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物語を語ってしまう誘惑について~《Wir aus Glas》雑感 [現代音楽]

ミラノ滞在20時間弱、またベルガモの街を遙かに眺めつつロンバルディア平原にバイバイし、イタリア・アルプス飛び越えて、夏至の頃とは思えぬ雲に覆われた冷たい伯林はブランデンブルク空港ならぬ今だシェーネフェルト空港に到着。LCCターミナルを出た原っぱの隅っこみたいな場所で慌ててジャケットを引っ張り出し、サンダルを靴に履き替え、Sバーンで市内に向かうと、なんだかもうたびが終わったような気がしてくるなぁ。来週訪れる真冬のメルボルンって、恐らくは寒いってもこれと良い勝負なんじゃないかしら。

さても、明日に控えたW杯運命のドイツ戦を前にした金曜夜の新独都は、なんだか半端な感じの夕暮れで、この前まではシラー劇場の辺りでは盛んに来ていたのに、久しぶりに訪れたドイツ・オペラ周辺(20世紀の終わり頃、まだ偉くなる前のティーレマンの《パルシファル》を見物して以来かな)は、なんだかすっかり落ち着いた「ちょっと昔の西ドイツ」っぽくて、何だか知らぬがシーズン終わり頃には所属歌手総ざらえで上演するのが流行ってるみたいな《ランスへの旅》に着飾って訪れる「西ベルリン」の熟年ご夫婦が吸い込まれるのを眺めつつ、屋台のカレー・ヴルスト屋でシャツにソースをくっつけないように気をつけながらコーラ飲みつつ甘辛酸っぱいソースまみれのソーセージ喰らって、さても、一足遅れて裏の小劇場に参ります。

この街では、ドイツ・オペラもリンデン・オパーも、大劇場での本公演とは別に、付帯の練習場みたいな小劇場を用いた実験的作品やら、若いスタッフによる上演やらのミニシリーズをやっております。ミュンヘンなんかでもありますな。ヘンツェとか、裏のレジデンツ内の劇場で眺めたことがあったっけ。初台にも似たようなものがあるとはいえ、なんせ御上からきっちり給料を貰っている「劇場専属アーティスト」は実質上合唱団しかいないのでは、びわ湖ホールみたいに合唱団を育てるシリーズをやるならともかく、ホントの意味での育成シリーズなんてやりようがない。

合唱団、オーケストラ、歌手、演出家から裏方まで、きちんと「オペラハウス運営に必要な人的リソース」を全部きっちり公務員として雇っている独逸国というかドイツ各州には、劇場に行けば月給で働くそういう職能者集団と街が保有する劇場施設がある。なら、大ホールでの稼ぎを考えざるを得ない上演の他に、どうせタダ飯を喰わせているなら余ってる奴に空いてる練習場でなんかやらせてみよう、ってな勢いの公演も作れる。それを「若い作曲家や創作者への新作委嘱やら、大ホールではかけられないような聴衆の数が極めて限られそうな作品やらを取り上げる」シリーズにしてるわけであります。リンデン・オパーは時期をまとめてやってフェスティバルにしてるんだっけか。ま、ご関心の向きは公式サイトで勝手に調べて下さいな。

旧西ベルリンのオペラのそんなシリーズのひとつで、ドイツ在住の若い日本人作曲家稲森安太己が音楽を担当し、ドイツ・オペラ専属(という言葉は正しくないんでしょうねぇ)の気鋭演出家ダヴィッド・ヘルマンが舞台化し、先週だかに共同委嘱のミュンヘンで初演されたばかりの室内オペラ《我ら鏡より(Wir aus Glas)》が上演される。「戦後のオペラ」眺め倒すこの実質1週間には、ブラウンシュヴァイクに入ってシャリーノとワイル《七つの大罪》のダブルビルを眺めるよりもこっちのが相応しかろうと、見物することにした次第。

題名を眺めた時、「なるほど、俺たち現代のオペラを創ろうとする輩はみんなフィリップ・グラスがルーツなのだ、と宣言する作品かぁ」などと勝手に思ってしまったんだが(このツアーの流れからすれば、そんな誤解も理解いただけよーぞ)、全然そーじゃない。公式サイトの説明には、「現代の我々の日常の細部を眺めることで、なにやら新しい現実が見えてくるものなのであーる」みたいなことが書いてあるので、複数の都市生活者の生活が延々と繰り返されるのをミニマム系音楽で80分くらい眺めさせられるんだろーなー、なんて思いながら、劇場というか、スタジオに入った次第。

そしたらまぁ、随分と違うもんでありました。音楽も、舞台の中身も。
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以下、本気でどういう舞台だったか説明し始めるとキリがないので、思いっきり端折ります。

スタジオの中に3LDKくらいのアパートが細長く配置されていて、100人弱の客は部屋を挟むように左右に陣取ります。座ると入口か奥のシャワー&厨房がよく見えないのだが、これにはそれなりの意味があり、とてつもないギミックが仕掛けられてる。
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基本は二組の夫婦と、1人の男の1週間の日常が描かれる。同じ空間を別のカップルが共有している入れ籠になった空間が展開され、朝起きて飯食って着替えて出かけて…という行為が繰り返される…みたいだぞ。舞台には衣装を着けたベルリン・ドイツ・オペラ管メンバーも配置されていて、演技に加わりつつ演奏します。

音楽は、「繰り返し」=「ミニマリズム」ではなくて、誤解を怖れずに手短に言っちゃえば、「ラッヘンマンの特殊奏法の音響空間+B.A.ツィンマーマンのバッハのコラール風音楽の変容」ってもの。皮肉じゃなく、今のドイツできっちり勉強してる若い人の王道でんな。ヴォーカルの線は無論「メロディ」というのはしんどいけど、ハッキリと主音を拾っていて、案外人当たりが良い音楽です。こちらのトレーラーの真ん中過ぎ辺りに、音楽的にいちばん盛り上がるアンサンブルがちょっと聴こえますので、ご関心の向きはどうぞ。なお、このアンサンブルには歌わない役者さんや、ヴァイオリンとオーボエだったかな、奏者さんも加わってます。

このトレイラーではよくわかりませんが、日常生活の、例えば歯を磨く場面ではヴァイオリンが横に立ってギコギコしたり、鼻をかむところではトロンボーンがぐぁっって音を出したり、ラッヘンマンが開拓した特殊音響のあれこれがはっきりとした意味をもって用いられ、日常生活を異化するのか、はたまた戯画化するのか、極めて「舞台音楽」という形で用いられています。へえええ、なるほどねぇ。

ちなみに、演出家ヘルマン氏が仕掛けた最大のギミックとは、客席全体が稼働する、って仕掛け。客席の中に普通の格好して客に紛れ込んだ合唱団が座ってるんだけど、その客席そのものが左右に動きます。最初に席に座ったとき、「あれ、どうやっても左右の奥が見えないなぁ、全部見える席はないのかしら」と思ったんだけど、舞台が始まって暫くしていきなり動き出して吃驚。なーるほど、要は「観客の視覚を制限する」ためのギミックだったわけね。舞台の展開の中で、わざと見えない部分をつくりたいけど、これだけ狭いと照明で聴衆の視野をコントロールするのは不可能。なら、席を強引に移動して見える部分を変えてしまえば良い、ってね。かなり強引な力業ですな。小さな劇場だからこそ出来るトリック。どういう場面を見えなくしているのかは、なるほどね、とニヤリとするしか無いんだけど。

以上、あまりにも乱暴にどんなもんかを説明したうえで、小生がこの舞台でいちばん印象的だったのは、というか、いちばん意外だったのは、「ああ、これって、なんのことない、ちゃんとしたお話じゃんかぁ!」
いろんな能書きや設定から、淡々とした都市生活をぼーっと眺めているだけ、という一種の「音と演技が付いたインスタレーション」みたいなもんかと思ってたら、小劇場の演劇でした。それはそれで面白いといえば面白い、でも、なーんだ、と肩透かしを食らった感じも否めない。

演出家にとって、舞台を作る人々にとって、「何か意味を持った主張を語る」というのは、当たり前と言えば当たり前の欲求で、それが無い奴はそんな職種を目指そうなんて思う筈もないわけだろう。でもそこをグッと堪えるのも、表現のひとつの在り方。この舞台もそういうもんだろうと勝手に思い込んでいたやくぺん先生がいけなかったとはいえ、あまり率直に「ああ面白かった」という訳にもいかんし…

こうなってくると、来る11月にスカラで初演されるクルタークがベケットの《エンドゲーム》をオペラにしたもんがますます興味深くなってくるなぁ。

ホントに感想にもなってない感想であります。もう、これでオシマイ。ベルリン在住で時間がある方は、若い才能が舞台を作る技術をきっちり見せているのを見物するだけでも意味がありますので、是非どうぞ。

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