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吹田メイシアター開館記念シンポジウム基調講演「公共劇場の役割と未来」ほぼ速記 [劇場法]

吹田市政施行70年記念シンポジウム、ともかく、平田オリザ講演のほぼ速記です。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2010-10-13
大ホールに聴衆は200人程か(もっといたかも)。どうやら、指揮者の藤岡氏が吹田でやっている第9合唱団員のオバチャマが客席の真ん中を締めていたようである。在阪オケ関係者2名、関西の公共民間ホールの関係者も数名。
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冒頭、吹田の文化財団の方が、文化の重要性を阪神淡路大震災後のメイシアターでの実例を挙げてちょっと話す。
続いて、平田オリザ氏が舞台に登場し、実質45分程の基調演説。ご覧のように内容は、「吹田にある大阪大学の先生」としての平田氏が現在文化を巡って起きていることを吹田市民に説明する、というもの。聴衆の対象は、「吹田のオバチャン」である。なるほど平田氏は全国行脚をしてこういう話をしているのかぁ、と感心させられる達者な話であった。
最も重要なのは最後の3分。情操教育は文化政策の仕事ではなく、文化政策は新たなライフラインとコミュニティの創設なのである、と断言した辺りから。つまり、カルチャーオバサン相手に、カルチャーはお飾りではなく必需品である、という理屈をはっきり見せたところ。

持論だった「創作の場所としての劇場を支援する劇場法」議論と、日本の地方文化会館のほぼ全てがそうである吹田のような巨大コミュニティセンター(旧来の情操教育の場所!)とをどう関連させていくかの、平田氏なりの摺り合わせの部分が最も興味深かった。なるほど、全国行脚でこういう風な議論になってきたのね、と思わせてくれた。
後半のパネルディスカッションで彼が持ち出したのは、やっぱり、埼玉県富士見市の例だったのが、平田氏がコミセン型劇場の例として出せるのはやっぱりあそこしないのかなぁ、と個人的にはいろいろ思うところもある(平田氏が富士見市をやってたとき、全然偉くない音楽のディレクターをうちの奥さんがやってて、こんにゃく座の指導で市民オペラを立ち上げたりしたんだけど、当電子壁新聞では意識的にそれら富士見ネタは一切やらなかった)、ま、それはそれ。

てなわけで、具体的な事例は、多少、端折る。毎度ながら、不完全な「ほぼ速記約7割」なので、会場の空気や雰囲気を伝えるためのメモ、決して引用などなさらないように。引用したら出所が判るよう仕掛けはしてあるから、そのおつもりで。

※※※※※※

基調講演「公共劇場の役割と未来」平田オリザ

吹田の大阪大学のこと。大阪大学に5年前にコミニュケーション・デザインセンターが出来た。大学院生に実際に演劇やダンス、デザインを経験して貰い、医者、弁護士、科学者の卵にコミュニケーションの基礎力を付けて貰うもの。博士課程に進む人間には数年後には必修に。演劇をやらないと医者になれない時代が来る。それくらい、芸術の力、演劇の力が社会の中で少しづつ認められるのかな、と。

私の考える公共劇場が、社会の中でどのような役割を果たしているか。今日は東京から来て、明日からは延々と日本をあちこちまわることになる。演劇は行ってやらなければならないライブアートである。一年の3分の2を家以外で過ごしているが、日本中の地方都市がシャッター銀座になっている状況は、70年代末のアメリカの風景に非常に似てきたと思う。アメリカが最も落ち込んでいた時代である。中心市街地が危険になり、白人中産階級は郊外で車に乗って買い物して帰ってくるだけ。コミュニティが崩壊していた。日本はそこまでではないが、少しづつスラム化している。

郊外のショッピングセンターの風景はこの2,30年で確立されたものなのである。消費社会が確立した。良いことは、便利になったこと。が、利便性を追求する余り、無くしてしまったものがあるのでは。経済効率から見ると無駄な空間を無くしてしまった。トトロの森、お祭り、神話の伝達、などなど。
具体的には、商店街が寂れると床屋と銭湯がなくなる。浮世風呂、江戸時代以来の街のコミュニティスペースだった場所だ。昔の床屋さんは仕事をしてない奴が将棋を指してた。この叔父さんたちが子供の教育係であり、監視係だった。例えば子供が駄菓子やに行き、1万円出したら、オバチャンは親に注意しただろう。これが「無意識のセーフティネット」で、昔はそういうものがあった。今はコンビニで何を子供が買おうが、だれも気にしない。マニュアル化すると、無駄なものが省かれるが、コミュニケーションとは無駄なところにある。経済優先にするとそれが薄くなる。

青少年の凶悪犯罪が地方都市に広がっているのはなぜか。実は数は増えていないが、地域が広がっている。ひとつは、若者の居場所がカラオケボックスとかに固定化していること。そういうところが溜まり場になる。もうひとつは、成功の道筋がひとつになっていること。都市ではフリースクールなど学校以外の道の選択があり得るが、地方都市ではないので、引きこもり。引きこもりも地方都市の方が深刻である。道筋から外れると、都会なら戻れるが、地方では戻れないのだ。

地方地方というが、地方だけの問題ではない。例えば渋谷。私は駒場で生まれ育った。30年程前までは谷間の小さな街だったが、東急と西武が無理矢理に広げて経済的に繁栄させた。ところが谷底のセンター街は、若者が座りこみ、危険な空気を醸し出す場所になった。どうみてもこの子らの責任じゃないだろう、と思う。資本の理論で広げたので、公園や広場がない。宮下公園はホームレスがたまっていて、今、強制退去している。資本の理論なので、社会的弱者の場所をつくらなかった。が、弱者は経済的な繁栄で集まってくる。でも行くところがないから危険になっていく。最終的にはスラム化していく。このもっと悲惨な例が、東村山での中学生ホームレス撲殺事件。(以下具体例)これらは街造りをしてこなかった社会の問題ではないか。

昔からいじめの問題はあった。でも、昔は原っぱの世界があった。そこでもいじめはあったろうが、学年を越えていたので、子供にとっての重層性を与えていた。今、子供は学校しか社会がないので、逃げるところがない。だから簡単に死んだりする。

だからといって、原っぱを作れば子供は戻ってくるかというと、そういうわけにもいかない。だから、現代社会にあった形で、新しい原っぱ、新しい広場をつくるべきなのである。劇場、音楽ホール、図書館、バスケットボールのコート、フットサル、それらをコミュニティ・スペースとして捉えていく。非日常の空間。経済行為からすれば出会うはずの人があう空間、劇場をそういう場所に作り替えていかなければならない。価値観が多様化しているので、行政がするのは沢山のメニューの用意である。

誰かが誰かを知っている社会を作ること。今までの日本社会は地縁血縁型で、誰もが知っていた。生まれたときからその地域にいた。だが、地域の全部の行事に参加出来るものは息苦しいので、若者は都会に出て行ってしまっていた。データを見ると、ボランティアなどは、車で30分の場所ならば来てくれる。強固な共同体ではなく、誰かが誰かを知っている、という社会をつくる。何かを通じて、誰かが誰かをちょっとづつ知っている社会に日本社会を編み変えるべきなのである。その編み目の接点として、芸術、スポーツ、ボランティア活動が大事なのではないか。

行政は30年とか100年に一度の大災害のために堤防を作ってきた。だが、そこでもうひとつ必要なのは、コミュニティだった。神戸の復興があったのは、小さなコミュニティがあったから。だが、神戸市はコミュニティを寸断し被災者を再配置したため、統計で500人もの孤独死を生んだ。その反省から、中越村では村全体で仮設住宅に入れた。復旧にどれだけコミュニティの力が大事である。だが、今は昔のようなコミュニティは絶対に維持できない。ならば、人間は何で繋がるか。芸術文化で繋がるしかない。吹田市にとって、芸術文化は第2のライフラインなのである。演劇好き、音楽好き、落語好きで繋がっていることで、人間を孤立させないことが、堤防やダムよりも安上がりな防災対策になる。

夢物語を言っているのではない。80年以降、欧米の多くの都市が文化による都市の再興に着手した。中核に文化施設を造り、中国系、ヒスパニック系などが入って来やすいような施設をつくる。その方が街全体のリスクが軽減されるから。ヨーロッパの多くの文化施設で行われているのが、ホームレスプロジェクトである。ホームレスに月に1回とか、シャワーを浴びさせ、コンサートなどに招待する。精神的理由でホームレスになるのだから、芸術に触れることで昔の生きる気力を取り戻させて貰う。炊き出しだけではホームレスは救えない。文化施設は、ホームレスを孤立させない、社会的包摂の接点となる。ヨーロッパのどの文化施設も担っている大きな役割なのだ。高度成長が止まった私たちに必要になってくるものだ。 成長型の社会では半年待っても失業者は職を得られない。大人の引きこもりが始まる。人間を孤立させると、周囲の人の精神的なショックが大きい。失業している人にもなんとかして社会と繋がっていてもらいたい。

例えば私がやっているアゴラ劇場では、雇用保険受給者に大幅にチケットを割引した。これまでは失業者は演劇など観ているときではないとされていたが、その逆である。これからの日本は、その方向に転換しなければいけない。

フランスのナント市が一番成功した例がある。造船業がダメになり、文化によって再生すると宣言する。中心のビスケット工場、遠洋航海時代のかんぱんをつくる工場をアートセンターにする。パリからアーティストに無料で貸した。ラ・フォル・ジュルネを始める。横浜でやったような巨大オブジェのお祭り。今は輸出するまでになり、フランスで老後に住みたい街ナンバーワンである。フランス人は富裕層ほど早くリタイアするから、富裕層がナントに済むようになり、税収が増え、また文化にあてる。街にブランドイメージができ、産業も復活した。ナントでつくる高級クルーザーが売れるようになった。ナント・モデルと言われる成功例。

一方で、大阪病。万博の成功体験のため、外から一発で人を集めるものに関心を持つ。バブル期の花博の成功は、ホントは成功していない。その後は大規模イベントの失敗、オリンピック失敗、サミット承知失敗、酒井陸上、USJの尻すぼみ。逆の例としてディズニーランドの成功。一番ディズニーランドの行くのは浦安市民である。浦安市民はディズニーランドを誇りに思っている。
大阪での成功は、天満天神繁昌亭。天神橋筋商店街。同心円状の集客、市民参加型。天神橋の旦那集が自分らの金でつくった。だが、繁昌亭の動員は1回200人。年間でも年間で十数万人。だが、商店街の通行客は1日に2万五千人を超える。しょうもないイベントをいっぱいやっている。商店街の若い店主が、出入りするようになった落語家の卵などとつるんでいろいろやるようになったから。商店街が寂れる理由は、後継者が未来に希望が持てない。ここは若い奴らが戻ってきた。

(以下、水都大阪2009のワークショップ化による成功と、参加型にしなかった横浜開国博の大失敗の例。金沢21世紀美術館が金沢を再生させた例。富良野の成功と芦別の失敗について。省略)

隣町の富良野と芦別の成功と失敗例から判るのは、自分で考えることが出来ないと、東京資本にあっけなく文化的に収奪されていくということ。文化力によって東京資本は地方を食い物にしていく。文化の自己決定能力、自分らの誇りは何で、そこにどんな付加価値を付ければ外から客が来てくれるかを自分で判断する。文化の自己決定能力を高めていかないと、地方はあっさりと収奪されていく。
芦別の失敗のもうひとつの理由は、他人の金だったこと。旧産炭地は保護法があって、無制限に借金が出来て、政府が保証した。小泉改革でそれを止めたので、借金が返せず、破綻した。文化施設は行政任せではいけない。大阪の繁昌亭は自分らの金田から皆が自分のものと思ってる。これからの文化施設は市民が自腹を切って、寄付をして、支えていくものでなければならない。
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まとめです。いままでは芸術文化は好きな人のものだった。劇場というのは、演劇を観にいったり、音楽を聴きにいったりする人が愉しむ場所であった。それは勿論大事なことである。私が関わっている演劇教育や芸術教育も、情操教育と言われ、心を豊かにする、人間性を高めるものだった。それも大事なこと。だが、曖昧なことである。心を豊かに、人間性を高めるのは、他でも出来るのではないか。だが、今日話したように、もやは文化政策は文化施設はなくてはならないものになっていく。人間が人間らしく生きていくためには、私たちがコミュニティを維持していくためには、これまでとは全く違った、学校や病院と並んでなくてはならないものとなっていくだろう。

メイシアターは全国でも突出して稼働率が高い、当初よりコミュニティスペースの役割を目指してきたモデル事業をしていた。しかし今後、今、国会で議論されている劇場法、今度は、創造活動もやりなさい、そういうところには国は手厚く補助しますよ、という法案が出て来ます。勿論、メイシアターはそれもおやりになると思います。そのときに、市民の高達は、メイシアターは稼働率は高く貸し館として優秀だ、さらにものを作る方もやらなければならない。バランスが壊れてきますね。恐らく、その中で、他の地域の館との連携とか、機能分かとか、市内にある公民館とどういう風に役割を分担していくか、今まで以上に戦略的な公共施設の使い方が問われてくるのではないかなと思います。そういったことに、是非、市民の方たちにも感心を持って頂いて、このメイシアターを是非盛り上げていただければ、と思います。大阪大学と吹田市は包括協定を結んでいるので、大阪大学としても今後、一層、吹田市の文化行政に積極的に関わせていただき、お手伝いさせていただければな、と思っています。

これからの公共ホールは、好きな人のものだけではなく、嫌いな人にもなくてはならない施設なものにならねばならない。学校や病院が嫌いでも、そういう場所がなくても良いと思う人はそうとう変わった人である。劇場も、そういうものにならねばならない。その手伝いをさせていただきたいと思っている。

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北

前回の礼を失した振る舞い、お許しください。

時間を置いて「ほぼ速記」を読み直しましたが、平田オリザ氏の話に、私はJ1-J2-JFLにおけるフロントの多様な努力を連想しました。

もっとも、各チームのフロントがどういう目的で何をやっているかという情報は、私は日経新聞スポーツ欄のコラムからしか得ていません。ネット系のソースに一貫した編集方針を感じた事がないのは何故だか。

全国紙と呼ばれる新聞社が文化・スポーツ関係のコラムを抽出し積極的にネット配信すれば世の中少しは面白いことになのでしょうが、身内を説得するのが一番大変なのは世の常、日経がやっと統計を取る環境を整えたばかりの今は望み薄ですね。
ネットと紙媒体では反応層とその質はほぼ重ならない、と当事者は感覚的には分かっていても数字を提示できない。

ほぼ速記、続編を待ってます。失礼しました。
by 北 (2010-10-25 00:38) 

Yakupen

北様

いえいえ、壁新聞の前で酔っ払って叫んでいただいても、一向に構いませんよ。なんせ、誰にも実害はないですから。

確かに、昨今の「地域」とか「コミュニティ」という議論は、サッカークラブチームなんかのイメージが一番判り易いのかもしれませんね。だ、どうもその先に、妙なプチ国家主義みたいなものが見えて、小生はどーも胡散臭く感じちゃうんだけど、恐らく物心ついてからJリーグがあって、日本のナショナルチームがワールドカップに行くのが当たり前と思ってるような世代には、そんな違和感はないんだろうなぁ。

もとい。で、平田氏の話はこれで終わりで、この先はパネルディスカッションになるのですが、正直、もう疲れちゃって、速記が不完全なんですわ。少し手直しをしないとそのままは貼りつけられないんで、今日明日は無理ですけど、リクエストがありましたので、今週中には貼りつけます。火曜日まで地獄の地味なデータ作り仕事があるので、それ以降、ということで。

by Yakupen (2010-10-25 00:51) 

ほっぺけ

ふと、気になったのですが
芸術の社会的貢献度に注目させたいなら
内閣参与より劇団維新派の活動を例にすれば明らかだったのでは、と思いました。
とはいえ、維新派は南港を追い出されてからは行政としての大阪に
見切りをつけてしまった様だし、松本雄吉氏に「何か芸術の有効性について論じてくれ」と言えば「偉いさんからお金貰って何とかしようだなんて甘ちゃんや!」と一喝されてしまいそうな気がする;orz
by ほっぺけ (2010-11-19 12:24) 

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