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特別公開:ゴールドベルク追悼演奏会曲目解説 [こしのくに音楽祭]

朝の6時前。これから羽田に行き、伊丹へ。大フィルの大植えーちゃんがプロデュースしていきなり始まった「御堂筋クラシック」だかいうイベントを幾つか眺め、大阪から武生に入ります。作曲家細川俊夫氏が監督になって、いつのまにやら秋吉台から現代音楽祭が移って来ちゃって数年。今年は元ディオティマQの第1ヴァイオリン千々岩氏が出たり、アルディッティQがセミナーやったりするので、その取材。で、富山と行ったり来たりです。

さても、昨日の「幻の特別演奏会」には続きがあります。同じ会場で、新日本フィルは「ゴールドベルク追悼演奏会」をやりました。で、埋め合わせ、というのじゃないでしょうが、その当日プログラム原稿を小生が書いています。いつ、誰が指揮し、誰が独奏か、全然覚えていない。確かフィラデルフィアから外国の指揮者さんがこれだけのために来たような記憶があるぞ。もう出かけねばならぬので、調べてる暇はない。ご存じのかた、教えて下さいな。←アホだなぁ、他人事みたいだ。

というわけで、「こしのくに音楽祭開幕直前過去原稿蔵出し」の最終回(だろうなぁ)。1993年秋から冬の旧稿であります(演奏会は1994年2月10日津田ホールのような感じもある)。これまた、曲目解説まで全部載せます。

                        ※※※※※※※※※

ゴールドベルクの訃報を聞いた瞬間、「これからだったのに」と呟いてしまった。過去の巨匠を懐かしむ気持ちではない。現役演奏家を失った無念さだった。
 この数年、長老が次々と世を去る。R.ゼルキン、A.シュナイダー。ホルショフスキーもそうだろう。皆、地味な人達。どの人も所謂新即物主義を担った芸術家達である。そして故人は、大戦間に育まれたこの芸術観を、最も美しい姿で我々に見せてくれた人だった。
 彼の音楽の土壌となったこの禁欲的美学だが、昨今、評判が芳しくない。音楽教育がある面ばかりを便利に利用し、「楽譜は表現意欲よりも優位」と強調したため、魂のない技術主義と反発を喰らってしまったのである。その反動だろうか、楷書体の演奏に厭きた聴衆は、「楽譜や技術偏重から自由」な表現を求め、後期ロマン派芸術観に則る音盤初期の大家(ゴールドベルクらの一世代前)を「失われた個性」と有り難がる。コンクールで眺めても、かつては無個性の代名詞とされた日本人音楽学生も、この10年程の間に、みんな個性派を目指すようになってきた。
 楷書体を叩き込まれた若者が、個性的な草書を憧れるのは納得出来る。が、草書体と読めない文字は紙一重。プロの芸は、素人の自宅での楽しみとは違う。個性にも普遍性が確保されねばならない。前記の長老達が極めて個性的な芸術家だったことは、言うまでもない。しかし彼等は、個性なるものの曖昧さと危険さを、良く知っていた。それ故、芸術の価値を音楽自体に求めようとした(楽譜とは音楽そのものの比喩である)。筆者に「私は室内管を指揮する方法を知っています」とあっさり言ってのけたゴールドベルクは、音楽そのものを根拠に、何が芸術であり、何がプロ音楽家の仕事なのかを断言出来る、稀有の存在だった。演奏という微細な知識の集積作業に於いて、何をすべきかを確信を持って語り得る、現場の賢人だった。持ち歩くパート譜には、ボウイングは勿論、ヴァイオリンには指使いまで書き込まれていた。錚々たるスターを集めた室内管を前に、「君達は楽器の本当の音を出していない」と宣ったとも伝えられている。
 故人追悼とは別の席で、NJPコンサートマスター松原勝也が、こう語っていた;「本当に自由であるときにね、ある時間をかけ、一緒にリハーサルなり、一緒に演奏することで、個性ではなくて、作品に於けるある一つの真実ってのが浮かび上がってくる。それを、ゴールドベルクは身をもって教えてくれたと思うんです。表面的には、棒に合わせろ、って言っているだけなんですけどね。」矛盾するようだが、そんな禁欲性の彼方には、自由があったという。音楽以外の言を弄し自らを神格化したり、高圧的に脅しつけた結果の音楽ではなかった。新即物主義美学は、やり方が極まったところに、たかが人間の個性を越えた、普遍的美が存在すると信じた。翁は、そんな信念が事実であると証明していた。
 今の東京は、大戦間時代に中欧で青春を過ごした真摯な音楽家らの葛藤を、現象は異なるにせよ、自らの問題として経験しているのではなかろうか。新即物主義誕生当時の危機意識は、熱狂的陶酔感の中に精神の自由を抑圧する、個性のカリスマ化であった。何でもありの昨今、一個性が垂れ流す害毒など、微々たるものかもしれない。が、一見自由な「個性」は、商品化され、コマーシャリズムの精神支配の一端を担う危険を秘めている。ゴールドベルクの音楽は、「そんな音楽は嘘っぱち」と看破し得る、毅然たる路を示していた。
 我々にはこの賢人が必要だった。84歳の死は余りにも早過ぎた。

■管弦楽組曲第2番ロ短調BWV1067
J.S.バッハ(1685-1750)の管弦楽組曲第2番は、作品総目録に拠ればケーテン時代の作。序曲と舞曲を並べたフランス風多楽章組曲。弦四部と通奏低音にフルートが加わり、協奏曲とも見なせる。符点音符の重厚な歩みをアレグロのフーガが挟むフランス風大序曲。8小節主題を繰り返すロンドー。ロマン派風感傷に紙一重のサラバンド。2つのブーレーは独奏トリオを持つスケルツォの役割。ポーランド舞曲ポロネーズも独奏中間部を持つ。流麗なメヌエットから、独奏楽器が飛び跳ねるバディヌリー。91年津田ホールでのゴールドベルク特演では、本日の独奏者で演奏された。
■二台ヴァイオリンの協奏曲ニ短調BWV1043
これもケーテン時代の作品。独奏と弦四部、通奏低音によるイタリア風合奏協奏曲で、バロック臭が強い。第1楽章ヴィヴィアーチェ。独奏ヴァイオリン同士でカノン風対話が展開。ソプラノ二重唱を思わせるヘ長調の第2楽章、ラルゴ・マ・ノン・トロッポ。第3楽章、ニ短調の激しいアレグロ。91年夏の特演では、ゴールドベルク自身が第1、安芸晶子が第2ヴァイオリンで演奏されている。氏が円熟の芸を東京で聴かせた最期の機会だった。
■ハイドン:交響曲第88番ト長調「V字」
ハイドン定期でパリ交響曲を格調高く響かせた巨匠は、昨年夏に予定された特演では、ハイドン(1732-1809)エステルハージー時代のこの最高傑作を聴かせてくれる筈だったのだが。アダージョ序奏に始まる第1楽章、8小節主題を徹底して活用する古典派アレグロ・ソナタ。「運命」第1楽章にも比肩されるが、より純粋な音楽の喜びがある。第2楽章、チェロが導くニ長調ラルゴ主題と5変奏。第3楽章、アレグレットのメヌエット。トリオではファゴットがハンガリー風ドローンを引っ張る。第4楽章、アレグロ・コン・スピリトーソのロンド・ソナタ。
              (1993年暮初出 新日本フィルゴールドベルク追悼特別演奏会曲目解説)


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コメント 1

でれく

どーもっす。
マエストロによろしくお伝えください。
by でれく (2006-09-05 11:19) 

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