SSブログ

旧第8軍東京教育センターホール解体 [売文稼業]

明日5月1日から、旧第8軍東京教育センター内オーディトリアムが入ったビルが解体されます。

と、記したところで、恐らくはこの駄文をお読みのほぼ全ての方が、なんじゃらほい、と思われるだけでしょう。そんな施設が存在したことを伝える資料もほぼ皆無。興味深いことに、ネットの海を検索しても、一切記述がありません。現在なんとか入手可能な日本語文献でこの施設について触れているのは、拙著『ホールに音が刻まれるとき』(ぎょうせい、2001)の66-7ページだけなんじゃないかしら。

これが、本日夕方の旧第8軍東京教育センターが入っていたビルの様子です。暫く前から立ち入りは不可能になっています。どうしても本日の日暮れまでに最後の姿を眺めたくて、かちどき橋越えて晴海通りをチャリチャリ日比谷まで走り、見物して参りました。

なんだ、三信ビルじゃないか、って。あ、そーでした。この場所をTokyo Educational CenterとかCIE図書館とか呼ぶ人は、今を去ること60年も前にほんのちょっといただけでしょう。
そう、三信ビルを「東京教育センター」と呼んでそれとお判りになる方は、小生にもひとりしか思い浮かびません。今はワシントンDC郊外のアーリントンにお住まいの名ヴィオラ奏者、河野俊達先生。アーニーパイル響でボレットの指揮で演奏していた俊達先生は、1947年5月18日に、ここ三信ビルの1階に入った東京教育センターのオーディトリアムで、東京弦楽四重奏団(無論、東京クァルテットじゃあありません)として登場、「雲雀」、モーツァルトのニ短調、ベートーヴェン作品18の4を弾いています。敗戦から2年目の新緑の頃。

発効直後の日本国憲法を祝う祝日はあったのかしら。

小生はとっても小賢しく現実的な人間だから、三井不動産さんに「三信ビルを保存しろ」などと経済の理屈に合わないことは言いません。三信ビルの解体で日比谷に残る20世紀の匂いは日比谷公会堂だけになったことを、嘆きもしません。ああそうなんだ、と思いましょう。

でも、同時に思うんですね。ああ、豊洲のららぽーとも、次々と建て替えられる丸の内の三井村も、まあ、あと半世紀もしないうちにみんな「21世紀初頭の古びた建築」になって、ジジイどもが保存を叫び、バリバリの連中が「あんなもの保存するなどソロバンに合わぬ」というのだろう。どれもこれも、22世紀初頭までもちゃしない。

だから、すっからかんと晴れ上がった春の終わりの夕方、第8軍東京教育センターと、その向こうのGHQビル(リメイク版ですけどね)が並ぶ姿を、とっくりと眺めておきましょ。あたしなんぞ、21世紀の半ばまでだってもちゃしない。

ラ・フォル・ジュルネにお越しの皆様、演奏会の間に時間が出来たら、有楽町駅と反対のお堀端まで出て、GHQビルの前から日比谷公会堂の方を眺めてみてください。解体が始まるとはいえ、まだ数週間はSanshin-Buildingの西端は目に入るでしょう。ほら、じっと眺めていれば、その向こう、帝国ホテルの隣には鹿鳴館が見えてくるし、さらに向こうには飛行館、おや、NHKホールだって見えてくる…わけないじゃないの。

三信ビルにあった東京教育センター内オーディトリアムで1947年頃に行われていた演奏会シリーズや、米軍軍属によるアマチュア演劇に関する資料をお持ちの方、情報下さい。もう、アップデートすることは不可能な拙著ですが、あの部分、ホントに資料がない。今となっては、ホントにあったことなのかも判らない気すらする。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

大型連休お暇な貴方に東京都から [指定管理者制度]

大型連休なんだそうだが、月曜締め切りの原稿がものすごく難儀していて、もうドロドロ。一度ほぼ書いて、全部捨てたし、その後はアウトラインをどうするかすら困っている状態。日曜日は朝から町会の会議があり、半日使えぬ。果たしてこれで月曜の午前中に入るのか。結構アブナイ。うううん。

というわけで、この数日、当電子壁新聞の新規記事はない可能性が高いです。で、連休中に暇で暇でしょーがない方のために、ひとつ東京都提供の宿題をさしあげましょう。ほれ。
http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/siteikanri/index.html

ご覧の通り、東京文化会館の指定管理に関する要項です。東京都民納税者とすれば、いよいよ指定管理者騒動の当事者としての本番が巡って来たわけです。「東京文化会館に関する公募」というところをクリックすれば、PDFファイルで相当なページ数の書類がゴッソリ出てきます。じっくり読めば、いかな皐月の爽やかな1日であれ、一気にお役所の風が貴方の周りで虚しく吹き荒れてくれることでしょー。

是非とも上のページの「応募状況について(4月27日更新)」というところをポチョっと押してみてください。もー、ぎょーかい人なら腰を抜かすほど面白い情報が出てきますよ。

へええええええ、ですね。いやぁああああ、その手があったか、大人の世界にはスゴイことを考える人たちがいるんだなぁ、なんてことは言いませんけど…ま、今は皆様、いろいろご自身でお考え下さいませ。それにしても、こんな情報、東京都は広報をなさってる気配がまるでないですね。まあ、都知事選の争点にはとてもならぬ話なので、数週間前に教えて欲しかった、とは言いませんけど。

では皆様、これらのデータをじっくりお読みになりながら、楽しい連休をお過ごし下さいませ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

ロストロさんに尋ねられなかったこと [演奏家]

NJP事務局で、作曲家レンツの開くと炬燵上板よりも広いスコアをなんとか広げながら曲解作業をし、さても連休前最後の金曜午後、編集者やら事務所からジャンジャン連絡があるじゃろと事務局を出ようとすると、ロストロポーヴィチの伝記映画のポスターが貼ってある。広報のS氏に、「ロストロさん、大丈夫なの」と尋ねたら、「退院したんでしょ」と、まだ持ち堪えそうだ、って雰囲気。

で、緑も濃くなった深川の木場公演の横抜けてちゃりちゃり戻ってきて、あまりの眠さにちょっと寝て起き、パソコンを立てたら、「ロストロポーヴィチ没」というニュースが踊ってました。http://www.asahi.com/culture/update/0427/TKY200704270298.html

あ、とうとう尋ね損なっちゃった、あのこと。

我々のような商売をしている者にとって、人が没するとは、単に「悲しい」とか「寂しい」とかじゃあない。「悔しい」なんです。
あまりにも非情な物言いだけど、ジャーナリストとか研究者とかにとって「人」とは「一次情報のデータベース」。ある人が没するとは、数多くの歴史的な事実や逸話、その人以外には意味があるものとして評価できない価値が、永遠に失われること。ロストロさんのようなソ連に於ける芸術の歴史、権力の下での芸術家の生き方、はたまた作曲の先生であり後には同僚の音楽家だったショスタコーヴィチがこの楽譜のこの部分についてどう考えていたかの細かい情報、そんなものの総体が、もうアクセスできないデータになった、ということ。
無論、露地の奥に住んでる83歳の爺ちゃんの死でも、ロストロさんの死でも、データが失われる、という意味では価値は等しい。とはいえ…

昨年11月末から12月始め、ロストロさんはNJPを指揮するために、最期の来日をなさいました。日本での最期の公演となったショスタコーヴィチの10番なんぞの演奏会、小生は当日夜の切符は「せんせ、どーしてもロストロさんを聴いておきたいわ、切符くれへんくれへん、あたし聴いたことないねん(←関西弁)」と北千住のI嬢に迫られ、まあ、何度も聴いたことがある小生よりも、一度も聴いたことがない若い人が聴く方が意味があるだろうなぁ、と敢えて毟り取られました。で、しょうがないから昼間に練習に潜り込んだ。
そのとき、ひとつ、考えていることがあった。サントリーホールの指揮者控え室はホントの下手袖横にあり、練習などでも案外指揮者さんとはち合わせることがある。で、まかり間違えてそんなチャンスがあれば、この写真をお見せして、意見をうかがえないかしら。その写真とは、これ。ここだけの開示ですから、絶対にコピー、転写などしないでくださいな。

http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/archive/20061101で紹介したミニチュアスコアの表紙を捲ったところに記されている文字です。
丁度その頃に八王子カサド・コンクールの付帯事業として開催中だった「カサド展」のため、玉川大学カサド資料調査を行ったとき、未整理の楽譜の山から出てきたショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番のミニチュアスコアがありました。その隅っこに、こんなサインが入っていた。
はて、これはカサドが冷戦下のソ連を訪れたとき、直接ショスタコーヴィチから渡されたものなのだろうか、この手書き文字はショスタコーヴィチの直筆なんだろうか。ショスタコ研究者のH女史によれば、当時はそんな簡単にミニチュアスコアが手にはいるはずなく、ショスタコの直筆ということはあり得ないのではないか、とのこと。で、結局、「カサド展」には展示しませんでした。
ショスタコの直筆鑑定って、誰なら出来るだろうか。そうだそうだ、この曲を献呈されている御本人が東京に来てるじゃないの、その人に尋ねてみるのが一番はやかろーに。それに、冷戦下でのカサドのソ連公演実現には、カサドを敬愛していたというロストロ氏の関与があったというし。

残念ながら、その日は練習後に伝記映画のためのインタビューを同業者Transblue君がやるとのことで(あのダンディ君が無性に緊張していたのが面白かった)、どうやら立ち話もできそうにない。体調もそんなによろしくないという。じゃあ、ちょっと無理だなぁ、ちょこちょこっと話が出来るだけで良かったんだけど、そういうわけにもいかぬようだ。また次の機会にでもいたしましょ。お忙しい方だもんね。「カサド展」開催中なら無理も言ったろうが、数日前に展示会も終わって、もしもロストロさんに実物が見たいと言われても現物は玉川学園に前日だかに戻っちゃったタイミングだったし。

でもね、もう、そんな機会は永久になくなっちゃった。

また、多くのことを語らないまま、ひとつの情報データベースが活動を終えました。幸いなことに、この方の語った言葉は多いし、遺した音も多い。それで充分、ということなんでしょうね、神様。

ロストロポーヴィチさん、長い間、お疲れ様でした。追悼の言葉は、いろんな人が綴ってくれるでしょ。仕事で何度か直接付き合いのあった嫁ちゃんも、なんか書いてくれるかな。とてつもない人生に通りすがったしがない売文業者として小生が言えるのは、これだけ。


nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(1) 
共通テーマ:音楽

鯉のぼりの彼方には [演奏家]

久しぶりの青空に、東京湾岸トリトンスクエアのそこここには巨大メザシのような鯉のぼりが吊られ、一部は新緑の浜風にどうにか泳いでます。

さても、連休前進行で地獄というのに、昼前からチャリチャリと晴海まで繰り出し、吉野直子さんのハープを拝聴してまいりました。今年から第一生命ホールで始まったお昼前の短いコンサート、「はじめのいっぽ」の3回目です。こんなにうらうらした昼だと、東京湾岸見物にいらっしゃる奥様族も多いようで、なかなかの盛況ぶり(SQWに少しおくれなもし)。厄偏庵への露地の入りっ端に建つマンションのオーナーマダムもいらしてて、なんだかとってもローカルです。

約1時間のコンサートで吉野さんがお弾きになったのは、お馴染みのグランジャニーやルニエ編曲ものだけじゃない。モーツァルトのニ短調幻想曲やら、ブラームスの作品117のインテルメッツォの変ホ長調の奴やら、鍵盤用オリジナル楽譜もあります。
ま、考えてみれば、チェンバロの中身をフレームから出して、えんとこしょっと縦にして、指で直接叩いてるのがハープなのだ、とも考えられるわけですから、理屈とすれば再現は不可能ではない。吉野さん程の名手をもってすれば、まるでチェンバロをひっかいているような響きのきっちりしたコントロールも出来るし、いかにもハープらしい倍音をタップリ鳴らした優しい和音だってお手のもの。なかでもブラームスはねぇ、なんというべきか…終演後、思わず御本人に、「あたしの葬式では、うちの嫁さんのためにあの間奏曲、弾いてください」などと恐ろしいことを口走り、周囲の人々から呆れられてしまいましたとさ。

本日のもうひとつの大発見は、吉松隆作曲「ライラ小景」というハープオリジナルの小組曲。吉野さんに拠れば、フィリアホールの委嘱で昨年暮れに初演され、本日がステージでは3回目の演奏だそうです。吉松とハープって、いかにもなんだけど、意外にも初めての作品とのこと。「銀河鉄道の夜」に霊感を受け、プロローグ、北極星のダンス(典雅というより今風のリズム)、モノローグ、暗黒星雲のワルツ(暗い響きが印象的)、そしてエピローグから成っています。
舞台の上の吉野さんの短い解説で宮沢賢治がモチーフと聞いたとき、定番の「ほしめぐりのうた」の断片でも響くかな、と想像したのだけど、さすがは現代のラヴェル吉松隆、そんな凡人の考えることなどやりゃしません。キャッチーなメロディでアピールするのではなく、リズムと、なによりもハープの音色の美しさを繊細に用いた星空に巡らせる心情風景画でありましたとさ。ハーピストにとって、とてもとても貴重な文献がひとつ増えました。

終演後、第一生命ホールロビーから眺めると、我らが田舎町佃の高層アパート群の下を、鯉のぼりたちがヨタヨタと泳いでる。露地住民があげる甍の波よりゃ高いけど、とても勝ち組御殿の天井には届かない。朝潮運河に溺れる寸前をかろうじて掬い上げられたみたい。

でも、夜ともなれば、細長いマンションにも満天の星のような生活の光が瞬き、よっぽど風が強い晴れた晩なら、おおぐまこぐまが永代橋の上辺りにかかり…。

ハープの響きの向こうに、東京湾岸の田舎にも初夏がやってくる。

晴れ渡る 佃の昼に ほしめぐり


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

ズバリ紫式部おひとり様! [音楽業界]

昨晩のアサヒビール本社1階ロビーでの松原勝也氏ロビーコンサート、雨の降り出した夕方、吾妻橋渡りゃ向島、ならぬビール工場跡地にいらっしゃった500人くらいの人々は、熱いかっちゃん節を堪能なさったと思います。緋国民楽派系音楽でここまで燃えられるのだから、さすがだなぁ。

昨日お伝えしましたように(http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/archive/20070424)、この演奏会のハイライトのひとつは、終演後の「市民パトロネージュ」、ロビー出口でのドーネーションでした。「お代は聴いてのお帰りで」ってやりかた、まさか「なんぼ集まりました」とはきけなかったけど、皆さん、慣れないながらもお札などをお入れになっていたようです。さほど混乱はなかったみたい。

そんな中、大川河口の方からどんぶらこっこと遡ってやってきた(わけはなかろうが)NPO・TANのサポーターさんたちがおり(松原さんは7月のサポーター企画第一生命ホールオープンハウスにご出演なさるそうです)、「お恥ずかしいことですが、常識がなく、どれくらいいれたら良いのか分かりません」って困ってました。うううん、まあねぇ、そりゃそーでしょーねぇ。少なすぎるとみっともないのではないか、多すぎるとビックリされるのではないか、悩み出したらキリがない。

さても、では、ここでやくぺん先生が決めてあげましょ。

「市民パトロネージュの相場はなんぼか」の常識は、残念ながら、日本では存在していません。ですから、こういうあり方が当たり前のアメリカの美術館や博物館、はたまた世界のどこでもある「クリスマスコンサートのパストラール演奏の間にまわってきたり、教会でライブのバッハ作カンタータ演奏がついたミサでまわってくる献金の額」などを考え、敢えて断言する「アサヒビール主催吾妻橋ロビーコンサート市民パトロネージュの相場」は…ズバリ、紫式部さんおひとり、です。

ドル札ならば20ドル、ユーロだったら10ユーロ、といったところ。おいおい、随分額が違うじゃないか、とお思いでしょうが、こういう「ポケットに手を突っ込んで札を取り出す」類のドーネーションでは、日常感覚としてどのくらいの額の札が普通に流れているかがポイントです。アメリカ合衆国の20ドル札というのは、日本の1000円札くらいの感覚ですからねぇ。だから、美術館やら展示会ならば、1000円札1枚、というのが妥当なところでしょう。とはいえ、昨日の松原さんの演奏会みたいな2時間以上のフルコンサートとなると、いかんせん野口英世博士おひとり、ってのもちょっと失礼。んで、紫式部女史の登場となるわけです。懐に余裕のある方ならば、樋口一葉さんに登場して頂くべきでしょう。

世間の風潮から考えて自分が貧乏な人間である、まだ自分が学生で親がかりである、などと自認なさってる方はその半分(日本円なら1000円、ドルなら10ドル、ユーロなら5ユーロ)でも良いでしょう。
あ、おつり下さい、ってのは厳禁です(領収書下さい、ってのもね)。ですから、たまたま万札しかなかったら、しょうがないから小銭入れにある全額ひっくりかえしていき、次の機会に少し調整する。次の機会というのは「この演奏会シリーズの次回」という意味ではありません。銀座四丁目交差点の救世軍慈善鍋でも良いし、教会の献金でも良い、なんであれ、自分がドーネーションをするとき、ということです。ドーネーションの基本は、相手と自分の関係ではなく、神様と自分の関係にあるのですから。神様のお財布、最終的にはひとつ。

どうしてそれが相場なのか、なんの根拠があるのか、そんなこと突っ込まれても、今日は忙しくて書いてる暇はなし。こんな意見もある、と思って下さいな。

ところで、2000円札って、今年になってからまた手にしたことないんだけど…まだ流通してるんだろーなぁ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

アサヒビールは税務署に喧嘩を売るのかっ [音楽業界]

ずっと前に書こうと思ってたんだけど、なんのかんのでタイミングを逸し、当日に至ってしまいました。関係者の皆様、宣伝にならずにスイマセン。

さても、本日、以下のような演奏会があります。ほれ。
http://www.asahibeer.co.jp/csr/philanthropy/art-cul/image/lobby/lobby070424_b.jpg
場所はあの浅草は吾妻橋東詰、大川端に黄金色に浮かぶ巨大オブジェ下、アサヒビールタワーの1階ロビーです。完成直後は近未来的な内装で、実相寺さんが映画撮影に使ったりしてましたね。出し物は、我らが松原勝也バンド。とても藝大の室内楽科の実質上の中心人物たる助教授とは思えない、ヴァンガードQ時代以来の暴れん坊かっちゃんの本音爆裂。普通の意味で「偉く」なってもこんな演奏会をしっかりやるから、このアーティストは信用できるんだけど。

ところでこのチラシ、じっくりご覧になって下さい。とっても面白いことが書いてあります。入場料のところ。「市民パトロネージュ制」とある。で、よく眺めると、なんのことはない「有料だけどお題は聴いてのお帰り、ご自分で相応しいと思う木戸銭を入れてって下さい」ということなんですねん。で、さらに「集まった入場料の全額を演奏者に渡す」とあります。

おおお、ってことは、アサヒビール文化財団さん、とうとうあれをやるのかいな。1960年代初めに、国内最強の主催者だった労音が法廷闘争までやって惨敗したあの「入場税撤廃運動」。あの再現というか、現代に蘇ったゲリラ戦をやろうというのだろーかっ!

労働運動などという言葉が過去の遺物となった21世紀初頭の現在には、知る人も殆どいないかもしれませんけど、昔、労音という組織があった(今もある、ってに!)。猛烈に強大な組織で、岩淵龍太郎先生なんぞに言わせれば、「プロムジカQは大阪で昼夜公演1週間ぶっ通し、「死と乙女」を何度弾いたことか」などという状況だった。日本でクラシック音楽が一番盛んだったのは、恐らく、1947年から1955年くらいまでだったでしょうね。

そんな労音が、戦時下のどさくさで始まった贅沢税としての「入場税」を撤廃させようという運動をした。どうしたかというと、「労音の主催公演で聴衆が払うお金は、興行への入場料金ではなく、全て協会へのカンパなのである。今風に言えば、個人パトロンのドーネーションなのである。だから入場税はかからないのだ」という理屈。で、法廷闘争までやりました。結果、あえなく負けました。この過程、研究なさってる方もいたはず。
今、ネットの上を探したら、この問題を扱った論文が全文落ちてました。これ。ハードな法律論文なので、その道のプロの方か余程お暇な方以外にはお勧めできませんが、ま、関心があったらお読み下さい。http://www.ntc.nta.go.jp/kenkyu/ronsou/18/148/mokuji.html
うーん、小生が上に記したしろーと考えの神話とは、ちょっと様子が違うなぁ。「演奏会は興行なのか」という問題が根っ子にあることは、法律的に冷静な分析では全く入って来ないようだ。法律的な闘い方はどうあれ、モーティヴェーションは「音楽の演奏は興行じゃないぞ」という主張です。

おっと、こんな論文ちゃんと読んでる暇はないので、それはそれ。なんにせよ、この「チケット料金は入場券ではなく、ドーネーションなのだ」という考えは、「演奏会は興行ではないはずだ」という主張と共に、業界の片隅ではしぶとく生きています。些か信用のおけない裏話をすれば、晴海のNPOトリトン・アーツ・ネットワークが立ち上げするとき、「全ての入場料はNPOへのドーネーションであって、税金はかからない」という方向に持って行くのがひとつの最終的な目標としてディレクターの頭に無かったわけではない。文化NPOへの寄付が損金になって無税、というところまで法律が整備されていないので、その考えはまだ実行できてないけど、理想としてはあります。

さても、アサヒビールの財団さんが本日展開するこのやり方、誰が言い出したかは容易に想像つくけど、税金の問題はどうするのか。理屈としては「入ったものをそのまま演奏家さんに渡すだけで、うちは制度としてはお金の動きに一切関わっていないので、あとは演奏家さんの税理士さんが処理なさることです」ということなんでしょう。ただ、こうすることで、少なくとも「消費税」の壁はあっさり越えられる。つまり、皆さんが演奏家さんに演奏の対価として渡すお金に消費税はかからない、ということになる。

うううん、アサヒビール本社裏の墨田区役所、これで納得するのかしら。音楽だけじゃなく、そんなこともワクワクするなぁ。


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(1) 
共通テーマ:音楽

祝パヴェル・ハースQBBCMusic新人賞! [弦楽四重奏]

ご町内選挙状態も一息、7月の参院選までちょっとだけ静かな田舎町佃から、そっちとは別の受賞のお祝い。

20世紀の終わり頃に突如出現し、あれよあれよという間に世界で一番読まれている音楽雑誌になってしまった「BBCMusic」という紙媒体があります。文字通り、BBCがそのノウハウとデータと自分で持ってる音源をジャブジャブと投げ込んで造り上げた、まあ、英語圏の「音楽の友」みたいなもんです。
音楽雑誌って、演奏や楽器に特化した「ストラッド」やら「アマデウス」やら、オペラに特化した「オペラニュース」やら、録音に特化した「グラモフォン」やらはあっても、「クラシック音楽全般を扱う」というスタンスの媒体は意外にも海外媒体には存在していませんでした。無論、BBCが権利を持ってる音源をどんどん附録に付ける、というやり方が功を奏した部分が大きいとはいえ(なんせ武満徹の「海流」たる「A Way of My Life」なんぞ、長い間この雑誌の附録録音しか音が存在せず、マニアさんが必死に追い求めてたもんね)、今やオーストラリア版やらアメリカ版、カナダ版、ドイツ語版まであるわけですから、スゴイもんです。新潮社の泡沫雑誌に終わった「グラモフォン・ジャパン」の企画を耳にしたとき、恐らく1年でポシャルだろうなぁ、やるならBBCミュージック日本版の方が良かろうに、誰が神楽坂上を騙したのやら、と思ったものでしたっけ。
正直、まあ、あの独特のイギリス趣味というものがばっちり利いてる雑誌であることは確かで、これがワールドスタンダードなんかなぁ、こんなもんイギリス人の他は評価せんぞ、としか思えない部分もないわけではないが、メディアを握っているというのはそういうことなんだから、それはそれとして扱うしかないですな。書き手も、「ストラッド」などとは相当に違うし。

もとい。で、そのBBCMusicの最新号で、2007年度ディスク大賞が発表されています。そしてそして、見事新人賞に選ばれたのは、我らがパヴェル・ハース・クァルテットの「ハース2番&ヤナーチェク」のスプラフォン盤でありましたっつ。ぱちぱちぱちいぃ!詳細はこちらをどうぞ。http://www.bbcmusicmagazine.com/awards/newcomerwinner07.asp
当電子壁新聞の関連記事はこちら。
http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/archive/20060711
http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/archive/20060615

とにもかくにも、昨年の夏の初めに晴海でマニアもマニアじゃない方も、みんなビックリ仰天させたあのハース、それに「とうとうチェコでもスメタナ時代が終わった」とつくづく感じさせたヤナーチェク(パヴェル・ハースQの恩師はシュカンパ御大ですけど)、皆様もお聴きあれ。なお、パヴェル・ハースQは、パシフィカQ同様に見事に日本に於ける若手クァルテットの最初の受け入れ窓口たる晴海入国管理所、じゃなくて、そこから直ぐの晴海トリトンスクエアに拠点を置くNPOのSQWシリーズを卒業、2009年には某音楽事務所の差配で来日公演が予定されております。乞うご期待。ハース全曲をやれ、なんて無茶な声を上げて下さい。

当電子壁新聞の別のところで話題になってるウィハンQといい、このPHQといい、はたまた前回の大阪国際をシューマンの2番なんてとてつもない曲で制したベネヴィッツQといい、プラハからはタイプの違う団体がどんどん出てきてる。どうしてこれが東京では出来ないんだ…ってのはまた別の話なんで、今日はこれまで。


nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

地方議員選挙候補者選びにお悩みの方に [指定管理者制度]

当電子壁新聞をご覧の日本国有権者の皆様に、主筆やくぺん先生からのアドヴァイスです。

明日の統一地方選挙後半戦、各地の地方議員選挙でどの候補者を支持するかお悩みの方は少なくないと思います。なんせ、都知事やら県知事クラスならば大手商業メディアやらがいろいろ分析したり書き立てたりしてくれるでしょうが、区議会議員選挙レベルになると、恐らく、殆どメディアの報道はないだろうし、ネットの海を彷徨っても手助けになるような情報は殆ど上がっていないようです。身近な問題であればあるほど情報が減ってくるという事実は、いかにメディアを通して現代の我々が晒されている情報の量や質が偏っているかを証明してくれているわけですが、ま、それはそれ。今日はそんな話はしない。

とはいえ、「しょーがないなぁ、じゃあ、投票をやめちゃおう」とはとても思えない真面目な方も多いでしょう。だってねぇ、区民税やら市民税を払ってるわけだし、自分の払った金を分配する方法を決める代表者は、やっぱり他人に押しつけられたくはないし。

さても、そこで小生も真面目に提案します。当電子壁新聞の内容に興味を持ってご覧の方で、どうしたら良いか困っている方は、「文化」という視点に絞って選挙公報を眺めてみてはいかがでしょうか。

地方行政で、文化はだいたい教育やらスポーツと一緒になっていて、「教育文化」とかで議論されることが多い。教育については、平和の党から現世利益ばらまき政党と化している公明党がこれ見よがしに与党たることの成果を自画自賛していたり、保守系議員が自分の行い棚に上げて道徳教育叫んだり、野党系は1クラスの生徒を制限すると仰ったり、まあ、いろいろ言ってます。だけど、「文化」というわけのわからんものになると、残念ながら殆どの候補者が触れていない。

だからこそ、「文化」について議論できそうな奴がいたら、そいつを一応地方議会に自分の代表として送り込んでおく努力をする、ということでんがな。

それだけのことです。結果として、党派には殆ど無縁な選択になると思いますけどね。

なんでこんなアホらしいことを記すかと言えば、一昨年来の指定管理者騒動、特に栗東市の騒動を眺めることで、ひとつだけはっきり判ったことがあったからです。経緯を知りたい方は、この結論の辺りから遡ってご覧あれ。http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/archive/20060125
それ即ち、「指定管理者制度が導入されたことで、地方文化行政の問題は、議会の問題になった」ということ。

栗東の文化施設「さきら」の指定管理を市がお金を出して育成してきた文化のプロフェッショナル集団(=市の文化体育財団)に託すか、JR西日本のビル運営会社に託すかという問題は、最終的に「市長及び市役所(行政)の下した決断に、市議会がYesというかNoというか」というところにもつれ込んだわけです。で、その経緯をいろいろな情報から眺めて行くに、どうも栗東市議会の内部に「この市の文化施設をどう扱うのか=市としての文化行政をどう進めるのか」という基本的な考えが、ほぼ皆無なことが判った。

市議会には、教育専門の議員、役所の代弁者みたいな議員、はたまた土建屋利権の代表議員、その他諸々の代表がいるなかに、文化担当の議員というのがひとりくらいはいるのではないか、と小生は勝手に想像していました(地方議会一般に対する関心なんてそれまではありゃしませんでしたから)。市民会館や市民ホールを運営する市という場所には専門の職員がいるように(専門教育を受けているという意味ではなく、ある時期にそんな部署に配属やら出向になっている地方公務員さんがいる、ということ)、代議員の中にも文化担当者がいるのだろうと勝手に信じてた。だって、そうじゃなかったら市予算の教育文化予算の是非だって判断出来ないもんね。

なんでそんなことを思ってたかと言えば、地方のホールの担当者などから、「議会対策」とか、特に「共産党対策」という言葉が漏れるのを、しばしば聞いたから。それで、「ああ、市のホールの運営予算などに、きちんと批判的な視点を持っている人が市議会にいるんだなぁ」と思っていた。

ところが、どうやら、少なくとも栗東の市議会にはそんな「文化についてきっちり市長を問い詰められる議員」はいなかった。で、結局、毎度ながらの市長の多数派工作が正月議会休会の間に展開され、栗東議会に持ち込まれたJR西日本関連会社が指定管理者となることの可否は、どんどん市長対反市長の政争の具っぽくなり、「文化をどーするのよ」という議論ではなくなっていった。議会内部の誰ひとりとして、「本来の議論に戻そう」とは叫ばなかった。

もしも栗東市議会に「文化行政」という視点が少しでもある議員がいれば、栗東さきら問題はちょっとは違った展開だったかもしれない--小生が栗東騒動で最終的に感じたのは、そういうことでした。

結論を述べます。皆さん、地方議会に文化担当の議員をひとりでも増やすようにしましょう。指定管理が導入された結果、管理者選択のプロセスは行政がやるにしても、最終的にその決定をOKするのは議会となったのです。議員に文化行政の知識が要請されるようになったのです。
文化行政にかかってる予算が一般会計の中でどの程度の規模なのかを考えれば、それぞれの市議会で何人くらいの「文化担当議員」が必要かは、自ずと明らかになるでしょう。例えば市の予算の1%を水戸芸術館に用いる、と言明している水戸市ならば、議員のうちの1%は文化行政の専門家であるべきでしょう(って、水戸市議会は100人もいるはずないから、ひとりすら必要ない、という結論になりそうだけど、ま、端数切り上げで1人くらいはなんとか)。

以上、あまり役には立たないけど、決める理由なしに困ってるよりはちょっとは良いか、という程度のアドヴァイスでありました。

まあ、我が田舎町中央区みたいに、650億円の予算を持ちながら700票以下でも議員に当選出来る自治体なんて、特殊なのかもしれないけどねぇ(ちなみに、今、調べてみたら、栗東市は有権者数は中央区の半分くらいで、最低得票議員の票数は700票をちょっと越えてました、うううううん)。さあ、やっと明日からまた静かになる。安心して通りを歩ける。ふううう。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
共通テーマ:音楽

我が中央区に「文化行政」はあるのか? [新佃嶋界隈]

昨晩深夜に「お願いしていた原稿、紙面の関係で来月号に飛びました、ゴメンなさい」という神か悪魔か判らぬような電話があり、さても、月末までに3本、じゃあどの順番に処理しましょ。なにやら久しぶりに少しは日差しがある。ちょっくら清澄通り沿いの自転車屋さんまで行き、購入後いまひとつ調子が悪い自転車の様子を見て貰い、大川の風にぼーっとあたっていろいろ考えましょか、ってチャリチャリ押しながら露地を出たら、そこは4年に一度悪夢のように広がる選挙ワールド、住吉さんの例大祭よりも稀なる祝祭空間で……向こうの露地を候補者諸氏が旗持って練り歩き、通りに出れば選挙カーから「やくぺん先生、お仕事ご苦労さまです」と名指しで叫ばれる(これホント、働け、と叱られてるようだなぁ)。東京駅銀座から一番近い田舎町佃の区議会選挙は、文字通りの田舎の選挙そのものなのであーる。

なんせここ中央区にあって、有権者が最も纏まって住んでるのが佃月島地区となれば、選挙運動も残すところあと2日、トリトンの3本ビルとリチャード・ギアが宣伝する超高層ツインマンション建設を眺める十字路で候補者本人を乗せた選挙カーが3台はち合わせ、そこに旗立てた別の候補者が露地から歩いて出てくる、なんて騒動も珍しくない。観光バスからゾロゾロと降り、東京修学旅行のお昼にもんじゃ焼きを楽しむ福島の中学生たちも目を丸くしてる。
候補者はち合わせの図は撮影できなかったので、トリトン下、停車中の福島観光バスの横で奮戦する選挙カーの記念写真(候補者名がばっちり写ってるのに他意はありません)。

さても、かくいうやくぺん先生も一区民として清き一票を投ずるために、己の関心と問題意識に誠実に、支持ずる候補者を選ばねばならぬ。なんせ人口10万突破を祝う中央区、一般会計総予算650億円ほどというのは、兆単位の横浜市なんぞには遙かに及ばぬも、鳥取市なんぞよりも予算規模はデカイ。数年前のカンボジアの国家予算がODAなんぞかき集めても500億円くらいなんだから、あなた、軍隊だって持てるくらいの規模なんだよ、いくとこいけば。ま、トヨタが自動車レースF-1に投じてる資金が400億円から500億円、ってきくと、お金ってなんだろーなぁ…と思いますけどねぇ。

もとい。我らが区民税やら、我らの国税が還元される交付金やらから成り立つこれらのお金(別に区が稼いでるわけじゃないですからね)、どのように再分配されるべきや。そう考えると、小生なんぞがまともに思いめぐらすことが出来るのは、文化関係予算なのであーる。んで、「平成19年度中央区予算案の概要」なるPDFファイルを区のホームページから引っ張り出し、さても、我が区は文化予算をどう使っておるのか、と眺めるですね。

んで、あらためて、おいおいおいおい、と思ったですよ。

ええ、我らが東京都中央区は、「文化振興財団」とか「歴史文化スポーツ事業団」とか、その類の「自治体が実質的に運営している文化財団」がありません。これだけの予算規模の自治体なら普通はどこでも存在する「市が抱える文化専門職員」がないんです。今ネットで調べたら、首都圏音楽ファンなら知らぬ者ない「日本一のカタログショッパー」K氏が辣腕を振るう武蔵野文化事業団をバックアップする東京都武蔵野市ですら、一般会計予算が569億円なんですから。おおお、うちの区、武蔵野よりも金持ちなんかい!
だから、「日本橋会館」と「銀座ブロッサム」(クロノスQだかアルディッティQだかが初来日公演をやったのがここでした)という2つの区立公共文化ホールの指定管理でも、区の財団をどうするんだ、という問題は起きなかった。起きようがなかった。指定管理というやり方は、中央区とすれば願ったり叶ったりの制度だったわけですな。当然ながら、区が主催するクラシック音楽公演とか演劇公演とかは、殆どありません(今年も日本橋会館で区主催の能だかがあるみたいで、皆無ではないですけど)。

当電子壁新聞で新佃嶋界隈を「田舎」と表現することを不思議と思われていた貴方、我らが中央区の田舎っぷり、行政面からもイヤでもお判りになられたことでありましょーぞ。
ちなみに、文化提供NPOのトリトン・アーツ・ネットワークが「中央区での音楽活動、アウトリーチ」を定款に誕生させてもらえた理由のひとつは、普通ならば地方行政がやるべきそのような活動を担う団体が中央区には存在しなかったからです。他では自治体が税金でやってることを民間が積んだ金でやる、というテストケースですね。マンハッタンの状況なんぞに近いです。

専任の文化担当者(一昨日、晴海トリトンの第一生命ホールで延々6時間も演奏家らのプレゼンテーションを真剣に眺めていた地方ホールの方々、など)を区が雇っていないとなると、区の職員や議員さんに文化をきちんと考えて貰わねば困る。そー、中央区議会は、他の地域に比べ、文化に対する責任が大きいわけですよ。

                          ※※

さても、そんな目で「中央区議会議員選挙公報」を眺めてみよーぞ。これだけ議員がいるのだから、何人かは「文化担当」みたいな奴はおるじゃろ。音楽ジャーナリストたる小生の区民としての義務は、それらの議員の中から、今の中央区の状況を最も理解し、きちんとした文化行政の視点を持てる人を的確に選ぶことであろうなぁ。

って、隅から隅まで眺めたら、なんと、中央区議会議員に立候補なさってる総勢37名の候補者のうち、所謂普通の意味での「文化芸術行政」についての発言をなさってるのは、ひとりしかおりませんでした。若い公明党の候補者さんの、「文化芸術の振興をはかります!」って一行。これだけ。

あなた、650億の予算を持つ自治体で、文化芸術振興にあたしゃ関心がありますよ、と選挙公報で宣言してるのはたったひとり。それも、狸でも唱えられるような類型的スローガン!

ええと、小生は別に、中央区の予算を使ってシカゴ響公演をやれとか、森進一ショーをやれとか、メディアアートの実験をやれとか、そんなことを申してるんじゃあありません。決して小さくない予算規模を持つこの自治体では、そんな「興行を消費するタイプの文化」は一切やる気なし、と区議会議員がみんなで思っているのならば、これはこれでスゴイことです。
正直、小生としますれば、「税金で音楽事務所からいろんな公演や興行を買ってきて、市民ホールで安く納税者に鑑賞させる」ことが文化行政ではないと思ってます。「佃の伝統的な祭りを守る」とか、「区のあちこちに残る明治初期からの様々な文化遺産を保全する」とか、「大川の水運や水辺に生まれた生活を復活させる」とか、そんなことこそが中央区としてやるべき文化行政だと考えているなら、中央区議や区長は全く正しい。

興行を消費するタイプの「文化」なんぞ民間に任すべしと本気で判断し、企業や資本の理論では手が届かないことをすることが行政なのだとしっかり考えている、猛烈に先端的な地域なのかもしれぬ。

でも、もしかしたら、そんなことすら考えつかぬものすっごい田舎なのかもしれぬ。

ううううん…

というわけで、やくぺん先生の区議会議員候補者選び、己の職能を判断に用いることは不可能と判ったわけでありますな。いやはや、となると、もーこれはホントに田舎のどぶ板選挙(比喩ではないのがコワイ佃界隈)なのであるぞよ。

ちょっとだけ真面目になれば、佃住民としてのやくぺん先生が区長及び区議会議員に求めるものは、「新住民と旧住民双方の生活感情と利害を理解し、調整する能力」なんですけどね。なんせ勝ち組高層マンションの麓なる我が佃2丁目は、世界のどこよりもものすごい「格差シティ」なんだから。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

訂正あれこれ&補注 [お詫びと訂正]

送られてきた「音楽の友」5月号をパラパラと眺めていて、真っ青になりました。原稿の間違い、なんと2箇所。真っ青だけど、ともかくこの私設電子壁新聞に訂正を貼り付けておきます。

◆ひとつは完全に小生のミス。というか、誤解。204ページ、ロンドコーナーの「東京のオペラの森」ミニレポートです。文字欄上から2段目の4行目前後、「東京文化会館の老舗食堂には、練習合間の久保田巧やライスターがお茶をすする姿も。」とあります。これ、間違い。「オペラの森」事務局からも確認がありました。
正しくは「東京文化会館の老舗食堂には、練習合間の久保田巧らがお茶をすする姿も。」です。
ライスター氏は上野精養軒でこの頃に茶をすすってたかもしれないけど、「オペラの森」の練習合間ではありません。ライスター氏はサントリーHで3月20日に行われた都響の定期演奏会には出ていましたから、上野の地下練習場にいらしてるので精養軒にいた可能性はあります。ですが、「オペラの森」オケには乗ってません。
この記述は、なんのことはない、小生の見間違え。期間中に上野文化会館の精養軒に行ったら、そこがまるっきり8月末の松本市内某ホテルのロビー状態になっており、怯んでしまった。なんせ、空いてる席に行くのに、久保田巧さんらを「あ、お久しぶりです、お元気ですか」と恐縮しながらかき分けていかねばならなかった。で、そこで、ライスターさんに見える外国人の後ろ姿があり、「ああ、来てるんだぁ」と思った。で、そこにどんな人がいたかを、取材メモに記した。それを眺めながらあとで記事を書いてるわけです。
ところが、記事を入れた後にライスターさんと話をしたら、「今年は松本は行くけど、オペラの森は見物には行ったが吹いてはいません」と言われました。おおおおおお。もう遅いぞおお。
というわけで、以上のような間違った情報が出てしまったわけです。それにしても、そんな人たちがゴロゴロしている東京って、なんだかスゴイところだなぁ。

◆もうひとつ。これは単純に編集側の間違い。79ページの小生の纏め記事みたいなところの左側にだああっと並んでる若手Q4団体の写真、これ、真ん中のパシフィカとベルチャがひっくり返ってますね。うううん。
ちなみに、入るはずだったキャプションというか、注釈をつけておくと、一番上のアルテミスQは香港シティホール音楽堂、パシフィカQは中央区人形町の某小学校、ベルチャQはロンドンのウィグモアホールでの子供ワークショップ、Qエクセルシオは中央区佃児童館のアウトリーチです。これらの写真、http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/archive/20070413で論じた原則に従っているのはお判りでしょうか。

◆最後にもひとつ。これは当電子壁新聞の間違い。
http://blog.so-net.ne.jp/yakupen/archive/20070403の記事冒頭部分に、「小菅優さんが自作のカデンツァを弾き…」というようなことが書いてあります。先程、某楽団マネージャー氏から電話があり、「あれさぁ、ベートーヴェンのカデンツァだよ」とご指摘がありました。あらら。
これまた状況を説明すると、最初、練習ではブルックナーしかやらない予定だったので、ベートーヴェンは勉強していかなかった。で、カデンツァについては、様式が混交したような不思議なものだったので、その辺にいた某評論家さんに「あれ、誰のカデンツァなの」と尋ねたら、「自作じゃないの、この人はそういうことするし」とのことだった。で、なるほど、と思って確かめなかった。
よーするに、あたしゃものをしらん、さらには様式把握力もない、ということです。
小生とすれば、「へえ、カデンツァでピアニストが作った主題のフレージングに合わせて、指揮者は自分のやり方を譲って冒頭のテーマも作り直すんだなぁ、丁寧なことするんだなぁ」と思ったことが大事だった。小菅優さんが何のカデンツァを弾いたかには、個人的には特に興味は無かったからこういうことになる(興味があったらあとで調べるもんね)。一応、事実は事実なので、訂正いたします。「このライターはベートーヴェンのカデンツァをちゃんと覚えていない」ということですので、嘲り笑ってやってください。

以上、お詫びと訂正でした。遠洋航海に向かう我らが海軍の練習艦と補給艦が並び、その向こうに巨大客船も入港してなにやら騒々しい晴海埠頭の奥、区議会議員候補、中央区長候補が入り乱れ名前を絶叫し合う田舎町佃の寒い春の昼下がりでありましたとさ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽