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初稿入れました [売文稼業]

ふうう、数時間前の猛烈な雷雨の雲も東に去り、西の空は夏の夕方の強烈な光が戻って来ている帝都でありまする。
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午前中には久しぶりに飛行船METLIFE号もぽっかんと浮いてたんだけど、流石にあの嵐の後では帝都上空静かなもんです。おお、北に目をやれば、遙か大川上流には天樹も姿を見せ始めてら。

一昨日朝に常夏の新嘉坡から真夏の東京に戻り、佃厄天庵で荷物を解き、メルボルンで事故らせてしまったレンズを修理に出すべく銀座のNikonショールーム経由で葛飾厄偏舎に赴き、そこからは実質的にプチお籠もり状態。単行本仕事の打ち合わせもあるために佃に戻って、今日は厄天庵公共区域の勉強部屋で作文作業してます。
てなわけで、この数週間、世間で何が起ころうが関係なく、当電子壁新聞やらFacebookで皆々様に御世話になりつつやっておりました某月刊誌の比較的デカイ原稿、今、初稿を入れました。お盆進行の7月実質最終週の金曜日ですから、ホントにギリギリでんがな。ふううう…

指定の量を遙かにオーバーしているので、これからカット作業のやり取りが始まるわけですけど、ま、ともかく、終わった終わった、という気分で帝都の夏の夕方を眺めておりまする。いやぁ、それにしても、この原稿、勉強になりました。過去の同業者の皆様のお仕事の積み上げがあったからこそ出来たとはいえ、まあ、これまでいろいろ判らなかった細部の彼方此方が明らかになり、個人的には日本の戦後演奏史のある側面がとても綺麗に整理された、という感じであります。

それよりもなによりも大きな収穫だったのは、これまで「日本の演奏史」としか捉えられていなかった出来事が、実は「アジアのクラシック音楽演奏史」の一部でもあることを知らされたことでありましょう。残念ながら香港とマニラは調べが付かなかったんだけど、1962年のマレー連邦からの分離で揺れるシンガポールに来訪した日本のオーケストラが、その地にどのような意味を持ったか。そんなこと、今までどんな文献でも見たことがなかった。それどころか、現地シンガポールの音楽関係者すら、その意味を知らずにいた。シンガポール国立図書館で調べ物をし、その結果に半分熱に浮かされたような状況で飯を喰った現地オーケストラ関係者や音楽ホール関係者は、小生がまくし立てる独立前の当地でのコンサートの状況に目を丸くし、「そういえば、うちの父がそんな話をしていたことも…」、「えええ、あの方が主催者だったんですかぁ!」と身を乗り出してくる。

私たちは第2世代、と自ら語るシンガポールのクラシック音楽関係者たちは、半世紀前の独立からオーケストラの設立、アーツセンターの完成と着実に展開する自分らの歴史の更に下の層に、そんな話があったなどと知るわけがない。でも、あのシンガポール・バドミントン・スタジアムに詰め込まれ、チャイコフスキーを聴いた7000人×2公演の聴衆の中には、もう名前も覚えていない日本の若い指揮者の音楽から何かを感じ、何かをしようと考えた人がいた。

そんな当たり前のことに、今更ながらちょっとでも直接触れられただけで、この数週間の作業は意味があったのだろう。

まだまだ、知らなければいけない、知られなければならないことは、たくさんある。うん、がんばろー、あたしっ!

皆々様、あらためてご協力、ありがとう御座いました。来月18日発売のO楽のT誌、ご関心の向きは立ち読みを、とは言えませんので、せめて図書館での閲覧の程、宜しくおねがいしますです。

なんじゃこりゃ、後書き、か?あ、そういえば、明日は隅田川花火大会じゃあないかぁ。今年も残すところ5ヶ月ばかり…

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