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祭りの後の庭 [音楽業界]

サントリーホールのチェンバーミュージック・ガーデン2012が終わりました。
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2年間、溜池の谷に半分掘られたホールの練習室や青薔薇の間を拠点に、1ダースとちょっとの若き音楽家たちが、フライシャー、プレスラー、アシュケナージ、ブルネロ、カルミナQ、ボロメオQ、バボラク、それからエクのねーさんがたやら若林にーさん、堤校長先生なんぞとあれやこれややってきた成果が発表され、一緒に弾いたりもした。そこに今年のレジデント・クァルテットのヘンシェルQも加わり、目指すべきお手本(には余りにも高すぎるかもしれないけど)をみせてくれた。

サントリーホールというヴェニュも、出来てから四半世紀で、初めてそのお腹にホントの自分の子供たちを抱えて、2年間あっためてきて、それが梅雨のさなかの晴れ間に、やっと苗床から顔を出したのを見届けた。この4月には営利企業の広報セクション(最近は社会貢献セクションというらしいけど)から公益財団法人となり、「稼ぐ」ための営利事業ではなくなったサントリーホールの自主公演とすれば、正に、目玉事業。「劇場法」がどうなるのやらよー知らぬが、ま、これでその受け皿にはなれるようになったわけです。

ヘンシェルQのベートーヴェン全曲を仕掛けたディレクターさんとすれば、それこそ20年間、苗床から見守ってきたプロジェクトでした。
カザルスホールで最初の長谷工シリーズで登場した向山さんが、道夫先生をピアノに迎え、ブレイニンとシューベルトの変ホ長調(だったと思う)のトリオを演奏し、その後、最初の精進湖でのアマデウス・コースが開催され、アマデウスQの弟子としてドイツから訪れたのが若きヘンシェルQだった。モニカが風邪ひいて騒ぎになり、病院まで連れて行ったセミナー通訳さんが、ガーデンでプレイング・スタッフとして本日もヴィオラを弾いていたマルチレディ、Hさんだし。で、なんのかんので当時は若き製作現場担当者だった現ディレクターさんもアマデウス・コースに巻き込まれ、次回からは通訳としてボランティアでクラスに顔を出す。ヘンシェルQは、大阪で優勝したりしながら、アマデウスQ残党や澤先生との六重奏や八重奏をカザルスホールで披露したりしてた。
そして春は終わり、夏の時代がやってくる。バブル崩壊後に吹き荒れる大嵐の中、カザルスホールの企画室はホールのハードそのものを維持するために解散となり、若手・壮年実力派団体による「ベートーヴェン弦楽四重奏全曲演奏会」を「カザルスに捧げるバッハ全曲」と並ぶ毎年恒例の定番イベントにしたいといろいろ動き始めていたぺーぺー現場プロデューサーの野望は、絵に描いた餅になった。
世は21世紀、流れ流れて東京湾岸晴海のNPOに新天地を見出した元ペーペープロデューサーは、お祭りじゃあない「定食屋」のような弦楽四重奏シリーズを東京に作るべく苦闘する。んで、またまた時は流れて…

ま、庭師さんの話はもういいや。やめましょ。誰にとっても進行形の話なんだし、収穫の時期となるには早すぎる。

ちょっくら早場米のヘンシェルQは、そっちはそっちでいろんなことがありながら、青薔薇の庭で立派な実りをみせてくれた。そう、あの作品131第1楽章の全てレガートで繋がるフーガは、正にアマデウスの翁が精進湖やら奥秩父で説いていた「あるべきベートーヴェン像」が音になった姿。あのときにはとても不可能に思えたことが、出来るようになった奴らがいる。ブレイニン翁、ニッセル先生、皆さんが蒔いた種は、20年して、しっかり開花しましたよ。

祭りの後、パーティ会場の真ん中に譜面台と椅子が持ち出され、さあ、みんな、初見大会だ、弾きたい人手を挙げてぇ、と大友パパが声を上げると、若い芽やら立派に頭を垂れた穂先までがわれもわれもと楽器を持って集まってくる。こんな風。
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とか
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とか
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とかさ。

7月になって、梅雨が明ける頃には、庭には新しい苗が運ばれてくるそうな。

みんな、まだ、夏の時代。これからもずっと、この庭は夏が続く。収穫の秋なんて、もしかしたら、永遠に来ない。

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