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都響と共に聖霊を仰いだあんちゃんやオバチャンたちのこと [閑話]

やたらと貧乏なのにやることだけは多く、今日もブログ原稿なんぞに時間を使っている暇はありません。で、目出度く都響楽団主幹O氏からも「都響を宣伝してね」と言われながらOKをいただいた月刊「都響」連載お気楽脱力系雑文「エヌの閑話」再録シリーズです。
とはいえ、この原稿、「その月に都響が演奏する曲やら、その月に都響に出演する演奏家と着かず離れずくらいのぬるううぃ距離で」という要請で綴っている作文なので、独立して取り上げるとなんでこんな展開になるのか全然判らないものばかり。そんななかにあって、昨年12月に掲載した原稿は、例外的にテーマを絞ったものだった。
この月、世間は90を超えた巨匠指揮者フルネの引退公演があり、もうフルネ礼賛一色。最初からこの月の冊子がそうなるだろうことは目に見えていたので、敢えてフルネ翁については一切触れないようにしようと考えたわけですな。で、じゃあどうするか。そうそう、この月で、1年間続いた「都響創設40年記念年」が終わる。そんな中にあって、一切触れられていないものがあるなぁ…ということで、こんな原稿になった次第。

この正月に頂戴した年賀状の中に、「久しぶりに思い出して懐かしかったです」とか、「あの団体のことを書いてくれるなんて、涙が出ました」とかいう言葉を添えてくれたものがいくつかあった。小生の書くものは、非難されたり他人を怒らせたり喧嘩を売られたりすることはあっても、他人様から誉められたり喜んで貰ったりすることなど殆どないので、なんとも気恥ずかしいものでありました。
どうやら、「都響創設20周年記念合唱団」をとりまとめていた都響の古株事務局員Dさんが、まだ連絡先の判る元合唱団員に冊子を送って下さったようなんです。

こういう人がいるから、都響もまだ、信用できる。

というわけで、去る12月の第14回閑話であります。こういうの、閑話、とは言えんなぁ。
種を明かせばなんのことはない、この合唱団にはうちの嫁さんが入っていて、比較宗教学の大学院生だった小生が初めてプロ(?)の音楽団体ために原稿を書いたのも、この合唱団の内部閲覧用作品解説「グラゴルミサ」だった(無論、ボランティア)。ICU小礼拝堂でやった結婚式のときには、この合唱団有志連中が集まって、マーラー第8交響曲冒頭「来たれ、創造の主なる聖霊よ」と結尾「すべてこの世のものは比喩に過ぎず」をオルガン伴奏で大合唱し、当時やっていたお母さんカルチャーセンターのオバチャンが作ってくれたケーキを全部喰い上げていってくれたっけ。あのウェディング・ケーキ、わしゃ姿すら見とらんぞぉ。
ま、小生らふーふにとってみれば、足を向けて寝られない方々なんです。若杉監督就任のこの頃は都響と疎遠だったフルネ爺さんよりも、よっぽど大切な人たち。それだけ。

そうそう、これ、都響側からの修正が入る前の版だわ。数カ所直した記憶はあるが、もうどこがどう弄られたかわからないので、面倒だから覚えてないところはそのまんま。悪しからず。

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        エヌの閑話:《都響と共に聖霊を仰いだあんちゃんやオバチャンたちのこと》

 今回はちょっと真面目に、知られざる都響の歴史を記させていただこう。都響の過去を振り返ることが多かった今年にも、語られなかった歴史。今、語っておかねば、おそらくは誰も語ることがなく、やがて忘れられてしまう若い日の想い出話。
 音楽を生活の糧とするプロの演奏家や裏方にとって、アマチュア演奏家との付き合いは、一筋縄ではいかない。プロのオーケストラ事務局や芸術主催団体が、演奏であれ裏方業務であれ、本気でアマチュアと付き合おうとすれば、その組織で最も有能なマンパワーを割くことになるのは常識だ。なにせ善意のアマチュアとの関係は、ギャラを払えばお終い、間違えたら頸、要らないから帰ってくれ…では済まないのだから。
 今を去ること20年前の都民の日、1003人もの人で溢れる東京文化会館の舞台上で、二十歳の誕生日を迎えた東京都交響楽団と一緒に「来たれ、創造の主たる聖霊よ」と雄叫びを揚げた合唱団があった。「都響創立20周年記念合唱団」である。40年の団生(?)の中で、都響がある程度の期間を本気で交際した唯一のアマチュア団体だ。
 まずはこの合唱団の全演奏データを挙げる。特に記さない限り会場は東京文化会館。
第221回定期演奏会85年10月1日、2日都響創立20周年記念演奏会:マーラー交響曲第8番(コシュラー指揮)
特別演奏会86年3月15日新宿文化センター:モーツァルト「ミサ曲ハ短調」(マーク指揮)
第237回定期86年6月6日:リスト「ダンテの神曲による交響曲」(小泉和裕指揮)
第240回定期86年9月30日:ヤナーチェク「グラゴール・ミサ」(コシュラー指揮)
渡辺暁雄指揮者生活40周年記念日本フィル・都響合同演奏会86年12月20日サントリーホール:ベートーヴェン交響曲第9番、シベリウス「フィンランディア」(渡辺暁雄指揮)
第246回定期86年12月26日、27日新宿文化センター:ベートーヴェン交響曲第9番(小泉和裕指揮)
都民芸術フェスティバル87年2月13日:ベートーヴェン交響曲第9番(若杉弘指揮)
若杉弘首席指揮者就任披露第254回定期1987年4月22日:ラヴェル「子供と魔法」(若杉弘指揮)
特別演奏会87年5月16日新宿文化センター:フォーレ「レクイエム」(クリヴィヌ指揮)
第261回定期87年11月11日:リスト「ファウスト交響曲」(アダム・フィッシャー指揮)
特別演奏会87年12月25日:ベートーヴェン交響曲第9番(若杉弘指揮)
第267回定期88年2月5日:ブラームス「ドイツレクイエム」(クレー指揮)
第273回定期88年6月7日:シェーンベルク「ワルシャワの生き残り」、ヒンデミット「咲き残りのライラックの庭ににおうとき~私の愛する人々へのレクイエム」(若杉弘指揮)
第277回定期88年10月15日:シューマン「楽園とペリ」(若杉弘指揮)

                            ※

 思えば、この合唱団には最後まで愛称や略称がなかった。いつまでも無骨な「都響創立20周年記念合唱団」か、さもなければ、「都響の合唱団」だった。後者は都響関係者には迷惑だったかもしれないけど、事実だから仕方ない。
 合唱団の創設趣旨は明快。20周年の創立記念日にマーラーの交響曲第8番を演奏するにあたり、プロや音楽学生など既存の合唱団では数が足りない第2コーラスのパートを補充する目的である。20年記念定期で配布された季刊『都響』第40号(月刊ではない)の最後のページ、無著名の「都響だより」に記された情報が、この団体の来歴を最も詳しく語った公式文章だろう。以下引用。
「都響としてはじめてこの演奏会のための合唱団を組織しました。この”都響創設20周年記念合唱団(原文ママ)”は、合唱団募集に応えて下さった個人参加の100人の方々とこれまで都響と共演したいくつかのアマチュア合唱団で構成されています。記念演奏会は、各合唱団のメンバー、合唱指揮者の方々をはじめとして、多くの関係者の多大なご協力を得て開催の運びとなります。とりわけ、4月から半年にわたり、記念合唱団のトレーナーと合唱指揮にあたってくださいました郡司博氏にはずいぶんとお世話になりました。」
 新宿文化センターか完成直後の文化会館地下練習室で、水曜と土曜の夕方に行われた練習に半年に渡り参加したアマチュアは、殆どが個人参加者。ママさんコーラス風な雰囲気は皆無。殆どが都響の二十歳のお祝いに参加したい定期会員か、さもなければ、滅多に歌えそうもないマーラーの8番をプロの団体と歌いたい純粋な音楽好きだった。年齢層も高校生から60代まで広く、合唱の初心者も少なくなかったという(その数年前に同じマーラーの8番を演奏する目的で既存合唱団を緩やかに統括し結成された「晋友会」は、アマチュアとはいえ「プロ声楽家として訓練を受けても職業音楽家にならなかった声楽家」の集まりで、素人集団の都響合唱団とは性格が異なる)。
 目的が明快だったためか脱落者は少なく、記念合唱団担当として最後まで尽力された都響事務局の古株氏によれば、マーラー以降もメンバーは安定していたという。指導者の郡司氏も、「アマチュアの合唱団というと、ふつうは練習が終わったら仲間たちと飲みにいこうといった(笑)、いわば遊び気分が半分くらいあるんですが、この合唱団にはそれがなかった。…合唱することを目的に集まっていらっしゃる。(季刊『都響』第43号)」と、都会的でストイックなこの団体の性格を述懐している。
 無事に記念演奏会を歌い終えた記念合唱団がなぜそのまま存続したのか、関係者に話を聞いても理由ははっきりしない。マーラー終了直後から、再び半年先の特別演奏会に向け練習が始まった。指揮者のマーク自身、今のように一部好事家から神格化される雰囲気もなく、淡々とモーツァルトの練習は続き、本番では充実した結果を出すことになる。
 この合唱団の音楽的頂点は、特別な指揮者だったコシュラーとの2度目の共演となった「グラゴール・ミサ」だろう。オリジナルの古代スラブ語での日本初演となるこの演奏会は、本気のアマチュアがタップリと時間をかけ、高い意識で本番に望めば、手練れのプロとも対等に渡り合える事実を示す掛け値なしの名演となった(この演奏、「都響創立40周年記念シリーズ」CDで真っ先に復刻すべきだと思うのだが)。翌年から都響首席指揮者に就任が決まっていた若杉弘が客席で驚嘆し、この合唱団を積極的に起用しようと考えたのも、故無きことではない。
 だが、結果から見れば、そんな若杉の意欲が記念合唱団を終焉に向かわせることになる。前述の演奏リストをご覧になればお判りのように、新レパートリーは年にひとつ程度とはいえ、登場頻度は飛躍的に増加する。アマチュアオーケストラをご存じの方はお判りだろう。1年や半年に1度の演奏会ならばプロとも同等の仕事をする可能性があるアマチュアだが、本番数の増加は決定的な負担になるものだ。率直に言えば、特殊な作品も少なくない若杉との練習や共演を重ね、記念合唱団は技術的にも精神的にも疲れてしまった。都響が23歳になった月の定期演奏会での共演を最後に、団は解散する。以降、特定のアマチュア演奏家と都響が定期演奏会の場でこれほど深い関わりを持ったことはない。

                            ※

 以上が都響創立20周年記念合唱団の短い活動の記録である。最後に、公式データにはないこぼれ話を。
 マーラー第8交響曲の第2コーラスならば暗譜で歌える、と豪語する猛者が集う記念合唱団が、同曲の公演で引っ張りだこになるのは当然だ。翌年秋のサントリーホールのオープンに先立つこと半年以上前、記念合唱団メンバーの多くは、まだ未完成の同ホールでこの曲を歌っている。サントリーホールで最初に歌声を響かせる栄誉を担ったのである。
 86年4月6日、文化会館で行われたアマチュアオケ新響の山田一雄マーラー全曲演奏チクルスの第8番公演の合唱に、前年に同じ会場でコシュラーと歌ったほぼ全員が参加していた。この新響演奏会、本番直前の総練習は、大編成オーケストラによる最初の音響実験として、建設途中のサントリーホールの舞台で行われたのである。今日もサントリーホールで折に触れ上演される開館までのドキュメンタリーフィルムで、舞台狭しと並ぶ演奏家を前に飛び上がるヤマカズさんの映像と音は、そのときのもの。都響創立20周年記念合唱団のメンバーが舞台に並び歌う姿を収めた、おそらくは唯一の映像記録である。
 もうひとつ。元音楽監督渡辺暁雄の指揮者生活40年を記念する演奏会で、都響の側の市民代表として日本フィル合唱団と共演したときのことだ。アンコールに演奏された合唱付き「フィンランディア」は、なんとフィンランド語。以降、賛美歌でも有名な名旋律のフィンランド語での暗唱は、合唱団員とっておきの隠し芸になっている。
 この合唱団と共演した経験を持つ都響団員は、今はもうステージ上の半分にもならないだろう。記念合唱団のメンバーからみれば、都響の団員がプロとして市民らとどう付き合ってくれるのか、今ひとつハッキリしないもどかしさを感じたと聞く。もう独りでもなければ未熟でもない都響は、あの数年で何を学んだのだろうか。

(東京都交響楽団月刊『都響』2005年12月号より改訂再録)


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鵜飼眞弘

偶然このブログを発見いたしました。小生もその昔「精霊を仰いだあんちゃん」でした。その精霊を仰いで23年経過し、久しぶりに都響の団員が小職の如き小市民に付き合って頂けました。
それは、本日(2008年8月2日)行われた「都響とティーンズのためのジョイントコンサート」にて、小生の娘が第一バイオリン奏者として出演し、都響のコンサートマスター矢部氏やクリニックを担当頂けた団員の方々にご指導頂けたことです。
小生の嫁さんも「精霊を仰いだ」一員であり、幾星霜年月を経たのちに同じ東京文化会館のステージに立つ子供の姿を見て、勝手ながら万感迫るものがありました。
もちろん、陰ながら都響の事務局員D氏にご尽力頂いたこと、感謝してもし尽くせません。



by 鵜飼眞弘 (2008-08-02 23:57) 

Minochan

お懐かしや、鵜飼さま。
あれからたっぷり20数年の時間が経って、人生も数周を重ねると、こういう時が巡ってくるのですね。
それでもそこに都響がある-オーケストラがそこにいろいろな形で関わる人たちの人生の里程標になることを、弾いているひとりひとりに伝えたいものです。

若い団員さんたちにとって、わたしたちは赤の他人、知らない人の人生なのですけれど、ひとたび都響の団員となれば、団の歴史のみならず、団と共に年を重ねてきた人たちの人生そのものとも、関わりを持つことになるのです。
それに当惑したり、「うざい」と思わずに、誇りを持って欲しいなぁ。

音楽を弾く、聴くということは、それだけで関係が生まれる、素晴らしいコミュニティなんですもの。

都響があって、よかったですよね、ね、鵜飼さん。
by Minochan (2008-08-05 09:58) 

う~さん

まさか小生の書き込みにコメントを頂けるとは思っていませんでした。

小生は、例の合唱団解散以後、海外駐在・国内転勤と方々を転々としてきましたが、Dさんとはお付き合いを長年させていただいています。

都響の団員の方々には大変お世話になりました。娘も一所懸命やりましたが、団員の方のおかげで、うまく乗り気にさせて頂いたことも大きいと思います。東京文化会館という場所で、第一ヴァイオリンの中で一番前の席に座って演奏した経験は忘れられないものとなったと思います。

親子2代にわたり関わりを持った都響、次はどのような出会いがあるのでしょうか。来る50周年には「20周年」の仲間、および、ジョイントコンサート参加者という直接この楽団と関わった人々との大合同演奏でもあれば良いのですけれども。勿論演奏曲はマーラーの第八交響曲だったりして。

また、いつかどこかでお会いできれば良いですね。


by う~さん (2008-08-07 00:03) 

つるもも

 自分の合唱経験のルーツとなった「都響の合唱団」の記録を探していて、このページに行きあたりました。
ずいぶんまえにアップされた記事なので、コメントさせていただいていいものか迷いましたが、書かせていただきます。

 この記事を読ませていただいて、あの合唱団の成り立ちと解散の事情が初めて少し分かりました。

 私は、合唱経験は第九を1回だけという状態で、「精霊」後の87年のはじめにあの合唱団に入団し、疾風怒涛の練習と本番を経験し、突然の解散を言い渡されあっけにとられた組です。

 その後、四半世紀近くたって、地元の市民合唱団で合唱に戻りましたが、あの贅沢で残酷な合唱団はなんだったんだろうと折りに触れて思い出していました。

 実は、今日、本箱を整理していて、あの合唱団の「さよならコンサート」(1989.7.22 於 東京文化会館大リハーサル室)のプログラムが印刷されたB5の1枚の紙が出てきたのです。
裏面いっぱいに郡司先生のごあいさつが載っており、それは、「・・・都響側の意志により、やむなく解散することになりました。」から「ありがとうございました。」まで、先生の思いが痛切に感じられる文章でした。
 
 渡辺先生のこのブログを拝見することができてよかったです。
ありがとうございました。

by つるもも (2017-09-13 16:09) 

Yakupen

つるもも様

いろんな意味で「裏歴史」にされてしまった団体ですので、情報は少ないでしょう。ただ、そのときにできた人の繋がりはその先も生きていて、それらの人々にとっては大事なものであることは否定しようがありません。そういうもの、といえばそれまでなんでしょうけど。

書き込み、ありがとう御座いました。
by Yakupen (2017-09-16 07:23) 

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