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ロハン・デ・サラム師カサドを語る [カサド・コンクール]

いよいよ今晩から「カサド展」展示作業が始まるというのに、まだ掲示用原稿が殆ど出来ていない。なんでこんな酷いことになってるか、説明している暇もない。また夜明けを見る。また命が縮む。

で、今日は、「第1回八王子ガスパール・カサド国際チェロ・コンクール」開幕直前、やくぺん先生の自前ネタです。1990年、アルディッティQが「現代音楽の深淵から浮上」してカザルスホールにやってきたとき(このコピー、当時凄く話題になったんですけど、覚えてる人はおりますかぁ)、当時のアルディッティQのチェリストだったロハン・デ・サラム氏にインタビューしました。
さても、実はカサド使用調査を夏前からやってて、昨日までまーったく忘れてたんですけど…カザルスに習ってるロハンは、カサドの弟子でもあるんです。何年も習ってました。で、インタビューは、まずは「カサドのお弟子さんということですね」と始まってるんですよ。

そういえば、カサド資料の写真をひっくり返していたとき、カサドがインド人みたいな少年に教えている写真があって、なんかこいつみたことあるなぁ、とずっと思ってた。今、あらためて手元にある参考資料用ポジを眺めると、どうにもロハン少年に思えてしかたない。で、先程、ロンドンのロハンに添付して、「これ、貴方じゃない」とメールしました。さて、どんな返事が返ってくる事やら。今、連絡がつくところにいると良いんだけど。

なんにせよ、以下がロハン・デ・サラムが語る師匠カサドについて。いろいろ微妙な発言は端折ってあります。また、ロハンが現代音楽専門集団アルディッティQの中心メンバーである、ということは前提の話ですので、その点はご了解下さいませ。掲載媒体の「カザルスホール・フレンズ」も今はないし、権利があるかもしれない企画室アウフタクトはもうとっくに存在しませんので、今や小生が勝手に扱える素材と判断し、貼り付けます。思えば、向山佳絵子さんがフィレンツェで行われた最後のカサド・コンクールで優勝する数ヶ月前のインタビューですな。ごゆっくりお読みあれ。なお、ロハンのことをもっと知りたくなったら、こちらをどうぞ。http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/archive/20051226

                             ※※※

ロハン:最初の教師はカサドです。イタリアのフィレンツェで、私が12才の頃から。私は戦争中に生まれているので(注:1939年生まれ)、戦後ですよ。50年頃ですかね。フィレンツェに住んでいて、マダム原もフィレンツェに住んでいた。若い頃からね。夏の事だった。私はシエナのキジアナ音楽学校にいた。カサドがよく教えていた大きなアカデミーです。そこで、12才の時に初めて彼から教えを受け始めた。それから、フィレンツェへ。彼は演奏旅行を行っていたので、それで私はカサドがいない時にはフィレンツェのオーケストラの第1チェリストと一緒に学んでいた。カサドに教えてもらえるのは定期的ではありませんでした。その頃はカサドの最盛期で、定期的な生活はしていなかった。
 これはカザルスとは全く違うね。カザルスはとてもきちょうめんで、正確だった。そうね、カザルスは恐らく、北ヨーロッパの人間の持っているような資質があったんだな。ドイツ人みたいな。勿論、彼はカタロニア人ですがね。カサドもカタロニア人だったけど、気質はものすごく違っていた。カザドは若い頃からカザルスの弟子だったけれど。
--カサドはプラド音楽祭なんかでもあまり一緒にやっていませんものね。
ロハン:二人の資質は非常に異なっていました。カサドは、遥かにヴィルツゥオーゾでした。彼はヴィルトゥオーゾの時代の人間だった。それはカザルスとは大きく異なっています。カザルスは遥かに古典的で、なんというかな、とても厳格で、規範・・・
--カサドとはどのくらいのあいだ一緒にお習いになったのですか。
ロハン:18歳くらいまでです。私は12歳から18歳までイタリアにいたので。しかし前に述べた様に、彼は旅していたので、不定期だった。他の時は私は父と一緒にいた。「彼の居る所に来い」といわれるのだが、それは私たちには難しいことだった。生活が大変だったのでね。私は11歳からコンサートをしていた・・・チェロとピアノの両方をやるので。夏の間カサドはリスボンにいた、ずいぶん長い間、時には6週間くらい。リスボンには夏の邸宅があったのです。静かな所だし。それで、私たちはリスボンに教えを受けに行ったものです。フィレンツェにほどしばしばではなかったけれど。そのころのコンサート生活は今の様なものではなくて・・・今はとてもコンサートが押している・・・その頃はコンサートの間にずいぶんと時間があった。勉強したりすることもできた。
--あなたにとって、カサドの主な教えは何でしたか。おもに技術に関するものだったのですか。
ロハン:彼は偉大なチェロのヴィルトゥオーゾ演奏家でした。恐らく、12才の小さな少年には最良の教師ではなかったでしょう。なぜなら、彼のシステムはメソッドがあったのではありません。彼はある日一つのことを教えますが、次の日になると全く反対のことを教えるのです。そんな風で、とても創造力に富んでいました。彼の教え方は、時に気の短いところがありました。彼は時に作品をカットすることがあり、例えばシューマンの協奏曲とか、その終楽章などに。彼はそんな様なことを色々していますよ。彼はそういうことをする世代に属していました。
 それでもやはり、自分の若い頃を思いだしても、人は完全に教師の中に取り込まれるものです。私は、カサドは私に多くのものを与えたと思います。無意識の中に、私は多くのものを未だに持っております。私の方向が全く異なったものとなってしまってはいますが。しかし、12、3才くらいの歳に覚えたことは、無意識であれ、一生の間残るものですよ。
 カサドはとても個性的で、彼以外誰も他に出来ないことをした。カザルスより遥かに個性的でした、カザルスも個性的でしたが。カザルスはより普遍的で、大きなものがあった。多くの人が受け取ることが出来るものであった。カサドはとても個性的だった。人は彼の演奏に、たちどころにカリスマ性を感じた。でも、余りにも個性的なものでもあった。
--カサド自身の作品の演奏の仕方を教えたのですか。
ロハン:ええ。彼自身の作品の多くを。特に二つの作品を。《親愛の言葉》と《緑の悪魔の踊り》。この二つの作品は、私が子供の頃からリサイタルで演奏している。《親愛の言葉》はカザルスに献呈しているでしょ。
--カサドが貴方に教えたことの最大の事はなんでしたか、今の貴方にとって。
ロハン:今の私にねぇ。私が何の音楽をやっているかによりますが。ある種の音楽では、例えばスペイン音楽などでは、私は現在はカサドの様にスペイン音楽を演奏出来る人はいないと思いますよ。
--スペイン音楽というのは、ロベルト・ジェラルドとかそんなんじゃなくて…ということですね。
ロハン:カサドのその様な種類の音楽に対する関係は、両義的なものでありました。彼はダラピッコラの親しい友達だったのですが…ダラピッコラはカサドの為に二つの大きな作品を書いています。独奏曲と、管弦楽曲とね。ですが、他から聞いた話では、ダラピッコラはカサドに「貴方は作曲家に成るべきでなかった」と言ったそうです。
--へぇ、彼の作品はチェリストにはとても有難いものですよね、今も。
ロハン:確かに。チェリストの間では。確かに彼の音楽はとてもコミュニカティブですが、その意味では、彼は完全に時代に逆行していました。なぜならば、私達はセリー音楽の時代に入っていますから。
--正にトータルセリー音楽の時代でしたからねぇ。
ロハン:それはカサドとカザルスが共に共有していた要素の一つですね。二人とも時代の音楽を共有してはいなかった。
                     (1990年3月7日カフェ・アウロスにて インタビュアー:渡辺和)


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