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幻のゴールドベルク指揮新日本フィル特別演奏会曲目解説公開 [こしのくに音楽祭]

音楽関係を中心に売文業をするようになってかれこれ20年ほど、いろんな事情で原稿が没になるのは珍しいことではない。それらの殆どはただ働きになるわけだ。ま、年間に3%くらいの取りっぱぐれや踏み倒しがあるのは、自営業者とすれば致し方ないところだろう。←給与労働者さんや、きちんと御上や組合が労働条件を見張っていてくれる世界にお住まいの方には、まず理解不可能な感覚でしょうけどねぇ。いやはや。

そんな中には、「演奏者が急逝し、演奏会がキャンセルになってしまった」という事例もある。幸いにも小生はあまり出会ったことがないけど、こればっかりはホントに仕方ないでしょうね。相手の演奏家が知り合いだったり、インタビューをしたことがあったり、尊敬に値する巨匠だったりすれば、入らなかった原稿料はお香典、と考えるようにするわけです。

で、小生にとって忘れもしないそんなケースがある。何を隠そう、1993年8月に東京は津田ホールで予定されていた「シモン・ゴールドベルク指揮新日本フィルハーモニー特別演奏会」がそれ。当日プログラムの曲目解説及びエッセイを書かせていただいていたのだけど、同年7月にゴールドベルク翁が立山国際ホテルで急逝。演奏会はキャンセルになった。この原稿、ギャラを貰ったかどうかまるで記憶にない。たぶん、もらってないと思うなぁ。でも、このときばかりは、この程度のお香典でよろしい筈あるまい、と思ったものでした。

というわけで、「こしのくに音楽祭」開幕直前蔵出し原稿総ざらえ特別週間、「ゴールドベルク・インタビュー原本まるごと一挙掲載」に次ぐ第2弾、「幻のゴールドベルク演奏会曲目解説まるごと掲載」である。なんせ、書いただけでどこにも発表していない原稿。著作権もなにもあったもんじゃない。せっかくだから、リードのエッセイ部分だけでなく、曲目解説までまんま掲載します。

この年は本当に酷かった。春にシュナイダーが没し、ホルショフスキーが没し、そして夏にはゴールドベルク。20世紀前半から半ばの室内楽や室内管弦楽団を背負った真の巨匠達が、次々と神に召された年だったんだなぁ。やたらとシュナイダーに拘っているのは、共にナチスを逃れ、共に家族の殆どをナチスの強制収容所で殺され、共に「パラダイスへの追放」後は室内管弦楽団指揮と室内楽で時代を築いた同世代のゴールドベルクからのシュナイダー追悼追悼演奏会のように思っていたからです。さて、以下に貼り付けます。じっくり読め、というようなものではありません。今出さないでいつ世に出そう、歴史資料になり損ねた作文であります。

                       ※※※※※※※※※

 4月末のカーネギーホールで、弟子や友人による故アレクサンダー・シュナイダー追悼演奏会があった。丁度、新日本フィル(NJP)定期への客演が予定されていた頃である。演奏会後のパーティは、昔怒鳴られた生徒らの和気藹々とした同窓会風。不思議と明るい。安芸晶子、田中直子、潮田益子らの姿もある。東京を発つ直前、水戸の舞台でシモン・ゴールドベルクから厳しく指導されていた面々だ。
 そして、ゴールドベルクのことを考えた。
 交錯しそうで、決して交錯しない二つの人生がある。ほぼ同年に独圏東欧で生まれたゴールドベルクとシュナイダーは、同じ年に若くしてベルリンとハンブルクの名管弦楽団でコンサートマスターとなり、ナチスに追われ、名室内楽奏者としてキャリアの一頂点を築く。戦後は両者とも室内楽と室内管で活躍し、多くの若者を育てた。指揮者としての守備範囲も似て、バッハやハイドンが一方の柱。もう一方に時代の苦楽を共にした盟友(ヒンデミットとストラヴィンスキー)の新古典主義作品を据える。私達には、共に齢70を迎えてからNJPの指揮台に上り、嘘や飾りのない音楽を披露してくれたのが、何より印象深い。
 大戦間新即物主義世代として、共通項で括られそうな二人だが、NJP会員ならご承知のように、その音楽は正反対だった。シュナイダーの練習は、バスの動きを固めるのが目的。演奏家達が熱くなろうと、基本的な形は崩れぬようにしておく。そこへ、自由な人間としての音楽への愛を解放させる。この翁の芸術は、音楽家の音楽への献身的な情熱を、楽観的に信じるところに成り立っていた。熱気を感じぬ者は叱り飛ばす。醒めた現代人を前に、「指揮」ばかりが上滑りする危険もあった。だが、何度裏切られても、諦めなかった。
 ゴールドベルクの「室内管弦楽の指揮は室内楽と大管弦楽の中間です」という冷静な発言の意味を、筆者は未だに考えている。そのリハーサルを眺める限り、ゴールドベルクの仕事の要点は「技術の伝授」にある。「室内オケの指揮には独自の技術と経験が必要」と断言するオランダ室内管創設者には、断固として在る音楽や響きの理想像に向けて演奏家を指導するのが、「指揮」であるように見える。ある楽句での弓の速さや使い方、その瞬間にどの声部を聴くか、強弱での表情付けの違い等々、一つ一つは極めて具体的な職人技。氏が持ち歩く楽譜には、細かな変更は勿論、ヴァイオリンのパート譜には、ボウイングのみか指使いまで指定されているそうだ。
 この名匠にとっては人間など--敢えて誤解されそうな言葉で表現するのだが--音楽に比べて、遥かに信じられない代物なのではあるまいか。そして指揮者ゴールドベルクの凄さは、彼の理想とするそんな音楽が、極めて純粋で真っ当な点にある。音楽だけを信じ激動の時を生き抜いたこの老人は、今や私達が確信を持って口にすることの難しい、「普遍的な理想」を語り得る賢人なのだ。

 シュナイダー追悼定期の指揮を、NJPはゴールドベルクにまずお願いしたという。水戸の演奏会直後で日程が厳しいと判った指揮者は、「練習時間が充分とれない」との理由で、残念ながらこの申し出を断ったそうだ。どんな場合でも満足のいかぬ音楽はやれない、この真剣な音楽家らしい美しいエピソードである。二人の大室内楽奏者の道は、最後まで交わることがなかった。

■バッハ:管弦楽組曲第1番ハ長調BWV1066
余りに有名なJ.S.バッハ(1685-1750)の組曲だが、成立時期も実体も不明瞭。序曲に舞曲を並べた、些か古めかしい多楽章器楽曲である。巨大なフランス風序曲。クーラント。ガヴォットⅠ、Ⅱ。オーボエが歌うフォルラーヌ。メヌエットⅠ、Ⅱ。ブーレⅠ、Ⅱ。2つのパスピエでは、後者が変奏曲となる。ゴールドベルクのバッハでは、響きが中膨れしフレーズが不明瞭になりがちな古楽器合奏に不可能な、均一な響きでの細かい表情が楽しめよう。
■モーツァルト:アダージョとフーガハ短調
ケッヘル番号から判るように、モーツァルト(1756ー1791)が全能力を挙げ3大交響曲創作に取り組んだ1788年初夏に書かれた、弦楽合奏小品。完成は変ホ長調交響曲と同日とされる。52小節の荘厳なアダージョに、チェロが始める4声フーガが続く。やがて主題転換形との二重フーガが頂点を築く。
■オネゲル:交響曲第2番(1941)
去る6月NJP定期の1945年作品特集は、衝撃的プログラムだった。第2次大戦を解放、亡命、敗戦のポリフォニーに描く音の壁画で、スイス人オネゲル(1892-1955)の第3交響曲は、戦の終わった喜びを奏でていた。本日、自身戦争に翻弄された音楽家が取り上げるのは、室内管運動の開祖ザッハーの為に大戦中に書かれ、占領下パリでも演奏された第2交響曲。今世紀の歴史を描く交響曲としてショスタコヴィッチばかり持て囃されるが、古典の姿を借りたオネゲルの器楽作品でも、異常な緊張感に、音を越えた何かを感じずにはおれない。第1楽章、ヴィオラが暗く歌うモルト・モデラートからアレグロのソナタ。第2楽章、アダージョ・メストの雄弁な悲歌。ヴィヴァーチェ・ノン・トロッポの複雑な第3楽章。コーダで、そこまでの弦楽器の蠢きを破り、トランペットのコラールが響き渡る。
■ハイドン:交響曲第88番ト長調「V字」
NJPのハイドン定期でパリ交響曲を格調高く披露したゴールドベルク、いよいよハイドン(1732-1809)エステルハージー時代の最高傑作を聴かせてくれる。アダージョ序奏に始まる第1楽章、アレグロ。8小節の主題を徹底して活用する、典型的古典派ソナタ。「運命」の第1楽章にも比肩されるが、無邪気にト長調で響くハイドンにあるのは、純粋な音楽の喜びだ。第2楽章、独奏チェロが導くニ長調ラルゴの主題から5つの変奏。第3楽章、アレグレットのメヌエット。トリオではファゴットがハンガリー風ドローンを吹く。第4楽章、アレグロ・コン・スピリトーソのロンド・ソナタ。ちなみに、この曲をハイドン定期で指揮したのは、シュナイダーだった。
                    (1993年8月新日本フィル特別演奏会用原稿・未発表当稿初出)


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