状況が現出する。そして、恐らく作曲者さんは、「それ全体が作品なんです」と仰るでしょう。

それに対し、連休初日の午後8時ともなると、流石に外で騒いでる奴はもうおらず、人の流れは減ったとはいえ天下の池袋ウエストゲートパーク前、ガレリアに響く足音やらドトール前をホテルの方に行く車の音、まだまだやっとこれから2次会と盛り上がるできはじめの酔っ払いの声、くらい。そこに響き渡るトロンボーン・アンサンブルは、デカすぎるカザルスホールかはたまた水戸芸術館エンタランスのオルガンロビーにでも響くステレオ音響を聴くような、案外と純粋なコンサート空間になってしまう。それこそ秋吉台の専用ホールでノーノの《プロメテオ》やるぞぉ、ってのと、そう違わない状況ですわ。

昼と夜、このふたつのステージで聞こえるもの(聴こえるもの)の違いこそが、もしかしたらこのイベントの最大のポイントかもしれません。

勿論、こういう環境音楽作品の場合、「可能な限り聴衆が立ち止まって音楽の意味や作りを探ろうとしないように(はたまた、そんなこと出来ないように)作曲するべきなのか、それともしっかり聴かせるように創るべきなのか」という大きな選択肢はあるんでしょう。やくぺん先生の個人的な趣味からすれば、前者の努力を評価したいところですが、この作品はどうだったか、来週末土曜日にも3回公演がありますから、それは皆様のご判断にお任せしますですぅ。

ともかく、暇なら来週の週末、池袋ウェストゲートパーク前にボーッと立っててご覧なさいな。なんせ、タダですから。

あ、椅子はありません、悪しからず。

[追記]

今、このプロジェクトのアドヴァイザー様から連絡があり、来週末14日の3公演は東武ガレリア部分ではなく、芸劇アトリウムが会場だそうな。つまり、芸劇入った壁面にエスカレーターがある巨大空間です。うううむ、異音騒音はシャットアウトな空間ですな。ま、これはこれでまるで違うものになるでしょう。請うご期待。

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霜月欧州『戦後のオペラ』名曲選ツアー日程 [現代音楽]

行くことはもう半年も、ってか、敢えて言えば数年前から決まっていた来月半ば過ぎの欧州ツアー、やっと日程と動きがフィックスしました。

もう「世界のメイジャー弦楽四重奏コンクールは全て顔を出す」というホントの現役現場からは引退し、そろそろこの業界の最若年世代、特に北米大陸の動きに関しては皆目分からなくなってきており、インテグラが北米の中でどのような位置付けにあり、同世代にどういう奴らがいてどんな動きをしており、どんなポジションを狙えるのかなんて、見当もつきません。欧州に関しては、10年代半ばくらいにでてきた自分が見ていけるマルメンQとかシンプリーQなんぞいちばん最後の世代、それから引退宣言後も結果としてエピローグみたいに眺めることになっているレオンコロQなんぞはそれなりに関心があるけど、ヴィジョンQより後ぐらいになるともうわからん。

ニッポンはサントリー室内楽アカデミー3期生以降、旧東京Q翁らが講師に戻って来てからの連中は、なんだかわけがわからぬ。もう、東京の連中は勝手にやってくれ、という感じ。それよりも、ローカルな動き、それと福岡板付空港から直ぐに行けるアジア圏の方が面白くて、いきなり超激戦区になった韓国や、本気で室内楽を育てていこうとしているプロデューサーが動いているシンガポール、はたまた天津ジュリアード音楽院に住み込んでしまった上海Qが育てている連中がどうなるのか、って方が遙かに関心がある。

かくて、今ややくぺん先生唯一残った「現役」やり残し事項といえば、「『戦後のオペラ』で執筆担当した作品の舞台上演を全て眺める」
https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9%E2%80%951945-2013-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E6%B2%BB%E7%94%9F/dp/4907223021
https://www.nntt.jac.go.jp/centre/library/publication/material/opera03.html
って自己満足だけになってしまい、もう金になる仕事激減で遠くに出かける資金も乏しい生活の中で、なんとか工面して年に一度くらいは続けたい渡欧の目的ったら、「シュトックハウゼン《光》チクルスを全部ライヴで聴く」が人生の最優先事項となっているのじゃわい。なんせそんなものに関心を持ってくれる日本語文化圏の媒体など紙であろうがWebであろうが一切なく、取材ともいえぬ一切金にならん娯楽って現実が、なんとも清々しいではないかぁ、うぁああああっはっはっはぁ!

てなわけで、この秋は今やあれよあれよと偉い人になりつつある鬼才マキシム・パスカル率いるル・バルコンによる《光》チクルス、コロナ禍を挟みいろいろすったもんだあった挙げ句、《木曜日》、《土曜日》、《火曜日》、《金曜日》に続く第5弾、なんとなんと最後にすると勝手に思ってた難物《日曜日》ステージ上演が、来る霜月渡欧の目的なのであーる。それにしても、ヘリコプター飛ばさないとならん《水曜日》と、今やアメリカ合衆国では上演不可能ではないかとすら思えるポリコレなんて一切念頭にないシュトックハウゼン的な独断と偏見極まった差別表現溢れまくる《月曜日》を残してしまったわけで…無論、マキシムくんには勝算あってのことなんじゃろが、どーするんじゃろね。

このプロジェクトをオペラ・コミークからフィルハーモニー・ド・パリに持ってきたディレクター氏がボルドーに転出してしまった今、どうなることかと思ったが、ともかく「いちどやってみる」というくらいの肩に力が入らない形で続いているようで、実質上オペラとしてのストーリーなど皆無で、チクルス最後に置かれたミハエルとエヴァの巨大な結婚ページェントのような《日曜日》、長大にしていろいろ上演上の無茶が要求される全5部をふたつに分けて、まずは2時間半ほどの第1部と第2部を11月16日と17日に2公演、会場はシテ・ド・ラ・ムジークの楕円形のホール。
https://philharmoniedeparis.fr/en/activity/opera/26250-karlheinz-stockhausen-sonntag-aus-licht-scenes-1-et-2
間に休みを挟み、まだ4時間半もかかる残りの第3部から第5部は隣のフィルハーモニー・ド・パリを会場に、20日の1回のみ公演。
https://philharmoniedeparis.fr/en/activity/opera/26117-karlheinz-stockhausen-sonntag-aus-licht-scenes-3-4-et-5
客席としては前者は後者の半分くらいですから、実質的には「全体で7時間かかるアホみたいに長い作品を2つに分け、別公演として行う」ってことですね。つまり、「《神々の黄昏》は長すぎるから、序から第1幕までと、第2&3幕は別公演として上演する」みたいなもんです。

どうやら我らがマキシムくん、数年後にはマジでシュトックハウゼンは夢にも考えていなかった1週間での全曲上演をやる気満々。そっちがホントの本番とすれば、個々の7作品上演はそこに向けたGPというか、ともかく実際にいちど全部観客を入れて音を出してみて、御大がト書きで指示していることがどこまで現実化出来るか試してみる、って感じですね。

やくぺん先生とすれば、コロナ禍で《月曜日》の予定が規模が小さくル・バルコンの規模でもなんとかなる《火曜日》を先にやってしまった回は当然ながら極東の島国を出られなかったわけで、残念ながらこれは観られてません。ま、《火曜日》は第1部「ミカエルとルシファーの運動会」をオリジナル雅楽版でサントリー夏フェスでやってくれて、第2部「宇宙大戦争」はアムステルダムで3夜でやった《光》抜萃でまるまる取り上げてくれたお陰で、結果として全曲をライヴで聴いていることになってるので、物理的な難物《日曜日》をクリアー出来ればライヴで接していないのは《月曜日》だけになり、どうやら死ぬ前に全曲ライヴで拝聴は出来そうな気がしてきているぞ。うん。

そんなこんな、せっかく大枚叩いて欧州まで出かけるんだから、《光の日曜日》は前半2回と後半1回公演の全てを拝聴する予定。で、この上演を挟んで、今年は生誕100年で盛り上がるリゲティの《グラン・マカブル》が14日ヴィーン
https://www.wiener-staatsoper.at/en/season-tickets/detail/event/995140188-le-grand-macabre/
そして《光》お休みの18日にはフランクフルトで上演されているので
https://oper-frankfurt.de/de/spielplan/le-grand-macabre/?id_datum=3507
それらを拝聴。それで終わりの筈が、なんと23日には昨シーズンのバーゼルで出されて物議を醸したなかなかトンデモな演出のグラス《浜辺のアインシュタイン》がシテ・ド・ラ・ムジークの楕円形ホールで上演される
https://philharmoniedeparis.fr/en/activity/opera/26308-philip-glass-einstein-beach
という、ラッキーだかアンラッキーだか(だって、この演出、コンセプトを眺めただけでやくぺん先生は昨年の横浜版以上に怒りまくることはミエミエなんで…)。

グラスの翌日、怒りのパワーでドゴールを出てバルカン、戦火未だ止まぬ黒海南岸、アゼルバイジャン上空からゴビ砂漠跨いで北京ビーコン拾い、半島越えて東京湾岸六郷河原空港に戻るや、翌日は日生劇場でヘンツェ《午後の曳航》が待っていて
http://www.nikikai.net/lineup/gogonoeiko2023/index.html
目出度くも有り難くも、墺仏独日股にかけた2023年『戦後のオペラ』4作品一気観弾丸ツアーは終わるのであったぁ。ふうううう…

細かい日程を記すはずが、もうどーでもいい気分になってしまった。近付いたらいずれ。

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アルデオQが久石譲 [現代音楽]

やくぺん先生が世界中のメイジャー弦楽四重奏国際コンクールをほぼ全て眺めて歩いていた現役時代、当然ながら無数の若い弦楽四重奏団が活動を始めようとする瞬間に立ち会っていたわけであります。そんな中には、なんでこんな個人的な相談事まで自腹切って付き合わなきゃならんのじゃと呆れてしまうような近しい関係になっている連中もいれば、ホントにコンクールのときしか聴いたことなくその後の活動っぷりが気になるけど遙か遠くから風の便りを聞くばかりって団体もある。コロナ禍のネットライヴ発達などで、遠く欧州やら北米大陸での演奏にライヴで接することも出来るようになったとはいえ、やはりオンラインはオンライン。近くに居ればもっと眺めていたいのになぁ、と心が残るあの顔この顔…

そんな団体のひとつに、アルデオQがあります。クスQやパシフィカQが出てきた頃に闘っていて、世代としてはヘンシェルやエクよりちょっと下くらいになるのかな。ディオティマなんかと同じステージで闘っていた感じはないなぁ。フランス拠点なんで、良くも悪くもその後に出現したエベーヌQやらと同じか、少し上になるのかしら。モディリアーニと一緒くらいかな。同じフランス女子チームとはいえ、ザイーデよりちょっと先か。

ま、なんにせよ、プロカルテットの活動が様々な形で結果を出し始め、地方音楽院も室内楽育成に本気になってきて、弦楽四重奏不毛の地だったフランスがあれよあれよという間に若くてちゃんと弾ける連中がひしめき合うウルトラ激戦区になってしまう真っ只中にいた連中です。

どういうわけか、「今年のアルデオQはこうなっております」というメニューみたいなリリースを毎シーズン送って下さっていて、日本時間の本日午後もメールが届き、刈り入れが済んだ田圃とまだまだ頭を下げる稲穂の原が入り交じる秋を眺め、ああまだ俺も現役扱いなんだなぁ、と感じ入ってしまったでありまする。

もう10数年も前にレッジョ・エミリアとかでちょっと喋ったくらい、ましてやその時のタンクタンクローみたいな元気の良いチェロねーちゃんはとっくにいなくなっているというのに、未だ律儀にリリースを送って下さっている。となれば、こんな影響力皆無の無責任私設電子壁新聞とはいえ、どこでどう関心ある方がいるかもわかりゃしないから、ご紹介しましょうぞ。なんといっても昨年だかに出した《ゴルドベルク変奏曲》の弦楽四重奏版が、今のこの団体の看板じゃないかしら。こちらをどうぞ。
https://arts-scene.be/en/asd-artistes-videos-Quatuor-Ardeo-1070
そうそう、この団体の今のヴィオラ奏者さん、ウェールズQがミュンヘンARDで3位になった後にバーゼルに留学してシュミット御大に習っていた頃、ヴィオラ奏者としてずっとやっていた原裕子さんです。日本にもラ・フォル・ジュルネで来たりしているから、ご存じの方も多い筈。

さて、今シーズンのアルデオQのレパートリー、送られて来たリリースからまんま貼り付けてみます。弦楽四重奏のみは以下で、テーマが付いていたりして。なお、他にもクィンテットや特別演奏会のプログラムも用意されています。こういうプログラムを交代しつつ、年に60回とかの演奏会を行うのが、「常設」団体なのでありまするよ。ほれ、こんなん。

Autour de l’Amour
Dvorak - Mendelssohn - Janacek

XIII Schöne welt wo bist du?
Purcell - Schubert - Crumb

Variations Goldberg - Bach / Meimoun

L’appel de l’Amérique
Adams - Hisaishi ou Rhorer - Dvorak

Terra Memoria
Mayer - Saariaho - Mendelssohn

Projet Razumovsky
Beethoven: 3 quatuors op.59

なかなか興味深いですな。幾つか極めて特徴的なプログラムが用意されているのは、いかにも弦楽四重奏マーケットの競争が激しい文化圏らしく、へええ、と思わされますね。

そんな中でもひときわ興味深いのは、「アメリカからの呼びかけ」と題されたもの。中身を眺めると、こんなん。
https://arts-scene.be/en/asd-artistes-programmes-Quatuor-Ardeo-795
へええ、まずはアダムスとはいえ最近の弦楽四重奏曲ではい若い頃の作品が最初に置かれ、メインはドヴォルザークの《アメリカ》。で、間の1曲が、なんとなんと、ローラー《夜の観察者》か久石譲弦楽四重奏第1番のどちらかお好みで、ってさ。

へええ、アメリカ特集に、「宮崎音楽で名高い作曲家のアメリカ流ミニマル」って紹介で久石譲のシリアス系作品が取り上げられてるんですわ。

今やドイツ・グラモフォンから自作自演アルバムが発売される久石譲、いよいよ秘曲とも言える室内楽作品をレパートリーに入れようという連中が出てきているんですねぇ。

さっきから、確か香港藝術中心の売店で買った個の曲のCDを探そうとしているんだけど…めっからない。流石にNMLには上がってないなぁ。YouTubeには第1楽章だけアップされてますな。こんなん。
https://youtu.be/fODcTofmqtI?si=AqSAVYl2xozfHFtq

ご関心の方は、こちらが楽譜でございます。ショットさんからしっかり出ておりまするよ。
https://shop.schottjapan.com/products/sjh007


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添田町が作曲家レジデンシィ募集 [現代音楽]

〆切まで1週間を切ってしまったんだけど、ゴメン、知ったのが昨日だったもので…田舎の情報伝達あるあるなんじゃろか。

さてもさても、福岡と大分の県境、名峰(なのか?)彦山の麓、かつては炭鉱で栄えた文化の営みにも深い伝統と厚みがある地域の南の隅っこの添田町で、こんなアーティスト・レジデンシィを募集しております。
https://www.town.soeda.fukuoka.jp/docs/2023080400018/
https://www.pref.fukuoka.lg.jp/press-release/air-bosyuu.html

福岡県の資料は、はっきりと「Artist in Residence」という表現を使っていますし、選考責任者だかの名前に宮川彬良氏と九響コンサートマスター西本幸弘氏を挙げてますから、その名前が判るような人がターゲット、ということなのでしょう。

どうも、日田彦山線終点の日田で野村誠さんがやっているような「イベント創出型」というか、先月のサントリーホール夏祭りで大いに物議を醸したタイプの「地域住民巻き込み型」の「作曲」とはちょっと違うようで、あくまでもお行儀良く九響が演奏出来る適当な長さの作品を1ヶ月日田彦山線沿線に滞在して書いてくれ、ということのようですね。

最大のポイントは、「地域住民の方々とのふれあい、地域での活動の情報発信を行いながら、作曲活動ができる方。」というところなんだろうなぁ。所謂芸術家アーティスト・イン・レジデンスはそれこそ世界中でやられていて、日本でも金沢21世紀美術館が出来る前くらいからその流行が持ち込まれるようになり、各地の街屋やら使われていない施設などに住んで貰って創作する、というのは当たり前に行われている。秋吉台みたいに、その次の展開をどうするか、というところまで来ているところもいくらでもある。だけど、「音楽」、それも「作曲」のレジデンシィは殆ど行われていません。

無論、そこにははっきりした理由があるわけだし、ぶっちゃけ、作曲という行為の場合はやはり野村誠さん型が正解なんじゃね、ってことになってきているわけだし。

このイベント、どんなことになるか、興味をもって見守っていきましょうぞ。っても、ここ温泉県盆地から添田って…久大本線で日田まで行き、話題の単なるJRバスでしかないBRTで延々と彦山の麓を抜けて、距離にして100キロ弱、公共交通だとがっつり3時間半はかかるんだよねぇ。接続が良ければ、盆地から羽田空港まで行けちゃうわい。ううううむ…

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