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《エンドゲーム》をもう一度眺める [現代音楽]

世界のメイジャー歌劇場が無料のストリーミングで自分のところの舞台収録映像を配信して下さっていて、メトとかヴィーンとか、はたまたリンデン・オパーとか、メイジャー中のメイジャー劇場は契約の関係などがあるのか、ホントに一日しか配信しないところもいくつかあります。量があるだけに、流れてくる出し物もヴェルディやらプッチーニやらモーツァルトやらの著名な作品ばかりというわけではなく、ホントに多種多様。最近の10年くらいの映像が多いながら、古楽からモダンまでどんな趣味の方でも趣味なりに週に2つくらいは「これは観ておかないとマズい」という出し物が貴方のPC画面上で繰り広げられる妙な日々が続いております。

本日4月28日火曜日、ニッポン国はいよいよ明日からゴールデンウィークが始まる4月の実質最後の労働日なんですが(って、今、そんな働き方を普通に出来ている方がどれくらいいるか知らんわい)、欧州北米アジアは特になんてことない日。そんな日に、まさかまさか、なんの宣伝も鳴り物もなく、天下のスカラ座が一昨年秋の終わりに世界初演したクルターク作《エンドゲーム》の、恐らくはやくぺん先生も平土間1列目の一番下手に陣取って鑑賞、というか、参加させていただいた世界初演とおぼしき日の映像が、するっと放映されてました。昨日もアップしたけど、こちらがスカラ座の放映日程表。ここから行けます。1ヶ月限定で、あと数時間で終わるところだった。いやはや。
http://static.teatroallascala.org/static/upload/pro/programmazione-teatro-alla-scala-raiplay-def.pdf
発見したときは余りのさりげなさに、どうせ抜粋かなんかでしょ、と思ってたんだけど、いやぁ、2時間弱の全曲をきちんと収録したまともなもの。それどころか、きっちりリブレットまでフランス語とイタリア語対訳でアップされてる。
fin-de-partie_2017-18.pdf
こんな電子壁新聞をご覧になっている方に本気でご関心のある方がどれほどいるか知らん、なんせ20世紀演劇作品の中でも不条理劇として評価の高い作品ですから、ま、酔狂な方はじっくりご覧あれ。

さても、この作品、初演の舞台にノコノコ出かけて、某神楽坂の音楽雑誌に短いレポートも書かせていただいたわけでありますがぁ…正直、世間の一部では「21世紀に書かれた最高傑作のひとつ」なんてとんでもない持ち上げ方をする論者もいるのは承知しつつも、どーも初演の舞台を眺めて「ああああ、なんだかなぁ…」と思い、その後にパリに移動して天才パスカル君の《光》サイクル最初の一発の《木曜日》で大いに満足してしまい、クルタークはどっかに吹っ飛んでしまった、というのがホントのところでありました。そのときの当電子壁新聞の記事はこちら。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2018-11-16

まあ、世間から非難を浴びることを恐れず言えば、「クルターク御大、スカだったんじゃね」というのが正直な感想。で、それから記事を書くときにちょっといろいろ資料は引っ張り出したけど、なんせ音があるわけでもなく(生放送されていて、海賊盤みたいな音もネット上にあったようですが)、まあ、いずれ演奏会形式か抜粋でシュタンツ御大がソウル・フィルの現代シリーズででもやってくれるだろうから、そのときにまた考えましょう、って触れないようにしていた。

そんな作品がパンデミックな日々の中にいきなり引っ張り出され、こりゃ大変だ、としっかり洗濯やらキッチン周り掃除などをしつつ、拝見させていただきましたです。
IMG_4549.jpg

で、あらためてじっくりと座って舞台を真っ正面から眺めさせていただき、いろいろ思うところがあった次第でありまする。最初の「これ、ダメじゃね」という感想を撤回するつもりはなく、やっぱりこの作品、普通の意味で「オペラ」としては成り立ってないでしょ。作品のあり方から正確に言えば、《ベケットの『エンドゲーム』に拠るいくつかの情景》でんな、この音楽作品は。シューマンの《ファウストの情景》みたいなものと考えるべきなんじゃないかなぁ。

なんせ、客としていきなり接しただけでしたので、初演の舞台のときは起きていることともの凄く繊細微妙な音楽を把握するだけで精一杯。リブレットも、ベケットのテキストのどこを使い、どこを落としているか、かっちり判っていたわけではない。ただ、クルタークは主人公のハムとゴミ箱に突っ込まれている両親との対話の部分は大きく拾っていて、ほぼオリジナルまんまくらいに音楽を付けていたのに対し、この作品を極めて象徴的な物語性のある舞台とするなら絶対に重要になるだろう召使いだかのクロヴとのやりとりはバッサリ捨てられているのは判りました。最後の別れの場面以外は、殆どハムとクロヴの絡みは捨てられている、というのが実際のところ。

そんな台本であることは、先程、映像を日本語訳を手にしつつ追いかけて、あああここふっとばしている、ここまでいっちゃった、って慌ててページ繰りながら鑑賞させていだだき、やっとしっかり確認出来たわけです(先にPDFのリブレット眺めておけ、と叱られそうだけど、なんせフランス語とイタリア語対訳なんでして…)。

となると、初演の舞台に接しながらもの凄く違和感を感じていたオーディ(という表記で良いのか?)の演出、というか、舞台設営の仕方そのものが、なるほどねぇ、と思えなくもない。納得したわけでは無いけど、そこをカットしちゃうならこれもありなのか、ということ。つまり、この作品をどうしてもストーリー性のあるドラマとして読みたいなら、いちばん簡単で判りやすいのは「壮年の終わりくらいの男とその若い召使いが人類崩壊後の世界の密室に閉じ込められていて、なんのかんのあって、最後は若者がひとり外の世界に出て行く」というお話に仕立ててしまうしかない。この作品がそういう話なのか、と詰問されると困るけど、例えば『戦後のオペラ』第2版が出るとして、この話のストーリーを記さねばならないことになったら、あたしゃ、そういう風に書くでしょうねぇ。だって、そうしかないもん。

ところがこの演出、全ての話が家の外で起きてるんですわ。ハムの両親が詰め込まれているゴミ箱も家の外にあるし、車椅子に座ったハムは終始家の前の上手側に居ます。クロヴは家と外を出たり入ったりしている。原作では、高いはしごを持って来たクロヴが上の方にある窓から外を覗いて(まるで核シェルターの中から核戦争後の世界を覗くように)人が居るとか居ないとか言う場面があり、途中のハムのモノローグで出てくる三日歩いてこの家にやってきた男の話と共鳴して、多層的な象徴性を作り上げていく。だけど、この舞台は家の外で展開してるんで、そういう場面は一切無い。

だから、最後にいきなりクロヴが「僕は出て行く」と言って去って行っても、このクルターク版だけ眺めている限り、「閉ざされた場所から広い世界に出ていく」というようなカタルシスは成立しないんです。ああそーですか、出かけるのね、としか言い様がない。

思うに、世界一の遅筆で知られるクルターク先生とすれば、パリで勉強していた頃から半世紀もいじり回したテキスト、ともかくハムのいくつかのモノローグと、ハムと両親のやりとり、それにクロヴとの別れと最後のモノローグの部分だけはなんとか自分の頭の中に鳴っている音を楽譜に残せました、もうこれでオシマイ、これで充分…ってことなんでしょう。ネガティヴに言ってるわけではなく、この作品は、そしてクルタークという人の創作とは、そういうものなのでしょう。

これをホントに「オペラ」っぽくやりたいなら、クルタークが作曲しなかった部分は演劇として上演し、音楽があって歌になっている部分(歌唱は20世紀オペラのスタンダードから離れた無茶なものではありませんので、現代物をレパートリーにしている歌手なら充分に処理出来ます)はこの楽譜を使ってやる、というやり方もあるんじゃないかしら。恐らくクルタークのテンポに付き合って演劇をやろうとすると、3時間以上かかっちゃうと思いますが、まあ、なくはない。ルール・トリエンナーレとかでやりそーだなぁ。そう遠くない将来、そういう上演が出てきそうな気もするぞ。

そんなことが良ーく判り、オーディ御大の設定は「クルタークが用いた断片を繋げたシークエンスを成り立たせるには、間違った選択でもなかった」と納得は出来ないまでも、理由はあるとは思わせてくれた。スイマセン、判ってなくて、オーディ先生、ゴメンなさい。

もうひとつ、この舞台、やくぺん先生が初演を鑑賞したときに座っていた1階1列目いちばん下手の席では絶対に判らない仕掛けがありました。本日、真っ正面から捉えた画面を眺めて始めて判ったことです。

舞台の後半、ハムの家がちょっと回転して、舞台の真ん中に45度い出入り口がある面とゴミ箱がある面が対するようになります。で、ハムは上手におり、クロヴは下手の家の出入り口のところで動くのが基本。この二人の、遙か離れたところに立っての対話にもならないすれ違いのやりとりが、家の壁面に影で投影され、なんとなんと、その大きな影では二人が間近に対面しているように見えるんですわ。こんなん。
IMG_4552.jpg
離れた二人の動きなんだけど、真ん中に投影された影では非常に親密な細かい関わり合いがあるような動きに見えるように作ってある。最後にクロヴが去って行くときには、舞台にはハムはいるんだけど、ハムの影はもう壁に映りません。クロヴの影しか無い。つまり、二人の間の台詞では出てこない距離感が、影で表現されているんですね。

ところがどっこい、この仕掛け、やくぺん先生の座っていた席からではクロヴの影しか見えず、まーあああああったく判らないんですわぁ!

いやぁ、これは参ったなぁ、と、画面眺めながらハラホロヒレハレ、ってなりそうだった。こういう細かいけど重要な仕掛け、困るよなぁ。これが判んないと、演出家さんのやりたかったことは全然見えないもん。誰が悪いわけでもないけど、これが舞台というものなんでしょう。

てなわけで、パンデミックのお陰であっさり実現してしまったクルターク《エンドゲーム》の再鑑賞、いろいろと勉強になったどころか、全然ダメじゃん、初演時の感想になってない感想、って判った次第。幸いにも商売でやった作文は事実関係をお伝えするだけでもう精一杯で、作品そのものに対し感じていたネガティヴな評価は記しておりませんので、原稿を撤回する必要はありません。編集者様、ご安心を。

こういう映像がちゃんとあるのだから、パッケージにして出てくる可能性もあるのは有り難いことです。シュトックハウゼンの《木曜日》や《土曜日》、《月曜日》世界初演の頃には、スカラ座さんはこういうちゃんとした記録映像を遺してなかったんだろうなぁ。

凄い時代になったもです、いろんな意味で。

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