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「元号」で回顧する意味はあるのか? [売文稼業]

以下の文章は、読者対象はおりません。ハッキリ言って、読むのは時間の無駄です。悪しからず。

本来なら先月中に入れる予定だったが、面倒なやりとりが必要な急な作文仕事が飛び込み年越しになってしまった原稿を4日に入れ、実質的な新年初荷原稿を昨日から葛飾オフィスにプチお籠もりで始めております。来週いっぱいまで、まとめてだあああっといろいろやっつける作文商売週間。「引退宣言」以降、所謂曲目解説系の仕事は激減しているけど、ま、隠居にしか出来ない総括系、現場レポート系の面倒でテクニックが必要な仕事ばかりになってるわけで、かえって大変とも言えるわなぁ。ふうううう…

で、新年初荷の仕事は、ぶっちゃけ、「2018年総括」系の作文でありまする。ま、これが新年初荷になるのがこのところの恒例になっていて、それはそれで良いんだけど、今年はちょっと困ってます。で、昨日はどうしよーかなー、とボーッと柿の木眺めたり、ヒヨちゃんと微妙な追いかけっこしたり(葛飾のヒヨちゃんは佃のヒヨちゃんと違って人見知りなのじゃ)、書いたり消したり状態。その間に別の原稿を巡るやりとりを、本格的に動き始めた編集者さんたちとやり合ったり。夕方過ぎに、やっと「ええええい、これでいいわい」と方針を決めて、なんかもうそれだけで1日の仕事をしたような気になってる…つくづく隠居爺であることよ。

何が困るって、2018年を総括する概論をするなら、せっかくだからそれにかこつけ「平成という時代を回顧する」ものにしちゃってええんじゃないか、ってことなんですわ。なんせねぇ、振り返れば、やくぺん先生が本格的に世界中のいろんなモノを追いかけるというやり方の商売を始めたのが、何を隠そう1989年のイースターあけくらいからで、それって全くたまたまなんだけど、正に「平成時代」が始まったところじゃあないかい。なんだなんだ、つまり隠居宣言した俺の「現役時代」って、完全に「平成」という元号の区切りの中なのではないかぁ!

実生活でも商売上でも、「元号」というものを使うのはどうしてもそうしないと許してくれないニッポン国お役所相手の書類記述などをするときしかなく、それだって「明・大・昭・平」と丸を付けさせるようになってても平気で西暦を書いて、ダメですと言われると「えええ、って、今年はひらなりでなんねんなでしたっけ?」なーんてたんびたんびにギャグにもならぬ会話を区役所のおねーさんなんかとしているわけで、個人的には「平成の最後の」とか「平成の終わりに」とかいう修飾句は全く実感がなく、元号といわれると、あー今度の世界大運動会は皇紀2680年記念なんですよね、なーんて思うくらい。ユダヤ歴だと5700年くらいだっけ、ミン国歴だと108年、かな。イスラム暦は…なんだか面倒なんだよねぇ。

ま、なんにせよ、暦は天皇以上にその文化圏の象徴であり思考の縛りなわけだから、それはそれであり。困るのは、ニッポン国が「改元」なんて究極の時間支配を未だにやってくれてる特殊な文化圏であるというところ。なんせ、なーんの意味もない時間のまとまりに意味があるかのような空気が醸し出される(王制の国家なら、「〇〇何世時代」とかいう纏め方になるわけです)。この30年なんてまとまり、世界のどの他の文化圏でも絶対にあり得ない特殊な切り取り方なわけだけど、日本語文化圏でだけはなんだかとっても意味のある特別な時間の固まりに見える。

なにもないところに価値を与えていくのが壮大なフィクションの体系としての文化なわけですから、こういう祭の時に立ち合ったのを面白がればいーんだなぁ、と割り切ることにしたのでありましたとさ。

ひとたび腹をくくると、それなりにまとまりが付いて見えてくるのが「歴史」というフィクションの面白いところ。バブル崩壊に始まり未だ非独立国状態の戦後レジューム顕在化で宙ぶらりんに終わる「平成史」は、室内楽の世界にも意味のあるスパンとしてあり得るではないかぁ。

以上、なんのことはない、やらにゃいかん強引な原稿に向けたウォームアップなだけの駄文でありました。なお、掲載媒体の「演奏年鑑」は一般への発売はありませんので、ご覧になりたい方は春以降に音楽図書館やらで探してみてください。

さあ、働くぞぉ。

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