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門前仲町のホール存続問題 [音楽業界]

どっちかというと、「新佃嶋界隈」カテゴリーかなぁ、と思わんでもない話。

我が銀座東京駅から最も近い田舎町から、清澄通り沿いに相生橋で大川を越えた先に、銀座東京駅から最も近い地方都市繁華街、門前仲町があります。とても東京とは思えない、それこそ岐阜とか山形とか宇都宮とか、県庁所在地やらそれに類する街の市役所裏繁華街、それも郊外に巨大スーパーなんかが出来る前の賑わいがある頃みたいな空気が漂う、面白い場所です。

実は東京の隠れた大動脈たる東西線と、最初は無用の長物扱いされてたけどいつの間にかそこそこ便利に使われる大江戸線とが交差する地下から陸に出て、清澄通りを佃とは反対の両国側へ、TCATから成田に向かう高速道路の方に向かって歩く。で、高速のガードの手前、でっかいスーパーの反対側のモスバーガーの入ってる小さなビルの上の方にあるのが、門仲天井ホール。ホールというよりも、小規模多目的スペースという方が正しい。昔の渋谷ジャンジャンなんかよりは余程広いですけどね。

そこで、こんなことが起きてます。
http://monten-kongo.blogspot.com/
説明すると、恐らくは面倒くさいいろんな要素を落っことしちゃうだろうから、ま、皆様、ご関心の方はこのページをじっくりお読み下さい。

存続してくれ、というアピールにどうこういうつもりはありません。

小生がこの騒動(なのかなぁ?)で興味深いのは、「民間のスペースにどこまで公共性があるのか」という点に尽きます。一部の方はまだ頑張ってらっしゃるカザルスホール騒動もそうだし、311前まではそれなりに関心も持たれていた公共文化施設の指定管理者問題もそうなんですけど、ぶっちゃけて言えば、「ホールは誰のものなのか」ってこと。

だって、この門仲天井ホール存続へのアピールに対して、オーナーさんとすれば「自分の持ち物なんだから、貸さないといえばそれまで」で終わりだった筈でしょ。でも、何故か知らないけど、「ホールを止めるな」というのが社会的な運動になり得る。

この資本主義の社会で、所有者がオーナーシップを勝手に発揮できない、発揮しようとすると世間から文句がでて、その文句が筋が通ってるように思われる、そんなものってあるのだろーか?

個人的には、「どうして自分らでホールを買い上げる運動じゃなくて、オーナーに対する営業終了反対運動なんだろう?」という素朴な疑問で止まっちゃって、何が何だか判らない。このようなスペースがいろんな事情で営業終了になり、そこでいろいろやってた人が追い出される、というのはごく当たり前のことで、それがイヤだから市民会館みたいな公的な場所を充実させていく、ってのが公共文化ホール存在の理由だったと思うんだけど。うううん…

凄く率直に言うと、このホームページにあるアピールの中で主張されている「組合が作ったホール」という点についても、例えば労音会館を筆頭に東京にだってそういう場所はいくらでもある。そこをホールの特殊性として議論の中心に据えるのは、確かに労働組合が支持母体のひとつになっていて、東京電力の労働組合がFukusima処理に大きな影響を与えている可能性は否定できない現政権のあり方を考えれば、誠に今的な論点の立て方と思わないでも無い。

だけど、ホントにそこから突っ込めるかなぁ、と感じちゃうんですよね。

運動をなさっている方を激怒させそうなんで、こういうことを言っちゃいけないのかもしれないけれど、小生は個人的にはホールというのは使い潰せば良いと思ってます。
御上やら、あるいは景気の良い個人やらが、なにをとちくるってかホールをつくっちゃうことはいくらでもある。そういうところに上手い具合にディレクター仕事が出来る方が配置されたり、ものの判る支配人さんがたまたまいらっしゃることもある。そんな場所は、どんどん使えば良い。ただ、使う側は、いつまでもその状況があると思ってはいけない。長く使いたいならば自分らで状況を支える環境を整える努力をし続けなければならない。だけど、ひとたびオーナーが出て行けと言い出してしまったら、さっさとその場所を捨てて、別の場所を探した方が良い。だって、(少なくとも戦後66年の東京の歴史を眺める限り)そんな場所は次から次へと出来るのだからさ。

今回の騒動でも、素朴に考えれば、このホールを維持してくれた組合さんに「ありがとうございました」とみんなでニコニコご挨拶をして、使用者側とオーナーさんの間に立ってホール運営で恐らくはいやんなっちゃうような作業をして下さっていたであろう支配人さんと一緒にどこか新天地を求めて移って行けば良いんじゃないの、なんて気楽に思っちゃうんだけど…そういうわけにもいかんもんでしょうかね。

ホールって何なんじゃ?とあらためて思わせてくれるご近所の騒動であります。ま、積極的に関わる気は無いけど、ご近所(多分、秋に引っ越したあともやっぱりご近所)の騒動ですので、大きな展開があったらフォローしましょかね。

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コメント 7

とらお

やくぺん先生、ブログでのご紹介ありがとうございます。また、忌憚のないご意見、心から感謝します。たしかにそうかもしれないなぁと思います。
大きな見方として、私は「ホールというのは使い潰せば良い」という考え方には違和感があるんですね。たしかに今までは、使い潰しても新しいホールがボコボコ建ってきたので、そういう見方も成立したかもしれませんけれども、それは持続可能な文化環境とは言えないと思うんです。
あと、企業(資本家)が所有するホールではなく、労働組合が所有している、ということを考えると、「資本主義の社会で、所有者がオーナーシップを勝手に発揮できない」というご意見は、少し再考できるんじゃないかと思います。
もう一つは、考え方が分かれると思いますけど、「公共」の担い手としての民間のあり方だと思うんです。「公共=官」ではないという考え方が広まりつつある中で、企業も社会貢献やCSRをやってきたし、市民もボランティアやNPOが活発化して来た。もちろんそれは、それぞれの主体の自発性の元で行われるべきだと思うし、外部が決定できるものではないにしても、「それは私的な存在ではなく、公共的な存在なんだ」ということを認識してほしいとは思うんですね。
門仲天井ホールの問題に限らず、こういう議論が、どんどん広がってほしいと思います。なので、すごくいいきっかけを提供していただき、本当に感謝しています。
by とらお (2011-08-29 07:31) 

Yakupen

とらお様

ご無沙汰です。叱られるだろうなぁ、と思ってたんですけど、ご意見ありがとうございます。

仰ることは誠にご尤もでありまして、見解の相違がこれほど判り易いとかえって話がし易いですね。

ぶっちゃけて言えば、小生、指定管理の現状について実際に企業の指定管理になった現場で働いている人などと腹を割った(腹を割りすぎた?)話などをいろいろした挙げ句、「公共の担い手としての民間」には極めて懐疑的になっているのです。ここまでモラルハザードが進んでるかぁ、って感じ。

残念ながら、2年前に大いなる期待をもって始まった民主党政権下での「新しい公共」は、少なくとも現時点に於いては、市民の側も、企業側も、はたまた旧来の公共を担う官僚や議会などの側も、どうにも本気でやる気がないとしか思えないのですよ。とっても残念だけど、もう現場は疲れている。

この運動のような形で少しでも「新しい公共」を作ろうとする努力が続けられれば良いのですけど、凄く正直に言いますと、現場スタッフのしんどそうな顔ばかりが浮かんでくるわけです。

「現実の3歩先くらいから現実を見る」というスタンスで仕事をせねばならない小生のような立場からすると、「新しい公共は何故失敗したのか」というところから始まっちゃう今日この頃の状況。頑張ってる皆々様には失礼な発言になったと思います。お許しを。

by Yakupen (2011-08-29 09:10) 

とらお

やくぺん先生、早速コメントを返していただいてありがとうございます。
たしかに「新しい公共」という動きに、「市民の側も、企業側も、はたまた旧来の公共を担う官僚や議会などの側も、どうにも本気でやる気がないとしか思えない」というのは、致命的な急所を突かれる思いです(笑)。少なくとも、労働組合というフォーマットは、新しい公共という新しいOSに適応できていないし、その新しいOSも、まだ社会に機能していない(こういう比喩が妥当かどうか分からないですが)。でもまぁ、まだ失敗というには、時期尚早なんじゃないかなぁとも思うんです。
あと、指定管理者制度は「公共の担い手としての民間」を促す仕組みではなくて、むしろ公共の領域を結果的に縮小させてしまう制度設計(結果的に、ではなく、意図的に、かもしれません)だったんじゃないかと思います。
by とらお (2011-08-29 10:42) 

Yakupen

とらお様

小生も、個人的には新しい公共が失敗と断言したくはないです。とはいえ、ジャーナリストなる職種の端くれにいる以上は、現実を歴史の視点で眺めねばならない。残念ながら今の情勢は、1936年頃から軍部支配、敗戦、GHQ支配、独立、自民党一党独裁半世紀という歴史の中でも一貫して微動だにしなかった「日本型科挙システムで選ばれた官吏による支配」への揺り戻しとしか思えないのです。実際に日本国というシステムのあり方を決めてきた高級官僚と、なんでもない一般市民との間の、言葉の最も純粋な意味での権力闘争の真っ最中なんでしょう。

フランス革命でも次の社会がちゃんと見えてくるまで実質的に四半世紀におよぶ大混乱があったわけですし、中国など辛亥革命から今に至るまでずっと社会改革をやってる。それを考えれば、わずか2年で、武力も一切使わずに「新しい公共」革命が出来る筈がない。そう信じれば、まだ希望も沸いてくるかもしれませんね。

カラ元気っぽいけど、敢えて言います。頑張りましょ!

by Yakupen (2011-08-29 13:09) 

shink

この件、あまり事情を理解していないので、間違いがあるかもしれないけれど、門中ホールは想い出もあるし愛すべきホールとして、なくなって欲しくない,という気持ちには賛成だし運動することも良いことだと思います。民主主義はこういう時に声を上げるべきだという教えですから、個人的には署名運動に協力することもやぶさかではない。そこまではは多くの人がおおむね同じであろうと思います。ただ最近の生活を考えると、あんまり縁がなくなっていて、身を切られるような感覚はないのも事実。とはいえ、その運動を非難することも、ホールを畳むと言っている組織をを社会悪のように考える事にもならないことを祈ります。

カザルスホールの問題を経過してきた身としては、ハードよりもソフト、それも演し物ではなくて、何かを為すネットワークとか、ノウハウとかの方が公共的のような気がします。人間は場所がないと魂を入れることが出来ないのだ、と言われればその通りですけれど・・・・。カザルスの時もあれだけ色々な運動がされたのに結局ハード優先だったなあ、と言うのが当時の感想です。誰もあそこにあったノウハウを救い出そうという考え方ではなかったと思います(せいぜいソフト)。それにはノウハウは個人のものだという視点もあるような気がする。そうでもないのですけれどもね。

もう一つの問題は、民間の組織がホールを建てて運営するときに、これは公共的な意義のある事業ですよ・・・と主張して始めているということがあります。それは持ち主の芸術に対する愛情の故ではないことになっているのです。私は個人的には民間はきわめて趣味的でも構わない、という考え方ですが・・・。メセナという言葉が出てきてから、一見して公立ホールと民間ホールのミッションはほとんど変わりがなくなってしまっているように思える。前に言ったこともあるけれど、カザルスホールが未だに話題になるのは「ホールに社会的ミッションがある」ことと「ホールは人格である」という初代総合プロデューサーの主張の呪縛がある、と思っています。考えてみればその呪縛を作ったことは芸術の世界からみればすばらしいことですね。
持ち主が、良いときにはホールの公共性を都合よく使って、辞めるときは民間の持ち主だから,というのははっきり言って虫がよいのではないか。持ち主側としては、経済的に問題があって維持できないとなったときに、公共性を自認しているのであれば、和さんの言うように誰かが買い取れるようにするとか、団体から区に声をかけるとか、区や運営者(利用者も?)と一緒にどこか別の拠点を探すとかは、持ち主のあるべき姿。
一方、場所を守りたい側は、今までのようにしてくれることのみを主張しても不毛でしょう。でも、主張をぶつけ合うと怨念が残る。これは特に日本人の傾向ですから、止められないし、社会が変わることに対する対応力は強いとは言えないですから。札幌のコンカリのようにある程度運営する側も負担を覚悟する事は必要かもしれません。その意味ではコンカリの斎藤チズさんは偉い。

指定管理者制度も、新しい公共がやるべきなのか、新しい民間がやるべきなのかなのか、公共ホールはどちらからも歩み寄らないとダメでしょう。まあこの話は結局そのあたりの社会的合意がないままにスタートした(よくあるけれど)仕組みだったので、やっていく中でよくしていくしかないのだけれど、たどり着く前に自治体も民間事業者も草臥れてきた、という感じは否めないですね。
by shink (2011-08-29 18:37) 

Yakupen

松下政経塾政権の誕生で、「新しい公共」がまた遠くなっていく気がする今日この頃、頑張りましょう、というのもなんかシンドイ夏の終わりに、頑張りましょう。うん。←何を言ってるか良く分からぬが、無力感だけは汲んで下さいい。
by Yakupen (2011-08-29 19:01) 

北

サブタイトルが「音楽業界」ということで、軽々しく書き込まずによかったっす。といいつつ。

世代論にオトしてもアホなだけですが、団塊の世代が今もしつこくよりどころとしている「頭数が多ければ勝ち組」の延長線上で物語るのは、もう機能してない仕組みに対するノスタルジアでしょう、とも思います。
「率」でゴマカシていますけど、各選挙区の有権者数と投票者数を絶対値で出してみると、「多数」の頭数はどうでしょう。下手な選挙区ですと4桁の人間が6桁の「そうでない」人間を差し置いている。


お話に出たホールも(マニアック過ぎる現代音楽をやってた、という記憶がありますが)「いらないよ」という署名を取れば沢山集まるのでは?
書いて貰うにはインセンティヴが必要ですけど、「無関係」と思ってる人が「無関係なもの=組合費の無駄=自分に利害のあるもの(たとえば健康保険料率の低減)に回してくれよ」と一連の認識を行い署名することにおいて意見がゆがむわけじゃなし。

存続派はミッション成功時のインセンテヴィヴがポケットに入ることになってんだから、動機において「公平」にはなってないですよね、そもそも。

と、部外者は思いました。
by 北 (2011-08-31 22:58) 

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