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舞踏要素極小の《浜辺のアインシュタイン》 [現代音楽]

ケイ・ボジス(Kay Voges、なんかこういう日本語表記らしいです)演出の《浜辺のアインシュタイン》を見物してまいりました。休憩無し3時間15分程の舞台で、この作品としては短いと言えましょうが、やっぱりもの凄く疲れてるので、忘れちゃわないうちの備忘録として自分の為に記します。

数年前にここの劇場の方のインテンダントだったという演出家ボジス氏、劇場発表の印刷物には全て「フィリップ・グラス&ロバート・ウィルソン」の作と記しているのに
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ウィルソン演出とはまるで異なるコンセプトを出して来てます(ドイツ版wikiを眺める限り、オペラ系はさほどやってる方ではないようです)。漸く昨年に第3ヴァージョンの正規盤Blu-rayも出た過去の3ヴァージョンあるウィルソンのオリジナル演出のコピーなりアップデートなりではありません。まるっきり違うものです。公式の宣伝映像はこんなもの。
https://www.theaterdo.de/detail/event/einstein-on-the-beach/#prettyPhoto/1/
恐らく、この作品の非ウィルソンの演出としては、初演後比較的直ぐにシュトゥットガルトだかどっかあの辺りで出たもの、一昨年にアデレードで初期三部作として上演されたものに継ぐものじゃないかしら。詳しい方、教えてちょーだいな。

さても、この演出、一言で言えば、「限りなく舞踏の要素を排除した《浜辺のアインシュタイン》」でありました。なんせ、2箇所に巨大な舞踏シークエンスがあって、最後には「宇宙船」は総まとめのような大ダンス・シーンでクライマックスが築かれる作品とみんな思ってるでしょうから、それが無いってなんなんじゃいでしょ。でも、無いんです。ふたつめの舞踏シーンでダンサーが2人になるのが最大で、ウィルソン版では最も因習的な舞踏シーンが延々続く最初のところでもダンサーはひとり、「宇宙船」でも同様。

じゃあ、どうしているのか、ってば、代わりに演劇の要素を突っ込んでるのですわ。ひとり、ウィルソン版にはまるで登場しない基本ドイツ語を朗読する役者を出し、本来の台本にはないテキストを舞踏シーンで読ませています。役者は、《サティアグラハ》でガンジー役などをやらせたらイメージ最適、って感じのオッサンで、ドルトムント劇場の役者さんみたい。テキストは、ええと、上の方の字幕のところに一瞬出たのをノートしたのだけど、うううん、読み取れないぞ。ええと、最初のところは…Schizpophrerie nd Sparache、かな。もうひとつ、二つ目の方は、ドイツ語訳の「ゴドーを待ちながら」の断片とありました。

そもそも冒頭のニープレイのときから、舞台奥に陣取るアンサンブルの前に2人の女優さん(なんでしょうねぇ)が立っていて、アンサンブルの後ろに合唱団が入ってきて「わんつーすりーふぉー…」と歌い始めるとナレーションを被せてきます。
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この2人がいろんな風に動き、ウィルソン版の英語の朗読を担当する。とはいえ、これもかなり弄られていたみたいだったぞ。なにしろ終幕のニープレイでも、あのバス運転手のバリトン声で恋人達の姿を朗読するのではなく、女優さんふたりが手紙を読み上げるようにドイツ語で語ってる。極端な比喩をすれば、「ヴォータンの告別」がソプラノ二重唱になっちゃったみたいな感じですわ。
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カーテンコールにて、演劇チーム。白いジャケットのオッサンがナレーション役者さん、で、隣の青と赤の頭が女優さん。写真いちばん左手の男はダンサーさんで、でっかい脳の被り物に入って踊ったりで著集には誰だかわからないので、「デッカい脳」とTシャツに書いてある。

細かく説明しているとキリがないけど、舞踏のシーンは、音楽と最小限の舞踏と、それにナレーション手置き換えられる。実質的には、初演の頃にはなくて今はとても重要な武器になってるのが映像で、舞台奥全体の上下するスクリーンと、白い細い糸みたいなものを束ねて舞台の前の方で左右から動いてきたり、回転したりする、斜幕上のスクリーンに様々にイメージが投影され、それが舞踏の代わりになってます。

それらの作業の積み重ねの結果として、オリジナル版よりも遙かにグラスの音楽が表に出て来ます。

なんせ、アンサンブルの中にお馴染みのアインシュタイン姿のヴァイオリニストがいるのは毎度ながらだけど、完全に独奏として舞台の真ん中に出て(電子楽譜とスタンドを自分で持って出て来る)、ナレーションの老俳優と絡んだりします。最後も、ナレーターふたりが去った後に、舞台が暗転するまで真ん中で1人で弾いているし。
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これがカーテンコールでの音楽チーム。実は、いちばんたいへんなのはヴァイオリンの隣に立っているキーボードの女性。実質上の全体を支える通奏低音奏者みたいなもの。

もうひとつのデッカい独奏で印象的な「都市」の場面では、これが合唱団が舞台から客席に下りて歌いながら歩き回り、それと一緒にサクソフォン独奏も客席を歩き回ります。まるっきりシアターピースですわ。指揮者と合唱団が舞台の前に出て来て、合唱の演奏会みたいに歌うところもあったり。

合唱団も大活躍。過去の演出ではどれもピットに入っていたり、隅っこに立っていたりしてさほど目立つ扱いはなく、なんとなく仕事の割に報われない感漂う合唱団なんだけど、この演出では実質上オペラの出演人物となっています。「宇宙船」では原始人の着ぐるみを着て客席から出て来たり。独唱歌手も扱いが大きくなっていて、「夜汽車」では、2人の歌手が真ん中で完全に二重唱を延々しています。どこだったっけかなー、完全にソプラノ独唱がステージ真ん中で延々とヴォカリーズを続けるアリアになってたところもある。

なんだかこれじゃ全然判らないかもしれませんねぇ。スイマセン、でもまあ、つまるところ、「《浜辺のアインシュタイン》をあくまでも音楽メインに捉え、現在ある照明、電子技術その他を駆使して視覚化する。舞踏がないともたない部分は、敢えて別のテキストを追加することまでしてカバーする」というやり方。

会場となるドルトムント歌劇場はかつてナチスに潰されたシナゴーグの跡地だそうで、それを非常に大事にしている記念碑などがいろいろあるから
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この作品に読み取ろうと思えば強引に読み取れなくはない「ヨーロッパからアメリカ、そして宇宙へと至るユダヤ人アインシュタインの旅」を演劇的に強調するのかなぁ、と開演前には勝手に推察していた。だけど、まるっきり外されましたね。好き嫌いはともかく、こういう手があるのかぁ、と大いに感じ入りましたです。アデレードの演出が、舞踏出身の演出家さんだったこともあり、全三部作を全て舞踏の視点から作り直すような舞台だったのとは、ほんとにまぁ、正反対のアプローチでありまする。

この作品、ことによると、やりようによっては案外と生き延びるかもしれんぞ、近未来には演出家が最もやりたい作品になるかも、なーんて思わされましたとさ。

ヘバヘバなので、これでオシマイ。もう寝ます。

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Yakupen

facebookにいただいたあるオペラ演出に対する専門批評家の方からコメントへの返信を、以下に、まんま、貼り付けます。要は、追記、です。

「 今回、この作品はホントに、所謂オペラや演劇よりも、現代の美術で常識になりつつある時間軸を伴った空間展示、所謂「インスタレーション」の大元になっている創作物であるという私見はより強まりました。もしかしたら,20世紀の所謂「オペラ」というもので、最も歴史的に重要な作品と位置付けられることになるのではないか、と。こんなやり方があり得るんだぁ、と思ったです。流石にベケット断片をドイツ語で読ませるのは,グラスは納得してるのか、と思いましたけど(笑)。それから、上には書いてませんが、ドイツ語を俳優さんがいつもの舞台のように表情豊かに朗読すると、いかにグラス世界が異化されるかはビックリです。
逆に,この作品は「世界一カッコイイ英語のラップ・ミュージック」だと思ったです。ポピュラー系やラップやってる人など、恐らくは存在も知らないでしょうが、ウィルソン版見せるとビックリしてあっさりグラス信者になるんじゃないかな。」

「これも電子壁新聞には書いてませんが、ウィルソン版って、やっぱり「アインシュタインの魂の流離い」なんですよねぇ。それが,文字通り舞台の時間と空間に溶け込んで変換されてしまってるから判らないけど、最後の恋人達の姿でこの世界に戻ってくる、という感じ(個人的には、あのバス運転手のナレーションは、《ヴォータンの告別》に匹敵すると思ってます)。あれは、この舞台ではまるでなかった(ここだけは意味がきちんと聴衆に判る、ドイツ語での手紙の朗読、という形にされていたのは、演出家さんにその意識はあったということでしょうけど)。もう一度くらい眺めないと判らないけど…最終公演でした。」

by Yakupen (2017-06-05 15:11) 

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