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なにもしない「演出」は可能なのか? [現代音楽]

負けたらW杯敗退が決定するドイツ対スイス戦をやってるドイツの街で、ジョン・ケージの《ユーロペラ1&2》を見物いたしました。舞台の上には、開演し暫くすると黒板が引っ張り出され、スイスが先制点を取ったことが示され、数百人程の聴衆がパラパラと座る客席から溜息が漏れ、ひとっこひとりいない街を眺める休憩が終わり
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第2幕というか、《ユーロペラ2》になると、黒板が1対1になっている。そして、上演中に黒板がまた出てきて、ドイツのリードを伝えると、客席から歓声が挙がりそうになる…ってのが、このジョン・ケージ作曲の「オペラ」の劇的極まりないストーリーでありましたっ。←マジ、ホント、そうとしか言いようがないです。

このオペラがどういうものか、説明はもう面倒この上ないので、こちらをご覧あれ。
http://staatstheater-braunschweig.de/produktion/europeras-1-2-43/
こちらがwikiの解説。
https://en.wikipedia.org/wiki/Europeras
これがブラウンシュヴァイク劇場の公式トレーラー。


ともかく話始めればいくらでも語れるもんだったんだけど、無責任私設電子壁新聞としてはどういう作品かなんて説明するつもりはまるでなく、そんなもん自分で調べろ、若しくは、当然、知ってるでしょ、で済ませますっ。悪しからず。
一応、滅茶苦茶簡単に解説すれば、「オペラのステレオタイプを24のパートに分けて並べたようなストーリーは一応存在しているが、舞台で起きることは舞台に書かれた64個の四角い箱の上で、19人の衣装を着け18,9世紀のオペラ断片を歌う歌手とダンサーが、偶然で選ばれた順番で演技をする」というものです。

この説明で正しいのか、なんだかちょっと心配なんだけど、ぶっちゃけていえば、オペラハウスの持っている衣装、照明などを全てきちんと利用し、舞台の上にオペラの断片がランダムに取り出され、ちょっとづつ上演される、というもの。1は90分、2は45分、そんなパーフォーマンスが続きます。要は、ケージの「偶然性の音楽」を「オペラ劇場」というソフトウェアを総動員してやってみた、というおもちゃ箱をひっくり返しぶちまけちゃったようなもんであります。

こんな「作品」ですから、当然、全曲録音もなければ、舞台上演収録DVDなんぞもありません。ライブで眺めるしかない。それも、作品の性格上、フェスティバルなどでの上演は意味がなく(かつて、ルールのトリエンナーレで上演されましたが、劇場機能を前提にしているものを仮設劇場でやると、その瞬間に作品としての意味が変わってしまう…そんなこと百も承知でやったんでしょうけど)。今回のブラウンシュヴァイク劇場での上演は、その意味では極めて貴重でありました。
ホントは2日間続けて眺めて、どこまで違うもんが出て来るのか観比べてみたかったんですけどねぇ。要は、同じ原っぱで2日続けて同じ場所を観察していても、雲の流れや天気の様子、動き回っている動物や鳥たち、侵入してくる人間達の騒音など、まるで違うものになる。それと同じ事。そのためにわざわざ今回、今シーズンで唯一の2日間連続公演があるこの瞬間に無理して超短期でやってきた、というところもあったんだけど…ま、こればかりはしょーがない。

まずは、この上演、《ユーロペラ1&2》の前に、序曲のように《4分33秒》が演奏されました。幕は開きっぱなしで、正方形の箱の中に数字が書かれた舞台の真ん中に、ピアノが一台引っ張り出されている。で、どうやら開演らしいのだけど、そのピアノがおもむろに下手に引っ込められ、マイクを持った私服のオバサンが出てくる。どうやらこの上演のドラマトゥルクの方のようだぞ。んで、マイクを口の前に持って言ってボーッと立つこと暫く。マイクを下ろし、なんかニヤニヤしてるぞ。んで、またマイクを掲げ、数分。また降ろす。さらに数分。かくて4分33秒の演奏は終わり、頭を下げて、捌ける。と、おもむろにピットから音が出始めて、舞台の上には…

さても、もうそんな能書きは良いからどーだったんだ、とお思いでありましょう。では、満を侍して実際に見物した感想を申しますとぉ…

「なるほど、やっぱ、こーゆーもんなのね」 であります。はい。

だって、これ以上、なにも言えるようなもんじゃないでしょーに。

面白いかどうか、ってなもんじゃない。なんせ、舞台の上で起きていることにストーリーもないどころか、何の因果関係もない。それをぼーっと眺めていろ、というのですから。音楽だって、もうすこし断片化されたとはいえ「ああ、あの曲だぁ」と判るようなものかと勝手に思っていたら、ある曲のあるパートのある部分を弾く、ってだけで、無論、「おお、《ラインの黄金》の頭じゃないかっ!」とか判る部分もなくはないのだが、たまたま判ってしまうだけの長さが指定されたに過ぎない。2の最後くらいでパパゲーノがそれと判る歌を歌ってくれたのは、最後の最後にお客さんにサービスしてくれたんじゃないか、と思っちゃいました。

面白がる要素があるとすれば、衣装は劇場の衣装室から引っ張り出されたものでありますから、夜の女王やらリゴレットやら、カルメンやらパパゲーノやら、はたまた蝶々さんやらヴォータン、ブリュンヒルデやら、ハッキリと衣装だけでそいつが何者か判る歌手が舞台に書かれた番号の上で動いている。そんな役者の衣装や歌の断片に「意味」を見つけちゃうと、「おお、蝶々さんがリゴレットに突っ込んでるぅ!」とか「ヴォータン、カルメンに向かってなにやってるんだ?」とか、一種の不条理劇みたいな瞬間が無数に誕生しちゃう。そこにW杯の途中経過がゴロゴロ出て来るもんだから、不思議な混沌に物語があるかのようにも見えて来ちゃったりして。

でもねぇ、それを「面白い」と感じるのは…どうなんでしょうねぇ。かなりねじ曲がった興味関心にも思えるんだけど。劇場というハードウェア&ソフトウェアを総動員し、ハチャメチャなコスプレ大会をやってるようなものですから、「ああ、劇場というのはこういうことが出来るのかぁ」というアピールにはなるわけで、案外、劇場のオープンハウスなんかには最適の出し物なんじゃないの、これ、って本気で思ったりして。

ただ、この3時間弱を付き合ってなによりも気になったのは、プロダクション・スタッフ一覧表の上から2番目に、まるで当たり前のオペラのように記されている「演出イザベル・オスターマン」という名前でありました。どうやらハンス・アイスラー音楽院の演出科で勉強した地元出身のまだお若い方で、この劇場のオペラ監督に就任したばかりの方らしい。
http://staatstheater-braunschweig.de/mitarbeiter/isabel-ostermann-38/details/

つまり、この上演には、ちゃんと演出家がいる、ということなのですね。つまり、この舞台は「演出」されている、ということ。

ここで、え、と思ってしまうわけです。オペラ演出とは、「舞台の上で起きることを、動き、衣装、音楽など全てを用いて特定の方向に意味づけする」作業でありましょう。だけど、ケージがこの作品(と敢えて言いますが)でやろうとしているのは、「オペラハウスの持つソフトハードの資産を全く偶然に従ってぶちまけること」の筈。そこに「演出」という神の意志が入り込むなんて、あり得ないじゃあなかろーかね。

なにもしない、という演出が成されたら、それはそれで演出になる。序曲として据えられた《4分33秒》を、敢えてドラマトゥルクさんが「出演」して棒立ちをした、というのは、「演出はなにもしません」という意志表明だったのかしら。

ケージがこの作品を発想したとき、劇場に存在する「演出」という強烈な意図や意識の存在をどう考えていたのか、ことによるとオペラハウスや演劇なんぞにはほぼ無縁の晩年近いケージ御大は、そんなもんが存在することをまるっきり考えていなかったのかも…なーんて妄想せざるを得ない。

とにもかくにもブラウンシュヴァイクのケージ、出演者の皆さんはかなりノリノリでやってますので、どうやらこっちが思うよりも演る方には面白い経験なのかもしれませんねぇ。この劇場、この作品を妙に気に入ってるみたいで、広報にも舞台を随分使っているし、来シーズンもまた出すそうな。なんと、アムステルダムの《光》抜粋上演の直前にも上演があるみたいなんで、また眺めてみようかしら。

この作品を何度も眺めにここまでくるなんて、誰かに上手い具合に騙されてるような気がするなぁ。

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