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人が死なない悲劇としての《ル・グラン・マカブル》 [現代音楽]

今回の短い欧州滞在の二大ハイライトのひとつ、「リゲティ生誕100年記念《ル・グラン・マカブル》メイジャー歌劇場競演」、先程、無事に拝聴完了であります。無論、この歳になると絶対的な体力や快復力もなく、欧州時間で三晩も暮らしてもまだ朝の5時に起きてしまい劇場に居る時間にいちばん眠くなる状態が抜けぬ、なんと第3場後半という山場で睡魔が襲うという困った爺なのは…いやはや、ホント、マジで歳は取りたくないもんじゃわい。

てなわけで、今、オペラ・フランクフルトがこれまた意外にもこの劇場としては初めて出したという新制作舞台を眺めて参りました。
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ヴィーンがドイツ語版、フランクフルトは英語版で、前者はエコノミークラス14時間欧州到着当日で眠くて良く判らなかったけど、後者はショットさんが€50くらいで楽譜売ってる改訂版みたいでした。まあ、いくら改訂魔リゲティとはいえ、弦楽四重奏なんぞならともかく、この規模の作品だと折衷版というのはないでしょうから。

で、もう結論だけ言えば、ヴィーンとはまるで別物。基本的に同じ台本、同じ楽譜でここまで違うことをやれるか、って呆れかえる程のふたつの舞台でありました。これ、今、欧州にいらっしゃって機会がある方は、無理しても見比べる価値はありますよ。

「世界中から観光客が来るメイジャー劇場が出す安心して観られるオペラブッファ」だったヴィーン版に対し、フランクフルト版は「ドイツのオペラ評論家らがトップと褒めるムジークテアター系を視野に入れた最先端にしてバランスが取れた大劇場が全力で作った死人が出ない悲劇」でした。恐らく、配信やら映像収録パッケージ化などはないと思いますが、もしかしたらレパートリーに残るかも知れないなぁ。

簡単にネタバレ全開で、ロシア人演出家バルカトフが造った舞台のポイントを記します。ネタバレがイヤな人は読んじゃダメ。

舞台は現代で、いきなり舞台全体のスクリーンにCNNだかみたいな英語放送で「コメットが地球に衝突します」という速報が流され、昔の怪獣映画で良くあったパターン、次々世界中の放送局から各国語で流星衝突地球生命体の終焉ニュースが映されます(日本語はなかったのが東宝怪獣映画とは違うところじゃのぉ)。で、幕が上がるとどこかに避難しようとするものの車が大渋滞して動かなくなり、もうみんな自暴自棄になってるハイウェイ。POLIZAIというドイツ語のパトカーがいたらか、ドイツのアウトバーンというわけでもないじゃろがね。なんせ英語だし。

で、上手に出っぱなしになってるニュース画面に登場人物の来歴が紹介され、ピエトとか、アマンダとアマンドとか、どういう経緯で終末の瞬間に対峙しているかが示されます。なんか、文字情報多いなぁ。みんな普通の市民で、最大のポイントはネクロツァール。この「大いなる死神」さん、なんと霊柩車の運転手さんというか、要は「送り人」さんで、地球の終焉のニュースが伝わり世界中がパニック自暴自棄になったときも仕事中。若い女性の死体を霊柩車で運んでいる最中に事態に巻き込まれた。で、このオッサンが「俺が死神だ」と言い出し、普通のまともな生活をしていたけど世界の終わりの報におかしくなったピットやらアストラダモロスやら、棺桶の中の女性の死体やらを連れて、世界の終わりに大無礼講マリファナパーティをやってるゴーゴー王子の宮廷に乗り込む…って次第。

ま、お判りの方はこれでだいたいどんなものか判るでしょう。興味深いのはヴィーナスとゲポポ長官の扱いで、なんとこれは葬儀屋ネクロツァールが運んでた死体なんですわ。なんで歌ったり動いたりしてるか、正直、良く判んなかったけど、ともかくゾンビみたいなもんなんです。ちなみにアマンダとアマンドは、ヴィーナス&ゲポポ長官になる美人遺体の棺の中に入り込んで乳繰り合ってる。

第3場は、世界の最期を前にした大無礼講シーンになり、みんなどうせ死ぬんだからとゴーゴー王子が皿に白いお薬壮大に盛ってみんなにまわしてハイになり、滅茶苦茶やってる(そんな中で真面目に裏方やってる連中は、最期まで自分の本来の職務を貫くことで怖さを感じずに死んでいこうという奴はそれなりの数いる、ということなのか…)。で、第4場で終末がどう回避されたかは台本がいい加減なままに放置され、なんか知らんが惑星衝突は回避され終末は来なかった。みんな「いやぁ、マズいなぁ、無茶やっちゃったなぁ」と頭かきながら日常に戻っていく中で、ずっと死と一緒に生きてきてこの世界の終わり騒動でやっと死ねると思ってた(んだろうなぁ)ネクロツァールは、首をつって死のうとするがそれもできず、戻った日常の中で隅っこに小さくなって終わる。
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というわけで、世界の終末騒動に人々がどう生きて、結局、誰も死ななかったか、というお話でありました。最初から死んでた奴を除けば誰も死なず、悲劇ではない。でも、悲劇にすらならないオソロシー日常がまた続いていく、という意味では、極めて今っぽい「喜劇」なわけです。

音楽的には、今やマニアの皆様大注目のヴァイグレ御大を継いだフランクフルトの若きシェフたるグッギーズ氏が「現代音楽ですよ」という強調もなくしっかり楽譜を処理、ヴィーンのエラス=カサド先輩の「どんな舞台であれ、音楽はほれ、こんなになってます」ともの凄く的確にポイントを強調したスターらしいはっきり自分の仕事は示す音楽ではないものの、舞台の邪魔をせずにしっかり纏める立派なものでありましたです。

以上、感想は敢えてなし、どんなものだったかのご報告でありましたとさ。正直、これ観るためだけに大枚20万円だかかけて極東からフランクフルトまで来る価値は…あります。ベルリンフィルとヴィーンフィルとコンセルトヘボウの全演目を東京で聴くくらいのお値段で済むのですから、安いもんじゃないですかね。

さて、明日は巴里に戻り、旋律作家シュトックハウゼンの魅力炸裂《ティアークライス》を子ども向け舞台にしたというお子ちゃまコンサートに潜り込みます。うううむ、充実しすぎた日々であるのぉ。

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