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作曲者の私オペラ(?)初演へ [現代音楽]

先程、新日本フィルの本拠地たるすみだトリフォニーの小ホールで、来年1月定期演奏会で世界初演される井上道義作曲ミュージカル・オペラ《降福からの道》制作記者会見がありました。
https://www.njp.or.jp/concerts/23152

この作品、まあ井上道義という指揮者さんに関心ある方ならなんとなくご存じだったであろうこの音楽家の個人的な背景を巡る劇的に過ぎる話を、フィクションとしてオペラの形で世に出すもの。ご本人曰く、「オペラですけど、歌手がPAを使うのでミュージカル・オペラという言い方にしている」とのことです。

長さにして2時間を越える本格的な規模の作品で、上演の仕方としてはNJP本拠地のトリフォニーホールでは所謂「コンサートオペラ形式」。今回は定期演奏会の一部なれど、NJPはピットに入り、実質上完全なるオペラとしての上演とのことです。で、サントリー定期の方は「Pブロックもう売っちゃってるから」ステージ形式には出来ず、所謂演奏会形式で衣装は着け、簡単な光演出での上演となるとのことです。同じ値段だから、どう考えても錦糸町の方が格安でんなぁ。

内容は、一言で言えば「井上道義の父に対する複雑な気持ちを、作品とすることで許しへと昇華する」という極めて個人的なもの。なんせ、わしら同業者はみんななんのかんのミッチーさんと話をするにあれこれ断片的は話は聞かされていた「僕、オペラ作ってるんだけどね…」ってのが、ようやく完成してステージに顕れた、って感じ。作品そのものは金沢時代にほぼ完成していたけど、NJP50年記念の年に第2代音楽監督へのトリビュートとして上演に漕ぎ着けたわけでありますね。もうスコアは出来ていて、ほれ
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ガッツリ紙として存在しております。

配布されたあらすじに拠れば、主人公は画家の太郎という姿になっております。1幕は太郎がアトリエで作業をしていると自分が過去の描いた両親の肖像画から幻想の両親が出現、2幕の太郎誕生前の第2次大戦下マニラに舞台が移る。日本人ながら米国生まれで本土での居場所がなく左遷のようにマニラにいた父正義は、己のアイデンティティに悩みつつ現地のメイドなんぞと奔放な生活をしている。日本から呼び寄せられた妻みち子は、それを見守る様な生活をしていた。そこに米軍が上陸してきて、家は艦砲射撃で崩壊。ダンサーの米兵に助けられたみち子は捉えられ、米兵とダンスを踊る。第3幕はアトリエに戻り、太郎の両親の幻想との様々な対話が成され、自らの出生の秘密も明かされ(るのかな?)、太郎は許しに至り、賛美歌461を皆で歌う。これ。
https://www.youtube.com/watch?v=xJ0cJ5DQeIs

…というもの。あくまでも本日配布されたあらすじからの内容抜萃ですから、幻想との対話中心の3幕など、もっと舞台として複雑だと思います。

本日舞台に登場した主要キャストがそれぞれ重要なアリアをピアノ伴奏で披露してくださいましたので、いずれ近い将来にNJPから出るであろう公式記者会見動画でそれらを聴けるんじゃないかしら。音楽的には、ご本人が仰るに「バーンスタインの《ミサ曲》みたいなシアターピース」とのことで、ま、お判りの方はだいたい想像はつくでありましょうぞ。中身はどちらかというと《A Quiet Place》ですけどね。

井上道義氏が指揮者であるということを横に置けば、作曲家が自分の両親との関係をそのまま舞台に上げてしまった昨今の作品としては、シュトックハウゼンの《光の木曜日》を誰もが思い出すでありましょう。ですがこの作品、道義氏自身の芸術家としてのあり方や歩みを語る自伝というよりも、己のルーツそのものへの疑問をオペラという形にしてしまったもの。本人曰く、「上演のことなどなんにも考えずに作曲した」とのことで、正にそうじゃなきゃ書けない内容ですね。

なんだか隔靴掻痒な言い方になっていますが、ぶっちゃけ、主人公太郎は父正義の実の子ではなく、母みち子の米国人ダンサーとの不倫の子供で、父はそのことを太郎に秘密にして世を去った。その父と、己への許しの物語、ということ。じゃ、母みち子は…と思うけど、その部分はあらすじでは語られておりません。

想像以上に重く、象徴性と具体性が複雑に重なり合った舞台になりそうで、これがどのように処理され、形になるか、まだまだ判りません。道義氏はホントは指揮はしないで演出に徹したかったそうですが、オケ側からそれは困るといわれたそうな。作曲家井上道義氏とすれば、一回限りのイベント上演ではなく、作品として世に遺すことを望んでいらっしゃるようでありました。

とにもかくにも、1月を待て!

[追記]

その後、ドロドロ縄縄とあちこち勉強したら、どうやら井上道義氏はこの数年、要はこのオペラ作品を舞台上演する計画が本格的になった頃から、ご自身の出生を巡る話はどんどん自分で喋っていらっしゃるようですね。ネット検索で「井上正義 道義」と調べると、いくつものインタビュー記事が出てきます。

それらをあらためて眺めて本日記者会見で配布された資料を見るに、この作品の第2幕の出来事は、「父と母が戦時中にマニラにいて、マニラ時代のあとに自分が生まれた」という史実以外は、基本的にフィクションのようです。いろいろと時系列がぐちゃぐちゃになってないか、と思いながらあらすじに目を通していたんだけど、そういう風に捉えるものではない。

なかなか一筋縄ではいかんなぁ、この作品。

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最晩年の一柳慧氏が繰り返していたこと [現代音楽]

昨日、神奈川県民ホールでの横浜版グラス《浜辺のアインシュタイン》初日を見物し、大雨の中を日本大通駅まで慌てて歩き、みなとみらい線に乗り込み、天気はどうなるんじゃろと扉上のニュース映像をぼーっと眺めていたら、一柳慧氏の訃報が流れました。今回のプロダクション制作側にやくぺん先生は一切関わってないので、全く知りませんでした。どうやら前日のことだったそうなので、スタッフ関係者はみんなご存じだった筈でしょう。

明けて本日、2公演の最終日、ことによると追悼公演などになるやも、と思いつつ諸事情で開場前に県民ホールに行って関係者と立ち話をしたわけですが、内部では当然議論があったものの、本人の性格を考え(そんなこと絶対に嫌がるだろうから、ということ)、敢えてなにもしないとのことでした。配り物に挟み物があるわけでもなく、1階ロビーの真ん中にさりげなくこんなものが掲げられていただけ。
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晩年の一柳氏は、神奈川県の音楽関係の総監督のようなポジションやら、サントリーの夏の現代音楽祭のディレクターやら、所謂「要職」としか言いようがないポジションに積極的に就かれていらっしゃいました。ただ名前を貸しているだけではなく、ホントに中身の大きな方向性の決定に口を出し、今回の《浜辺のアインシュタイン》も最も思い入れがあったのは一柳氏で、演出家さん以下なんだか良く判らないけどそれに付き合ってる、というのが初期の状況だったと聞こえてきておりました。ああ、やっぱりあの世代はこの作品に引っかかっちゃってるんだよねぇ、とあらためて思わされたものです。

訃報が流れると共に、いろいろな方がいろいろな想い出を語り、いろいろなインタビューなどがアップされています。そんな中で、やくぺん先生が感じていた一柳氏の最も大きな関心ながら、あまりメディアには取り上げられない、ってか、取り上げにくい話に触れられているものがありましたので、拾っておきます。こちら。
http://www.jfcms.org/2019/04/post-43.html?fbclid=IwAR1Bx1G6OHCZdhMDC8kS5ap5UQ8khJZn4BV76ycZbHcNvxbXME9qH0zKT-0

重要なのは最後の辺り。

「企業もスポンサーにはなるが、パトロンにならない、この認識を改めて貰えればと思います。他の分野の芸術家たちに、ぜひ音楽家とやりたいという環境が生まれてきているので、それをもっといろいろな人に聞いたり見たりしてもらう可能性を広げていきたいと考えます。1960年代状況は良好で、終戦後、日本では芸術を大切にする機運が高まった時代でした。パトロンと芸術家の距離が近く、援助され自由もありました。」(一柳慧)

企業支援とパトロンとは質が違う、というニュアンスの発言は、晩年の一柳さんはあちこちでなさっていました。ここでその話するか、って感じの状況でも、これだけは言っておかねば、という感じで語ってらした。「自由主義」が「個人の自由」ではなく「企業活動の自由」という意味になりつつある末期高度資本主義の今、一柳氏の世代が感じている違和感がひしひしと伝わったものです。

恐らくは、「前衛の真っ只中に音楽家として育ち、ポストモダンの時代に前衛芸術の相対化と歴史的位置付けを創作として行った作曲家」として21世紀の音楽史に記されるであろう一柳氏は、文字通り最期の総合プロデュース舞台をどうご覧になったかしら。コロナになってからは出歩くことには極めて慎重だったそうで、会場でお姿を拝見しないままの訃報だった。

合掌

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特別公開:《浜辺のアインシュタイン》粗筋 [現代音楽]

本日明日と、神奈川県民ホールで午後の時間をたっぷり寝て過ごす予定の貴方に、特別投稿です。新国立劇場編『戦後のオペラ』から、やくぺん先生の外の人が担当した《浜辺のアインシュタイン》粗筋部分を抜萃し、ここにアップしておきます。文責は…ううむ、買い上げ原稿のちょーブラック仕事で、なんの契約書もないので判らんわい。なお、校正前の原稿なんで、出版されたものとはちょっと細部が違ってるかも。もう記憶皆無。

なお、以下はあくまでも「こんな風にみえなくもない」というものです。第2次、第3次ウィルソン演出に拠ったもので、ことによると今日明日の横浜は「全然違うわい」ということになりかねないことはご承知の程。恐らく、全然違うでしょう。では、お楽しみあれ。ま、今日の配りもんになんかしら書いてあるでしょうけどねぇ。

※※※

【あらすじ】

 舞台は「列車」、「裁判」、「原野」の3つのキー・ヴィジュアルから成る。朗読される韻文や散文の内容に舞台との直接的な関連はない。通常の意味でのプロットがない作品なので、以下は時系列で展開される舞台のあらましを記す。
◆ニープレイ1:電子オルガンの伴奏でコーラスが数字をランダムに読み上げる。全てのニープレイで、舞台にあるのは背景の巨大スクリーンのみ。合唱団はピットに入り、上手下隅の椅子にダンサーが2人いる。ノウレスの散文を朗読。
◆第1幕第1場「列車」:独唱つきのアンサンブル、最後に合唱が加わる。ダンサーが踊る舞台に、上手から巨大な汽車がゆっくり入ってくる。ノウレスの繰り返しの多い詩「クレイジー・エディ」が朗読される。
◆第1幕第2場「裁判」:合唱、ヴァイオリン、電子オルガン、フルート。
舞台中央に巨大なベッドが置かれ、下手に合唱が並ぶ。弁護士の役者がノウレスの散文「ミスター・ボー・ジャングル」を朗読。判事役者がサミュエル・ジョンソンの韻文「パリ」を朗読。アインシュタインの扮装のヴァイオリンがピットの上で独奏を続ける。
◆ニープレイ2:2人の役者がノウレスの散文と数字を朗読、ヴァイオリンが独奏する。
◆第2幕第1場「舞踏1―宇宙船のある原野」:独唱とダンサー、アンサンブル。セットのない舞台で、比較的伝統的な動きの回転を繰り返す舞踏が展開。
◆第2幕第2場「夜行列車」:歌手2、合唱、小アンサンブル。歌手がラ・シ・ドと繰り返し、細い月が光る真っ暗な舞台に列車の展望デッキが浮かび、2人の歌手が音名を歌い続ける。
◆ニープレイ3:無伴奏合唱。2人の役者は動きをするのみ。
◆第3幕第1場「裁判2/刑務所」:合唱と電子オルガン、アンサンブル。1幕2場と同じセット。法律家が「ミスター・ボージャングル」を、ベッドに寝た目撃者がチャイルズの散文「早まって冷房の効いたスーパーマーケット」が朗読される。後半は上手が刑務所となり、ノウレスの「私は地球が動くのを感じる」が朗読され、2人の囚人服のダンサーがゆっくり動く。
◆第3幕第2場「舞踏2―宇宙船のある原野」:歌手6、ヴァイオリン、電子オルガン。アインシュタイン姿の独奏ヴァイオリンがピットの上に座り、再びセットのない舞台で舞踏家が踊る。
◆ニープレイ4:合唱とヴァイオリン
◆第4幕第1場「建物/列車」:合唱とアンサンブル。舞台の中央に巨大なビルが聳える。ソプラノサクソフォンが奏でるビルのテーマは列車のテーマの変形である。
◆第4幕第2場「ベッド」:電子オルガン独奏と歌手。テーマが繰り返される間に、中央のベッドがゆっくり垂直に立ち上がる。
◆第4幕第3場「宇宙船」:合唱とアンサンブル。14の正方形に仕切られた空間が聳え光が瞬き、煙の中を多数のアインシュタインが様々に動く。
◆ニープレイ5:女声合唱、ヴァイオリン、電子オルガン。ひとりの役者が数字と「ミスター・ボージャングル」、もうひとりが冒頭のニープレイの台詞を朗読。バスが上手からやってきて、運転手がジョンソンの散文「公園のベンチの恋人たち」を朗読する。

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クロノスが来ないならクセナキス! [現代音楽]

夏の名古屋のケージ《ユーロペラ3&4》に始まり、9月末から10月頭にかけては久しぶりの来日となるクロノスQのライヒやらクラムやら三昧、10月の第2週末は日本では天王洲アイル開館以来の日本での上演となる横浜でのグラス《浜辺のアインシュタイン》新演出上演、そして月末には大阪で同作品の日本で考えられる最高メンバーを揃えた音楽面に割り切った上演と続き、やくぺん先生はその足で再び欧州に渡って来年2月に池袋で上演されることはなくなってしまったシュトックハウゼン《光の金曜日》上演で生まれなかった子供の歳を数える、って「ゲンダイオンガク」の古典目白押しの筈だったコロナ明け鎖国も終わった2022年秋だったわけでありますがぁ…

関心のある皆様はもうとっくにご存じのように、数日前には「日本国入国に問題が起き…」という理由で昨日から始まる予定だった京都での公演などがキャンセルになっていた。何があったか知らないが、月末の首都圏での公演はやれるんだろうねぇ、とノンビリしていたらぁ、昨日には「結局、全部中止になります」という悲痛な案内がありました。

その辺のコンサートスペースのオッサンおばちゃんが個人で招聘しているならこんな笑い話みたいなこともあるのかもしれないけど、きちんとした大手音楽事務所のお仕事で、こんな様々な仕掛けが準備されていた日本ツアーがギリギリになって法手続きで入国出来ずにキャンセルなんて、前代未聞じゃないかしら。何が起きたか、いろんな噂は渦巻いていますが、温泉県盆地の田舎者爺にはわかりゃしない。ホントの事は永遠に判らないのかも。

ま、そんなこんなで落ち込んでいらっしゃる皆様、じゃあ、これにいきましょう。クロノスがあるんでこっちは涙を呑んで諦めた、という方も多いんじゃないかしら。こちら。
https://www.kunitachi.ac.jp/event/concert/college/20221001_01.html
内容は、こっちかな。
20221001.pdf
今年は記念年ということであれやこれや上演されているクセナキスですけど、この第1部で演奏される電子音作品は、殆ど耳に出来ないものです。この日を逃すともう聴けない、ってもんですから。

秋のゲンダイオンガク古典シリーズとすれば、誠に相応しいこの作品、期待して秋を迎えましょうぞ。

[追記10月1日]

この日、何故か我が狭い業界でライターが人手不足で、夕方5時開演の紀尾井ホールでの演奏会のレポーターが調達できず、どうしてやってくれ、と某編集部から泣きそうな連絡があり、まさか「娯楽でクセナキスに行くのでダメ」とは言えず、前半の電子音楽《Lの物語》だけを拝聴し、慌てて玉川上水からモノレール乗って立川に急ぎ、特快で四ッ谷まで走ってホールに駆け込む、というオソロシーことになってしまいました。いやはや。
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んで、後半の殆どライヴで聴けないアンサンブル作品群は涙を呑んだのですけど、ともかくこれまた余程の条件が揃わないとライヴで聴けないし、ライヴで聴かないと全然判らん電子音の大作だけにふれたんですがぁ…

これ、結論から言えば、「簡易版《ペルセフォネ》」でした。無論、音楽の中身は遙かに判りやすく、冒頭の秋の夜の田圃で虫が鳴いてるような冒頭から都会の大喧噪に、なりまた田圃の夜に戻る、みたいなストーリーもはっきりしてるノイズアンサンブルでした。こういうもんが文献だけでなく耳に出来ただけで、ホントに有り難いです。電子音の古典って、聴けるときに聴いておかないと永遠に文献だけの幻の作品になりますから、無理をしてでも機会は捉えておかないとね。

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太平洋の彼方で大作2編 [現代音楽]

コロナが終わったらしい世界、どうやらあちこちでノーマルが戻っているようで、連日朝メールを開けると「ほーら、こんなんやるぞ、来ないかぁ」という案内が来ている。これから成田に向かおうという朝にも、幾つか面白そーなものがありますので、備忘録として記して起きます。

ひとつは、ワシントンDCはケネディ・センターでシーズン開幕を祝う大作。こちら。
https://www.kennedy-center.org/nso/home/2022-2023/bernstein-mass/
https://www.broadwayworld.com/washington-dc/article/Kennedy-Center-to-Present-Bernsteins-MASS-More-in-September-20220826
バーンスタイン自身、この場所で初演された1971年にはこの作品は一度やったらオシマイで、二度と演奏されないだろうと思ってたんじゃないかしら。そのような作品が、特定の演奏が何度も繰り返して取り上げるというのではなく、様々な演奏家によってあちこちで取り上げられるようになるなんて、ビックリだなぁ。

残念ながら映像が視られるかは判らないけど、今時、舞台の断片くらいはどっかにアップされてくるでしょう。ちらっと眺めればどんな感じになるかは判るから、少しでも良いから眺めてみたいものでありまする。

で、もうひとつ。こっちはしっかりと全曲のストリーミングをやります、という話。これ。サンフランシスコ戦勝記念オペラハウスから、アダムスの新作《アンソニーとクレオパトラ》の9月18日の公演をライブストリーミングするとのこと。
https://www.sfopera.com/operas/antony-and-cleopatra/

買い方などは近くなったら盛んに上のサイトにアップされてくるでしょう。

レイバーディの休暇が終わったら太平洋横断は10万円切るのが当たり前だったコロナ前なら、ちょっと言ってくるか、という有り難い日程なんだけど…面白がってちょっと調べたら、今は日本列島からDC→SFと動いたら最低でも30万円では済まないようです。いやはや…太平洋の向こうにロッキーが聳え立ったよーじゃわい。温泉県盆地で小さなモニターで眺めておりましょかね。

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《中国のニクソン》スーパー三連ちゃん可! [現代音楽]

今朝から、なんのかんのホントに3年ぶりに「2週間くらいの欧州に滞在する間のICE停車くらいの規模の劇場の演目総浚え」を始めてしまったら、とてつもないことが判ってしまった。ううううむ、これは困った。

今シーズンのパリ・オペラ座最大の話題は、あの宇宙船月面《ボエーム》の再演ではなく、メインキャストがトーマス・ハンプソンとレネ・フレミングで指揮がデュダメル、という超スター布陣で挑む《中国のニクソン》新演出であることは誰も否定できない事実であろーぞっ!今シーズンのパリ・オペラ座は、このためにあると言っても過言ではないであろーっ!←はっきり過言だけどさ…
https://www.operadeparis.fr/en/season-22-23/opera/nixon-in-china

恐らくは空前のスーパースターキャストによるこの作品上演、恐らくは一瞬でチケット消滅であろうが、ともかく眺めに行くと決断した瞬間、もうひとつ、こんなのが存在している事実を発見したのであったぁ。
https://www.theaterdo.de/produktionen/detail/nixon-in-china/

そー、かのフィリップ・グラス初期偉人三部作の驚くべき演出を出してくれた、とりわけ過去にこんなやり方があるとは誰も考えなかった《浜辺のアインシュタイン》で度肝を抜くというか、呆れかえるというか、おいおいこれありかぁと物議を醸したこの劇場、このアダムス作品を上演するに最も適した総合舞台創作の地であることは、これまた誰にも否定できない事実であろーぞっ!

日程をじっくり眺めると、なんと3月29日は両方の劇場で上演してるじゃないの。んで、3月29日にドルトムントで見物し、ICE乗って延々とパリに至り、4月1日にバスチーユ、という日程が作れるわけですわ。若しくは、4月12日か16日の公演をパリで眺め、間の14日にドルトムントに行ってくる、という手もある。ドルトムントは街の南にLCCの空港があるから、パリから格安便でも飛んでるかも。

更に日程を繰っていくと、驚くべきことに、続く4月17日にはマドリッドのテアトロ・レアルでも!
https://www.teatroreal.es/en/show/nixon-china
うううむ、テアトロ・レアルの広報さん、コロナ禍の間もリリースをしっかり送り続けて下さったけど、ゴメン、真面目にちゃんと見てなかった。スイマセン。

てなわけで、その気になれば、4月14日ドルトムント→4月16日パリ→4月17日マドリッド、と4日間に欧州諸都市で3つの異なる《中国のニクソン》フルステージ公演が観られるのであるぞよ、皆のシュー!!!!!!ブーシー&ホークスさんの公式ページを眺めると、こんなん。
https://www.boosey.com/cr/calendar/perf_results?musicid=7156

さあ、もうこれは決まった。俺はこの時期、日本にはおらんぞ!翌月には大阪国際室内楽コンクールが始まって大阪張り付きになるが、その前にアダムス三昧じゃ。

さあ、働こう、ガンガン稼がねばっ。

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君はケージの何に関心があるのか? [現代音楽]

世の中何が起きているかよーわからんけど、どうもこの2020年夏以降、ニッポン列島では「第2次大戦後の前衛オペラ」古典の見直しがいきなり起こっているようでありましてぇ、去るお盆の真っ最中には温泉県盆地オフィスから遙々ニッポンの真の首都ナゴヤまで行き、その後炎上しちゃった(比喩でなく…)空港バスの姉妹号に乗って栄のアーツセンターまで行ってケージの集大成《ユーロペラ3&4》を見物。商売もんなんでこんなところに中身については書けないけど、これがアルメイダ劇場ならぬ愛知芸術劇場小ホールの当日の様子。
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昨晩は、新帝都は溜池で夏の終わりの伝統現代音楽祭り真っ最中に割り込むように乱入したスーパースター落合陽一息子さんのプロデュースに日本フィルが乗っかる年に一度の若者向け演奏会で、これまたケージの初期作《ミュージサーカス》が上演されましたです。これ、開演前にカラヤン広場でやってた同作品オープン上演に引っ張り出された張りぼて猫。
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実は、やってるイベントが見えない場所に陣取って急ぎの作文作業をノマド仕事していて、野外サーカスは音で聴いただけなんですけど…ホーミーとかスチールドラムとか、はたまた坂本九とか、いかにもなもんが騒々しく流れていたようであります。夏終わりのサントリー財団祭りのために来日中のクラング・フォーラム・ヴィーンが新ヴィーン楽派名曲小編成編曲集なぁんて、いかにもいかにもな超トラッドなことを小ホールでやってる隣の大ホールは、「なんでもいいから一緒にやっちゃってください」のホール版。最初にウルトラマンがシュワッチと出てきて、沖縄舞踏、アイヌ音楽、比叡山声明、イサン・ユン、打楽器音楽などを一緒にやっちゃいました――なぁんて60年代直感音楽偶然性の音楽ハプニングまんせー、ってもんを観せてくれる。客席には、恐らくは本日演奏されるクセナキス作品のためもあって仮設された舞台がどかーんと据えられ、サトちゃんとか
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なにやらAI組み込まれたシンセサイザー型ロボットが、動きながら聴衆と一緒に見守ってる。
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60年代っぽいハッタリかました世界、落合息子さんったら、舞台の上で若者に説教する中で「これはやっておかないと、先に行けない」みたいなことを「苦笑」という感じで仰ってました。ま、6年かけてこれがやれるまで来て、藤倉氏に新作書かせちゃうんだから、落合息子さんも「ゲンダイオンガクギョーカイ」の納まるところに納まってきたかな、と感慨ひとしおな晩でありました。

ま、そういう感想にもならん感想はそれとして、やくぺん先生的に感じたことってば…ああああ、ナゴヤの足立さんも溜池の落合息子さんも、「この作品がどうやって作られているかを説明する気は毛頭ないのだなぁ」。それだけ。

高齢者やくぺん爺とすれば、こういう作品への関心は、なによりも「混沌をどうやって組織するか、はたまたしないのか」の一点にかかっているわけで、結果として生まれてくる舞台というか、作品そのものは、正直、どーでも良い。なんか凄いことが起きることもあるし、全然スカなこともある。それはもう、今日は新帝都の風景は雲と太陽の具合でなんとも美しく見えるではないかい、とか、ああ残念ながら今日の由布岳はなんにも見えないわ、とかいうのとまるっきり同じ。それだけのことです。だって、「ニンゲンの手でどこまで自然を作り出せるか」ですからね、よーは。

で、驚いたのは、この2つの公演、当日配布される刷り物には、共に「この作品がどうやって作られているか」の説明が一切ない。足立氏も落合氏も、自分が作品をどう思うかなどはお書きになっているのだが、実際にケージがどういう指示をしており、それに対して自分が何をやってるか、とりたてて説明らしきものはない。足立氏には、商売ということで終演後に楽屋でインタビューをさせていただき、ご本人の意図は成る程と判り、短い原稿になんとか突っ込んで提出したんだけど、昨晩の落合氏に関しては単なる見物人ですので、このカリスマ青年がなにをやってるのか尋ねるチャンスもなく、現場スタッフに立ち話で愚痴を聞くくらい。正直、落合氏が何をやったか、ぜーんぜん判らなかった。どうやら、観る側がそんなことを判る必要はない、って思ってらっしゃる、ということなんですな。

なるほどねぇ…。

てなわけで、いよいよ俺の現役時代は終わったな、と思う夏の終わりなのでありましたとさ。

戦後前衛回顧、次は10月の《浜辺のアインシュタイン》東西競演、そして11月の巴里でのサイクル4作目《光の金曜日》へと突き進むっ。半世紀以上の時を経て、「前衛」がどんどん過去に納められて、安心して扱えるオモロイ娯楽となっていく。ま、それはそれで良いんでしょ。

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今年は《金曜日》 [現代音楽]

夏休みも盛り、なーんにもすることないぞ、しょーがないから暇つぶしに《リング》のBlu-rayでも眺めてやるか…なーんて思っていらっしゃるそこの貴方!ちょーっと待ったぁ!今やYouTubeを漁れば20世紀前半の歴史的演奏からつい先頃ドイツの田舎の劇場で出た最新演出の全曲まで、ありとあらゆる録音映像が溢れている《リング》です。急ぐことはない。人生に、まだまだ何度も全曲に触れる機会はあるでありましょう。

ところがぁあ、《ニーベルングの指話》全曲よりも遙かに巨大、もう何度説明されても何をやってるか判らない、何度聴いても何が演奏されてるか複雑すぎて判らない、そんなとんでもないサイクルの映像を、今ならタダで視られるのです。そー、タダですっ!ほれ、こちら。

シュトックハウゼン《光》より3作

《光の火曜日》

https://philharmoniedeparis.fr/fr/live/concert/1136785-karlheinz-stockhausen-dienstag-aus-licht?fbclid=IwAR0egaPusN6SBFj_QcGHZfkSZmg6tbmCNtJvJJohoe8oRJ-wCM3et-HJn2E
《光の木曜日》

https://philharmoniedeparis.fr/fr/activite/opera/22671-stockhausen-donnerstag-aus-licht?fbclid=IwAR3xN2wKSXoZJtQr8IPzE6RAVMN-snDbJW2HdRuHqGSMZ1qH7opFulguE9A
《光の土曜日》

https://philharmoniedeparis.fr/fr/live/concert/1111564-karlheinz-stockhausen-samstag-aus-licht?fbclid=IwAR2hIadSKsGxv9-l6PbHF8nl-GUrKqsjmKbFYFXx6fA1HjAW2X4c_0gosKA

21世紀の鬼才、こんなまともにしてトンデモな指揮者他にいない、我らがマキシム・パスカル率いるル・バルコンが、グループ存続を賭けて挑む20世紀最大の狂気の作曲家カール・ハインツ・シュトックハウゼンの《光》チクルス、1週間かけての全曲演奏という誇大妄想炸裂のプロジェクトに向け着々と企画が進む中、コロナ禍も、インチキトーキョー五輪でニッポン国東京都がスポーツに予算使い果たし共同制作が出来なくなるという呆れかえったトンデモ話も乗り越え、いよいよこの秋11月には《光の金曜日》が上演されます。

それに先駆け、皆さんに過去にフィルハーモニー・ド・パリで上演された3作品を復習して貰おう、ということ。なんと太っ腹な企画、凄いぞ、フィルはもニー・ド・パリ!

このチクルス、まあなんとか上演出来ないこともない《木曜日》で始まり、巴里が摂氏40度を超える熱波に頭がおかしくなりそうな中で運河挟んだ教会も舞台に上演された《土曜日》。そしてコロナ禍で子供たちの練習などが出来ず予定された《月曜日》が上演不可能、それならばと、順番を換えて上演された比較的コンパクトで短い《火曜日》と、七分の三が上演されてきました。で、今年は中身的には最も「難解」、というか、「一般の人類としては生理的に理解することが極めて困難」な「生物と非生との愛」を描くオペラ・バレエ《金曜日》に至った次第。ま、とはいえ、筒井康隆『虚構船団』が大丈夫な方なら、もーまんたいでありましょうぞ。

ここまで来れば、あと残されるは、舞台のど真ん中に巨大な女性器がドカーンと据えられる、これまた困ったといえば困った《月曜日》、みんな大好きヘリコプター上空乱舞の四重奏が巨大な間奏曲として奏される《水曜日》、そして2つの舞台が並行して進み遙か数百キロ離れたところで誰も聴いていない演奏も同時に行われねばならない祝祭劇《日曜日》と、ウルトラ級に上演困難な作品ばかりが並びます。さああ、どーするパスカル君!って、どうやら既に勝算はあるようなんですが。

暑い夏、トンデモな話に頭をパーにしたいなら、《光》チクルスを眺めてやろーじゃないかぁ!

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トマじゃない《ハムレット》 [現代音楽]

ホントに久しぶりにチャリチャリ大川越えて、旧築地川を晴海通りが跨ぐ東詰の東劇に行って参りました。もうどれくらいやってるのやら、「Metライヴビューイング」ってやつです。
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オペラの舞台をライヴで全米各地の映画館で中継、がっつり$30くらい取るけど、特等席じゃないと絶対に観られないような映像と、おうちのオーディオ装置よりは余程立派な音響で聴かせて、まるでメトのプレミアに座っているように体験してくださいな、ってやつ。始まった直後からそれなりに大きな反響があり、北米の地方オペラ主催者さんに「お陰で最近はうちで来シーズンの演目のリクエストをすると、メトライヴでやった作品ばかりが挙がるようになり、舞台もあんな金かかったものと比べてちゃちだとか言われ、正直、営業妨害です」とマジで怒ってたなぁ。今世紀の初め頃のことだったと思うけど。

コロナ禍を経て、パソコンどころか携帯端末で通勤電車の中でもメトやらスカラやらパリのガルニエやらからの映像を鑑賞できるばかりか、どことも知らぬドイツの田舎の劇場の尖りまくった演出も当たり前にいくらでも視られちゃう今日この頃、じゃあわざわざ一昔前の映画館の空気漂う東劇まで来て
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今時のシネコンの豪華な椅子とはちょっと比べると可哀想な、でもメトの狭い席よりは100倍くらい立派なフカフカシートに座って、映画版オペラを眺めるという「オペラ鑑賞」が21世紀初頭の徒花に終わったかと言えば…どうもそうでもないようで、なんのかんの世界中で続いている。世界中、っても、御上の情報操作が日々巧みになっている中国本土とかはどうなってるかしらねぇ、最近は。

んで、正直言えばロマン派オペラにも、今や我が世の春のバロックオペラにもホントはそんなに関心が無いやくぺん先生ったら、わざわざ出かけるのはそれなりに理由はある。この映画オペラ、あのルパージュのこけおどしセットばかりが話題になった大失敗《リング》の最初に《ラインの黄金》なんぞ眺めに来て、ああああこれはやっぱりダメだ、この音は3時間なんてとてもじゃないが晒されていられない、と思って以来くらいのことかな(その後にメトのいつもの席でライヴで眺めても、やっぱりダメだったけどね、あの演出は)。かの、元ベルリンフィルのヴィオラ奏者のオーストラリア人(オーストリア、じゃありません)、ブレッド・台湾にコロナ持ち込んじゃった・ディーン
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2020-03-06
作曲するところの《ハムレット》なる演目だからでありまする。

いやぁ、なんとも勇気のある選択じゃの、と驚きを禁じ得ないわけでありますが、ともかくこのシェイクスピア翁の現代でも比較的抵抗なく上演が出来る、一筋縄ではいかない主人公のキャラクター含め「現代にリアリティがある舞台」を作るのがそれほど難しくない作品の何度目か知らぬオペラ化でありまする。

過去2世紀版以上に無限に繰り返されてきた沙翁作品歌劇化の試みの中で、文句なしの決定的な成功作と言えば神様ヴェルディの《オテロ》と《ファルスタッフ》、次点でそれなりの成功とされスタンダードとして生きてるのはヴェルディ先生の《マクベス》とかパーセルの《妖精の女王》とかブリテンの《夏の夜の夢》とかベルリオーズの《ベアトリーチェとベネディクト》…くらいかなぁ。その次のクラスとなると、もう殆ど趣味の世界となってきて、サリエリの《ファルスタッフ》という方もいようし、ニコライだって捨てたもんじゃない、ベルリーにだって一応シェイクスピアなんじゃないの、等々。個人的には、数年前にENOが新作で出した《冬物語》という難物そうなもんには興味があるんだが、あまり話題にはならなかったよーですなぁ。あ、ヴァーグナー好きの方からは《恋愛禁制》を忘れるな、と突っ込まれそーだなぁ。

んで、この現役バリバリのヴィオラ奏者さんでもある作曲家さんの《ハムレット》でありますがぁ、既にグライドボーンの世界初演が映像化されていてNHKも放送したことあるとのこと(知らんかった)。まあ素材が素材ですから教養ある英語圏の評論家が絶賛などする筈はなく、賛否両論でいろいろ言いたいことはあるけど、まあ、ええんじゃないの、という感じ。誰もトマのグランドオペラを引き合いに出す人はいないのは、当然と言えば当然なんでしょうなぁ。

というわけで、暑い夏の午後にボーッと座って大川端眺めてるんだったら、メトのお馴染みの我がファミリーサークル天井桟敷上手いちばんステージ遠くの席$20だか、あそこに座ってどーでもいーロマン派オペラ眺めて来てしまった、というくらいの気持ちでチャリチャリ出かけたわけであります。

で、感想とすれば、「これくらいだったら、ライヴビューイングの方がいつものステージなんも判らん席でこの作品眺めるより良かったかな」ってのが本音。

以上オシマイ。始まって少し、ガッツリ寝落ちしてしまったんで、作品全体についてどうこうなんて言えません、ゴメン。ただ、オペラということで言えばトマのオリジナル版のハムレットが死なずに生き残るという終わり方は、シェイクスピアのオリジナルよりも21世紀の今とすればええんでないの、と常々思うこともあるわけで、そっちでいってくれるかな、死屍累々たる現実を受け入れて王子は生きていくという結末の方が「悲劇」なんじゃないか(「アベシンゾーは殺さずに生かして、自分のやったことの悲惨な結果を目撃させねばいけなかった…」というのと同じ)とも思っていたので、ちょっと残念かな。

音楽的には、今の作曲家が大好きなカウンターテナーを絶対にどっかに投入するだろう、ヘタするとタイトルロールかとも思ったんだけど、あの役にドッカンと突っ込んでくるかぁ、とか、タイトルロールの仕事ヘビーすぎぃ、とか、結局戦後前衛の開拓したあれやこれやよりも《ヴォツェック》のドロドロ音が勝ちなのかなぁ、とか…ま、あれこれ考えさせていただきました。真夏の午後に暑い暑いと大川端でボーッとしてるよりは有意義な時間が過ごせましたです。

ただ、これをどっかで上演するから$1000自腹切って太平洋やシベリア越えて観に行くかね、と言われると…いかないなぁ。うん、ゴメン。判った、こういう曲なのか、トマには出来なかったことが21世紀にはいろいろ出来るようになってますねぇ、ってくらいかな。

この半世紀のシェイクスピア原作オペラ化としては、正直、《テンペスト》よりも上手くいってるんじゃないかしら。ことによると《リア》よりも判りやすいかも。ちゃんと演じられるテノールがいれば、でしょうが。やたらと饒舌なハムレット青年、オペラというやり方を選ぶならば、これはこれでありとは納得させられた次第でありました。WOWOWでやったら…うーん、やっぱ視ないだろうけど。

この音楽と台本で、「悩める非行動派王子ハムレット」はやれるのかしらね。当たり前のことだけど、オペラ作曲ってホントに「解釈」であり、「演出」なんだよなぁ。

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横浜版《浜辺のアインシュタイン》は上演中出入自由じゃありません [現代音楽]

話題になっているんだかいないんだか知らないけど、10月に横浜は県民ホールで上演される《浜辺のアインシュタイン》の制作発表記者会見が行われました。

当無責任私設電子壁新聞を立ち読みしてるよーな皆様には説明なんぞ一切無用でしょうし、出演者や制作側がオフィシャルに言いたいことなんぞは、午後から夕方に出始めた記事がもうありますので、そちらをご覧下さいな。ほれ。
https://natalie.mu/stage/news/485616
夜になって公式トレイラーも出ました。こちら。
ぶっちゃけこのトレイラー、どのようなコンセプトでのステージになるかまるで判らんですけど、この海を見ている若い二人、ってイメージの背景にある山下公園なんぞから眺めているような類いの「海」は、これまでのこの作品のどの上演でも見たことない海の姿であることは確かですね。へえええ、ってね。ちょっとビックリ。

で、上の記者会見記事では全く触れられていない、この作品をある程度ご存じの方が気になる点をふたつ、質疑応答で訊ねさせていただきましたので、記しておきます。特に前者は極めて重要な変更点。敢えて「変更点」と言わせていただきますけど、正直なところ、どんな舞台なのか、どんな翻訳なのか、どんな演技者の動きになるのかとかよりも、遙かに重要で本質的な変更だと思いますので。

★2022横浜版《浜辺のアインシュタイン》は、5時間近い上演がずっと途切れずに展開し、客席から聴衆が立ったり動いたりするのは自由、という初演以来のコンセプトを踏襲しません。ハッキリと幕で分けて、休憩を設定するとのことです。「コロナでの聴衆制限」などが理由だそうです。正直、どうもやくぺん先生には良く判りませんでしたが、そういうことらしい。うううん、これはこの作品のあり方を本質的に変えちゃう変更だと思うんだけどなぁ…

★このプロジェクトが発表されてから、これまでの主催側からの告知は全て作品のタイトルの前に「フィリップ・グラス/ロバート・ウィルソン」という名前が付けられていました。この表記を眺めると、「ああ、ウィルソン版の初版演出をベースにした実質上の第4版を作るのか」と思ってしまうかもしれません。ところが、いろいろな告知を見るとそうじゃないみたいで、本日も全く違う演出になると言明されてました。それって聴衆の側に誤解を与えるんじゃないかい、と訊ねたら、理由ははっきりしてました。要は、著作権だか上演権だかを持つところの要求で、ウィルソンの名前を併記しないとダメなのだそーです。へええええ…

なお、演出家さんに拠りますと、「アインシュタインは出ます」とのこと。なるほど、出るのか。なるほど…

てなわけで、横浜版がどんなになるか、あまり良くは判らなかったけど、ダラダラと浜辺を眺めているような緩い構造の上演ではなく、しっかりと決められた席に座って4時間半を過ごすというものになるようです。

当面の話題は、本日公開となった大友克洋の手書きになるポスターチラシじゃないかしらね。ここでは敢えて貼り付けませんが、上のWeb記事に出てますので、ご覧あれ。

[追記]

記者会見のライヴがアーカイブとしてYouTubeでアップされました。お暇ならどーぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=VzpdcjV3CBY

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