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「バランスの良さ」=「踏み込み不足」? [音楽業界]

日生劇場で、なぜかそれなりに話題になっているらしい佐藤美春氏演出の《魔笛》を見物させていただきましたです。
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なにしろ演出家さんはお嫁ちゃんの学校の助教さん、ドラマトゥルク(ブタカンではないんですよねぇ、最近は)はお嫁ちゃんと同じ教授会であれこれ頭抱えてる同僚、キャスト表には小生を育てて下さった編集者さんの娘さんの名前があり、指揮は我らがマエストロ・リチャードN、んでもてオケが錦糸町の皆々様ということで、なんだか知り合いが学祭で上演してるんじゃないかというような顔ぶれなもんで、こんな「書いてあることはみんな嘘、信じるなぁ」をモットーとする無責任私設電子壁新聞なんぞに記すくらいなら直接本人に言えばいーでしょーに、って感じなんだが、ま、己に対するメモということで、サラッと記しておきましょうぞ。

今回の《魔笛》、ひとことで感想を記せば、「滅茶苦茶バランスの良い上演」ということになるでしょうねぇ。ホントに「あらゆる意味で」と形容句を付けても全く問題ない程のバランスの良さ。

なんせ、極めて適正な規模の劇場で(アムステルダムとか、シュトゥットガルトとか、フランクフルトとかくらいの大きさじゃあないかしら、入った感じからすると)、極めて適正な額の木戸銭で(最高で€70ですから、正にドイツなんぞの人口20万人くらいの都市の市立劇場と同じくらい!)、ちゃんとしたレベルの歌手や合唱と、ちゃんとしたレベルの指揮と、ちゃんとしたレベルのオケがそれなりにちゃんと音を出し、(最大多数の聴衆にアクセシブルな)ちゃんとした演出をしてくれているわけですから、もうこれ以上何を言うことあろーか、って感じであります。あとは好き嫌いだろうから、勝手に言ってなさい、ってね。

こういう舞台を眺めると、現状追認的に言えば、東京にもちゃんとコミーシュ・オパーとかシティ・オペラとか、はたまたアン・デア・ヴィーン劇場に相当する「バカでっかくて有名な歌手が出る国立劇場」に対するオペラ劇場があって素晴らしいではないか、と激賛する事も出来るわけだが…逆に、初台のナショナルは何をやってるんだか、本来、このプロダクションでやってることの多くは民間資金じゃなく税金使ってやるべきことなんじゃあないかい、と思わざるを得ないこともまた確かでありまして…。うううん、初台問題、奥が深いなぁ。この前の《フィデリオ》だって、あのばかデカい空間じゃなくて、こっちでやれば余程良かったろーに、と思わざるを得ないでありまする。はい。

マエストロN&NJPの、今時の「俺たち古楽やってるぜぇ」系のイケイケ系響きとはまるで異なる、ある意味ちょっと古めのドイツのちっちゃな劇場みたいな音に安心して浸れるこの舞台、やっぱり、いちばんの話題は、演出界の若きホープのひとり、佐藤氏の演出でしょうねぇ。
この方、ENOだとかシュトゥットガルトだとか、師匠筋としてはコンヴィチュニーとか、諸々勉強してきた背景がとても良く判る、やくぺん先生的には極めて好ましいタイプの世界を作って下さる。なんか、「ああ、ENOっぽいなぁ」ってテイストはあちこちに感じられます。師匠譲りと言えば、音楽があろうが無かろうが平気で効果音を突っ込んでくるところなど、誠にコンヴィチュニーちっくでありますし。最後の火と水の試練の所で、猛烈に薄い魔笛の音しか聞こえないような箇所にボコボコ沸いてる水の音などがかなりするのは、気になる人は気になるかも。ま、舞台転換の音が派手にしてなかったのは良かったけど。

どんな内容の舞台で、何を言いたかったかは、もうあちこちでいろんな方が仰ってるようなので、今更どうこう言うつもりはありません。やくぺん先生としては、善し悪しというより、「ああ、若い世代の人が作ってる舞台だなぁ」と思わされました。携帯をギャグに使ってるとかのことじゃなく、なんというか、舞台上の人間関係、人物造形、なにより舞台に飛び交う映像を含めた全体の舞台のテイストがさっぱりスッキリ21世紀のニッポン。タミーノが民野さんだったりするんじゃないけどさ、ああ、これは今のニッポン国だわなぁ、ってね。

土曜日に見物したうちのお嫁ちゃんなど、背景に飛び交う映像などは「化物語」のシャフトっぽさを感じたと申してるけど、ま、確かにそうかもね。そう言われて眺めたもんで、「なんか新房監督シャフトで《魔笛》をまんまアニメ化してくれたら、これ、なかなかいけるんじゃね」と何度か思ってしまったぞ(タミーノの正義感って、確かにアララギ君っぽい薄っぺらさだもん)。恐らくそういう世代が映像なんぞを作ってるんでしょうねぇ。

おっと、もといもとい。本日の公演、終演後に演出家さんとドラマトゥルクさんがまるでここは上野の研究室か、って感じの気楽なトークをなさって下さりまして、見物せぬわけにいかんだろーなー、と眺めて参ったのであります。んで、これを聞いたが故に、かえっていろいろ考えてしまった。
というのも、舞台を観ている限りは、「ああ、この演出家さん、もうひとつ突っ込んではっきり示せるのに、一歩手前で言い切らないくらいにしてるんだろうなぁ」と思っていたいろんなあれやこれやが、言葉の形で語られてしまった。そうなると、聴衆とすれば、「なんだ、そこまではっきり言いたいことがあったんだったら、要は演出の力不足ってことだったのか」と思ってしまいかねない。かねない、なんてぼやかした言い方をしているのは、その辺りの微妙なバランスが舞台の制作過程を眺めていないと判らないから。

例えば、今回の舞台、演奏する側からすれば相当イヤな、ってか、困る場面があります。どことは敢えて言いませんが、1幕と2幕にあったギミックです。それに対しては、オケマンの方から随分と文句の声が出ていた。そういう現場で起きてくる「自分の意図を伝えるためにやりたいけれど、現場がそれは出来ないという」という事態を前にしたときに、果たしてこの演出家さんがどういう動きをしたのか。老獪さというのは、そういう瞬間に対応する手札がいっぱいあることなんだろうが、そういう意味での老獪さなんぞが備わってるわけがない。そこでどういう駆け引きをし、結果として中途半端と思われないところにどう落とし込んでくか、その辺りの力関係や人への働きかけはどんなもんだったんじゃろーか?

そういう部分を含め、いろんな意味で「バランスが良い」としか言いようのない舞台であった、ということ。

勿論、そういうバランスを敢えて崩すような演出をするというもの、若いが故の特権でありましょう。先頃の二期会のちょっと始末に困る《ローエングリン》みたいな、明らかにオペラを演出する技術面ではシロートのアーティストが、やりたい意欲だけで突っ走り、あっちこっちに穴がボコボコ、突っ込みどころ満載、矛盾だらけ、なんてのもあり得るわけですから。

佐藤氏にちゃんとしたオペラ演出家としての資質はきちんとあり、纏める力もあることは判った。次はなにか無茶をやって欲しいなぁ。破綻を食い止める強引な力業、ってのは師匠のお家芸なわけですから。

なんだか隔靴掻痒、「〇〇ではあるまいかと思わないのでもないのだがいかがなものであろーか」みたいな話になってるなぁ。いやはや。

さて次は、いよいよ明後日からのツアーのハイライトたる《中国のニクソン》で、佐藤氏と並ぶ若手演出界のホープ菅尾友氏が登場でありまする。秋には日生で《コシ》をやるわけで、正に「次のバッター」(監督、かな)でんな。佐藤氏はやたらと慶応ワグネル応援団が客席に来てたけど、菅尾氏はなんとあたくしめやお嫁ちゃんの後輩なんだわなぁ。
https://www.icu.ac.jp/globalicu/interviews/global-alumni/Tomo-Sugao.html
本日の演出家の盟友ったら、なんと21世紀の卒業かぁ…←遠い眼。カーテンコールで合唱団の前にしんしょう先生がお立ちに成られていたのには感動したんだけどねぇ。

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