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一音たりとも聴いたことないオペラ [現代音楽]

曇り空の湿っぽい羽田に到着。今、京急で湾岸は厄天庵に向かっています。これから演奏会ふたつはしごして、明日の9時前にソウルに向かいます。アホか。

さても、ミヨーが晩年に作曲した《罪ある母》というオペラを見物して参りました。
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http://www.theater-wien.at/index.php/de/spielplan/production/154148
音楽の都のオペラ劇場として、ヴィーンでオペラを聴くことそのものを観光の目玉に世界から押し掛ける善男善女に対応し、滅茶苦茶に前衛的な演出や訳の判らぬ作品などをボコスコ出すわけにいかない旧城壁の向こう、ってか、旧城壁の上の国立歌劇場に対し、演劇も含めた様々な舞台をゴッソリ眺めているディープな聴衆、演劇の病人みたいな連中が文句を言わない舞台を出すのが役回りになってる、かつての城壁を出た直ぐの所のアン・デア・ヴィーン劇場での上演であります。ベートーヴェンも住んでたことがある、って場所。
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演奏会形式じゃない、ちゃんとしたまともな舞台でありまする。

ええ、で、感想でありますが…ぶっちゃけ、感想も何もあったもんじゃありません。「あー、こーゆー曲だったのね、へええええ」及び「あー、こういうお話だったのね、なーるほど」であります。もうアホみたいな、子供の初めてのお使い、みたいな感想。

だってさ、オペラという面倒くさいもんを見物する前には、その曲の楽譜は見ないまでも、音を聴き、話は理解して接するわけですよね。オペラというのはそーゆーもんなわけです。いきなり何にも知らないものを見物しても、起きてることの2割も判らない。いや、敢えて言えば、なーんにも判らない。勿論、特に音楽に関心があるわけでないヴィーンを訪れた観光客の皆さんならばそれでも結構。「ヴィーン行ってオペラ観てきて、なんか凄かったですぅ、なにやってるかぜーんぜん判らなかったけど」でも、音楽の都観光は成り立つわけですから。これ、皮肉で言ってるんじゃないですよ。そういう人が何百€も大枚叩いてくれないと、あんな金のかかるもの成り立たないんだからねぇ。

もとい。で、そういう意味で言えば、今回はもう、全く「オペラを鑑賞する」という状況以前で舞台に臨んだわけであります。だって、こんな曲、だーれも知らない。音は全くありません。今の世の中、なんの音もない著名作曲家のオペラ作品って、凄く珍しいでしょ(劇場のCDやDVD並べてる売店のオジサン、もう同じ事を尋ねられて答えるのに飽き飽きしたのか、漁り始めたやくぺん先生に「この曲のCDはないし、録音も全然ないよ」といきなり仰いました)。楽譜は、そりゃ探せば売ってるんでしょうけど、普通には売ってない。お話だって、ボーマルシェの原作なんてフランス語以外であるのかしら。勿論、日本語になってないでしょう。少なくとも簡単に手には入らない。なんせフィガロ・シリーズですから、筋はやたらと込み入っていて、あらすじくらいは探せばなんとか判るが、細部は判らぬ。リブレットなんて勿論どこにもめっからない。

いやー、ここまでなーんにも判らずに行くって、ちょっとない経験ですね。どんなことになるか、それはそれで楽しみ、ってところもあった。

そもそもミヨーのオペラといえば、ベルリンの国会議事堂の近く、こないだまではどっかの大使館がなんにもないところにポツンとあった辺りに構えていたというクロール・オペラで初演され、多調で書かれたオペラの最初の成功例として音楽史の教科書には出て来るんで有名な《クリストファー・コロンブス》が知られているくらいでしょう。なんか船の上で面倒なことになり、船員とコロンブスの間で相容れない緊張が頂点に達した瞬間に、「陸地が見えたぞー」という響きで多調のポリフォニーが壮大に全音音階かなんかになって、無茶苦茶感動する…らしい。あくまでも「らしい」で、あたしもちゃんと聴いたことありません。録音は昔、ロココだかそんなアヤシいレコードがあったような。あとは小さなオペラが知られてるくらい。こっちは、東京室内歌劇場が昔の第一生命ホールでやったりもしてたんじゃないかしら。

ま、良く知られたオペラでもそんな有様。そもそももの凄く作品数が多く、オペラだけでも1ダースくらいあるらしい。そんな中でも、もうひとつ、名前ばかり有名なのが、この《罪ある母》でありますな。どーして有名かというと、もう話は簡単。この作品、《フィガロの結婚》の20年後を描いた続編なんでありますよ。ほーら、もう聴きたいでしょ。

どうも欧州音楽業界、ハリウッド同様に「続編ならまあ安全だろう」という情けない機運が支配しているのか、有名な作品の続編みたいな妙な物を取り上げることがある。数年前もザルツブルクで《魔笛》の続編、っても、有名なゲーテの書いた続編じゃなくて、全然別の知られざる作曲家のオペラを上演してみたり。そういう風に考えれば、どっかがまともなプロダクションで取り上げるのは時間の問題だったわけで、シャトレ座辺りがやってもおかしくなかったんだろうが、まあ、いかにもなアン・デア・ヴィーン劇場が取り上げたわけでありますわ。

どーでもいい解説っぽいことを書いてるなぁ。ま、そーゆーわけで、この劇場、今シーズンは《セヴィリアの理髪師》、《フィガロの結婚》、そしてこの作品と、実質上の三部作を舞台上の時系列で出したわけであります。無論、《リング》みたいな三部作というわけじゃなく、演出も指揮も、はたまた登場人物の歌手もそれぞれの舞台で違っているわけで、あくまでも独立した作品。ただ、そういう風に見たい奴には、「おおお三部作でやってるじゃないかぁ」と思えるようにしてある。賢いなぁ。

いい加減に中身の話をしろ、と思ってるでしょうが、ホントに、感想らしい感想が言えないのですわ。

ともかく、音楽はすっかりミヨーです。モーツァルトやロッシーニのパロディではありません。この作品は序曲がなく、演出として冒頭にモーツァルトの葬送用の音楽が鳴らされ、斜幕の向こうでは、決闘で死んだ伯爵夫妻の長男の葬儀をやってます。それが終わると幕が上がり、ミヨーの硬質な音楽が始まる。音楽を敢えて乱暴に例えれば、プーランクの《テイレシアスの乳房》から聴き易い部分を全部除いて劇伴に徹したようなもの、ってかな。うううん、酷い言い方だけど。

通常の編成の小規模なオケなんだけど、管打楽器に至るまで様々な楽器が一渡り揃っています。
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そこから出て来る音は、ものの見事に手練れミヨーの音。古典派のわけはないし、ロマン派のベッタリした重厚なオーケストラの響きともまるで違う。ともかくオーケストラの色彩感は凄い。この場面にこの楽器が出て来るか、って瞬間が次々と続きます。徹底した伴奏で、ヴァーグナー的なモチーフは全くありません。歌も、全編がレシタティーヴォとは言わないけど、シュトラウスみたいに最後の最後でドミソ鳴らしちゃってみんなそこだけはよーく覚えて返ってくる、ってずるっちい手は使ってません。やるかと思ってたんだけどね。ここまでちゃんと纏めたレオ・フッサインって指揮者さん(なんて読むの、このHussainって)、イースター前にフランクフルトでヴァインベルク振ったときもたいしたもんだと思ったんだけど、もういきなりやくぺん先生的には若手筆頭格の指揮者でありまする。この真ん中にいるにーさん。
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もとい、で、それでも、起きてることは完全に「なるほど、モーツァルトとやってることは違わないぞ」と思わせるんですから不思議。なんせフランス語ですから、やくぺん先生には全然判らぬのですが、開場後にプログラム買ってやたらと長いあらすじ慌てて読んで、ドイツ語字幕を必死に追いかけていけば、いや、それが出来なくても、「今、伯爵は凄く怒ってるぞ」とか、「あ、フィガロはぬか喜びしてる」ってのが、断片の塊みたいな音楽でちゃんと感じられる。流石に映画音楽のプロ中のプロじゃ。

ホントに感想になってなくて、ここまで読んでこられた方には申し訳ないんですが、そんなことしか判りませんでした。でも、そうやって何も知らないオペラを必死に追いかけていく興奮を、本当に久しぶりに味わせて貰えたのは、得がたい経験でありました。

演出は、伯爵、夫人のロジーナ、それにおにーちゃんに死なれて実質上の長男になっちゃった息子と、養女みたいことになってる娘というアルマヴィーヴァ家の人々には、それぞれに「もうひとりの…」という役者が用意されていて、台本や音楽で起きていることとは別に、過去の回想だったり、本音で思っていたりすることが舞台の上で展開していきます。それどころか、直接絡んできたりします。と記すととんでもなく面倒そうですが、ああそういうもんなんだ、と割り切れば、そんなに無理なく、かえって説明過剰なくらいに見えてくる。なにせ誰も知らない作品だけに、こういうやり方は賛否両論でしょうけど、ま、これはこれでありと思いました。極端な話、この演出が判らん奴は別に来なくて結構、と割り切ってるんでしょうね。ちなみに、他の2作品もこういうやり方だったのか、あたしゃ、知りません。

ホントに「戦後のオペラ」(といってもセリエリズムではありませんが)の語法で、フィガロ話の続きをまんまやった、モーツァルトがやったのとは全く違うやり方だけど、音楽でその場の人々の気持ちや空気をちゃんと描いた。歌えるような部分は欠片もないものの、これはこれであり、大いに楽しませていただきましたとさ。誤解を受けることを百も千も承知で敢えて言えば、こんにゃく座のオペラみたいな、ってかな。林光が通常の劇場向けに本気でこの台本で書いたら、案外、煮たような感じになるんじゃないかしら。←超妄想です

その一方で、これは確かにやられないのは仕方ないかなぁ、とも思った次第。何より、話そのものをどう捉えるか、かなり微妙ですから。伯爵夫妻はダブル不倫をして、今の息子は夫人とケルビーノの子供、養女は伯爵が他所の女に産ませた娘。その秘密を利用して伯爵から財産を取り上げようとする悪辣な男、そんな策略に立ち向かうフィガロ…これ、面白いかしらね?余りにもあまりにもな設定だけに(でも、確かにあの話の流れだとあるだろーなー、とは思わせる)、観客は誰に感情移入すれば良いのか良く判らない。

やくぺん先生が個人的にいちばん面白いと思ったのは、モーツァルトの「ぺるどーの、ぺるどーの」に対応するような、ロジーナが死んでしまったかと思った伯爵がホントは自分がこの女を誰よりも愛していると判る瞬間でした。ミヨーはそこで禁じ手に近い奇策を弄してます。種明かしすれば、饒舌に鳴っていた音楽が、その瞬間だけ完全に沈黙するのですわ。まるでモーツァルトのあの部分には流石に敵わない、って白旗上げたみたいに。

うううん、かのミヨーにして、モーツァルト偉大なり、なのなか。

まとまらないことを書いていけばキリがない。もう日本海に入って、あと少しで新潟上陸となったところで、この極めつけに感想にもならない感想もオシマイ。ゴメンなさい、もう誰も読んでないことを期待して…

ちなみに、ORFが収録しラジオで放送するらしいので、日本でもNHKでやるんじゃないかしら。貴重な音源になりそうだなぁ。

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Bowles

『罪ある母』は日本語に訳されています。今は絶版ですが、白水社の「マリヴォー・ボーマルシェ集」に収録されていて、どこの図書館にも常備かと。また↓
http://plaza.taishukan.co.jp/shop/Product/Detail/21147
のフィガロの新訳本にも三部作についての詳しい解説がなされています。
by Bowles (2015-05-20 09:32) 

Yakupen

おおおお、ありがとう御座います。そういえば白水社にむかぁし全集がありましたもんね。

問題は、今はこういうものが図書館にあるかなんですよねぇ。公共図書館はダメでしょう、仏文がある大学の図書館なら絶対にあるでしょうけど。

無知蒙昧のアホに、ご教授ありがとう御座いました。
by Yakupen (2015-05-21 22:59) 

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