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象徴は逆にだって使えるのだ [演奏家]

夏の終わり、天樹くらいの高原の街から木曽の谷間にちょっと立ち寄り、小淵沢駅から眺める諏訪湖の方に青春18きっぷ5日目の夕日が暮れて行きました。
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小淵沢始発の各駅停車で甲府盆地を抜け、大月まで。乗り換えて新帝都中央駅まで一気に向かいます。新帝都駅到着は午後10時半過ぎ。まだまだ道中は長い。

昨日、お誕生日のプレゼントみたいに、ペンティングになってた原稿がひとつ、すごおおおく面倒な指示と共に戻され、慌ててやらねばならなくなった。こんなことしてる暇はないんだけど、我ら青春18貧乏人やら山歩き疲れの熟年らが、ロングシートにそれぞれ数人程度が座った閑散とした車内では頭が働く筈もない。ってなわけで、忘れないうちに、昨日の松本での《エウゲニ・オネーギン》(どうしても「ゆーじん・おなーじん」と口に出してしまい、片仮名書きがなんかしっくりこないなぁ)の感想にもならん感想を。っても、ホントに感想にもならない、「なんでやねん……うーん、なあるほどぉ」って間抜けな話なんですけどさ。

昨日で3回の公演が終わった4年ぶりの松本でのフルサイズ・オペラ、当電子壁新聞を立ち読みなさるよーな酔狂な皆々様はよーくご存知のように、オリジナルはメトでえらく昔に出たカーセンの演出でありまする。今回は御大は来てないそうで、「カーセンのオリジナル演出で、カナディアン・オペラ・カンパニーのプロダクションを持ってきてますよ」とのこと。第2回の《火刑台上のジャンヌ・ダルク》以降、ずっと松本のオペラ・プロデューサーをなさっていたM氏が去ってから最初の本格上演ということで、やくぺん先生如きにはどうやって創ってるかとかぜーんぜん判らないんだけど、ともかくちゃんとした舞台にはなっていました。当たり前といえば当たり前ながら、その当たり前が出来ないこともあるわけですからねぇ…

もとい。歌手がどうだ、オケがどうだ、指揮者がどうだ、なーんて話はあっちこっちで出てるでしょうから、そっちをご覧になっていただくとして、やくぺん先生としては「へえええええ、もしかして、カーセン御大って、やっぱりすげーんじゃね?」などと不遜極まりないことを思ってしまったポイントについてのみ。

この舞台、メト上演のオリジナル演出がDVDなりのパッケージで出ていて、非ロシア系の上演映像としては定番になってるらしい。恐らく、生真面目な松本の聴衆の多くは、しっかり予習なさって客席にいらしていたのでありましょう。とはいえ、画面に切り取られた映像パッケージではもしかしたら良く判らなかったかもしれないこと。この作品でいちばん有名な(「ポロネーズ」じゃなくて)「タチアナの手紙の場面」でありまする。昨晩の舞台では、恋に恋するようなうら若い乙女が恥ずかしくも初々しくも恋心を綴る夜の場面で、舞台の下手上の辺りに、上弦の月が光っていたのであります。かなり上の方に、それも、かなり小さく、です。とはいえ、ベッドと机くらいしかない舞台ですので、あの月は(客席から見える聴衆には)極めて印象的だった。で、月が出てるなら、タチアナ嬢が夜なべして恋文をしたため朝になってしまう間に、当然、月も動いていき、沈んで行くにせよ上っていくにせよ、時間の経過があらわされるのだろーなぁ、手紙書いててこんなに時間が経ってしまった、あらあぁ、朝だわぁ、って。

ところが乙女の純真な燃える心を眺め照らすお月様ったら、ずーっと同じ場所に留まり、動こうとしない。んで、朝になり、婆やがやって来て、おやまぁお嬢様、今日はお早いこと…なんて会話をする間に、いつの間にか消えてました。

えっ、なんなん?

休憩の間、どっかにトロントでこの舞台を眺めた人がいないか探したけど、ロビーにうごめくは猛者揃いの顔ぶれとはいえ、トロントのあの劇場でこの作品を眺めてそうな方は流石にめっからなかった。ううううん、まさかと思うけど、オリジナルのカーセン演出では月が動いていったんだけど、諸般の事情でこういうことになってしまったのかしら。誰か、教えてちょ!

さても、そんな細かい部分にひっかかったやくぺん先生なんぞを舞台が構ってくれる筈もなく、このなんとも言えんビミョーな話はどんどん進み。さあやってきた、地味っぽい話の中での最大の見せ場、決闘シーンでありまする。全部が斜幕の向こうで展開されたロシアの田舎の朝の決闘シーン、自分が殺した友人の遺体を抱え上げたオネーギンの後ろに、さっきから頭だけ見えていた巨大な太陽がずんずんと昇ってくるのでありまする!おお、巨大なシルエットとなったかつての友人達、若気の至りとはいえ、なんてこった、なんて運命なのじゃ…

と、人々は涙せねばならんのだろーし、客席のほぼ全ての人がそうやって感動なさっていたのでありましょう。だけど、ああ、だけど、お誕生日プレゼントみたいに眺めているやくぺん先生ったら、頭の中に巨大な「?」マークがぶっ飛びっぱなしだったのでありまする。「なんで死んでくときに太陽が昇ってくるんねん?????」

続く「ポロネーズ」の壮大な響きの中で、いかにも今時風に舞踏シーンはなく、オネーギンが若者から青年へとなっていくお着替えが行われている。まあそれはそれで今時っぽいねぇ、と思いつつぼーっと眺めながら、先程のシーンを反芻するに、ああ、なーるほどねぇ、と思えてきたわけでありました。カーセン御大、とんでもない捻り技を出したんじゃないかな。

現代の映像表現の文法をご存知の方は、もうお判りでありましょう。そもそも「月」は「死」の象徴であります。そー、「綾波レイはなんでいつもでっかい月を背負って登場するのか?」ってやつですな。タチアナの手紙の場面は、わしら凡人が常識的に考えれば「燃え立つ青春の真っ盛り」、正に未来に向けての「生」のエネルギーが、このお嬢さんなりに無茶苦茶に爆発している場面であります。そこに敢えて、「死」の象徴である月をぶつけて、それどころかそこで動いている筈の時間まで止めてしまう。その一方で、正に「死」が舞台化されている決闘で親友を殺すシーンで、地平線の彼方からまるで青春の力が爆発するようなでっかい朝の太陽が昇ってくるのでありまする!

乙女の若く秘めたる情熱を冷たい「死」の象徴がひたすら静かに眺め、若者達が無益でバカな殺し合いをした直後に「生」の象徴たる灼熱の太陽が上り殺戮現場を燦然と照らしていく。

これって、完全に映像表現の基本文法を逆に用いているとしか思いようがないじゃん。いやぁ、カーセン御大、やってくれるなぁ。

象徴表現の文法は、意図的に逆にして使われるともの凄い違和感を生み出します。その違和感こそが、この《エウゲニ・オネーギン》という些か特殊な作品の本質なんだぞ、っとカーセン先生が仰ってるような。

こうなると、最後の最後は傷痍軍人の旦那がオネーギンとタチアナの密会現場を目撃し全員射殺し自分は自殺、くらいのことだってしかねないぞー…なーんてワクワクしながら眺めていたけど、結末は真っ当な、オネーギンもーだめぽ、ってもんでありましたとさ。

お誕生日に夏の暑さですっかり糠味噌になってしまって、もう動かないんじゃないかと自分ながらに心配だった頭をガツンとぶん殴ってくれた皆々様に、ありがとうございました、と頭を下げて、感想におなってない感想、オシマイ。新帝都はまだまだ彼方、もうひとやま越えた向こう。

[追記]

深夜前に佃縦長屋に戻ったら、かつて「トロントの怪人」と呼ばれた(呼ばれている?)トロント国際交流基金のAさんから、「バイロイトでヴァーグナー三昧してるぞぉ、うらやましーだろー」という絵葉書が来ている。今時、メール連絡もFacebookもやってない方なんで、どうやって連絡とればいいのか判らんのだけど、そうだ、Aさんなら絶対にトロントのあのアーツセンターで《オネーギン》観てる筈だぞ。ってか、観てない筈がない。月のこと、尋ねられる信頼出来る方がいたではないかっ。お互い、爺になったけどなぁ。

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