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電子音楽こそライヴで聴くべし! [現代音楽]

厳重な鎖国政策以外はすっかり政府崩壊、コロナだろうが人々は生きていく、喰っていくために勝手にやってる、としか思えぬ新帝都トーキョー、昨日から「芸能人」としてのヴィザを取得しての入国が必要な外国人は一切なしの形で、夏の終わり恒例の溜池ゲンダイオンガク祭りも無事に始まりました。なんせ出演者数が多く関係者だけで400席程度は売り切れてしまうちょっと特殊な音楽祭、客席が半分になってスタッフ関係者はてんてこ舞い。昨日も、ホール正面入口で指先消毒と検温を済ませた先に、購入したチケットを新たな席が指定されたものに引き換える作業が必死でなされておりました。
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偉い人から現場まで総出、シールドの下にマスクして、もう誰が誰か判らないお姿での聴衆対応、ご苦労様です。

そんな不思議な空気の中で、でも何事も無かったかのように、客席にはいかにも来てそうな顔ぶれがズラリと揃い始まった溜池夏フェス、「21世紀の今にアヴァンギャルド」なる「ぐるっとまわって一週遅れが最先端」みたいなテーマを掲げて始まったわけであります。もう年寄りで、偉い先生達がいろいろお喋りになるのを真面目に聞くのは暑くてたまらん爺のやくぺん先生、居並ぶ長老から中堅若手までがなんのかんの語り倒しているプロモーション映像などが山積みになっているのを横目で眺めつつ、まあいいや、となーんにも説明を聞かずにいきなり出かけて座っていたのだけど…正直、若手の新作は「アヴァンギャルド」というのはこういう意味なんかい、と思っちゃう今風のまとまりの良い作品。中堅権代氏も騒々し過ぎない手慣れた纏めっぷり、杉山さんはノーノの流れを汲む方らしい作品で、最後にさりげなく背景に映像が映し出されたナレーションにニッポン政府批判がサラリと入っているのにどれくらい「伝える」という作業がしたいのか困惑するのもノーノっぽい。その意味、いちばん「アヴァンギャルド」風だったのかしら。

そんな若手現役バリバリの作品が並ぶ中で、やっぱりこういうところには出てこないと格好が付かない大物は神様仏様シュトックハウゼン様、最晩年の《クラング》から2曲が演奏されたのが、良くも悪くも演奏会のハイライト。となれば、昨日のスターは若手イケメンのヴァイオリンさんとかじゃなく、ニッポンのパスヴェーアというべきか、トーキョーの電子音楽再現シーンには欠かせない重鎮、有馬純寿氏なのでありました。本来はひとりで舞台上で大喝采を浴び、終演後はロビーで聴衆に取り囲まれるべきなのに、コロナ下とあってそういうことが出来なかったのがホントに無念であります。

シュトックハウゼン御大が《光》チクルスを終えた後に延々とやっていて、結局最後の2曲は構想のままあっちの世界に逝ってしまった本来は24曲から成る筈の大連作、基本は電子音です。その中で、真ん中に置かれた「24の音列素材を全部ひたすら積み上げる」電子音のみの第13番と、「24の素材のうちの4つの上にバリトンが曲目解説を延々と歌う」といういかにも御大らしくアホらしいまでに判りやすい構造の「バリトンと電子音オーケストラのための歌曲」みたいな第15番とが披露され、その電子音操作を有馬氏がブルーローズの真ん中に陣取って行われたわけですな。

所謂電子音作品って、生音じゃないからわざわざコンサート会場で聴く必要なんぞないだろーに、と思う方もいらっしゃるでありましょう。ところがどっこい、パリのポンピドーセンター向かいの池の下のIRCAMスタジオやらケルンの電子音楽センターやらで制作されたアヴァンギャルド時代以降の電子音作品って、ライヴで聴かないといちばん判らない「ゲンダイオンガク」のひとつなんですわ。

理由は簡単で、普通の人は自分ちのスピーカーシステムでは、絶対に再現出来ない、というだけ。つまり、録音されたものは、どんな巧みにパッケージ化されていたところで、あくまでも「家庭内再生用特別ヴァージョン」でしかない。作曲家さんが頭の中で鳴らしていた音の、ホンの一部を拾い上げた概論スケッチみたいなものに過ぎないのです。家の中に置いたスピーカー2台で聴く、って形で作品像が把握可能は、初期の《少年の歌》とかの頃までなんじゃないのかしらね。

昨晩も、まず15番で吃驚したのは、音が出てくる場所でした。ブルーローズのあちこちに配されたスピーカーは、基本的に全部「吊り物」で、その結果、音は全て頭の上から降り注いでくる。もう、この音像の場所だけで、家庭では絶対に無理。頭の上から鳴り響くと、家庭のスピーカーどころか、ヘッドフォンやらパソコンから聴いているのともまるで印象が違う。それに、日本のシュトックハウゼン遺産相続者たるバリトンさんとの音量バランスも、こういうものなのかぁ、と始めて判ったし。これはもう、《大地の歌》の適切なバランスを探す指揮者のお仕事ほども難しいんだろーなぁ。

電子音のみ、ブルーローズを真っ暗にして演奏された第13番も、やはり興味深かったのは真ん中辺りのクライマックスでの音量でした。音の素材が人間の耳になんとか処理出来るくらいのうちはまだいいのだが、重なってくる音素材がある量を超えると、聴覚にリミッターがかかるというか、もう聴き取ることを拒否するようになってしまう。音量も、ある絶対量を超えると「クラスター」としてしか判別出来なくなる。その辺りのバランスは、もう有馬さんにお任せするしかない。聞こえなくてもいいんだよ、ときっちり判らせてくれるように仕掛けてくれないと、わしら哀れなしろーと聴衆はお口あんぐり状態になっちゃうわけで。

何を隠そう、昨年のアムステルダムでの《光》抜粋で、なによりも驚かされ、いやあ凄い時代になった、と感じ入ったのは、スピーカーから出てくる音のバランスの良さと綺麗さでした。シュトックハウゼン・ファミリーの正当後継者たるパスヴェーアおばちゃん、国を挙げての最後の見せ場をつくってくれた巨大な舞台にしっかり応え、「シュトックハウゼンってこんなに綺麗でしょ」と鳴らしまくってくれた。このコロナでパスカル君の《光》チクルスもどうなるか判らない今、遙か極東の、とはいえつらつら考えるに《光》サイクルの故郷のひとつたる帝都トーキョーで、このようなきっちりした再現に出会わせてくださったのは、どれだけ感謝しても感謝しきれない程のありがたさでありまする。

電子音楽はライヴに限る、いや、ライヴじゃなきゃわからない。だからみんな、再来週は秋吉台に集合だっ!

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