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ちょっと可哀想な記念年 [音楽業界]

4月終わりからの大連休が明け、夏に向けて世間がやっとまともに動き出し、葛飾巨大柿の木周辺も枝の中からのぎゃーぎゃーヒヨちゃんやシジュウカラつつぴぃの声から、遙か高みから劈く燕さんたちのがじがじじじじという叫びが支配する今日この頃、皆々様も日常生活がお戻りになられましたでありましょうか。

さても、爺初心者やくぺん先生ったら、20世紀にはゴールデンウィークはクラシック音楽業界には閑散期だったのがなぜか昨今は猛烈な繁栄期となってしまい、大連休中は佃縦長屋には秋吉台から戻った晩と金沢から戻った数日のみ、葛飾オフィスには一切寄りつけませんでした。コンクールとフェスティバルの取材が続いたんだから、感覚的には2週間の異国ツアーだったみたいなもんですわ。いやはや。

んでその作文作業をせねばならぬのだが、どーにも頭が動かぬ。で、この大連休騒動ですっぽ抜けてしまった可哀想な記念年のお話をちょっとし、取材メモ整理という爽やかな皐月の朝には地味過ぎる作業に向けたウォームアップでありまする。

ええ、話題にする人がほぼ皆無なので、その道の研究者の方が騒ぐまで全く気付かずにいたのですけど、去る5月5日子供の日(世間の多くの方には有楽町と金沢の祭の最終日で池袋の祭も音楽系で盛り上がってくれた日、でしょうねぇ)はハンス・プフィッツナーの150年目のお誕生日だったそーでありまする。遅ればせながら、御目出度う御座いますっ。

ホントならば、この日にナショナルシアターで国のスター男声歌手総出演で《パレストリーナ》が上演され、腐女子をきゃーきゃー言わせるべきなのでありましょーが…ま、そんなことはどうやら世界のどこの文化圏でもありっこない。ミュンヘンでくらいやるのかと思えば、それもない。かのトーマス・マンがあれほど賞賛した作品だというのに、なんでやねん。「音楽史上のネトウヨ総代」「大戦間時代初期の百田某」と言われても文句言えないような論客としてのキャリアが裏目に出たのか(プフィッツナーの反ユダヤって、今の日本に空気として流れる反中・反韓なんかに凄く近い感じがするんですけどねぇ…)、それともホントの右翼は国家主義似非右翼からは忌避される宿命を1世紀先駆けて見せてくれたのか。《ドイツ精神について》をティーレマンがミュンヘンフィルで演奏してあげても良いじゃないか、どーしてそれくらいのことしてやらんのじゃっ!メッツマッハーがいつだかにやって大批判を浴びた事件があるので、怖くて周囲がやらせてくれない…なんてのが真相だったりして。

ま、あんまり興味がない方も、悪いことは言わないからこれをちょっとお聴きあれ。
https://www.youtube.com/watch?v=SQ8bjpku0A0
こういう商品として出ている音源をまんまYoutubeにアップしたものを紹介するのは極めて抵抗があるんですけど、他にないんでお許しを。既に大家となった晩年にミュンヘンに住んでた頃、イタリアのムソリーニのパトロンだったメンデルスゾーン夫人(!)宅に居候していたカサドのために書いたチェロ協奏曲でありまする。先までしっかり聴かなくて良いから、頭をちょっとだけでも付き合ってあげてくださいな。人間嫌いで苦虫をかみ潰したような顔をしてる頭の固い懐古主義者の爺が実はどんなに恥ずかしい程「ロマンティック」か、嫌でもお判りになるでしょ。本気になって付き合うと大変だけど、話をちょっと聞くだけなら意外に面白い爺さん、って感じかな。

ちなみに、誰でも一発でカッコ良いと思うだろう最晩年のハ長調小交響曲冒頭とか、プフィッツナー作品の中でもほぼ唯一の聞いた瞬間にみんな小唄として歌える旋律があるヴァイオリン協奏曲終楽章とかじゃなく、実質3曲だかあるチェロ協奏曲の中でも最も知られないこの作品を紹介しているのは、意味がないわけではありませぬ。実は実は、この作品のオリジナルに近い、作者の細かい校訂の跡が書き込まれた初期譜のひとつが、新帝治める帝都とーきょーの遙か西の彼方、多摩川の向こうの丘陵の中に存在しているのでありますよ。

今を去る事既に10数年前の2006年、八王子でカサド・コンクールが開催されました。その際、不祥やくぺん先生、「カサド展」という併設事業の展覧会作成のお手伝いをさせていただきました。ちゃんと説明するとめんどーこの上ないので、手短に乱暴に言えば、カサド未亡人原千恵子さんが日本に持ち帰った遺品が諸処の事情で玉川大学に寄贈されており、きちんと整理されていない。で、それをひっくり返してカサド回顧展をやることになり、不完全だった資料調査を慌ててやることになった。夏から秋まで佃から多摩川向こうまで通い、実質上単行本一冊やるくらいの大作業だったわけであります。カサドの人生を語る上で未だにおおっぴらに出来そうもないとてつもない事実を秘めた歴史的な一次資料も含め、カザルスからの手紙だとか、カサドの作品の存在すら知られてないチェロ曲の原譜やら書きかけて捨てた断片やらがいっぱい出て来た。この写真は、2009年に2度目の展覧会をするために再調査をしたときに、少し綺麗に整理されていた様子。
05.JPG
そんななかにこれがありました。当時の当電子壁新聞の記事でありまする。
https://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2006-11-10
このプフィッツナーのチェロ協奏曲の手書き譜面、おそらくは最初に作られた譜面のひとつで、プフィッツナーから初演予定のカサドに送られたのであろう細かい校訂や指示が書き込まれてます。一緒に、「〇月×日午後にミュンヘン中央駅に到着するなら、そこからどうこうどうこうしてうちまで来てくれ」というプフィッツナーの手紙も出て来ました。読み取れたんだから、確か、タイプ印刷で最後にサインがしてあったような。

そんなものが存在することは誰も知らなかったので(恐らく、原千恵子さんも知らなかったでしょう)、ビックリ仰天したものです。ま、正直、これくらいなんでもないわい、というくらいもの凄いお宝の山を掻き分けていたので、「A級クラスのお宝」に分類し、直ぐに次の作業にかからざるを得なかったんですけど。

てなわけで、プフィッツナー御大は案外身近なところにおります。小田急線で町田から新宿方面に向かう方は、玉川大学駅を過ぎたところで右手を眺めながら、ああそこにプフィッツナーの魂の痕跡があるのだなぁ、と思いを馳せてくださいませ。

蛇足ながら、ヘンシェルQ第1ヴァイオリンのクリストフ君の嫁の御尊父がドイツ・プフィッツナー協会の偉い人だそーな。っても、秋の来日でヘンシェルQがプフィッツナーのあのしんみりむっつりクァルテットをやるというわけではないみたい。残念。

以上、こんな地味な記念年もある、というお話でした。

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