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日本のローカルオペラとは [現代音楽]

初台の新国立劇場にノコノコ出かけ、中劇場の方で三善晃氏のオペラを見物して参りましたです。
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この初台の劇場、自分が生活していて、納税している国のメインオペラハウスなんだけど、どういうわけか凄く縁遠い感じがする場所なんですよねぇ。調布に居た頃は、どうやら二国は新宿になる、京王線沿線になるらしい、なんて話が出て来てワクワクしてたんだけど、その後、根津に居る頃にオープンし、目白に居る頃はなんとかチャリチャリ通ったこともあったが、今世紀になって湾岸に移ってからはともかく遠いという気しかしない。実際、そんなに遠いわけでも無く、時間的にも月島駅から30分くらいで到着するわけなんだけど、なんか、遠いんですよねぇ。

そもそもここ、なんで日本のオペラハウスでこんなに大きな必要があるんだ、って思えちゃう。その意味では、本日の中劇場くらいが世界的に見ればまあ、アムステルダムとかフランクフルトくらいの劇場と同じ規模くらいが最も適性であろうと思える日本国のオペラ業界を考えると、こっちが「新国立劇場オペラハウス」であってくれればなぁ、と足を踏み込む度に思うわけでありますよ。ま、いろんな事情があるんでしょうけどねぇ。

んで、それはそれとして、本日は三善晃の《遠い帆》を見物して来たわけであります。この作品、『戦後のオペラ』で取り上げてないのは、ある深い意味があって…なんていうと大変なことのようだけど、なんてことない、「別の企画ででかく取り上げる可能性が高いから、パツパツのこっちには割愛しましょう」ってだけのことなんだけどさ。そっちの企画はどうなってるのか、ってか、企画としてホントに進めるのか、ま、いずれにせよ、あたしゃ、トンズラさせていただきますので、その旨、よろしくですううう。

もとい。話を今日の舞台に戻せば、いやぁ、とっても勉強になりました。何が、って、「日本のローカルオペラとはどういうものなのか」というのが非常に良く判る舞台だった、ということ。

この作品、テーマは典型的な「ローカル偉人もの」です。例えば大分県民オペラが伊東マンショを主人公にするオペラを創ったとすると、無論、地元では喜んでやられるだろうけど、ことによると「天正遣欧少年使節〇〇年記念」なんて名目で、新国立劇場が総力を挙げた新プロダクションを出す可能性は…なきにしもあらず、でしょ。だけど、どうなんでしょうねぇ、伊達政宗がスペインに派遣した支倉常長という人物に焦点を当てた作品となると、やはり仙台のプロダクション以外はなかなか難しいでしょう。
良い悪いの問題では無く、オペラという数人の人がやろうと思っただけではとても上演出来ない総合舞台芸術の場合、「なんで仙台の人の話をやるの?」ってことにならざるを得ない。幸か不幸か、後の歴史的な影響力はない話なわけで(天正遣欧少年使節に歴史的な影響力があったか、と言われると、うううん、だけど…やっぱり有名だもんね、圧倒的に)。

それはまあ、良いんですわ。そういうもんもある、それを三善晃という全国区の、仙台に縁もゆかりもない人が作曲したお陰で全国区の作品になる、という可能性は大いにあるわけですから。遠藤周作が小説にしたから知られてる、ってのと同じ。

興味深い、ってのはそこではなくて、本日の上演の在り方にありました。

身も蓋もない感想を一言で述べれば、「ああ、このプロダクションは、常設のオペラカンパニーを持たない都市での制作が前提なんだなぁ」って。なんか間抜けな感じ方だけどしょーがない、そう思ったんだから。

全く偶然でありまするが、やくぺん先生は10日ほど前にフィリップ・グラスの歴史三部作をがっつり眺めてきたわけであります。で、この三善晃唯一のオペラも支倉常長という歴史的人物の生涯を描くのだけど、歌手の歌唱と演技による緊張関係でドラマツルギーを進める19世紀的なオペラとはまるで違って、歌手のモノローグを合唱が繋いでいく形で出来てる。《アクナトン》なんかに限りなく近い造りなわけです。プレトークでは《受難曲》みたいなもんだ、と仰ってましたけど、全くその通りで、恐らくは年末にENOで見物する予定のピーター・セラーズ演出の《もうひとりのマリアによる福音書》なんかも、多分、こんな感じなんだろーなー。

本日の舞台、作品の性格からして、合唱団が主役歌手と同じくらい重要な仕事をする。で、この合唱団の人数が、もの凄く多いんですわ。なんでこんなにいるの、ってくらい舞台の上にいる。それらの人々は基本的には全てがアマチュアで、このプロダクションのためにだけ2年間準備してきたという。プレトークでは、演出家さんやプロデューサーさんが、それを美談として語っておりました。

だけど、例えば仙台という都市に、プロの歌手に拠る合唱団を20人くらい、プロの舞踏団兼パントマイムを10人くらい雇って、ちゃんとディレクターがいて、年間に4本くらいのプロダクションを出して定期会員を募っている「県立仙台オペラ・カンパニー」みたいな常設組織(要するに、南オーストラリア州立オペラ団、みたいなもんですわ)があるとすれば、恐らく、本日のような「市民合唱団を2年間訓練して」というオペラの作り方は、そもそもあり得ないでしょう。いくら三善晃の管弦楽が無慈悲にガンガン鳴るとはいえ、本当のプロの歌手ならば、あれほどの人数は要らない。演出も、舞台からはみ出しそうな数の合唱団をどう動かすか、という風に考えていく必要はない。

善し悪しの問題ではなくて、仙台という場所でこの作品をやろうとすると、合唱は地元のアマチュアでやらねばならない、ではどうするのか――そこから全てが始まっているように思えたわけです。

んで、結果として、なる程ねぇ、これが日本の地方オペラってものなのね、って思わせていただいたわけでありますよ。そもそも、公立のオペラ・カンパニーを持ってない都市が、予算を作って巨匠作曲家にオペラを委嘱してしまう、という行為そのものが無謀な行為に思えるんだけど…どうもそうではないのが日本国の公共自治体の文化政策みたいなんだわなぁ。うううん…

合唱曲にはオソロシイ程の傑作はあるけど、所謂19世紀的な意味での「オペラ」とはトンと無縁だった創作者にとって、唯一遺された「オペラ」がこのような合唱がコロスとして話を進める形のものになるのは、当然と言えば当然だったのでしょう。結果として、市民参加を可能とする最良のローカル・オペラ制作のための素材が提出されたわけで、委嘱した仙台市側とすれば大いに成功だった。

この《遠い帆》という作品、演奏会形式で良いからプロの合唱団20名くらいのアンサンブルとスコア指定通りのフルサイズのオケで聴いてみたいものであります(終演後にピットの中にいた知り合いのヴァイオリンさんに訊いたところ、初演時よりもヴァイオリンのプルトは減らしていたそうです)。今日の合唱がどうだったということでは無く、三善晃の複雑にして最も巨大な合唱と独唱のためのオラトリオとして演奏し、どんな風に聴こえるのか。

仙台フィルとすれば、この作品をそうやって数年に一度は取り上げていくのは三善さんに対する責任であり、また大事な財産になるんじゃないかしら。

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みっこ

ええと、男声は東京から藤原の合唱も結構入っていたそうですよ。でもプロでも50いても厳しいねえ。との事でしたが。
by みっこ (2014-08-25 14:22) 

Yakupen

みっこ様

仰る通り、当日プログラムにも明らかに助っ人と思われるプロの顔ぶれがありましたね。問題はオペラでは、「その地方にプロの演奏家が生活してやっていけるハウスなり歌劇団がない」ということです。演劇や舞踏ではなんとか地方で生きていくやり方を公共の「劇場」が支える方法は出て来ていますが、オペラはホントの意味でのローカル歌劇団と言えるものは、びわ湖ホール声楽アンサンブルとか、カレッジオペラハウスくらいしかないのが現状ですからねぇ。まあ、それを言い出せば、二期会や藤原だって世界の常識的な意味での「東京ローカルな歌劇団」なのか、という問題になっちゃうわけだろうけど。

要は単純な話で、日本のローカル・オペラというものの在り方は、良くも悪くも層が厚く熱心なアマチュアをベースにプロが助っ人に入るようになっている、という姿がすごおおおおく良く判った公演だった、ということです。よくまあ、そういう在り方を逆毛にとって、と感心したわけです。善し悪しではありませんので、スイマセン。

敢えて注文を付ければ、せっかく「どんな村人の老人でもみんなやたら若く見えるぞ」という日本のオペラ上演の問題点とは全く逆の合唱団だったので、もっと年寄りの合唱団員に年寄りと割り切った役回りをはっきり触れれば面白かっただろうになぁ、と思いましたです。ぶっちゃけ、三善さんのオケと合唱の曲って、わざと聴こえないようなバランスになってるとしか思えないところもありますから、小生としてはともかく少数先鋭のプロでどんな風に響くものなのか知りたいなぁ、と思ったわけです。
by Yakupen (2014-08-25 15:50) 

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