SSブログ

Works in progressとしての《大地の歌》 [演奏家]

ホントにやれるのか、という不安と期待の声に応えるように、サントリー芸術財団主催のサントリー・サマー・フェスティバルの目玉、アンサンブル・アンテルコンテンポラン来日公演が、昨晩、賑々しく溜池はサントリーホールで行われました。なんと、外国オーケストラの来日は昨年秋のヴィーンフィル以来、コロナになって2団体目だそうな。へええええ…

この団体、やくぺん先生は数年前に香港のシティホールでピンチャー御大の指揮で前半だけ聴き、後半はこの団体が結成されたときのオリジナル編成を決定したシェーンベルク室内交響曲だったんだけど、午前2時ランタオ空港発の東京便に乗らねばならぬので、泣く泣く空港特急駅まで走って以来。パリでは、随分前にこの団体の参加ということで《木曜日》の「ミカエルの世界旅行」の部分だけを聴いたことがあったような。その前は、遙か昔にディズイーランドの裏の第一生命ホール(という名前ではなかったけど、なんてったっけか)でブーレーズ・フェスティバルをやったときに来日して、なんのかんの聴いたような。正直、ヨーロッパの現代音楽系フェスティバルやらシテ・ド・ラ・ムジークの演奏会で聴いているんだろうけど、どうも「アンサンブル・アンテルコンテンポラン演奏会」という形では殆ど出会うことがない。ある意味で、レコーディングなんぞはともかく、裏方に徹したような、作品の影に隠れるような仕事音仕方をしている団体ですな。

それが、団体名を全面に押し出した来日公演ということで、広報の仕方も「世界一の現代音楽アンサンブル」とか、なんだか凄いことになってる。で、久しぶりの来日公演(だと思うんだけど…)の最初の公演は、この団体を少しでも多くの人に聴いて貰おうという配慮からか、細川俊夫《二人静》とマーラー《大地の歌》室内管編曲版、というなんとも不思議な演目になったわけですな。

うううむ、これは一体どういう意図なのか、なんだか良く判らぬままにサントリー大ホールのもうこれ以上後ろはない天助桟敷に陣取ったわけでありまする。

細川の能発声を用いたミニオペラ、数年前に統営の音楽祭の小劇場でアジア初演され…って、当電子壁新聞記事を貼り付けようとしたら、ない。あ、あれは表の商売もの記事をガッツリ出したので、一切ないんだっけ。しょーがないから、こういう場所。
https://yakupen.blog.ss-blog.jp/2019-04-02
ま、その統営で演奏された舞台をガッツリ眺めていて、やっと日本初演になる、どうやらパリでの世界初演の平田オリザ氏のセミステージみたいな舞台を再現するらしい、なんて聞いてたのだが、なんのことはない、極めてストレートな演奏会形式上演でした。後でサントリーホールスタッフに尋ねると、どうも最初から特別の演出は提示されていなかったというので、コロナ下の来日を前提に最初からこの形だったようですな。ちょっと残念。ま、純粋に猛烈に繊細な音楽が最良の条件で聴けたのだから(些か広すぎたことは否めないけど)、これはこれでありだったでしょう。

問題は後半のマーラーであります。これ、今やあちこちで演奏され録音も何種類もあるシェーンベルク&リーンの私的演奏協会編曲版ではなく、サントリー室内楽アカデミーのメンバーががっつり後ろに座り、懐かしのクァルテット・アルパのチェロ抜きまで顔を揃えた室内管編成の編曲。当日プログラムには2008年にポーランドで世界初演されているというデータしかなく、コーディーズ(Glen Cortese)という編曲者がどういう人で、どういう経緯で出来た楽譜なのかはまるで触れてないのが残念であります。ま、そんなことに関心ある奴は、今時ネットでいくらでも調べられるだろ、ってことなんでしょうが…出版社さんの公式ページにも、編曲については何も触れてないなぁ。
https://www.universaledition.com/gustav-mahler-448/works/das-lied-von-der-erde-12993
あ、こんな映像もあるんだ。へええ。
https://www.digitalconcerthall.com/ja/concert/1728

ま、この版、上のベルリンフィル・デジタルコンサートホールの解説にもあるとおり、良くも悪くも「妙なことはせずに、オリジナルの雰囲気を可能な限り小さなオケで再現する編曲」でした。ベリオなんぞがやってたような、一種の再創造としてのオーケストレーション変更ではありません。そこにもってきて、ピンチャー御大は意外な程まともな解釈で、結果として「オリジナルでは絶対にライヴでは聴こえないテノール救済版」という感じが前に出てしまったのは否めないところでしょう。

正直、この作品、個人的には「20世紀半ば以降の録音というテクノロジーによってホントに傑作として認められた楽譜」のひとつ、その筆頭格だと思ってます(もうひとつの救済作品は、《グレの歌》)。録音とライヴ演奏は全くの別物で、この曲のライヴでの楽しみというか、醍醐味というか、聴き所は、絶対に無理なオーケストレーションを突き抜けようともがくテノールを鑑賞する、ぶっちゃけ、一種の演奏に於ける表現主義芸術ですな。ダメなところ、無理なところ、無茶なことをするところが「芸術」なのだ、って作品。ベン・ヘップナーみたいな巨漢が強引に声を張り上げて聴こえれば聴こえたで、「おおおおお、凄い凄い!」と盛り上がれるわけだしさ。ボストン響小澤指揮カーネギー公演でヘップナー&ノーマンという当時の二大巨頭で聴いたときも、ライヴとしては最も聴こえた演奏だけど、それでもそんじょそこらの録音みたいに完璧に聴こえるわけではなかった。ちなみにヘップナーはミネソタ管大植英次でヴァルデマール王を聴いたこともありますが、やっぱり無理、って思わされましたっけ。

恐らく、マーラーが生きていてメトのいちばん声がデカい歌手かなんかを引っ張ってきてNYPで自分の指揮で演奏していたら、練習の間にガンガン改訂をし、そっちを出版したことでしょうねぇ。で、現行版は「幻の《大地の歌》初稿」などと伝説とされ、ユニヴェルサールがマーラー・ブームの中でブーレーズ辺りに校訂させて大騒ぎになる、なんてこともあったんだろーなー。

昨晩の演奏、特にテノールさんがお仕事終わったあとの《告別》なんぞをボーッと聴きながら、この作品、用は「Works in Progress」なんだろうなぁ、と思っていたです。どうやっても楽譜通りでは完璧な演奏は出来ないので、いろんな人がいろんなやり方で、その人なりに「これが本質」と思うような譜面を作ってしまって構わない。で、永遠に「完成版」は出来てこない。そういう曲であっていいんじゃないかな、って。

ベトケの詩を巡っても議論は次々と沸いてくるし、演奏だって中国語の歌唱版なんぞ出現している。それぞれが、それぞれに言いたいことを言っている。20世紀の「原典縛り」の呪縛を抜けたところにある、サンプリング時代の新たな創造のあり方を示す楽譜がここにある…ってことを2021年コロナのニッポンに示すべく、天下のアンサンブル・アンテルコンテンポランさんはこの曲を上演してくれたんじゃないかしら。

なんせ、前半の作品の最後は、「私はどこからきて、どこにいくのか」だもんねぇ。

ちなみに、あの《大地の歌》が気に入った方は、こちらもどうぞ…って、抜萃しかないのかぁ。アンサンブル・アンテルコンテンポランが30数年前にやってたような尖ったことをやってる、2020年代の旬です。
https://youtu.be/36GyxfWpBkk
https://youtu.be/VHEyLOvxfpE

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽