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「決定的演出」というもの [現代音楽]

香港で開催される現代舞踏&演劇&視覚芸術のビエンナーレNew Vision Arts Festival、昨日初日を飾る筈の細川&サッシャ・ヴァルツ《Matsukaze》が台風直撃で延期になり、本日先程、台風一過香港とは思えぬ遙か深圳の向こうの山々まで臨めそうな好天の香港湾に面した香港文化中心大劇場で、アジア圏初演が無事に成されました。客と同じくらいの数のホールの人がいる感じで、カメラなんて客席で出そうものなら猛烈に叱られるので、露出チェックなど出来ずに一発押した隠し撮りカーテンコール。大失敗ショット。
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某月刊誌にちょー短いレポートを入れることになってるので、中身そのものについては触れられません。ゴメンです。で、そこには絶対に書けない、でももの凄く重要だなぁ、と感じさせられたことについて。

さても、「現代作品」を接する際に古典や既に上演が重ねられてきた作品と決定的に違うのは、創作者がそこにいて、その意志がなによりもはっきりと働いている、という事実でありまする。当たり前のこと。

で、今世紀に入った最初の年に初めて舞台に上げられたこの作品は、「オペラ」であります。所謂ロマン派時代のイタリア歌劇みたいな「オペラ」というよりも、フィレンツェ・カメラータやらフランス絶対王政時代やらの「ありとあらゆる芸術(世間の役にはなーんにもたたない人間の創作行為)を全部ぶち込んだ総合的なパーフォーマンス」という意味でのそれ。いまどきに普通に使われる言い方をすれば、「オペラ・バレエ」というのがいちばん適切でありましょう。

なんせ、今回も「音楽祭」ではなく「現代舞踏芸術祭」のオープニング、メインは失礼ながら主人公は作曲家の細川氏というよりも、舞踏演出家のサッシャ・ヴァルツ女史であることは隠しようがない。文化中心のショップにも、細川氏の著作は置いてないけど、ヴァルツ女史のステージ写真集はドカンと真ん中に置いてあるしさ。

つまり、「細川のオペラ《松風》」ではなく、「細川&ヴァルツの《Matsukaze》]で、国際芸術祭らしく記される出し物の国籍は、日本ではなくドイツ、でんがな。

まあ、実際、舞台を目にすると、少なくともこの舞台に接する限り、この作品はヴァルツ女史の演出というか、舞踏カンパニーがなければあり得ないとしか感じられない。実際のところ、ヨーロッパでは他の演出家による舞台も出ているようですが、数ヶ月前のシンポジウムで細川氏御本人曰く、「いくつか演出があるけど、ホントに酷いものもあります」。それほど演出の比重が大きい総合作品なわけですよ。

で、目の前には、初演のプロダクションの何度目かの上演があるわけです。無論、演奏者やダンサーは変わっていますが、基本、細川&ヴァルツがきっちり監修している「オリジナル初演版」であります。

「オペラ」という総合的な出し物の場合、初演の版が大成功を収めてしまうと、そのトータルがひとつの作品として強く印象づけられてしまう例は珍しくありません。現代作品の場合、我々はその最初からを知っているわけで、それこそシカネーダー演出のアン・デア・ヴィーン劇場で出た《魔笛》とか、ヴァーグナーがバイロイトで出した《パルシファル》とか、そういう今は知るよしもないがなんか相当に決定的なものだったらしい、というのと同じような位置づけの舞台を、目にすることが出来る。いちばんの例は、グラス&ウィルソンの《浜辺のアインシュタイン》でしょうし、そーねぇ、アダムス&セラーズの《中国のニクソン》も、同じような位置づけかな。後者はともかく、前者は未だにほぼ全ての人にとってあのウィルソン演出こそがアインシュタイン、というイメージでありましょう。

細川&ヴァルツの《Matsukaze》も、そういうレベルの完成度の舞台です。だから、これは一度は作曲者演出家が生きてる間に観ておかないとダメ、ということ。

なんだか大絶賛、何度も公演がある舞台のプレミエが出た翌日の新聞批評記事みたいなものいいだけど、残念ながら明日の2公演で香港の舞台はオシマイ。流石にもう東京からは間に合いません。悪しからず。

さても、以上を踏まえつつ、「商売では書けないこと」をサラッと言いますと…

これだけ完成度が高いと、他の演出は大変そうだなぁ。

舞台については言いたいことはいろいろあります。なによりも、元ネタの能を頭に浮かべていると、ともかく冒頭の波のテープ音だけによる前奏曲から舞われる舞踏が、やたらと動きます。能みたいな「最小限の表現で最大限のインパクトを引き出す」というタイプの舞踏表現ではありません。ヨーロッパのオペラハウスの舞台で聴衆に普通に受け入れられる動きです。音楽にしてもも、基本は猛烈に抑制しているとは言え(20世紀末頃からの細川氏の作風の集大成なのは、やっぱり「オペラ」っぽい)、松風村雨が幽霊と判明して嘆き始めるところの表現とか、クライマックスの行平からの衣装を着けて松風が舞うところのソロ&群舞とか、もう全く「オペラ」であり、「モダンダンス」の濃厚な表現であります。濃厚、というのは正しくないかも知れないけど、普通にヨーロッパの劇場でオペラやモダンダンスを眺めている人々が「ああ盛り上がってるなぁ」と感じるような、ストレートな表現であります。つまり、当たり前だけど、全然「お能」じゃありません、ってこと。

個人的にはいちばん印象深かったのは、舞台写真に盛んに出て来る松風&村雨幽霊シスターズが網のような斜幕に絡まりながら上から降りてくる第2場から、真四角な枠だけで須磨の貧しい庵が表現された箱が降りてくる第3場への転換の、波の音の上にチェレスタだかなんだか(よーわからんかった)が最弱音で鳴っている後奏から転換の場面。弱音、無音が猛烈にインパクトのある響きとして聴こえ、比喩的に言えば《ヴォツェック》の殺人の後のB音のクレッシェンドの真逆、無音がどんどんクレッシェンドしてくる、みたいな圧倒的な静寂感が、全曲の中で最も印象的だったですね。へええ、すげえええぞ、細川先生、と思わされた。

もとい。で、こういう創作の最初から関わった猛烈にインパクトのある演出、演出が作品ともう離れないくらいにくっついている舞台となると…さああ、これじゃない舞台再現ってありえるのか、と感じざるを得ない。

現実問題として、この作品が日本でやられていない理由のひとつは、能としての《松風》を知っている人が多すぎるところだと、いくら「これは能じゃないんですよ」と繰り返したところで、率直にそう思えるわけがない、ってことなんじゃないのかしら。能の舞台を知らない、能の表現というものを知らない聴衆が相手だからこそ、これだけのものが出来たし、受け入れられたのだろう。さあ、どーするどーする。

ともかく、この作品を日本で出すには、ヴァルツ女史の演出に匹敵する猛烈にインパクトのある、コンセプトのしっかりした舞台を出さねばならない。さあ、どーする?個人的には、舞踏を一切廃して、徹底的に精密な楽譜の再現を前に出し、極めて抑制されたCGやアニメーションの表現で…という、一種の滅茶苦茶本気な「映像付き演奏会形式上演」がいちばんあり得るのではないかなぁ、と思うんですよ。

そー、それなら、例えば、広島でもやれるでしょ(昨日日本から来ていた某関係者氏によれば、カンブルラン御大は台本に問題ありということで上演する気はないらしいので、さああ川瀬くん&広島オペラ・ルネサンスの皆様の出番です!初台の関係者も来てたので、突っ込み先はあるぞ!)。ってか、広島で目指す方向は、このサッシャ・ヴァルツとはまるで違うものをどう探るか、という大きな、でもやりがいのある挑戦なんじゃないかしらねぇ。

おお、当無責任電子壁新聞とは思えぬ、まともな発言で今日はオシマイ。お疲れ様でした。

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