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大ホールでのリサイタルというもの [演奏家]

Facebookのある評論家先生の当稿にコメントとして書いちゃったことを、後に自分で検索する可能性がある内容なので、こっちに再録しておきます。Facebookは書き流し、電子壁新聞は自分向けメモ、って使い分けは結果的に出来ちゃってますね。つぅいったーだけはわしゃやれぬ。あんなもの、短くて読み手に誤解されるような内容以外何が言えるのか。あれを発明した人は普段はどういうコミュニケーションをやってたのか、不思議だ。「風呂、飯、寝る」だったのかしら。

昨晩、いろんな事情で、ホントに久しぶりに2000席クラスの某音楽専用大ホールでチェロとピアノのデュオでのフルコンサートを聴かせていただきました。恐らくはこういう演奏会をこういう場所でガッツリ聴いたのは、今世紀に入ってから初めてじゃないかな。勿論、コンクールだとか、オーケストラの演奏会と器楽デュオや独奏がごちゃ混ぜになってるフェスティバル系の演奏会なんかはあるけど、「●●チェロ・リサイタル」みたいなものは、ホントに記憶にない。一生懸命探しても、これくらい広い場所で遙か彼方にチェリストとピアニストが座ってる、なんてのは、うううん…1980年代初め頃、まだ偉くなってないヨーヨーがオープンして数年の調布グリーンホールでメシアンの「世の終わり」のチェロとピアノの楽章を弾いたのを今でも覚えてるくらい、だなぁ。カザルスホール以降の500席から700席くらいまでの場所でのデュオは、それこそ山のように記憶にもあるわけだが。

さても、んで、まずなにより感じたのは、「ああああ、こういう会場ではホントに楽器って死活問題なんですね」ってこと。あれだけ空間容量があると、低い倍音を表現の武器にするのは物理的に無理。んで、そこは流石に広いところでやるのに慣れたラモスさん、じゃなくて、マイスキー御大、高音とアタック勝負の芸に持ち込む。最初のアルペジョーネ・ソナタの冒頭楽章では、いろんな意味で空間を手探りしている感があって、それはそれで面白かったんだけど、ま、「調子出てないな」って思われるでしょうねぇ。でも、あとで絶対に取り返せる自信があるからああいうことも出来るんだろう。流石にギャラの高い人は違うぞ。

ピアノは娘さん。以前、某雑誌の企画「親子対談」なんてのが急に決まり、他にやれる奴がいないので、って強引にインタビューをやらされた親子という縁があって、そのときにはもう別の用事が入っていて本番は聴けず、このまま聴かないままに終えちゃうのも気持ち悪いし失礼だよなぁ、とずーっと思ってた。ぶっちゃけ、随分と遅くなったけど、それが昨晩の見物の理由のひとつ。あの空間ではああいう「伴奏」しか打つ手がないのでしょうね、と同情したりして(勿論、こういう環境でもガッツリ闘いになる人もいるわけだが、そうなるともうそれは多くの聴衆が期待する「マイスキー・リサイタル」じゃあなくなっちゃうわけだしさ)。

しっかり2時間半も坐った結果、こういう空間でのチェロとピアノのデュオというのは、極めて例外的な、特別な芸風でなければ成り立たないし、成り立つ必要もさらさらないジャンルなのだと、あらためて納得した次第。こういう納得をさせてくれたんだから、マイスキーは偉い、ってこってしょーねぇ。

アンコールはジャンジャンあって、最初は「鳥の歌」でした(幻の初代カザルスホール・クァルテットのチェリスト氏による演奏だったわけでんな)。最新録音ディスクに収録された演目をアンコールで次々と披露する、というホントに今時珍しい、まるで今は1980年代か、って感じのリサイタルだったんで、カサドの「親愛の言葉」をやってくれるんじゃないかと期待して最後まで会場に居座ったんだけど、残念ながらやってくれませんでしたとさ。

そういえば12月の日米開戦記念日の頃、懐かしや10月に引っ越す前の初代「チェロ連」の季節じゃあないの。「鳥の歌」のメッセージがどうやっても首相官邸や自民党本部、はたまた信濃町の創価学会には届きそうもない、まるで1933年みたいな2013年の年の暮、お茶の水で毎晩6人のチェリストがこの歌を奏でていたあの頃、こんな21世紀がやってくるなんて、想像もしていなかった。

チェリストがみんなで「鳥の歌」を奏でながら砂防会館横から首相官邸に向けてデモをしたら、それは「整然たるデモ」と御上は見做して下さるのかしら。

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