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新佃東町がたいへんだ [新佃嶋界隈]

お天気良いし、空気が冷たくて気持ちいいのに、目はどんより、頭皮毛細血管は瘡蓋化、面倒なことを考えようとすると頭痛がして拒否される肉体コンディション。それでも、早朝に一本原稿入れ、月曜までの締め切りを明日までに延ばして貰った原稿に向かわねばならぬ。その先には、「カサド展」プログラムに出した原稿を半分にしろ命令と英文化指令。日銭稼ぎの前頭葉の肉体労働者は、正規雇用者の皆様の想像を超えた働けどギャラの保証すらない凄まじい戦場を限りなく匍匐前進状態でじりじり退却ぅうう…というわけにもいかぬ。さて、頑張りましょ。

で、今日はご当地ネタひとつだけ。それも、幸せじゃあないもの。ほれ、この記事。
http://www.asahi.com/national/update/1107/TKY200611070488.html
いやぁ、建て替えですかぁ。まあ、そうなんでしょうけど。

「ゼファー月島」というマンションは、その名とは異なり、月島じゃなくて佃三丁目にあります。どうも住宅屋さんというのは最寄り駅の名前を付けたがる傾向があるらしく、地下鉄月島駅が至近ということでこうなってるんでしょうね。なんにせよ、佃やくぺん庵の露地を清澄通りに出て、看板建築の見事な医院が潰されて真四角なマンションに建て代わった向こうに、どっかんと見えてます。開発からずっと見逃されていた東京湾最初の埋め立て湾岸リゾート佃三丁目に、20世紀末にぶっ建った最初のでかいマンション。

佃というと、観光ガイド的には「町内全体が住吉さんの御神域」たる一丁目がメインになる。ま、そりゃそのとおり。我が二丁目なんてなーんにもない田舎だし、三丁目にいたっては、ここがホントに東京駅までバスで15分、銀座まで酔っぱらいの千鳥足でも20分の場所なのか、と呆れるくらいノンビリした、浦安とか船橋とかみたいな海に面した古い埋め立て地の明るさが印象的な場所だった。とっても狭い区域なので、町会活動も二丁目と合同なことが結構ある。なんつっても、「新佃嶋」の御神輿が一緒ですから、親戚みたいなもんです。この週末の防災訓練も一緒なんだろうなぁ。

さても、そんな町の真ん中に初夏の頃から降って湧いた耐震偽装騒動、いかな個人運営電子壁新聞たりとて、住民生活の先が見えるようになるまではなんのかんの書き立てるのは不謹慎なので、殆ど触れてませんでした。この日のふたつめの記事にある話くらいかな。
http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/2006-08-18
ま、発覚から4ヶ月以上、やっとこういう結論になった、今後を見守っていきましょー、ということです。

問題の「ゼファー月島」前から大川端に向け1ブロックほど進むと、海水館跡という旧跡があります。http://www.city.chuo.lg.jp/info/bunkazai/bunka075.html佃三丁目、当時の新佃東町が、明治の湾岸リゾートだった証拠ですね。今は当たり前の「新○○」という地名のはしりですな。

というわけで、頭がパーな秋の午後、仕事に向かう前に明治文豪の作文をペロペロ舐め、荒れに荒れた己が日本語を調整しましょか。忙中閑あり、じゃないよ。小山内薫が海水館で書いたとされる出世作『大川端』の最後の辺り、芸者とのやりとりの手紙を相生橋から大川にばらまく部分を引き写し、久しぶりのご当地ネタはお終い。明治の終わり頃は、相生橋の辺りまで外洋の三角波が押し寄せた。今では、そんな橋下の静かな水面を、キラキラ光りながら連邦宇宙調査艦ヴォイジャー号みたいな「ヒミコ」が浅草に向かう。http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/archive/20061007あ、あと10分もしないうちじゃないか。

せっかくだからヴィジュアルをどうぞ。相生橋から眺める「ヒミコ」が進む向こうが佃三丁目。この画面に「ゼファー月島」は写ってるんだけど…どれとは教えません。知りたかったら、三丁目観光に来て、ご自分でお調べあれ。海水館の跡地は「ヒミコ」の真上、緑が見えるところ。遙かトリトンの三本タワーの下辺りです。「ヒミコ」豊洲就航数日後、10月初めの水が濁った日の写真。

「それ以上もう訊く事はなかった。小山内君からの手紙はどうしたと訊くと、丹念に葉書までとってあって、紙に包んであった。私はそれを受け取ってFと別れた。西風の強い日の午後で、門前仲町で電車を棄てゝ私は小山内君の待っている海水館へ急いだ。
 だが三角波の荒れている相生橋の中程まで来て、海水館の建物が眼に入ると、こいつは持って行かない方がいゝのぢゃないかと云う気がした。Fと一緒に永遠に消えてしまった方がいゝのだ。欄干の上にそれを置くと、風に煽られ包んだ紙がめくれて、紐で結えた五寸程の束がむき出しになり・・・私は束を握ると、曇り空を映した鉛色の波の中へ一と思いに投げ込んでしまった。
 薄暗い部屋で待っていた小山内君は、相生橋から投げ込んだと告げると、黙って首肯いただけだった。」(小山内薫著『大川端』より)

門前仲町から相生橋を渡りついでに明石町側から吹く西風に煽られれば、放り込んだ手紙の束は、豊洲もなければ東雲もない、遙か州崎や塩浜沖に立つ東京湾の三角波に吸い込まれていく。地元民にしか判らない描写。


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水の都、探検隊

佃3丁目の一角の海水館付近は同じ佃といっても別格ですね。昔からあの一角は「高台」といわれ富裕層な方の別荘が立ち並んでいたようです。今でもちょっとそんな感じです。海水館に残る当時の写真を見たことがありますが、当時といっても永井荷風などが文壇をにぎやかしていた頃ですが、今のようなカミソリ堤防は無く、海岸沿いで遠くには房総が一望できる風景でした。ちょっとしたリゾート地です。そもそも海水館も坪井さんが料亭旅館として創業したところで今ではアパートとなっていますが、私が小学生の時に友人もそこに住んでいて何度もお邪魔した記憶があります。彼の父親は歌舞伎関係のお仕事でした。イメージとしては芸術文化を歩む方々が住んでいたような気がします。やっべん先生もそこで創作活動をされてはどうですか。
by 水の都、探検隊 (2006-11-09 11:01) 

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