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舞台映画としての「中国のニクソン」 [現代音楽]

日本での上映は本日までなんで、何を書こうが宣伝にならないのは気持ちよい。昨晩見物してきた「中国のニクソン」メトライブの感想です。あくまでも「舞台を映画にしたパッケージ作品」に対する無責任な感想。商売モノの原稿じゃないんで、舞台と映画版と両方眺めてないと判らぬことも平気で書きます。このページの補注みたいなもの。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/archive/20110204
一般的な感想は、「モストリー・クラシック」3月売り号に1ページいただいて記しましたので、そっちをお待ち下さい。

時間ギリギリにチャリチャリ東劇前の晴海通りの花壇の脇に自転車止めて、慌てて劇場に走り込んだら、ロビーにはいかにもいそうな顔ぶれが沢山。業界関係者比率が異常に高い客席で、まるで試写会かいな、って感じでした。昨晩は裏番組がない日だったのか、はたまた各社〆切などが一斉に終わって一息付けた日なのか。

さて上映です。最初に出て来たハンプソン御大が、「映像監修はピーター・セラーズ」とちらりと仰ったのでまずは一安心。ご本人はインタビューにも出ていたけど、2月12日土曜日のライブ収録の日にはちゃんと自分でスイッチングをしていたわけですな。
ま、そうでもしなきゃ、演出家が映像カットの作り方に怒り狂って放送差し止め、なんて事態だって大いに考えられる舞台ですもの。とにもかくにも、この画面に映っているものは演出家セラーズがOKを出しているわけですから、ある瞬間に見えないところは見えなくてもよろしい(渋々ながら、かもしれないけど)、ってこと。つまり、舞台に対するコメンタリーが演出家自身によって為されているわけだから、一応は安心して眺められるわけです。

音楽に関して。そもそもがライブなわけだから、ミスは仕方ない。でも、第1幕のニクソンなど、出来るならば取り直しをしたいところがいっぱいあるんでしょうなぁ。どうなのかしら、これ、パッケージ商品として市場に出せるレベルなのか。ま、演奏家やプロデューサーの許容量の問題なんだろうが、ギリギリOKくらいでしょうか。

もうひとつ些末なこと。このプロダクションはマイク使用と明言していて、みんなそれは納得してるんだろうけど、やっぱりパッケージになると、第3幕で歌手が寝転んだりしたときの声の拾え方の差が判っちゃったり、恐らくはマイクが付けられているのであろう場所近くで紙をゴソゴソ弄ったりするとしっかり拾っちゃったり、気になると言えば気になります。オペラ映画ってのはそういうもんなんでしょうかね。
ライブではそれほど気にならなかったオケの響きも、アダムス御大はあちこちでいろんな曲を振ってる指揮者さんだけど、あの眺めているとイライラしてくるような楽譜を手際よく処理する超一流の指揮技術者ではない。バランスや音色では、「なるほど、これが作曲者の意見なのか」でいいけど、録音で長く聴いてる客とすれば、もっと響きの分離を良くして欲しいなぁ、って思わないところもないでもない。トロントのプロダクションで指揮を担当したカサド君は、流石にサントリーで「グルッペン」のひとつを振るために呼ばれただけのことはあるゲンダイオンガク専門家だったなぁ。カサド君はこの初夏の細川の「松風」初演も振りまくるわけだし。

で、問題の第3幕。思った以上に上手にフレームに収められておりました。ただ、この映像だけではやっぱり判らないだろう部分はいくつかあった。
毛沢東が江青とやりあった後に、おつきの者にトンでもないことをさせてるパントマイムは、殆ど収録されていなかった(放送コードかしらね)。周恩来がまだ生きてるのに民衆に葬儀されちゃうシーンでも、音楽のどこ辺りから群衆が出て来たのか、あまり説明されていなかった。毛沢東と周恩来が長征のときのことをなんのかんの言い合うんだかモノローグの飛ばし合いをするだかのときも、両者の位置関係がどうなってるのか、映像ではいまひとつ判らぬ(その間に江青がどうしてるかも、まるで判らぬ)。日本語字幕ヴァージョンに限って問題なのは、この辺りで字幕が周恩来のものだけになっちゃて、毛沢東の発言が訳されていない箇所があったこと。

個人的に最もひっかかったのは、第3幕冒頭で登場人物の後に「巨象」が引っ張り出されるところの見せ方です。これ、昨晩の映像だけをご覧の方は、殆ど気付かなかった方も多いんじゃないでしょうかね。でも舞台を眺めていると、凄く意味深く見えるパントマイムなんですわ。
だって、この作品の台本を誰が読もうが、「巨象」に比喩的な意味が与えられているのは明らかでしょ。冒頭の合唱で「今や民衆が英雄で、巨象は農民のために鋤をひく」としつこく繰り返す。第2幕のニクソン夫人の民衆との触れ合いのシーンでは、最初に象の像を大量生産している工場見学をし、「まあ、象さんは共和党のシンボルなのよ」などとハラホロヒレハレなこと言わせて聴衆を笑わせる。その後に過去の中国の王墓を見物して感傷的なことを言わせ、そこに巨象の像を出してくる。ちなみに、これが歴史映像。ほぼこれくらいの大きさの象が舞台に出ます。ウェブ上にあったものを勝手に引っ張って来たんで、ホントは著作権がある筈です。スイマセン。
WL009792.jpg
そんな流れの中で、第3幕で政治家らが延々と勝手なことをそれぞれに呟き始めるときに、人民が巨大な象を引っ張り出してまた引っ込める、って動作をさせてる。そんな動きの指示、台本のどこにもありません。わざわざセラーズがやらせてるんだから、そこにシンボリックな意味を見るな、っつっても無理でしょ。
それなのに、昨晩の映像版では、そんな人々の動きをそれほど判り易く示してはいませんでした。セラーズの意図なのか、それとも画面に収めようがなかった技術的な問題なのか。なんとも判断が付かなかった。でも、とっても気になったです。

何を言いたいかといえば、今回のセラーズの初演改定演出では、民衆の姿が余り見えていない、ってこと(トロントの演出では、トリッキーな手段で大衆の視点を前面に押し出すことに成功していました)。無論、それが意図的なのは判ります。だからこそ、あの「巨象」の比喩的な扱いこそが、偉大な為政者たちに対する無言の民衆の意見表明なのだろうと思ってメト初日のステージを眺めていた。だから、映像版での象の扱いには、ちょっと拍子抜けだったわけですよ。

思うに、今やマルチアングルで映像を収録しても容量に余りあるブルーレイの時代なのですから、第3幕に関しては50インチ以上のモニターで観ること前提の正面から据えっぱなし映像をひとつ収め、そこにシーンセレクションのような形でセラーズの視点から切り取った映像を一緒に収める、っていう形にはできないもんなんでしょうか。技術的にはなんにも難しくない筈でしょ。このあたり、パッケージ商品として出すときには考えて欲しいですね。映画関係もやってる広報会社の方が昨晩いらしてたけど、彼女にリクエストすれば良いのかしら。

ついでにもうひとつ。まあ、あまり皆さんが文句を言わないところでしょうが、こうやって字幕付きの映像であらためてじっくり眺めると、アリス・グートマンの台本は、確かに誰かがインタビューで漏らしていたように、オーデンやエリオットにしびれてる文学少女みたいな衒学的な感じはなきにしもあらず。どうなんだろうなぁ、カーターのオペラで台本をやらせてもらって大喜びのグリフィス御大とはまたちょっと違った感じの青臭いアマチュアっぽさがある。それがこの作品の魅力なのだ、とまで言い切れるのか、小生にはちょっと判らんです。
例えば前述の「象」にしても、プロの舞台作家なら徹底的に同じ言葉を用いて注意力散漫な観衆に比喩的意味を浸透させようとするだろうけど、グートマンは「ベヒモス」とか「エレファント」とか「ジャンボ」とか、いろんな言い方をしてるんですね。これ、意図的なのか、それとも台本作家としての技量の問題なのか。ううううん、微妙だなぁ。

ま、いずれにせよ、40ドルちょっとくらいの価値はある映画ですから、お暇な方は今晩6時半に歌舞伎座の向こうまで足をお運びになって損はないですよ。やっぱり第2幕後半は有無を言わせぬ爆笑もんだしね。

この映像に刺激され、江青バレエの復活上演なんてことになるかもしれんぞ。なんせ今や、北京のギャラリーじゃ、毛時代の意匠は完全に流行モノなんだから。メト・ショップでは舞台で使った真っ赤な毛語録のレプリカを売ってたし。
008.JPG
ほれ、この写真見ただけで、パブロフの犬みたいに、毛語録振り回しながら「このほーん、ほーん、ほーーーーーーん!」て叫んでる江青のカナ切り声が、頭んなかでグルグルまわるでしょ。

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コメント 4

Ken

いつも有り難く貴重な情報を頂いております。

ライブビューのHPで、オペラ、アダムス、ニクソンと見て、納豆・イチゴジャム・ステーキと見せられた気分で、怖いもの見たさの一心で初日に見てきました。
忙しい中、18:30に駆けつけ4時間を無駄にするのもと思いつつ。
無駄ではありませんでした。十分楽しめました。(楽しめたという表現は・・・)
色々なものが頭の中でグルグルしますので、未だの方は是非、是非お勧めです。

by Ken (2011-03-05 17:25) 

北

(主語は伏せて)権力「を」搾取する競争を四千年やってるのかもなあ、と思いましたです。それが当たり前の人々は「アメリカ大統領の真の職務は客寄せパンダだろ」と言うかもしれません。

搾り取られるのは権力を遂行する人間個人なのか、権力それ自体か。そのhow to は(これは地方政府レベルかも)…などと考え出すと第三幕の映像はちょっとね。俯瞰したいですね。

字幕は人数分出せるだろと思いつつ「字幕を読みに映画館に行きました」というのもちょっとです。「ばらの騎士」三重唱の字幕で皆様苦労なさっておられるのと比べると…工数もらえなかったんですかね。

ついでながら第一幕のニクソンは、欧州向け配信の特別演出と思い込めばそれなりに真実味がありました。キレキレの老人に飲み込まれちまって口は渇き喉は枯れ、みたいな。
by 北 (2011-03-05 23:48) 

Yakupen

皆々様

コメント、ありがとうございます。よくまあ、こんなに長くて読みにくい作文をお酔いになったと、功労賞を差し上げたいくらい。

確かに1幕のニクソンの声のかすれとかひっくり返りっぷりは、北様が仰るように「焦ってるニクソン」を表現するんだからまあいいだろう、という判断があったのかもしれないですね。なるほど、納得しました。やっぱり他人様の意見はひろくきいてみるものだ。勉強になります。映像付きのパッケージは音だけのパッケージとは違うわけですもんね。

アッと言うまに上映期間が終わってしまったようですけど、来年のNHK、BSチャンネルが減って果たしてこんな長い時間を占める番組が維持されるか心配ですが、是非とも放映してくれるよう願いたいものです。NHKには藝大枠ってか、音楽専門学校枠があるから、案外大丈夫だったりして。

by Yakupen (2011-03-06 12:27) 

北

コメントが勉強になったのでしたら望外です。嬉しく思います。

権威/権力に隙があれば笑いを棍棒にタコ殴りしてみる(失敗したらワッと逃げる)のが関西の流儀で、加えてコンテンポラリー・アートというジャンルの二本柱は「オモロかったらええやんけ」&「なんでもアリ」ですから、第一幕を送り手の大変ご高名な皆様方があのように隙だらけの形で全地球上にご提供いただいた意図を僭越ながら汲み取らせていただきますと、関西では吉本的爆笑でキャッチ&笑い飽きたら最寄りのゴミ箱へリリース&ペダルを足でプッシュ、が送り手への最高のリスペクトとなる、という流れが自然なのであります。
(ポロックは…違いますねきっとあれは全然)


できねえ奴がやれないのはよい。できるのにやらないなら笑いの棍棒。
と、送り手の都合に合わせ臨機応変に対応いたしましても実際問題ゼニと時間をlostしてるのは受け手でして、その意味では何を言っても後の祭り負け犬の遠吠えというところを自覚いたしますと、反射的に何がしかの形で債権回収を試みてみたい、という衝動が先鋭化してしまうのは冬山の連合赤軍とちょっぴり似ているのでございます。

~~~~~~
でも、そういうのは瑣末なことで、このオペラはなんてんですかねぇ…
音楽側から見ると演劇なんでしょうね。だから音楽一本やりの人はかなり迷うかも(演劇側からは否定されるでしょうけど)

古典的ですけどもシェークスピア劇を「生で」何度か見てからだと、もしかしたら演者の出来に左右されずに向き合えるかもしれません。
(しったかぶり、スミマセン)

…ふと思ったんですが、シェークスピア劇を知らないオペラ作曲家って元禄時代以降にいたんでしょうか。アメリカはどうだったのか。
by 北 (2011-03-09 01:37) 

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