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「文芸オペラ」は解釈である [現代音楽]

このところ、ドイツで最も安定してとんがってるというか、いかにもいかにもなラインナップを並べて来るフランクフルト歌劇場が、いつもの劇場とは別の市内のメッセの向こうのそこそこ目立つ場所にある古いでかいボッケンハイマーデポというレストランだか集会場だかを会場に、所謂室内オペラ系の作品を上演してるようだ。んで、一昨年くらいから日本でも急に有名になったみたいなライマンの「幽霊ソナタ」を上演してますので、見物して参りましたです。
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皆様ご存じのように、ライマンという作曲家は現役ではいちばん大真面目に「文芸オペラ」なる路線をガンガン突っ走ってる方でありますな。よーするに、「戯曲としてある程度以上評価の定まった作品を、可能な限りまんなオペラにする」ってやり方。どうしてこんなやり方が出て来たか、やくぺん先生なりの解釈は『戦後のオペラ』の序章でちらっと書かせていただきましたので、繰り返しません。ライマンさん、ともかくこのやり方がお好きで、シェイクスピアからグリルパルツァーから、戯曲じゃあないカフカなんぞにまで手を付けている。んで、「リア」の後くらいに書かれたのがこのストリンドベルリの名ばかり知られる戯曲のオペラ化だった。

となると、ともかくストリンドベルリの原作がしっかり判ってないとマズいわけだが、どうも日本国の演劇受容史ではそれなりに重要な名前として出てくるこの北欧の作家さん、今では殆ど上演されることもなく、スウェーデン語なんで読める筈もなく、戯曲を日本語で手に入れるのも困難。まあ、古い翻訳なら大きな図書館にいけば全集の一部などで収まっているんだけど、案外と面倒です。小生も、実はこの『幽霊ソナタ』は日本語で読んだことはなく、英語訳でしか知りません。まあ、そんなもんでしょうね、今は。

今回は、ミュンヘンからフランクフルトまでのICE車内で、パソコンに収めた英語訳の演劇仕立ての朗読オーディオファイルを2回くらい繰り返して聴きましたです。ちょうどまるまる2回聴けるくらいでした。要するに、1時間半くらい、ってこと。戯曲としてはまあ普通の長さです。とはいえ、やっぱりこの話、ホントに分け判らんなぁ。ともかく舞台としてのイメージが全然つかめないんですわ。さても、どーなることやら、と会場に赴いた次第。

会場は、真ん中に細長い舞台を作り、600席くらいがその左右から眺めるようになっている。
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オケは12人で、指揮者はヴィーンで小澤氏の下振りをやったりバイロイトでも下振りをやってる、なんて若いおにーちゃんでした。かぶりつきで見物したのだが、まるで東京室内歌劇場を旧第一生命ホールとかじゃないタイプの劇場で眺めてきたみたい。なぜかやたらと懐かしかったなぁ。これが終演後の様子。砂かぶり、って感じでしょ。
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音楽は「いかにも現代オペラでござい」って「リア」なんかの流れで、ちっちゃなオケでも鳴るときは鳴る。歌唱もセリーだけじゃないけど、今風のレシタティーヴォでアリアなんぞはありません。昨日のウィドマンの何でもありぶっ飛びぶりに比べると、もの凄く大真面目な伝統的「現代オペラ」です。演出はドイツのシャウシュピールハウスでやってる演劇まんま。このまま台詞だけでやっても特に問題ないんじゃないかいな。

リブレットは基本的にオリジナル戯曲のドイツ語訳。ただ、上演時間が1時間半くらいで朗読音源とほぼ同じということは、間奏曲なんかがあるオペラではそれなりにカットがあったということでしょう。1幕で学生がフンメルという最後の出てこないけど実質上の主人公(恐らくはフィッシャー=ディスカウ前提で描かれたんじゃないかしら)といろいろ会話するところで、オペラの切符を予約したりするシークエンスがなくなってたみたいだし、幽霊の姿が見える霊能者の学生が事故から子供を救った顛末がすっかりカットされていたみたいだし。2幕も随分すっきりしていたし、3幕のフンメルの娘の深窓の令嬢がコック女についていろいろ文句を言うところも量が減っていたような。なによりも、最後の学生のモノローグがもの凄く短くなっていたんじゃないかしら。作曲家さんが作家さんと共同でやったというこういうカットは、演劇としての上演でもあることでしょうから、このライマンの台本がどれくらい特殊なのかしら。この作品の演劇としての上演史に詳しい方なら判るんだろうなぁ。

ま、そういうカットは「文芸オペラ」の宿命で、そこをどういう風に上手く処理するかがこの類いの創作の最大のポイントになるわけだけど…それを判った上で敢えて言えば、このライマンの「幽霊ソナタ」は、小生がストリンドベルリの戯曲を文字で接して感じていた作品のイメージとは、まるっきり味わいが違ってました。ここまで違うともう怒るとか吃驚するとかを越えて、へええええこういう風になるんだなぁ、ってポカンと口を開けっぱなしでっせ。
なんとなく「死の都」みたいな現実と非現実がぐちゃぐちゃになる彼方の叙情性、みたいなものを思ってたんだけど、ライマンさんの解釈は猛烈に表現主義的で即物的。なにしろ最後の幕切れ場面も、深窓の令嬢と学生の長い対話の挙げ句に令嬢が消えてしまい、そんな人物はホントにいたのかどうかよーわからん、ってことになる微妙な味わいがポイントなのだと思ってたらとんでもない、ライマンの舞台は最後に向けてオペラっぽく盛り上がって、なんと学生が令嬢を殺してしまってオシマイであります。えええええ、この話って、そーゆーことだったのぉ!?

なんであれ、ともかく、こういう難しい戯曲を敢えて取り上げてオペラにするとは、ひとつの解釈を音で定着させるということなんだなぁ、とあらためて思わされた次第でありました。つまり、「ライマンって作曲家さんは、この戯曲のこの部分に興味を持ち、このように読んでるのか、なーるほど」ってこと。その意味では、とっても勉強になったです。

もうひとつ、全然知らずに行って吃驚したんですが、昔の絶世の美女という役回りでアニア・シリアさんが出演なさってました。まさか往年のブリュンヒルデが目の前数メートルで歌ってくれようとは、想像だにしていなかった。聴衆に大受けなんで、なんなんだろーなぁ、と帰りのトラムの中であらためてキャスト表をしっかり眺め、今更ながらにぶっ飛んだ次第。なんてアホな客じゃ、いやはや。

どんなものか、音の断片だけですけど、ベルリン・フェストヴォッフェで世界初演したときの映像の断片がYouTubeに上がってます。これ。フィッシャー=ディスカウじゃないんだなぁ。今日の演出も、着てるものなどは今風にアップデートされてるし、こんなでっかい装置なんてなかったけど、基本はこんなもんです。


フランクフルト歌劇場、今回は日程的に無理だったのだがこの瞬間にいつもの劇場ではアデスの「テンペスト」をキース・ワーナーの演出で出してるし、まだまだこの先にもボッケンハイマー・デポという今日の会場でエトヴェシュの新作とか、これまた吃驚のディーリアスの「村のロメオとジュリエット」とか、トンでもない演目が並んでます(実は、今だから言うが、『戦後のオペラ』で取り上げた演目ラインナップを考えるとき、個人的には「いかにもフランクフルト歌劇場なんかで上演しそうな作品」ってメルクマールがありました)。フランクフルトは東京から直ぐ、って感じなんで、ちょろっと来ちゃいそうで怖いなぁ。もうこのジャンル、いくら追っかけても商売にはならないんだよなぁ。うううん…

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