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アダムス&セラーズの「リアリティ」 [現代音楽]

昨晩、サンフランシスコの戦勝記念オペラハウスで、ジョン・アダムス&ピーター・セラーズの新作《西部の娘たち》世界初演の6回目の公演を見物して参りましたです。
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これから成田に向け、サンフランシスコ空港から戻るところ。今回の超短期渡米のメインイベントでありまするな。

ええ、この作品がどういうものか、プレゼンターのサンフランシスコ・オペラが詳細な関連記事を含めた当日配布されるA4版のプログラムを宣伝広告ページまでまるまるそのまんまでアップしたPDFファイルを置いてくださっているので、いろいろ説明するのもめんどーだから、そっちをご覧あれ。
http://devsf.encoreartssf.com/sites/default/files/programs/girls-of-the-golden-west-san-francisco-opera.pdf
この団体、前回の同チームに委嘱した《ドクター・アトミック》でも、現在も生きている(と思うのだが)もの凄く充実したwebサイトを作ってくれております。資料としても有り難いことでありまする。世界中で世界初演のプログラムが簡単に手に取れるわけですからねぇ。

作品の中身などは、上述の当日配布プログラム38ページにしっかりありますので、そちらをご覧あれ…ってのも乱暴だろーから、一応、最低限の「あらすじ」を記せば…

米墨戦争の勝利でアメリカ合衆国に加わったばかりのカリフォルニアで金が発見され、49ersと呼ばれる一攫千金を夢見る男達が集まって来た頃のサンフランシスコから奥に入ったシェラネバダ山脈の街に、ボストンからシャーレイ夫人がやってくる。彼女は、この地に集まって来た一癖も二癖もある連中と知り合うことになる。人口比では異常に男性偏重のこの場所で、一攫千金にぶち当たらない金鉱探しのヤンキー、誰よりも教養ある解放奴隷、かつてこの地を支配していたメキシコ人のカジノ経営者やそこで働く女たち、チリ人などの新興労働者、中国人売春婦、等々。第1幕ではそんなシェラネヴァダ山脈の金山街の様々な人々の姿を描く。第2幕では、7月4日の合衆国独立記念日に「マクベス」が上演され(当時、シェイクスピア演劇はヤンキー系に大人気な娯楽だったとのこと)、その裏でヤンキー連中が南米系やアジア系労働者を襲撃するという噂が流れ、チリ人やメキシコ人が逃げ出し、解放黒人奴隷が暴徒に殺されてしまうなど、騒然たる状況となる。そんな中で、カジノ経営者のパートナーの黒人系の女ジョセファが、愛人にしていた中国系売春婦との関係がもつれ自暴自棄になったヤンキーに強姦されかけ、殺してしまうという事件が勃発。ジョセファは正規な裁判もないままに、ヤンキーらによって実質リンチのように縛り首にされてしまう。シャーレイ夫人は、自分の眺めた現実を前に、東部に戻っていく。

って、全然粗筋になってないなぁ、と思うわけだが、実際、この舞台、普通の意味での「ストーリー」はありません。今から150年ほどまえのシェラネヴァダ山脈の街で起きたことの断片が、群像劇のように展開されるだけです。物語の主人公もおりません。シャーレイ夫人は彼女の目の前で起きていることを記述する役回りで、舞台の進行には関わらないといえばかかわらない。普通に考えれば主人公になって舞台を眺める聴衆に共感させ、同情を集める役回りになる筈のジョセファも、主人公ではない。中国人売春婦シンも、彼女に入れあげるもののその野心に付いていけず逃げ出してジョセファを襲う金鉱堀ジョー・キャノンも、主人公扱いではない。つまり、聴衆の目の前には、カリフォルニアの歴史のある瞬間が提示されるだけ。シャーリー夫人の「彼女がやって来てから去るまでに起きたこと」という時間を切り取る立ち位置には、ジョン・アダムスというカリフォルニアにやってきたボストニアンを連想しない方がムリだし。

考えてみれば、過去のアダムス&セラーズが制作した作品って、どれも普通の意味でのオペラ台本から考えれば、相当に特殊な作りになっていた。《中国のニクソン》に始まり、《クリングホッファーの死》、そして《ドクター・アトミック》と、「オペラティックな劇的盛りあげ」とか「緊迫した対話」とか、はたまた「対立する者たちの歌によるやり取りの結果の和解」とか、そんなものは一度として描かれたことはなかった。数年前にも、同じことを書いてるなぁ、この無責任電子壁新聞。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2014-11-14

どうしてそうなるかというと、《クリングホッファーの死》は例外として、他はどれも台本作成にあたってテーマとする歴史的な出来事の一次資料をあたりまくり、手紙やら手記やら可能な限り実際の言葉を引っ張り出し、それをつぎはぎしてキャラクターや台本とする、という作業をしているからなのでしょう。つまり、「このような状況ならいかにもこいつはこういう風に言うだろう」というような創作で台本を書いているのではない。

だから、台詞として歌われる中身は、言葉も話し言葉ではなくて書き言葉になり、客観的で、概念的になる。出所は違うとはいえ、《ドクター・アトミック》1幕最後のオッペンハイマーのアリアなど、恐らく過去に書かれたオペラアリアの中でも最も「言葉が難しい」もののひとつでしょう。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2007-06-30

毛沢東もニクソンも、はたまたオッペンハイマーもいない、誰ひとり歴史的な英雄などおらぬ150年前の庶民ばかりが登場人物であっても、やり方は変わらない。つまり、普通のオペラ台本から考えれば、もの凄くリアリティのない言葉が歌われることになるわけです。なお、今回の作品では、正当防衛の殺人を犯してからのジョセファはずっとスペイン語で歌う、という捻り技が使われています(多分、です。なんせリブレットはないもんで、一度聴いただけのいい加減な印象ですが)。

でも、この聴衆にとってのリアリティの無さこそが、ある種の「現実の異化」であり、「瞬時に状況を歴史化する」重要なテクニックでもある。あらゆる台詞が説明になっているような、不思議な距離感。ことによると、オペラという時代遅れの極めて非現実的な舞台だからこそあり得る、特殊な台本の在り方…なのかしら。少なくとも、初期のミニマリズムとはまるで違うところに至った、なによりも「オペラティックなノリノリ感」を自ら崩していくような変拍子が多用されるアダムスの音楽は、このような突き放し感満載の台本には極めて合っていることは確かでありましょう。

中身や音楽に関してあれこれ言い出せばキリがないので最低限の感想だけ述べれば…そーですねぇ、1幕最後の黒人解放奴隷のアリアとか、最後のシャーレイ夫人のモノローグとか、如何にもアダムスらしいここ一発のアリアはあるものの、全体に地味な「アダムス御大のご当地オペラ」であることは否定しようがない(考えてみれば、アダムスのオペラって、今回の作品も含め、どれも地味いいにフェイドアウトするみたいに終わりますねぇ)。オーケストラ版も既に出来ていて、あちこちで演奏も去れ始めている2幕の《スパイダー・ダンス》にしても、猛烈にパワフルでインパクトがある、という感じではなかった。敢えて派手なことは避けている、って感じすらしました。

ただ、2017年という年に出てきたこの作品が、メインの筋書きが「150年前の黎明期カリフォルニアで起きたヤンキー集団に拠る異文化住民の排除騒動を、正統的な西洋文化を背景とした者の視点から眺める」というものになっているのは、ある意味で、今のアメリカ合衆国という社会の在り方をまんま批判することになっている。なにしろ、アダムスに近しいアタッカQに拠れば今年の春にはもう作曲が終わっていたというこの作品、「トランプのアメリカ」を批判する意図など台本作成中にはまるで無かった筈。それが、結果として、まるで知的な民主党支持者が覚めた眼差しでトランプのアメリカのうさんくささを眺めている作品のように見えているのだから…

考えてみれば、《ドクター・アトミック》も、日本の一部で誤解されているような「ヒロシマ・ナガサキ」に対する批判ではなく、「人類が人知を越えたところに手を突っ込むことで、地球という生態系の在り方に何かが起こってしまうのではないか」という、敢えて言えば「エコロジカルな視点からのフクシマ批判」となっていた。あれも、フクシマが起きる遙か前に出て来てるわけですからねぇ。

ううん、アダムス&セラーズの切り取るテーマの「リアリティ」って、ちょっとオソロシイとすら感じてしまいますです。

なんだか全然感想にもなってないけど、ともかく、そういうモノを観た、というご報告でありました。関係者の皆様、お疲れ様です。特に、この2人。
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ちなみに、ほぼ満員の観客席から、唯一ブーが飛んでいたのが、セラーズでありました。中途半端に具体的な舞台がお気に召さなかったのか、それとも「ヤンキー」が悪者になる台本そのものに文句を言いたかったのかしら。

この公演、ダラス・オペラとネザーランド国立オペラとの共同制作になっているので、いずれ、アムステルダムの運河の畔でも観られるでしょう。1回眺めてどんなもんかはだいたい判ったんで、敢えて地元を離れたヨーロッパの空気の中でもういっぺん、じっくり眺めてみたいものであります。

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