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さらば葛飾! [葛飾慕情]

如月始めから、殆ど何の仕事もせずに専念すること約7週間、今、葛飾オフィス&巨大柿の木下期間限定シジュウカラ・レストラン&親の実家の撤収作業を完了。最後の細かい荷物を段ボール箱4つに詰め込み、オリンピック型タクシーに強引に乗っけ、月島の倉庫に向け出発しました。
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あとは、次のオーナーさんに鍵を手渡すだけ。柿の木の下で営業部長さんに鍵を渡し亡親父に見せつけるように握手でもしようと思ってたのに
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2011-11-30
ちょっと拍子抜け。そのかわり、ってか、母が没してからは秋から冬にかけて膨大に公道に散りまくる柿の葉を掃除してくださっていたお隣さんに、長くお世話になりましたと佃は田中屋さんの佃煮、穴子とか海老とか浅蜊とか高級品ばかりを詰め込んだ折を持ってご挨拶に行き、なんとお返しにバームクーヘンをいただいてしまい恐縮しまくって戻ってくると、柿の木裏の雀のお宿になってる銀木犀からほーほーさんが翼を振り、ご挨拶してくださいました。
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暴れ川だった中川に放水路が出来、巨大公団や新区役所、武道館や公民館も完成、やがて水戸街道と環七が交差するジャンクションにもなるという新開地の中の新開地たる青戸というまだ町ともいえぬ場所に、親父と喧嘩した親父が職業軍人娘の嫁と乳飲み子を連れ千葉の東外れから移ってきたのは、60年安保の頃。京成電車の青砥駅と水戸街道の間の原っぱが広がる辺りのアパート暮らしに始まり、オリンピックの前には公団横のお米屋さんの裏の貸家に移り、ヴェトナム戦争北爆華やかなりし頃に、水戸街道沿いの工場の社宅だったというこの場所に土地代800万円也で自宅と仕事場兼用の家を建てた。隣の一角には、親父がこの土地に移ってきた理由の、叔父さんの町工場もあった。敷地の隅っこにあった柿の木はまだ小さく、向かいは土管が転がる原っぱで、セイフーチェーン社長豪邸の向かいには、直ぐにボウリング場が建てられた。

とき移り、永遠に工事中じゃないかと思われた京成電車のジャンクション青砥駅から目白、有楽町線が開通してからは池袋経由護国寺、学部時代は遙々武蔵境まで通っていたやくぺん先生も、流石に院に上がり予備校講師で喰っていくためにこんな遙か荒川放水路彼方から多摩県東部まで通うのは不可能で、微妙な関係にあった母親に半分勘当されたような形で葛飾の地を去る。それから四半世紀と少し、結婚式にも来なかった母親が天樹が伸びていくのを眺める病院で没し、311の年の秋には、嫁の父が没し家族が佃に移ってくるという正にその当日に、隠居して柿の木の下に独居していた父親も追いかけるように没。「この家を売らずに有効に使ってくれ」という遺言を遺されてしまう。かくて、佃から住民票を葛飾に移し、約30年ぶりに葛飾区民となる。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2012-06-08
それからはなんのかんのなんのかんの。かつての商売部屋だった不必要にがらんとした柿の木の下スペースでは
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サントリーアカデミー一期生を中心とする藝大連中の若い弦楽四重奏団が練習場に使ったり、嫁の信頼出来る同僚だった若者が住み込んでくれて遙か厚木基地の横に新しく誕生するホールの起ち上げ仕事に通ったり。やくぺん先生は佃の路地の長屋と、お嫁家族が住む縦長屋、それに葛飾セーフハウスの3つの寝場所を持つ生活となること数年。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2013-08-22
流石に経済的な負担が大きく、2015年には佃の地べた長屋を完全撤収。ここ葛飾をオフィスとすることになる。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2015-04-16
誰も居ないがらんと広いだけの家の、親父お袋妹らが使っていたデカいテーブルの上に資料を広げまくって、「ゆふいん本」と「つくるつづける本」をやったのもここ。後者の共著者H先生との対談は、編集者さんを交え、この柿の木下スペースでやったっけ。

そうこうするうちに築半世紀を過ぎた家はそれなりにガタが来て、親父の仕事部屋の床は抜けそうになり、巨大柿の木の葉っぱが落ちまくる雨樋は詰まり、物干し台は落ちそう。向かいの町工場側の窓は開けると閉めるのに一苦労、銀木犀側に出る裏木戸は台風でやられ…

流石にどうしましょうか、と真剣に話を始めたのが2019年の始め頃。なんのかんのなんのかんの、あれやこれやと策を弄したものの、これはもう建て替えて嫁の家族まるごと佃の縦長屋から葛飾に移り、終の棲家とするしかないか、ということになり、豊洲の大手Pホームさんと話を始め、設計図も出来、実印持って運河沿い事務所を訪れパンパンとつき、手付金を入れたのが2020年2月のこと。さても、大阪のコンクールの頃には家の解体が始まり、年末には佃を離れて嫁もその家族も葛飾区民になるのかぁ、とオリンピックもその先のアベ憲法改定騒動も無縁な年になりそうだと思ってたらぁ…世界がコロナになってしまった。

Pホームさん、家の解体やら建築の話が全て止まってしまったらしく、数週間しても、数ヶ月して五輪で大騒ぎだった筈の夏になっても、なんの音沙汰もなし。コロナ禍の緊急事態が始まるや、米寿を迎えた義母もいる狭い縦長屋に大人4人が住むなど家庭に感染リスク高すぎと判断、やくぺん先生は葛飾の廃棄が決まった柿ノ木下に実質一人暮らしの別居状態を続ける。その後もPホームさんからは何の動きもなく、半端な状態にしびれを切らした我が気丈なお嫁ちゃまったら、とうとう夏の終わりにはぶち切れて机を叩き、全て話をキャンセル!もう世間もこうなんだから数十年前に夢のように語っていた隠居後プランを多少早めに発動してしまおう、と葛飾の家処分&田舎転居作戦に変更したのが去る秋の初め。なんのかんのなんのかんのなんのかんので柿の実が落ちきる頃には買い手が付き、移転先について受け入れ先と話を始めたは良いが、2021年になるや再びの緊急事態で、受け入れ側不動産屋が「東京からの人なんて滅相もない」となり…

あとはもういいでしょ。てなわけで、もう充分に「有効に使った」と判断してくれるであろうと成田空港アプローチ下の親父の墓の前で手を合わせ、今日に至った次第でありまする。

撤去騒動が始まって以来、この舎を訪れ、親父がため込んだ工具やら食器やら、はたまたお袋が育てた蜜柑の木やら、使ってやろうと持って行ってくださった皆々様、ありがとうございます。親父も使えるものが新たな場所で使われているのを、大いに喜んでいると思いますです。

そして、当初の建て替え計画ではなんとか維持するためにPホームさんを困らせた巨大柿の木も、新たな芽を吹き始めているけど次の秋の実はなく、柿の木の枝を食堂とする冬場限定シジュウカラ・レストランも、本日で完全閉店。お食事を提供してきたフィーダーを全て撤去。
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残った食材は全て柿の木下にばら撒きました。この冬は最後の大盤振る舞いでスーパーの見切り品バナナを常時出していたので、すっかりグルメになってしまった若いヒヨちゃん四人組軍団
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佃のセレブなブンチョウの食い残しを喰らいまくってくれた雀たち
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小器用な雀が揺すって落としたご飯がなくなると、ほーほーと唄ってご飯がないよぉとアピールなさる、すっかり居着いてしまったホーホーさんご夫婦とひとりもの
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そして、メインゲストのシジュウカラさんご夫妻。
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さらば、葛飾巨大柿の木下の小さな飛ぶ方々。次の冬はここには何もないけど、なんとか頑張って生きていっておくれなさいな。あ、それからついでに、上空を行き交う機械鳥たちにも、さらば。
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とはいえ、移転先も実は目の前に我が陸軍の基地があって、裏山にはヤンキーミサゴも舞うときがあるんだけどさ。いやはや。

桜満開の今、もうメジロンたちにサヨナラを言えないのがちょっと残念でちちちぃ。

さてもさても、当電子壁新聞が自然消滅の日までしぶとく続くと思われた「葛飾慕情」カテゴリーも、多分、これが最終回。さらば、ホーホーさん、シジュウカラさん、ヒヨちゃんたち。そしてさらば、銀木犀と、巨大柿の木。
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ちゃんと種は確保してあるので、君の遺伝子は遙か西の地で大きく育ち、実を付ける…まで、あたしゃ命があるとは思えぬわい。

さあ、しばしの休息を経て、Go West!

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