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ソラリスの海が作ったタルコフスキーのコピー?~「オペラ」とは二次創作なりや [現代音楽]

池袋で、藤倉大作曲《ソラリス》演奏会形式日本初演を見物して参りました。
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カボチャ祭りの喧噪の欠片くらいはあるのやら、という空間を抜け、有楽町線で佃縦長屋に向かっています。戻ったら明日からの弾丸半島&香港ツアーの荷物詰めをせにゃならんので、忘れないうちにひとことだけ、感想にもなってない感想。

ええ、正直申しまして、意外な程に弦楽器のクァルテットさんたちに負担が大きそうなブルックナーくらいの長さの音楽を聴きながら、舞台上で展開しているアンサンブル・ノマドと後ろに立った歌手の皆さんの姿とはまるっきり別の映像がずーっと脳内に浮かんでおりました。奏者スタッフの皆さんにはもの凄く失礼とは判っているのですが、事実だから仕方ない。

何が浮かんでいたかって…言うまでもないでしょう、そー、タルコフスキー版《惑星ソラリス》の映像や、更には藤倉さんには失礼ながら、BWV639の音でありまする。舞台で起きていることに、全部タルコフスキー映像がくっついて見えていた。情けなや。

とはいえ、ステージでの演技があればともかく、本日の「演奏会形式」は、いかなスタッフが頑張って出来る限りの照明での演出をしようが(「ライティングオペレーター」という方の名前はスタッフリストにはちゃんと挙がっておりました)、やはり演出ではない。あたしゃ勝手に映像くっつけて脳内再生してるからまだいいようなものの、web上やら当日配布プログラムに記された粗筋を読んだだけで、果たしてステージで起きていることが判ったんだろーか、心配になってきた。んで、終演後に、知り合いの若い人にロビーで遭ったんで、「ぶっちゃけ、何やってるか判った?」と身も蓋もない質問したら、いやぁああああ、ちょっとねぇ…って。とても良い感性をしている青年で、こういうものにも積極的に関心を持って出張ってくる方にして、なんじゃらほい、という感じだったそうな。

ま、それも仕方ないでありましょう。ぶっちゃけ、このオペラ版《ソラリス》、どういう話なのか、レムの小説から始まる再創作の系列があり(っても、実質的に我々が触れられるのはタルコフスキーの超古典映像と、ハラホロヒレハレだったジョージ・クルーニーが出て来るリメイクの映画くらいですけど)、それらを眺めた上で接するんじゃないとちょっと苦しいんではなかんべーか、と感じざるを得ませんでしたです。はい。

つまりそれって、レムの一次創作のコピーの、さらにそのまたコピー、ってことじゃあないかい。まるでソラリスの海が作り出す感情を持ったコビーみたいな。

無論、それがダメと言ってるわけではない。そもそも「オペラ」というあらゆる表現形態をグチャグチャにぶち込んで舞台に持ち上げる創作は、「オリジナル」という概念からはほど遠い、というか、究極のリミックスであることは始めから判ってる。なんせ創作そのものが「〇〇というお話をオペラ化します」ってのが基本で、オペラとして作られたものを眺める楽しみのかなりの部分は、オリジナルの創作物がコピーされていく間に生まれてくる違いやら新発見にあるわけですし。

ああ、タルコフスキーはこうやったところを藤倉さんはこうやってる。へええ、ここはこんな風にするのかぁ。せっかく「オペラ」にしたのだから、奥さんのコピーが「I love you(なんと、フランス語と思ってたら英語でした)」と歌った第2場だかの最後の音楽、今度は亭主が4幕だかの終わりで同じ単純すぎるけど強烈な台詞を歌うとき(スイマセン、ボーッと眺めてただけなのでうろ覚え、違ってそうだなぁ)に同じ音楽の伴奏型が変わるなりヴァリエーションなり逆行なりにして、なんか意味ありげにするのかと思ったら、それほど判りやすいことは狙ってないなぁ。はたまた、ここはバッハのあの音楽でぐうううっと引きショットになるのだが、なんとアレグロ系とはいわないが、こんな音楽付けるのかぁ、等々。

やっぱり、そういう風にしか観られないわけですよ、残念ながらわしら凡人には。

だから、今日の作品、タルコフスキーなぞってるベースがなかったら、恐らく、なーんにも分かんなかったという気持ちになったでしょう。すくなくとも、あたしゃ、そうだったろう。

無論、純粋に造り方として面白い、興味深い部分もいくつもありました。ライブエレクトロニクスの使い方は勿論ですが、やっぱり主人公を2人の歌手に分けてしまう、というありそうで案外とないやり方が筆頭でしょうかね。
この作品、ソラリスの海に浮かぶステーションにやってくる主人公を、2人の歌手が担当するのです。役割分担はハッキリしていて、ひとりは舞台の上にいて他の歌手と絡み演技をする歌手さん。もうひとりは舞台裏に控えて、主人公の脳内モノローグを歌う歌手さん。つまり、舞台上で起きていることを主人公自身が説明したり、目の前にいる奥さんや友人の研究者には口に出して言わないことが、ガンガン舞台上に呟かれてる。

その結果、何が起きるかというと、作品全体がまるで一人称で語られてるみたいに見えてくる。まるで一人称で語られるのが基本の今時のラノベみたい…とは言わないけどさ。

で、へえええ、と思わされたのは、最後の最後。ソラリスが作ったコピーの奥さんを分解された主人公が、それでもソラリスの海に留まる決意をするところで、内面の声がなんだかソラリスの海の声みたいに聞こえてくるんですわ。聴衆の皆さんがどうお感じになられたかは分からないけど、少なくともやくぺん先生には、語り手として登場していた主人公の内面の声が、電子的に変容されたりして、ソラリス全体の声になっていったように思えてくる。

そう思っちゃうと、もしかしたら主人公がソラリスに留まるとはソラリスの海と一体化することなのだろうか、いや、それどころか、この藤倉版《ソラリス》では惑星に到着したときから主人公そのものがソラリスの海が作り出したコピーだったという解釈なんじゃないか、なーんて妄想すらしてしまう。『ブレードランナー』のデッカードは実はレプリカントなのではないか、みたいな話になるわけでもないけどさ。

そんなアイデンティティの曖昧さ、ことによるとアイデンティティなどというもんはどーでも良い、なんて話になってくるとすると、これはもうレムの原作のホントの意味での再創作、二次創作としての立派な創作になってくる。

以上、単なる妄想、誤解、と笑われそうな感想にもなってない感想。もういい加減に止めて、荷物詰めをせねば。

かくて、藤倉《ソラリス》に始まり、香港のタン・ドゥン《仏陀受難曲》、ミラノでのクルターク《エンド・ゲーム》世界初演、そしてオペラ・コミック座のシュトックハウゼン《光の木曜日》で締め括られる秋の大作現代オペラ週間、ハロウィンの夜に賑々しく切って落とされたのでありました。

まさか、お化けが街に出て来る晩に上演したって……意図的ではなかろーなー…

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