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戦場で死ぬのは本望か [売文稼業]

今日は珍しくも真面目な話をしますので、いつものよーなアホな作文を期待なさってる方は、ここでお読みになるのを止めた方が良いと思います。

昨晩、シンガポールから戻ってきて、ちゃんと原稿が無事に入ったか確認したら、強行軍の疲れと睡眠不足でぶっ倒れてしまい、たまたまコメンテーターに引っ張り出されたテレビのクイズ番組の放映があったらしく何軒かの方から「あんなみっともない顔を公共の電波に晒すな」って電話やらメールがあったのも気付かずに寝込んでいた。で、嫁が戻ってきて、富山方面から頂いた新米を喰らいながら珍しくも地上波のニュースを見物していたら、ミヤンマーの反軍事政権デモに巻き込まれて満五十歳の日本人が軍隊に撃ち殺されたらしい、という。

あ、っと思いました。シンガポールなんぞと違い、それほど在留邦人に溢れている街ではなかろう。それに、こういう事態になると、日本の企業もメディアも巻き込まれて事故にあうことを極端に怖れ、まずそんな突拍子もない場所からは逃げる筈だ。特に、イラクの人質事件以降、大使館が良く言えば安全第一、悪く言えば事件には一切関わらないように邦人封じ込めをするから、そんな場所にわざわざ行かないと巻き込まれっこない。となると、そんな奴らと言えば、アジア・プレスみたいなフリーランス・ジャーナリストとかプロの戦場カメラマンしかいないだろう。年齢的にも、一番経験も自信も判断力もあり、まだ体は動くけど、そろそろどこで死んでもかまわないと感じ始める頃だから、そういう類の話じゃないといいけどなぁ…「まあ、そうだったら、戦場で死ねて本望じゃないか」、なんて嫁に口走っていたですよ。

そしらたらねぇ、嫁がボソッと、「そんなことないよ、本望なんてことはない」って、真面目な顔で言ったです。

時間が経つにつれて、殺されたのは、案の定というか、不幸にもというか、カメラマンというか、フォトジャーナリストだと判った。その後のことは、小生はニュースを追いかけていないんで良く知らぬ。大方、視るに堪えないような、とっても情緒的で扇情的な報道がニュースショーなんかでなされてるんだろうに。そうじゃなかったら、日本語文化圏は立派なもんだが。

一昨日、顔つきはソフトだけど情報統制や市民監視の実態は社会主義国だぞ、とあちこちで鎧を感じさせられた(実質上の)シンガポール国立アーツ・センターの取材直後だったものだから、取材での規制とか、情報管理とかに関しては敏感になっていた(シンガポール到着直後にアップした当電子壁新聞原稿で、「華僑系イエローペーパーがあるんだろう」なんて書いたけど、後で考えてみたら、御上の徹底した情報統制が成されている国でしたっけ)。
最も人畜無害に思われる小生ら「文化」を対象にする取材でも、見せたいものを見せる、見せたいものしか見せない、という御上の意図は常にある。戦場カメラマンみたいな「見せたくないものを見たなら、その場で殺す」なんて究極の報道規制に比べれば、それこそ「対戦車」と「対子供の三輪車」くらいの違いはあるとはいえ、やっぱりジャーナリストと名刺に刷る以上は、最低限の権力との緊張関係にはある。

だから、他人事じゃあない。

去る12月、ヴェトナムは旧サイゴンにあるヴェトナム戦争博物館を訪れたとき、パイナップル爆弾やらB-52の破片やら放棄された旧南ヴェトナム軍A-38やらが並ぶ中に、閑散とした一角がありました。ヴェトナム戦争を伝えるために死んだカメラマンを追悼するコーナーでした。多くの、かつて目にしたことのある写真たちがありました。この頃、まだ報道は力があった。ジャーナリズムはヴェトナム解放軍にとって最高の味方だった。死んでいった者たちの多くを殺したのは、ヴェトコンやら北ヴェトナム軍だったろうけど、やっぱりジャーナリストは解放軍の仲間だった。

手元にあったありったけのドル札を、置かれたドーネーション箱に投げ込みました。それ以外に、小生に出来ることはなかったから。

ヴェトナムでジャーナリストとの戦いに敗北した事実を認め、相手の手口を徹底的に研究した御上は、湾岸戦争でも、イラク戦争でも、それこそペルシャ湾で無料タンカーやってる日本海軍の補給部隊でも、いかにメディアやジャーナリズムをコントロールするかに全力を傾けている。

イラク戦争(含むサマワ日本軍駐屯活動)最大の敗北者はジャーナリズムであると、あらゆる人が知っている。ところで、サマワの日本軍駐屯を支持した知事が先頃ゲリラに殺されたことは、日本国民のどれくらいが知っているのだろうか。http://blogs.yahoo.co.jp/blognews2005/50956450.html

昨日、ヤンゴンで殺されたカメラマンさんは、自分の遺体の写真が晒されることで日本の社会やら世界になにかを訴えかけようなどと、これっぽっちも思っていなかったろう。この場の写真を撮り、それを日本なりに持ち帰り発表することで何かを訴えかけねば、プロとしての仕事をしたことにならないと思っていたろう。その意味では、「あの場所で死ねて本望だったんじゃないか」と一瞬でも思ったなんて、とっても失礼だったのかもしれないな。

嫁さんが「そうじゃないと思う…」と洩らした意味は、また違うと思うけどね。

合掌…と記して終わりたいけど、なんだかそうは出来ないぞ。ねえ、岡村さん。


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すみこ

どんな職業でも仕事に対する姿勢って十人十色なんじゃないでしょうか。
ジャーナリスムは政治と密接に関わるからどうしても鵜呑みにす
方が馬鹿、と自戒する日々ですが、自分の信念を貫こうとする人達も
ちゃんといて、そして大抵は圧力に潰されそうになっていきますね。
家のそばに回教寺院があって、頭から爪先まですっぽり覆われて目のとこだけ
網みたいなもので見えるようにしてる様な女性と実際にすれ違う事も
あって、この人はパリに住みながら肌なんか露出したらリンチにあうのかも
などと思う度、自分が信じていたい程自分の立ってる地面は堅固な
訳じゃないんだなと思います。
それとは別に、やくぺん先生は評論家、批評家をどう位置付けて
いらっしゃいますか?彼らは事実を報道し、分析し、評価するので
しょうか?やくぺん先生は「音楽ジャーナリスト」なのですね。
こちらのダンス雑誌(ごめんなさい、畑がダンスなので。。。)
では徹底的に言いたい事を書く人が多くて、だからかえって個々の
評論家の好みも掴みやすく、この人ならこれはこう書くな、みたいな
予測もできますが、でも又好き勝手書いてやらーみたいな気もして、
これ読んでどうなるの?って気にもなる。それこそ誰が転んだとか
誰がトリプル回ったとか事実を把握する以外にはものすごく距離を
とって読むしかないと思っているのですが。。。美術評論家で一人
好きな人がいるんだけど、彼は毎週飽きずに「絵画は死んでいない、
小手先で流行を追っちゃだめだ」と書き続け、彼のおかげで純粋に
「絵」で勝負しているものすごい人達の数々の作品と出会う事ができた。
彼のこだわりが好きです。それはただの個人的な好みを越えた、
アートに対する強烈な憧れ、そして奉仕のようなものをを感じさせる。
彼は美術界の現状を憂いて警鐘を鳴らしている。
それが良い事かどうか私にはわからないけど、その姿勢には惚れて
しまうのです。
by すみこ (2007-09-29 06:17) 

Yakupen

これから町会の「秋の交通安全運動」のテントに立ちに行かねばなりませんので、ひとことだけ。
まえにもどっかに書いたことがあると思うんですけど、小生の定義というか、立場は明快です。「評論家」というのは「自分の意見や考えを商品にしている人」です。ですから、仰いますように、評論家は自分の意見に誠実であらねばならない。というか、そうじゃないと仕事にならない。「相手がどう思おうが俺はこう思う」と貫いてくれることよって、対象がどんなものかが本人以外にも伝わるという副次的な、ジャーナリスティックな効果も出てくるわけです。そこに語られる内容が事実であるかどうかは、どーでもいい。
「ジャーナリスト」というのは、基本的には「起きたことの情報を伝える」こと商売です。この場合の情報は、当然ながら、データやインフォメーションだけではなく、インテリジェンスとしての総合的な判断を含んだ情報も含まれます。ジャーナリストの価値判断は、「インテリジェンスとしてその対象を取り上げるかどうか」です。

ちなみに小生は「売文業者」としか言いようがありません。理由は、ジャーナリストとして己を名乗るには、少なくとも日本は、特定の相手にしか情報を提供しない記者クラブ制度や、会社の看板がないと扉が開かない部分が多すぎて、データ収集が難しいからです。ちなみに、今回のシンガポールは、「音楽の友」という看板を単発で背負って行動しましたので、ああいうスーパーお役所国家みたいなところでもジャーナリストとして扉が開きました。フリーだったら無理でしょう。それが小生が「売文業者」でしかないところです。つまり、「単発雇われジャーナリスト」に過ぎません。いやはや。

まあ、殺されたカメラマンさんも、アジア・プレスに所属するフリーランスの方みたいなんで、「フォトジャーナリスト」じゃなくて「カメラマン」と呼ばれてるみたいですから。
by Yakupen (2007-09-29 07:58) 

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