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プッチーニがやりたくても出来なかったこと? [現代音楽]

なんのかんのあったんだけど、ともかく上野の杜は東京文化会館に午後2時過ぎになんとか辿り付き、無事に当初の予定通りルチアノ・ベリオ作曲《プッチーニ「トゥーランドット」第3幕後半の音楽》の舞台付き上演を聴いて参りましたです。ゴメン、2幕からは間に合ったけど、プッチーニさんがお書きになった1幕、まるまる聴いてませんっ。

この上演、どうやら世間ではプッチーニ作曲《トゥーランドット》(ベリオ補筆版)という認識のようで
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恐らくはそのお陰でありましょうぞ、春も近く寒桜チラホラ咲く日曜午後の上野公園口の会場を埋めるほぼ満員とも思える人々ったら、文字通りの老若男女、ってか、やたらと若い人が目立つ驚くべき状況。
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「クラシック音楽客層の高齢化」なんて何処吹く風、まるで1950年代の労音勃興期、ニッポンで最も「クラシック」が人気があった頃もかくやと思わせる風景が広がっておりましたです。なんなんじゃ、これは?オペラ、そんなに若い世代にインなのかぁ?

ま、その「なんでやねん?」はまた別の話。本筋のベリオの《トゥーランドット》について。なんせひとつのオペラ上演としては前述のように第1幕まるまる聴いてないんで(それでも、当初の予定では3幕だけと思ってたんで、まだ立派なもんじゃわい)、まともな感想など書ける筈もない。ですから、あのレーザー光線はなんなん?ピンポンパンのキャラクター歌手任せっぽい乱暴な動きはなんなん?等々は不問。商売もんの作文じゃないんだから、ジュネーヴの広報さんに「おたくでやったときはどんなんだったの」なんて質問のメールを入れたりしませんっ。以下、文字通り、感想になってない感想以前ですな。ま、「書いてあることはみんな嘘、信じるなぁ」をモットーとする当無責任電子壁新聞を立ち読みなさってる酔狂な方には、今更言うようなことではないでしょうけど。

ええ、世間には「大作曲家の未完の作品」というのは案外あって、その中でも遺された部分が余りに素晴らしいのでなんとかして上演されている、という作品はそれなりの数がある。このプッチーニの最期の作品の場合は、癌で亡くなってしまったので…というのが未完の理由でそれはもうはっきりしているようですけど、誰がどう考えても強引としか言いようがない結末部分をどう処理するか、延々と悩んでいたから未完になってしまったわけで、シェーンベルクが《モーセとアロン》の最後の部分を台本は自分で書いていながらとうとう最後まで作曲出来ずに演劇としてやってくれと白旗挙げたとか、ベルクが《ルル》の3幕1場の無駄に人がいっぱい出て来るパリの株暴落シーンを処理仕切れずに逝ってしまったとか、そんなんと似たようなところがある。やっぱり冷静に考えれば、「プッチーニは上手く書けなかった」と判断すべきなんでしょう。別にプッチーニさんにダメ出しをしてるわけではなく、ドーナッツ盤レコード片面3分ちょっとで収まる旋律一発の力にかけては史上最強空前絶後の方にとって、些か異なる芸風が必要とされるフィナーレだった、ということなんでしょうねぇ。

で、トスカニーニ御大がどうだこうだという有名すぎる史実もあるわけだし、アルファーノ補筆はどんなにダメダメと批判されようがそこまでが魅力的過ぎるからともかくお話を終えるためには必要なわけだし、世間ではそれで通ってきた。だけど、やっぱりどう考えても「幼児期トラウマを抱えた権力者が、自分のせいで自害する奴を眺めて心を入れ替える」という猛烈に難しい、これじゃモンテヴェルディやヴェルディだって頭を抱えるぞ、って素材をきっちり1場のみで収めろというのですから…

んで、ベリオが登場するわけですね。この作曲家さんの創作に於いて、「引用」とか「コラージュ」とか、はたまた「編曲」と呼ばれるジャンルは、極めて本質的な位置を占めているのは皆様よーくご存じの通り。今風に言えば、リミックスの想像力というか、DJさんなんかがやってることを作曲技術の手練れが本気でやってくれていて、《シンフォニア》とか《レンダリング》とか、はたまた複数のビートルズ編曲とか、恐らくはこの作曲家の代表作とされるようなものがいっぱいある。

この《トゥーランドット補作》と呼ばれるオペラ作品も、ぶっちゃけシューベルトの未完の三楽章交響曲をベリオが補作したとされる《レンダリング》と同じ趣旨と思うべき音楽なのでしょう。リューの死までがプッチーニの創作で、そっから先はベリオの作品と思うべし。やってることは、プッチーニの素材も使いつつ、今から100年くらい前に欧州のオペラハウスで流れていた最も尖った響き、《グレの歌》を聴いて「こんなものを聴きたかったんじゃない」と怒ったという自分の芸風とは違う最先端をしっかり知っていたプッチーニが、やりたくても出来なかったようなところに足を突っ込んだ「もしかしたらプッチーニさん、ホントはこういうの書きたかったんじゃね」って音楽ですわ。トゥーランドット姫の心変わりは、基本、カラフとの二重唱ではなく、R.シュトラウスみたいなモチーフ病とは違うものの、まるでこの当時に大流行だったシュレーカーの作品と言われても納得しそうな「メロドラマ」で処理してしまう。2幕のピンポンパンの場面でも裏に透けて見えていた《グレの歌》の道化の歌みたいな雰囲気や、指揮者によっては驚くほどモダンに聴かせることもあるドイツ表現主義的なオーケストレーションを、ベリオは素直に引っ張って来て表に出してくる。あああ、なるほどぉ、確かにこの作品はもう《ヴォツェック》が完成していた頃の音楽だよね、って。

舞台としては、「王子を愛する下僕の自殺で心を入れ替えた王女様は、王子と結婚し北京の市民も大喜びしましたとさ、目出度し目出度し」なんて無茶この上ない終わり方ではないこの版の方が、現代の聴衆の気持ちとしても納得するわけですし、作品としての演出の可能性は大いに広がるし。このベリオ版の出現で、《トゥーランドット》という作品はこの先も生きながらえる可能性が高くなったんじゃないかしらね。

さあ、こんなに沢山の人がベリオのオペラを堪能したのだから次は《王は耳を澄ます》だ…なんて言いませんっ。

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