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黒沼俊夫資料ゆふいんに到着 [ゆふいん音楽祭]

本日、やくぺん先生の新オフィスにやっと遙々新帝都は湾岸地区から10トントラック1台分の荷物が搬入され、ようやくがらんとした空間が家らしくなった、というか、段ボール箱で溢れるお引っ越しにはお馴染みの状況となりました。当電子壁新聞としましても、温泉県盆地到着以降、まともにネットが通じるようになったのがようやく一昨日、座ってパソコンが開ける場所が出来たのがやっと今、という状況であります。

かくて将来的には客間というか集会室というか、でっかい縁側になりそうな和室に積み上げられた段ボールの中に、やくぺん先生がこの地を終の棲家とすることになるそもそもの最初のきっかけとなったものたちがあります。こちら。
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「黒沼俊夫資料」です。

思えば今を去ることもう30年近くも昔、やくぺん先生夫妻が縁あって松原かっちゃんやら漆原のうるちゃんやらミヤンマーのゆうちゃんやら豊嶋御大やらと一緒にこの地を訪れ、音楽祭に参加した年、音楽監督を務める巖本真理Qの実質上の主導者黒沼俊夫氏は、病気で来訪が出来ずにおりました。音楽祭が無事に終わった最終日、演奏会が終わるや、代理監督を務めたお弟子の河野さんら数人が名物の打ち上げにも出ず、スタッフには何も言わずに、急いで東京に戻ってしまった。何事か、と思ったら、翌朝、実質上の事務局となっていた亀の井別荘の喫茶店天井桟敷の奥の巨大テーブルにボランティアスタッフらが集まって、泣いている。

黒沼監督がお亡くなりになった、というニュースが、スタッフに伝えられたとのことでした。

やくぺん先生夫妻とすれば、黒沼俊夫という名前は、言うまでも無く巖本真理Qのチェロ奏者。1979年桜が咲く前頃に真理さんが没し、上野での定期演奏会はトリオでやって、戦後日本で実質唯一の常設弦楽四重奏団、1970年代の世界で最もたくさんの数の弦楽四重奏演奏会をやっていたであろう今や伝説の団体は、解散となりました。その後、黒沼さんは小林健次先生のニューアーツQで弾いてたりもして、なんと不思議な巡り合わせで、やくぺん先生夫妻は黒沼さん人生最期の弦楽四重奏演奏をライヴで聴いていたりする。

その後、縁あってゆふいん音楽祭と関わることになった黒沼さんは、最晩年の何度かの夏をこの盆地で過ごした。「巖本真理が生きてたら、ここに住み着いたろうな」などと繰り返しながら、由布岳を眺めていたという。

残念ながら、やくぺん先生夫妻は本当に入れ違いで、黒沼先生がこの地に立っているお姿を拝見することは一度もありませんでした。とはいうものの、その後、なんのかんのあり、やくぺん先生は人生初の大きな仕事として、弦楽四重奏博士幸松肇氏との共著で『黒沼俊夫と日本の弦楽四重奏団』という本をやることになった。その黒沼伝を担当させていただくことになり、戦後日本の弦楽四重奏界や室内楽演奏史に関わる様々な方々にインタビューし、日本各地から北米まで至ることになる。

それらの人々との出会いが、その後のやくぺん先生の仕事のあり方を決定的に決めることになったのは、言うまでもないことでありました。

その作業の際、鵠沼にお住まいの黒沼未亡人から、黒沼俊夫氏に関する膨大な資料の一部を託されたわけであります。多摩県の西のはずれ調布市深大寺での執筆終了後も、結局、それらの資料を返されたところで未亡人も困るだけなので、深大寺→根津藝大坂下→目白→佃→葛飾、と段ボール半ダースほどの資料がやくぺん先生夫妻と共に「我が家の最も貴重な資料」として転々としていたわけでありまする。

そして、黒沼先生がこの地を最後に訪れてから30と1年、黒沼資料がようやくここ、温泉県の盆地に到着した次第。

何を隠そう、駅を挟んだ反対側、由布岳の麓の前音楽祭実行委員長宅には、黒沼資料のもうひとつの重要なパートたる「巖本真理Qの書き込みの入ったパート譜」が存在しております。

どんな風が吹いたか知らぬが、ようやく、いろいろなものがこの地に集まり始めた。それから何が出来るかは判らないけど、もしかしたら、また、機が熟したのかな。

旅路の果て?たびの始まり?とにもかくにも、由布岳を眺める田圃と畑に囲まれた線路際、甘くて小さな実をたわわに結ぶ柿の木がゲートを成す小さな庵で、何が出来るのやら。
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(写真提供:栗山主税)

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