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演奏会形式上演の有り難さ [音楽業界]

東京春音楽祭(で、良いのかな、東京のオペラの森、という名前はなくなったのか?)の演奏会形式《ローエングリン》を聴いてまりましたです。

ま、ローエングリンとオルトルートは完全に役が出来ていて譜面台無し、自分なりに勝手に演技を付けている、という状況(勿論、衣装は着けてません)で、他のキャストは譜面を眺めながら。オケもバンダを3階左右に入れて、《ローエングリン》という曲だけならず、ヴァーグナーの全ての楽譜の中でもいちばんカッコ良い3幕2場への転換のブラバンド遠征軍が集まってくるところで派手に吹き鳴らしたりしてたけど(壮大にズレが出て、かなり興醒めでしたが…)、基本はオペラの舞台上演では不可能な程のダイナミックスの振れ幅の極端に大きい、演奏会ならではの再現。後ろにデッカいポンチ絵が出るのはこの数年のやり方なんでもう文句を言う気にもならず、ま、ちゃんとした正攻法の「演奏会形式上演」でありました。演奏家の皆様、お疲れ様です。

こういうある程度以上にまともな演奏会形式で聴くと、舞台がついているとそっちを眺めていて気が付かない、ってか、演出家に騙されて(とまで言うと言いすぎかもしれないけどさ)忘れちゃうこの作品の構造がよーく見えて、あれやこれやとあらためて考えさせていただけるのが有り難い。つまり、「自分で勝手に演出しながら聴ける」ということ。

虚心譚管に音楽だけに付き合っていると、やっぱり見えてくるのは…そうそう、《ローエングリン》って、「信じる」ということの様々な在り方が衝突したり、食い違ったりすることによって成り立ってるお話なんだよなぁ。

人が人やら信念やらを「信じる」にはいろんな在り方があって、それぞれが良い悪いというんじゃない。当然、その反対に、「信じる」ことへの疑惑の持ち方もいろいろある。そこで物語が動いていき、ぶっちゃけ、なんも解決しないで終わる。最後にオルトルートが勝利の雄叫びを挙げてからの初期ワーグナーらしい猛烈にバタバタした、なんだかどうなったかあんまり良く判らないであっと言う間に終わってしまうところは、まあ、長くお話に付き合ってくれた聴衆へのサービスみたいなもんで、演出家がどうにでも好きにすれば良い。要は、「信じるって、たいへんよねぇ」ってこと。

神への信仰、異なる信仰の対決、なんて21世紀の初頭にぼーっと生きてるわしらにはなかなかリアリティを感じられない「信じる」もあるけど、「自分の信じたいことだけを一生懸命信じちゃった凡人の悲劇」とか「偉い人や偉そうな人が言うことを頭から信じちゃって右往左往する大衆の悲劇(若しくは喜劇)」とかは、そのまま今の「ポスト真実」の世界を皮肉ってるんじゃないの、と思えちゃうもん。

《ローエングリン》という作品、ヴァーグナーの作品の中でも最もそのまま現代に通じる部分が多いんじゃないか、とあらためて感じさせてくれただけでも、本日の「演奏会形式」上演はとっても勉強になりましたです。はい。

それにしても、数週間前に同じ会場で上演された深作演出の問題がどこにあったか、やっぱり考えてしまうなぁ。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2018-02-21
敢えて言えば、作品の構造としてのドラマの動かし方とは違うところで話を作ろうとしたわけで、その一点を以て「大失敗」と言われても仕方ない。厳しく言えば、「台本が読めてない」というだけのこと。老獪な演出家ならなんのかんのご託を並べ評論家や観客を煙に巻き、矛盾点は腕力でねじ伏せるわけだが、それをするだけの舞台演出家としての力量が圧倒的に足りなかった、ということ。だってあの演出、今日の上演ではいちばん受けていたオルトルートという存在なんぞは、限りなく意味のないものになっちゃってたもんねぇ。うううん…

なーんて思い返すためにも演奏会形式は有効なのであーる、という情けない感想でした。

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