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ゴールドベルク山根美代子葬式前夜の祈り [こしのくに音楽祭]

本日2006年10月22日、午後6時より、下井草の日本福音ルーテルむさしの教会にて、「ゴールドベルク山根美代子葬式前夜の祈り」が行われました。

雨が降りそうな、ちょっと降ってきたかな、湿った秋の晩、西武新宿線鷺宮駅から阿佐ヶ谷方向に向け中杉通りを10分ほど下り、中野区から杉並区に変わったばかりの筋を右に入った住宅地の中の大きいとは言えない教会。ICU隣に移転する前のルーテル神大が近くにあり、移転後に学校跡地に建ったマンションに山根先生がお住まいで、この教会に通われるようになられたそうです。

なんだか最後まで、因縁というか、幾重にも重なる偶然の連鎖を感じる。

だって、最初にコイネー・ギリシャ語のレッスンを受けにICU敷地外れの垣根を潜って嫁さんと出向いたのが、三鷹に移転したあとのルーテル神大。今日の牧師の話では、山根先生がむさしの教会で受洗なさったのはその少し前らしい。山根先生の40年来のご友人で、今回葬儀の実務を取り仕切っていらっしゃる友人代表宮尾舜助氏は、ICU一期生という大先輩であり、なんと第一生命元社長石坂泰三氏(第一生命館内集会室を旧第一生命ホールとして開放することを決定した矢野社長の後任)が経団連会長だった頃に氏の秘書をなさっていて、パリで山根先生に出会ったそうな。

シモン・ゴールドベルクを巡る偶然の連鎖には、もう驚きもしない。ゴールドベルクの来日、嫁が現場で働くホールへの氏の登場、五反田のお宅でのインタビュー、最期のリサイタルの客席にいたこと、曲目解説原稿が宙に浮いた急逝、嫁が日本のレップとして深い付き合いを持つようになった音楽家がゴールドベルクの愛弟子だったこと、来日のたびに楽屋裏にいらっしゃる未亡人とのお付き合いの復活、未亡人が「うちの嫁」と呼び格別の信頼をよせたヴァイオリニストがSQWで近しい団体に加わったこと、無数の縁が縒り合わされるような「こしのくに音楽祭」の慌ただしい立ち上げ……これらのぜーんぶが、偶然といえば偶然。

そして、偶然の仕上げとして、未亡人の葬儀で教会礼拝堂上集会室のすみっこに嫁さんとちょこんと坐っている。

偶然が3度重なると縁になり、ダースも重なれば必然になる。逃げようにも逃げられない絆になる。

山根先生のお弟子さんが弾くオルガンのブクステフーデ「天に在ます我らが父よ」を前奏に、祈りの会が始まりました。まず、讃美歌136番「血潮したたる」(言うまでもなく、マタイ受難曲のコラール)。続いて詩篇90編を牧師と会衆が読み合う。司祭の祈り。会衆全員が読むマタイ福音書5:3~10。大柴穣治牧師の説教(山根美代子氏の経歴、信徒としての歴史が簡素に語られた、押しつけがましさのない話)。讃美歌298番「やすかれ我が心よ」(これまた言うまでもなく、「フィンランディア」コラール)。祈り。主の祈り。讃美歌496番「うるわしのしらゆり」(乙女の園に揺れるワルツ)。最後に宮尾氏の思い出話があり、続いて、会衆全員着席のまま、ゴールドベルクがオランダ室内管を弾き振りしたハイドンのヴァイオリン協奏曲ハ長調の第2楽章を拝聴。喪主挨拶(故人が2年前から癌を知っていたこと、残された地上での時間をどう使おうとしたか)。そして、ゴールドベルク夫妻共演のベートーヴェン「春」が流れる中、眠る山根先生に白いカーネーションの献花。

教会の外には、派手な花輪が並ぶこともありません。偉い人たちの弔辞が延々と読み上げられることもありません。簡素な追悼集会。人々は三々五々湿っぽい夜に散ってゆき、去りがたい弟子達は、追悼の人々が去った後に再び礼拝堂に戻り、最後まで先生を取り囲んでいる。

ゴールドベルク未亡人を追悼なさりたい方は、ゴールドベルク翁が弾くハイドンのヴァイオリン協奏曲第2楽章を聴いてあげて下さい。生前の未亡人が、自分の葬儀ではこれを流してくれ、と弟子達に伝えていた音楽です。式典で流されたオランダ室内管との演奏はライブのプライベート録音ですが、ジェスキント指揮フィルハーモニア管の録音は、昨年復刻されており、簡単に購入可能です。http://www.toshiba-emi.co.jp/classic/release/200502/toce15011.htm

明日、23日の葬儀は、午後1時から同じ場所です。フィラデルフィアのゴールドベルク家に上がり込んではぐだを捲き、山根先生の手料理を散々喰らっていたカーチス時代の弟子らは、火曜日に慌ただしく到着する予定。まだまだ、わしらもお手伝いすることがあるようだ。


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コメント 2

ノン

やくぺん先生、初めまして。いきなりですみません!
山根先生の最後のご様子はと・・・この2日間、思いにふけっては涙が溢れます。山根先生には5年程お会いしておりませんでしたが、真の音楽を教えて頂きました。我家にも10年程来て頂いて教えを賜りましたが、彼女の知性と品性には立ち入れない何かを感じていました。困った!も沢山でしたが、長年音楽と係わりつつ我が音楽の師は彼女だと自負しております。思えばフィルクシニーのコンサートの事も思い出されます。
やくぺん先生のブログと出会って、以前のご様子も分かりました。しかし残念でしかたありません。シモンさんと初の共演での富山にも伺ってから15年位になるでしょうか・・・今は久々のスプリングを聴いてはため息と涙ばかりです。
by ノン (2006-10-22 23:21) 

Yakupen

ノン様、コメント、有り難う御座います。

本日の祈りの会でも妹様がはっきりと明言なさっておりましたように、山根先生が自分の地上での時間がさほど残されていないと知ってからの2年間、彼女の周りに流れている時間は尋常のものではありませんでした。
昨年秋のセミナー、それが発展した「こしのくに音楽祭」と、地上で彼女がするべきだと思われたことはおやりになられてお逝きになった。それに自分らが少しでもお手伝いできたことは、やがてはなんて幸運だったと思えてくることでしょう。

ノン様もよくご存じのように、そりゃ近くにいる人間は大変です。今日だって、この季節なのに、数週間前に今日の日を予測したような「私は菊は絶対にイヤ」とのスタッフへの発言のおかげで、献花の花をカーネーションにしています。裏方からすれば、これでなんぼお金がかかることかと頭を抱えてしまうわけですけどね。

でも、それが許される人であり、許される人としての責任をきちんと弁えている方でありました。

ま、山根先生について語り始めると、大変なことになりそうです。いずれまた、ときがきたらにいたしましょう。まだ、明日もあるし、明後日には我が家にニックらが転がり込んでくるので、慌てて掃除をせねばならず、仕事になりません。最後の最後まで、いやはや、でありますな。
by Yakupen (2006-10-23 00:29) 

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